第118話 潜入
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「…いたっ!?」
頭にがつっとした痛みが走って、おれは目を開けた。
すると、目の前には真横に傾いたテーブル。奥の方のドアまで真横になっている。どうなっている?いつから世界はこんなに傾いてしまったんだ。
いや、真横になっているのはおれの方か。
おれはじんじんと痛む左側の頭を押さえながら身体を起こして、後ろを振り返った。
どうやら、ベッドからずり落ちてしまったようだ。ベッドから落ちたことなんて無かったけど、けっこうな衝撃というか。痛いんだね、割と。
まあ、そんなことはどうでもよくて。
自分の部屋は薄暗くなっていて、しんと静まり返っている。窓の外の景色も同じようなものだ。所々街灯や家屋から漏れる光が点々と散りばめられているが、どこか閑散とした雰囲気を感じる。
だんだんと、思い出してきた。
葵と別れて、家に戻ってきたら、眠気が襲ってきたのでそのままベッドに倒れこんだんだ。そしたら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
はずなんだけど。
どうにも、寝覚めが悪いというか。もやもやしたものが、心に残っている。何なんだろう、この気持ちは。焦燥感?罪悪感?分からないけれど、心臓が、鼓動が、何故か早い。
変な夢を見ていた気もする。それのせいだろうか。何を見ていたか覚えていないが、この何とも言えない気持ちだけが、付いて来てしまったみたいだ。
違う。
「…今何時!?」
おれはテーブルの上に置いてある目覚まし時計を見やる。薄暗くて見えにくかったが、短い針が九の手前、長い針が八を示していた。
「やっべ」
葵と、夜の学校に行く約束をしたことを思い出す。家からだと、歩いてだいたい二十分かからないぐらい。でも、もたもたしてるとぎりぎり間に合わない。
タンスに手を掛けて、引っ張る。適当にTシャツと、黒いジャンパーを取り出だそうとしたが、一瞬手が止まる。
待て。今から向かうのは学校だ。着替えずに寝てしまっていたから、格好は制服のままだ。もうこの格好でいいんじゃないか?
着替える時間も服を選んでいる時間も惜しい。そう思って、部屋を出ようとする。
「…っと、財布!」
途中のコンビニで、懐中電灯とインスタントカメラを買わなきゃいけないんだった。財布の入ったポシェットごと鷲掴んで玄関へとダッシュした。
ドアを開けて、少し肌寒い空気を吸い込むと、なんでこんなに焦ってるんだろう、と馬鹿馬鹿しくなった。
「…んで、制服のままだったの?」
葵が、じとっとした目つきで見つめている。おれは視線を逸らしながら答えた。
「いいじゃんか別に。学校に入るんだから制服のままでも。てか」
おれは改めて葵の姿を眺めた。
「葵こそ、その、なんでそういう恰好なの?」
黒のロングスカートに、白生地のインナー。だぼっとした灰色のパーカーを羽織っている。おまけに、胸元にはきらりと光るネックレスまで。ほんの気持ち程度に着けているベージュ色のキャップは、せめて顔を見せにくくするためだろうか。
待ち合わせの、北校舎の裏側で待っていた彼女は、いつもと違った雰囲気を纏っていた。
「何よ、この格好のどこが悪いの?」
「や、悪いというか、何というか。学校に潜入しようとしているのに、オシャレすぎじゃないかな、と…」
まるで、街中に遊びに行く格好だ。まあ、似合ってはいるんだけど。というか、制服姿が見慣れているから、なんだか、変な感じだ。でも、スカートだと走ったりしにくいだろうし、なんか、色々と悪目立ちしそうな気がするのだが。
おれがじろじろと見ていると、葵が少し顔を紅潮させた。
「ねえ、そんなに見ないでよ、恥ずかしいから!」
「恥ずかしいも何も、それ着てきたのは葵なんじゃ…」
「そもそも、勇人が制服で来るから、わたしだけ目立ってんじゃん!」
「えええ!?おれのせいなの!?」
「そうだよ!せっかく…」
葵は、そっぽを向いて俯き気味でごにょごにょと呟く。
「せっかく、二人きりの…」
「え?何?聞こえないよ」
「もう!とにかく!制服で来ちゃった勇人が悪いんだからね!わかった!?」
それだけ言い残すと、葵はずんずんと校舎へと進んでいく。
「んな、理不尽な…」
おれは訳が分からず、とりあえず葵の後姿を追った。何がいけなかったんだろうか。何で怒っているんだろうか。最終的におれのせいで解決するのであればそれはそれで文句は言わないが、どうにも腑に落ちない。
不意に、実琴と遥香が思い浮かんだ。確かに、女の子は時々よく分からない所で怒りだしたりする。この前だって、カフェオレとココアを間違って買ってきただけで遥香に叱られた。
男は、それぐらいいいじゃんか、と思っていることでも、女からすれば、癇に障ることなのかもしれない。
まあ、男と女は脳の造りが違うと言うし、人間それぞれ考え方が違うように、すれ違いが起きても仕方のないことなんだろう。
いや、それ以前に。
おれは、葵があんな恰好をしてくる女の子だってことを知らなかった。
そういえば、おれは彼女のことを、ほとんど知らない。知っていることと言えば、絵を描くのが凄く上手いということだけ。
どこに住んでいて、何が得意で、何が嫌いで。そういうことは一切話してこなかった。
だけど、不思議だ。こうして今、ふたりで校舎に潜入しようとしている。
今考えれば、出会ってそんなに時間が経ってなくて、傍から見れば、そんなに仲の深い付き合いではないはずだけれど。
どうしてか、いつも一緒にいた気がして。
その姿、その声、その顔を、知っている気がするんだ。
「ねえ、置いて行っちゃうよー?」
「あ、ああ。行く行く!」
おれはそんな不可思議な感覚に捉われながら、彼女を追った。
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