第2話 ウィンクルムの人々

 ウィンクルム領の始まりは今からおよそ200年前、聖教歴1193年のことだと記録されている。イレーネから数えて8代前の先祖が、戦場での武勲によってブレーデル王国の北部辺境に領地を賜り、一族郎党や開拓農民を引き連れて土着したのだ。


 代々のウィンクルム家当主は、領内の発展に心血を注いできた。ある時には自ら先頭に立って開墾の鍬を振るい、またある時には農民から募った兵を率いて周辺を荒らす匪賊野盗を討伐する。


 そして現在――聖教歴1398年、かつて一面の荒野だったというウィンクルムの地は、今や緑の田畑が広がる豊かな沃野に生まれ変わっていた。


 早朝のウィンクルム領。川面から立ち上る朝靄の中で、イレーネは馬を駆る。午前の畑仕事に出る前には、こうやって馬で領内を見回るのが、イレーネの毎日の日課なのだ。


 今朝は川の堤や水路、水門などを中心に回る。盛土や石組みに、補修が必要な箇所は見当たらない。ただ水路のそこかしこに、土砂や落ち葉が詰まっているのが気になる。


(今のうちに人手を集めて、水路をさらった方がいいかも)


 そんなことを考えていると、不意に川沿いの休耕地の方から物音がした。見れば休耕地の草むらの中を、数人の子供が駆け回っている。


「まてー!」


「にがすなー!」


「やっつけろー!」


 キンキンと甲高い声で物騒なことを叫びながら、手にした棒切れを振り回している。そして子供たちに追われ、草むらを飛び跳ねながら逃げる小さな影。あれは――


「ウサギね」


 それに気づいたイレーネは、馬で休耕地に乗り入れた。鞍に括り付けていた、短弓と矢筒に手を伸ばす。


 見た目は愛らしいウサギでも、農民から見れば畑を荒らす立派な害獣。可能な限り、駆除しなければならない。


 新たな追手に気づいたウサギが、素早く右に方向転換する。だが、もう遅い。イレーネは万一にも子供たちに流れ矢が飛ばないよう側面に回り込みつつ、馬上で素早く弓に矢をつがえ、狙いを定めて射放った。


