辺境令嬢の王宮奉公~元・悪役令嬢の娘ですが母と同じく婚約破棄されたので第2王女殿下の侍女になって人生ロンダリングします
albine
第1話 婚約破棄
春の風がウィンクルム領を吹き抜け、林檎の樹の梢を揺らした。
「あ……」
白い頭巾からはみ出ていた黒髪を風に乱され、イレーネ・ウィンクルムは農作業の手を休めて空を見上げた。足の下で、木製の脚立が小さくきしむ。
晴れ渡った5月の空には、太陽が燦々と輝いていた。イレーネは手をかざして、16歳という年齢にしては幼さの残る愛らしい顔を、日差しから庇う。木綿の農服に包まれたほっそりとした身体は、汗をにじませていた。
周囲には緩やかな斜面に林檎の樹が整然と植えられ、大勢の農民が手入れをしている。領主の城の西に広がるこの丘は、広大な林檎畑になっているのだ。
「いいお天気ですねえ、姫様」
向かいの樹の手入れをしていた中年の農婦が、そう声をかけてきた。イレーネは闊達な笑みを浮かべ、大きくうなずく。
「ええ、本当にそうね」
そう答えたイレーネは、再び手を動かし始めた。手袋に包まれた細くしなやかな指が、枝や葉、ふくらみ始めた実の間を動いている。そして丁寧に虫を潰し、育ちきらぬ実を間引いていった。
実りの秋はまだ先だが、この時期の手入れは収穫量や品質を大きく左右する。疎かにはできない。
地味は豊かだが冷涼なウィンクルム領にとって、林檎は貴重な特産品なのだ。収穫された林檎は青果のまま、あるいは林檎酒やジャム等に加工されて領外に出荷され、多くの金貨や銀貨をもたらしてくれる。
「ふう」
イレーネは小さく息をつくと、農服のエプロンで手を拭う。美しい刺繍がほどこされたエプロンは、薄く汚れていた。
姫と呼ばれたことから分かるように、イレーネはウィンクルムの領主であるオトカル・ウィンクルム伯爵の一人娘だ。
貴族の子女が平民に混じり、額に汗して働くなど、王都に住まう貴顕淑女には考えられないことだろう。だがここは、王都から300マイル(約480km)以上も遠く離れた北の辺境。辺境には辺境の作法というものがある。
「この樹は、もうこれでいいかな」
イレーネが小さくつぶやいた、その時だった。
「姫――イレーネ様はおられますか!?」
自分の名を呼ぶ声に、イレーネは振り返った。小太りな初老の騎士が、畑沿いの道を馬で駆けている。ウィンクルム伯爵家執事のバートンだった。
「わたしはここよ」
「おお、やはりこちらでしたか」
安堵の息をつきながら、バートンが馬を寄せてくる。そのまま、よっこらしょと下馬した。よほど急いで城から来たのか、温和な丸顔には汗をびっしょりかいている。
「実はつい先ほど、城にノルト伯爵閣下と御子息のステファン様がお見えになりまして――」
「え、ステファンが来たの?」
忠実な執事の報告に、イレーネは声を弾ませる。
ノルト伯爵家はウィンクルム伯爵家と同じく北辺諸侯の1つで、互いの領地は隣接している。そしてノルト伯の嫡男であるステファン・ノルトとイレーネは、親同士の決めた婚約者なのだ。
ステファンはイレーネと同じ16歳。去年から王都に上り、小姓として王宮に出仕していた。手紙のやり取りは続いているが、直に顔を合わせるのは、新年の休暇でステファンが帰省して以来のこと。久しぶりの再会である。
「そっかあ、
脚立の上で取り乱すイレーネに、バートンは馬の手綱を差し出した。
「城の裏門の門番小屋で、奥方様がお着替えを用意なさっておられます。ステファン様に気づかれぬよう、密かにお召し替えなさればよろしいかと。まずは急いで、城までお戻りくださいませ」
「ありがとう、そうする」
うなずいたイレーネは、脚立を蹴って跳躍する。空中で軽やかに身を捻り、そのまま馬の鞍に飛び乗った。その弾みに農服の頭巾が外れ、肩口で切り揃えた黒髪がふわりと揺れる。
まるで燕のように軽捷な身のこなしだった。
「じゃあ、後のことはお願いね――はっ!」
イレーネは短い気合いの声を上げ、見事な手綱捌きで馬を駆った。あっという間にその姿は、街道の向こうへと消えてしまう。
「やれやれ……もうお年頃なのだから、姫にも今少しは淑女らしくしていただきたいものだ」
「お言葉を返すようですが執事様、ウィンクルムの者は皆、ああいう姫様が大好きなのですよ」
嘆息するバートンに、農婦はしみじみとそう答える。それを聞いた周囲の農民たちも、一斉にうなずいた。
○ ● ○ ● ○
「この婚約は無効だ。この私、ノルト伯爵家の第1子ステファンは、イレーネ・ウィンクルム嬢との婚約を破棄させていただく」
ウィンクルム城の客間。清楚なスミレ色のドレスに着替えたイレーネが突きつけられたのは、婚約者の思いもよらない言葉だった。
「…………婚約、破棄?」
突然の通告に、イレーネはオウム返しに繰り返すことしかできない。ただ呆然と、テーブルを挟んだ向かいの席に座る婚約者――ステファンを見つめる。
だがステファンは一方的な宣言をしたきり、無言でそっぽを向いていた。イレーネのことを、見ようともしない。甘く整った横顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