 命中――


 悲鳴1つあげずに飛び上がったウサギは、そのまま地面に倒れ伏す。もうピクリとも動かない。


「やったあ!」


「ひめさまだ!」


「すっごーい!」


 イレーネに気づいた子供たちが、駆け寄ってくる。近くの村に住んでいる、農家の3人兄妹だ。確か名前は、ミヒャエルとハンナとヨハン。


 イレーネは馬から飛び降りて、仕留めたウサギの様子を確かめる。矢は見事にウサギの首筋を射貫き、その一撃で絶命させていた。拾い上げたウサギを、子供たちに差し出す。


「よく頑張ったね。これ、みんなの獲物だよ」


「え、ほんとう?」


「ウサギやっつけたの、ひめさまだよ」


 思いがけない申し出に、3人は目を丸くする。かがみ込んだイレーネは、子供たちと目線を合わせて、にっこりと笑った。


「わたしは、最後にとどめを刺しただけ。ここまでウサギを追い込んだみんなの手柄だから、遠慮なく持っていっていいの」


 その言葉に子供たちは、ワッと歓声を上げる。


「やったぁ! きょうのばんごはんはウサギだー!」


「シチューかな? まるやきかな?」


「ひめさま、ありがとー!」


 すっかりはしゃいだ兄妹は、ウサギを振り回しながら村の方に走っていく。何度も何度も振り返り、イレーネに手を振りながら。


 イレーネも子供たちの姿が見えなくなるまで、手を振りながら見守っていた。


「ちょっと道草、食っちゃったかな」


 さて、そろそろ畑に行かないと――そうイレーネが考えていると、街道の方向から拍手の音がした。振り向けば馬に跨がった騎士が1騎、パチパチと手を叩いている。


「相変わらずいい腕だな、イレーネ」


 引き締まった精悍な顔立ち。鋼を思わせる灰白色の髪。騎士服に包まれた、しなやかで強靱な長身。三白眼の目元にやや険があるものの、中々の美丈夫だ。


 その姿を見て、イレーネは驚く。


「に……兄様!?」


 騎士の名は、アンセル・ウィンクルム。ウインクルム伯爵家の養嗣子、つまりイレーネの義兄あにである。


 年齢は19歳。4年前からウィンクルム領を離れて王都ゼノンの王宮に出仕しており、今は近衛騎士団に所属していた。


「急にこっちに戻ってくるなんて、どうしたの? 騎士団のお仕事は?」


 イレーネは馬を引きながらアンセルに駆け寄り、そう尋ねる。アンセルも素早い動作で、馬から下りた。


「特別に願い出て、休暇をもらった。半月ほどは、こちらに居られると思う。実はゼノンで、妙な噂を聞いてだな――」


 答えながらアンセルは、形のよい眉をひそめた。兄の表情を見て、イレーネはその『噂』の内容を悟る。


「ひょっとして、わたしとステファンのことかな?」


「ああ、根も葉もない噂話だと思いたかったんだが。その様子だと、やはり……」


「昨日、うちの城にノルト伯の小父様とステファンが来てね。婚約破棄、されちゃった」

 

「やはり、そうだったのか……」


 低い声で唸ったアンセルは、ノルト領の方角をにらみつける。ただでさえ険しい目付きが鋭く細められて、相当の迫力があった。


 そんな兄の前でイレーネは、手にした弓矢を掲げてみせる。


「ほら、わたしってこんなのだから。こうやって野山を駆け回ったり、野良仕事や狩りに精を出すような田舎娘、嫌気が差して当然だよ」


 それが昨夜、眠れぬベッドの中でイレーネの出した結論だった。きっとローザ・何とか男爵令嬢というのは、自分よりずっと綺麗で、お淑やかで、素敵な女性なのだろう。ステファンが一目で恋に落ちても、当然のような。


 そう寂しく笑うイレーネの頭を、アンセルはポカリと軽く小突いた。


「あいたっ! 何するの!?」


「そんな顔するな。お前は婚約者に裏切られた被害者なんだぞ。それなのに、自分で自分を責めてどうする」


「……ありがとう」


 本気で、自分のために怒ってくれている声だった。


「すまない、イレーネ。お前の辛い時、側に居てやれなくて。俺は兄失格だな」


「いいよ、兄様。こんなに急いで駆けつけてくれたんだから。それだけで私、すごく嬉しい」

 

 顔を上げたイレーネは、悪戯っぽく笑った。


「そうか、それなら良かった」


 つられてアンセルも笑う。そうすると目元の険が取れ、ずいぶんと印象が和らいだ。ある種の愛嬌のようなものまで見えてくる。


 イレーネのよく知っている、そして大好きな、兄の笑顔だった。


「では、あらためまして――ウィンクルムにお帰りなさいませ、アンセル兄様」


「ただいま、イレーネ」


  ○  ●  ○  ●  ○


 今のイレーネとアンセルは義兄妹きょうだいだが、実際の血縁関係では従兄妹いとこ同士にあたる。イレーネの父であるオトカルの兄、すなわち先代のウィンクルム伯ギルベルトが、アンセルの父なのだ。


 とはいえイレーネは、この伯父と実際に会ったことはない。今から16年前、まだイレーネが母マリアの胎内にいた時に、ギルベルト・ウィンクルム伯爵は流行病で妻と共に命を落としたのである。


 いまだ30手前の、早過ぎる死だった。後にはまだ幼い息子のアンセルが、1人遺される。親族たちの話し合いの結果、ウィンクルム伯爵家は弟のオトカルが継ぐことになった。


 当時のオトカルは国許を離れて独立し、王都ゼノンで騎士として身を立てていた。それが実家の家督を継ぐことになったため、身重の妻を連れてウィンクルム領に帰還する。


 そして新たなウィンクルム伯となったオトカルが、まず真っ先に行ったのは、甥であるアンセルとの養子縁組だった。


「私の爵位は、亡き兄からの預かり物だ。いずれ、アンセルに返さねばならない」


 オトカルは常日頃からそう公言し、態度でも示し続けた。その義理堅さは世間の評判となり、ウィンクルムに仕えてきた家臣たちもより一層の忠誠を誓うことになる。


 それから16年。叔父であり義父ちちであるウィンクルム伯の厚意と期待に、アンセルもまた全力で応えてきた。


 幼い頃から武芸に励み、学問に勤しみ、文武の両道に優れた才覚を示した。貴族の子弟の慣習として15歳で王宮に出仕するようになった後も、瞬く間に叙任を受けて騎士となり、今や花形の近衛騎士である。


 昨年には騎士団主催の競技大会に出場し、剣と弓矢、そして馬上槍の3種目で優勝という快挙を果たしている。その報せを受けたウィンクルム領では、三日三晩のお祭り騒ぎとなった。


 そして今、久方ぶりの帰郷を果たしたアンセルは、家臣領民から熱烈な歓迎を受けている。


「あれはイレーネ姫様と……アンセル若様じゃないか!?」


「本当だ! アンセル様がお戻りになられたのか!」


「若様ー! 姫様ー!」


 街道沿いの畑で野良仕事に汗を流していた農夫たちが、アンセルに気づく。皆が仕事の手を休め、口々に歓声を上げていた。中には農具を放り出し、万歳三唱している者までいる。


「おお、若! ようこそお戻りになりましたな!」


「是非とも、我らを城への供に加えてくださいませ」


「さあさあ、姫もこちらへ。若と並んで、先頭へどうぞ」


 報せを聞いた騎士たちも、次々と駆けつけてくる。最初はイレーネとアンセル2人だけだった一行は、見る見るうちに数十騎の行列になった。


 如才なく応答していたアンセルだが、徐々に笑顔が引きつってくる。


「いくらなんでも大袈裟すぎないか? 凱旋将軍のパレードじゃあるまいし」


 小声でそうささやかれ、イレーネは思わず吹き出しそうになった。


「そんなことないよ。みんな、兄様の王都でのご活躍を知ってるんだから。ほら、恥ずかしがらずにもっと胸を張って。兄様だって、こういうのは王都で慣れてるでしょう?」


「それはそうだが……赤の他人相手ならともかく、身内からこうも持ち上げられるのはなあ。どうも気恥ずかしくてかなわない」


「もう少しでお城に着くから。せめてそれまでは、ちゃんと格好つけないと」


「そうか、もう少しで城に到着か。よし!」


「その意気その意気」


 交わされる他愛のない会話と、時折り混じる笑い声。目指す我が家――ウィンクルム城は、もうすぐそこだった。


  ○  ●  ○  ●  ○


 残念ながらウィンクルム城への到着後も、アンセルの扱いは変わらなかった。


「おお、アンセルではないか!? よくぞ戻ってきた!」


 自慢の跡取りの帰還に驚喜したウィンクルム伯が、今夜は歓迎の宴を催すと言い出したのだ。準備なしに突発的な宴の支度に追われ、城中が蜂の巣をひっくり返したような大騒ぎになる。


 とはいえ城の使用人に、文句を言う者は誰1人としていない。


「いいかい、みんな! 久しぶりに若様がこのお城に戻られたんだ! きっちりおもてなししてご満足いただかないと、ウィンクルムの名折れだよ!」


「おおー!!」


 最前線となる、城1階の厨房。台所頭のアマンダが発破をかけると、下働きの女中メイドや下男が声を揃えて応じる。かくして、戦の火蓋は切って落とされた。


「大事な息子のための宴です。ここはわたくしも、一肌脱ぎませんと」


 城主の奥方であるマリア・ウィンクルム伯爵夫人まで、厨房まで下りて来て陣頭指揮を執る。自ら食材の確認と調達を差配し、献立を立案。その合間を縫って得意のシチューを大鍋で仕込むという、大車輪の働きである。


「すごいなあ、母様」


 母の奮闘を間近で目の当たりにして、イレーネは目を丸くする。彼女も女中メイドに混じって忙しく働いており、先ほどまでは馬鈴薯の皮剥きをしていた。


 今は城に届いたばかりのガチョウを、片っ端から捌いている。


 そんなイレーネに、アマンダが明るく笑った。


「本気の奥方様は、あんなものじゃありませんよ。15年前の大戦の時なんて、奥方様はこの城に籠もっていた千人近くの御味方の食事の世話を、楽々とこなしておられたんですから」


「そうなの? そんな話、初めて聞いたんだけど」


「おやおや。確かあの時の奥方様は、まだ赤ん坊だった姫様を背負っておられましたがねえ。姫様は覚えておられませんか?」


「覚えてるわけないでしょう!?」


 からかわれたイレーネは、思わず大声をあげた。それを見て愉快そうに笑うアマンダだが、一転して真剣そのものの表情で、一煮立ちさせたソースを味見する。


「うん、中々に良いお味。この品はこれで良し、と」


 続いて厨房をざっと見回し、仕事の進み具合と今の時刻を確かめた。


「奥方様、こちらはもうよろしゅうございます。姫様と上階に戻られて、宴の身支度をなさいませ」


 そう進言されたマリアは、少しだけ考えると小さくうなずいてみせる。おそらくアマンダと同じ計算をしたのだろう。


「分かりました。後は皆に任せます。行きますよ、イレーネ」


「ちょ、ちょっと待って母様……。あと少し、あと少し――よし!」


 イレーネは大振りのナイフで3羽目のガチョウの腹を割き、丁寧に内臓を抜き取った。羽毛をむしり取り首と足先を切り落とした、丸鶏まるどりならぬ丸ガチョウを、アマンダに手渡す。


「後はお願いね」


「承知いたしました。とびっきり美味しく焼き上げますので、期待してくださいませ」


「うん、楽しみにしてる」


 満面の笑顔でそう答えたイレーネは、厨房から駆け出そうとする。


「行こう、母様! 早く着替えないと、間に合わなくなっちゃう!」


「お待ちなさい、イレーネ。いくら時間が押しているからといって、焦って駆けずり回る姿を人前で見せるのは、はしたないですよ。こういう時こそ余裕を持ち、作法に則った振る舞いを心がけなさい」


「は、はい!!」


 マリアの静かな叱責に、イレーネは慌てて急停止。母の後に続いて、しゃなりしゃなりと歩き出す。


 厨房で一仕事を終えた直後に、礼儀も作法も何もないような気はする。とはいえこんな時でさえも、マリアの立ち居振る舞いは優美で気品があった。


 娘のイレーネと同じ、黒い髪と黒い瞳。もう既に30代の半ばに差し掛かっているが、その若々しい美貌は全く衰えていない。そんな母の背を見ながら、イレーネはこっそりため息をつく。


(みんな、わたしのこと昔の母様そっくりだって言うけど、全然違うよね。もしわたしが母様みたいな淑女だったら、ステファンも他の娘のことを好きになったりしなかったのかな?)


 忙しいときには忘れていられた鬱々とした感情が、鎌首をもたげてくる。するとマリアが立ち止まり、こちらを振り向いた。


「イレーネ、あなた無理はしていない?」


「――――」


 ほんの一瞬だけ、イレーネは言葉に詰まった。だがすぐに、にこりと笑顔を作る。


「大丈夫だよ、母様。心配してくださってありがとう」


 強がり半分の言葉だった。


 辛くないと言えば嘘になる。婚約者の裏切りは、今でもイレーネの心を苛んでいるのだから。


 だがそれでもイレーネには、1人で部屋の寝台に潜り込んで泣き暮らすような真似は出来なかったし、したくもなかった。


「分かりました。では、行きましょう」


 それ以上は問い質さず、マリアは先へ進んだ。それが母の気遣いだということは、イレーネにも分かる。


(本当にありがとう、母様)


 マリアの背を追いながら、イレーネはもう一度だけ心の中で礼を言った。

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