「……どういうことなのかな、これは?」
途方に暮れるイレーネに代わり、同席していた父のオトカル・ウィンクルム伯爵が問いただす。とはいえウィンクルム伯も、予想外の申し出に動揺しているようだ。厳めしく武張った顔には、困惑の表情がありありと浮かんでいる。
その対面のノルト伯爵は、固太りの頑強な短躯を小さく縮こまらせていた。
「婚約破棄というのは、その、言葉のあやだ。イレーネ嬢の体面に傷がつかぬように、白紙撤回という形式をとらせていただく。無論、違約金と慰謝料も払わせてもらおう」
「そういうことではない。なぜ今になって破談の話を持ち出したのか、その理由を聞いているのだ」
再度ウィンクルム伯から問い詰められたノルト伯は、見事な禿頭に浮かんだ脂汗を、しきりにハンカチで拭っている。いつもの陽気で豪放磊落な物腰からは、考えられないような姿だ。
ややあって、観念したように答え始める。
「実は、うちの倅が小姓として王宮に出仕している時にだな、その、なんと言ったか――」
「……ローザ・クライン男爵令嬢です、父上」
どこか投げやりな調子で、ステファンは父の言葉を補う。
「そう、その令嬢と倅が…………深い仲になり、一線を越えたというのだ」
可能な限り取り繕った物言いだが、その意味は明白だ。うつむいていたイレーネは、弾かれたように顔を上げる。
「……嘘」
愕然とするイレーネをすまなさそうに見やりながら、ノルト伯は言葉を続けた。
「それだけではない。実は今回、2人の仲を取り持っていただいたのは、あのカール公子殿下でな」
カール公子の名前は、イレーネも知っている。王弟マクシミリアン大公の長男で、現国王ヘルマン2世の甥に当たる貴公子だ。確か歳は、イレーネより1つか2つ上だったはず。
ヘルマン2世は王妃との間に2男2女を授かっているものの、第1王子は病弱で、第2王子はいまだ幼い子供。そのため王宮内では、次期国王にカール公子を推す声が、年々高まっているという。
たかだか辺境の領主貴族の縁談に、出てくるような名前ではない。ウィンクルム伯はますます困惑しながらも、重ねて問いかけた。
「なぜ、そのような御方が?」
「王都でステファンは、カール殿下と懇意にしていただいておるらしい……」
要するに、取り巻きの1人ということなのだろう。
「その殿下が倅とクライン嬢の仲を聞き及び、『昨今では珍しい真実の愛』と大変に感銘を受けられたそうなのだ。わざわざ儂に2人の仲を認めるよう、直筆の手紙まで送ってこられた」
「信じられん……」
「できれば儂も信じたくない。悪い夢でも見ている気分だ」
思わず本音を漏らすノルト伯。右手で顔を覆い、重い息をつく。
「次代の国王となるやもしれぬ御方から、持ちこまれた縁談だ。無碍に断わる訳にもいかぬ。なあ、分かってくれぬかウィンクルム伯?」
「…………ええ、分かりました」
低い声でそう答えたのは、イレーネ自身だった。
「わ、分かってくれたのか?」
「お話にならないということが、よく分かりました!!」
よく通る声を張り上げ、イレーネはずいと身を乗り出した。その剣幕に、ノルト伯は大きくのけぞる。ステファンも大声に驚いたのか、ようやくこちらを振り向いた。
(ステファン――)
不実な婚約者の目を見つめながら、イレーネは無言で呼びかける。
イレーネとステファンの婚約は、確かに親同士の決めたもの。だが同時に2人は、物心つく前からの幼馴染みでもあるのだ。
幼い子供の頃から、数え切れないほど互いの領地を行き来してきた。一緒に日が暮れるまで、野原を遊び回ったこともある。時には、取っ組み合いの喧嘩をしたことさえも。
燃えるような恋情ではなかったかもしれない。だがそうやって育んできた絆と友誼は、確かに存在していた。
少なくともイレーネは、そう信じていたのだ。
しかし、それでも――
いや、だからこそ――
自分の想いと未練を断ち切るように、イレーネは敢えて言葉の刃を振りかざす。
「こんな浮気の言い訳1つ自分では出来ず、親に頼るような情けないダメ男、こちらから願い下げです! 即刻この場で婚約を解消させていただきますが、よろしいですね!?」
正面から痛烈な罵倒を浴びせられ、ステファンの顔色が変わった。青ざめた顔を引きつらせ、腰を浮かせかける。
「――それで、構わない」
だがステファンの激情は、一瞬で治まってしまう。ボソボソと小声で答え、再びイレーネから目を逸らした。
唇を固く噛みしめ、押し黙るイレーネ。その肩をウィンクルム伯が、優しく叩く。
「納得したとは言いがたいが、婚約の破棄は了承した。細かい条件については後日に詰めるとして、今日はもうお引き取り願おう」
「ああ、分かった。帰るぞ、ステファン」
「はい、父上」
疲れ切った声のノルト伯に促され、ステファンも立ち上がる。親子で連れ立って、客間から立ち去る寸前――
「すまない、イレーネ」
ただ一言。振り向きもしないまま告げられた謝罪の言葉。それだけを残して、客間の扉は閉ざされる。
「……今さら謝らないでよ、ばか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます