第70話 巡り会い
おれは彼女との距離がだいたい十メートルほどになったところで、歩くスピードを緩めた。
彼女のキャンバスが、横脇から視界に映る。
そこには、時を切り取られた夕空の風景が、鮮明に張り付いていた。
それは、夜を醸し出すモノクロな世界で一輪に輝く花のように、繊細な茜色が網膜に飛び込んでくる。
上手いな、と直感した。
ざわ、と鳥肌が首筋を撫でた。上手いなんて言葉じゃ、到底表しきれない、いや、それだけで表現するなんて勿体無い、明文化出来ない何かが、身体全体を通り過ぎていった。
そして、その後に残る、どこか懐かしさを孕む哀愁。
これだ。
毎回感じる。この感じ。なんなのだろう。これは。見たことも無いのに、既視感を覚えるのだ。まあ、夕日はいつも一日の終わりに訪れるものだから、懐かしさも何も、無いのだけれど。
それすら超越した、脳髄まで染み渡る何か。
そう、まるで———。
「—————あっ」
何かを思い出しかけた時、一つの声が弾けた。
我に返った瞬間、彼女の膝から飛び出したものが、自分の方へ迫ってくるのを知覚する。
ほとんど反射的に手を伸ばし、風に攫われそうになったそれを掴む。
それは。
彼女の絵だった。
自分の手の中に、鮮やかな夕空が飛び込んできたみたいで、心臓がまた一つ大きく跳ねた。
「…ごめんなさい!ありがとうございます…」
振り向くと、慌てた彼女がこちらに駆け寄ってきたところだった。初めて、彼女を真正面から眺める。
前髪は、片目が隠れてしまうほど長い。そのせいで、ちょっと陰鬱なイメージを連想させるが、二重瞼のはっきりとした瞳は、どこか力強さを感じさせる。輪郭はしゅっとしていて、小顔で、整った顔立ちだな、と思った。
あれ。でも。
この顔、どこかで————。
「…あの?」
「はっ、ご、ごめんごめん」
彼女が首を傾げて、こちらを見上げている。おれは急いで絵を彼女に返した。絵を返すと彼女は頬を緩めてはにかみ、安堵した表情を見せた。
その一瞬で、既視感めいた感覚はどこかへ消えて行き、いつもの帰り道の余韻が脳内を満たす。
何だったのだろう。分からない。数秒前の自分がまるで別人だったかのように、さっきまで感じていたことを思い出せなかった。
すると今度は、彼女の目がすっと細められた。視線がおれに向けられる。
「…ん?もしかして、君…」
おれの胸元を見ている。そこには、自分の学校のロゴと、学年のプレートが飾られているはずだ。おれも彼女の胸元を確かめた。
あ、やっぱりこれって。
「君、わたしと同じ学校?しかも、同学年…なんだ!」
彼女は絵を抱えたまま、顔をおれに近づけてきた。おれは思わず後ずさりしながら応える。
「そ、そう、みたいだね…」
彼女のプレート、おれと、同じだ。でも、クラスメイトに彼女のような子はいなかったはずだから、たぶん、違うクラスだろう。
「君、どこのクラス?」
「…えっと、C組」
「あ、わたしの隣のクラスか。わたし、B組なんだよ」
彼女は、楽し気に微笑んでいる。道理で見たことが無いのだ、と感じた。でも、いくら違うクラスだからと言って、一度も見たことがないのは何故だろう。学年が一緒なので、顔を合わせたことはあるはずだ。
まあ、おれがただ忘れっぽいだけで、覚えていないだけかもしれないけれど。
だから、見たことがあるような気がしたのだろうか。
「良かった。変なおじさんとかに見られなくて。あ、でもこの絵を描いていることは、他の皆にも内緒にしてよね。その、恥ずかしいから」
「あ、うん…」
彼女は視線を逸らして、ちょっとだけ俯いた。
おれは心持ち、首を傾げた。見た目に反して、よく喋る子だったからだ。この、あまり周りを気にせず、自分の気持ちを素直に話すところは、少しだけ実琴に似ている気がするな、とも思った。感情の起伏が激しいというか。静かだったり、楽しそうだったり、恥ずかしがったり。忙しい子だ。
でも、恥ずかしいと言っておきながらも君、たぶんこの堤防を通っている人に絶対見られてるんだけど。
と思ったが、それはあえて口には出さなかった。
「ねえ、いつもここ通ってるの?」
彼女は親し気な口調でおれに話しかけてくる。
「…いや、最近いつも通ってる帰り道が工事で塞がっちゃって。それで、仕方なくここ通ってるんだ」
仕方なく?自分で言っておいて、なんで仕方なく、って言ってしまったんだろうと違和感を覚える。まるで、自分が嫌々ここを通っているみたいだ。
本当に、そうなのか。
「そうなんだ。あ、もしかして、前から、…見てた?」
「え?前からって?」
「その、わたしがここで絵を描いているの…」
「ああ…、まあ、見てたというか、目立つから見てしまったというか…」
彼女の顔がかあっと赤くなるのが分かった。今さら、何を恥ずかしがっているんだろうか。あんなに集中して、絵を描いていたのに。気が鈍いのか、繊細なのか、よく分からない。
けれど。こんなに絵が上手いなら、恥ずかしがる必要ないのではないか?おれはもう一度彼女の手のひらに収まる茜色を凝視した。それは何も変わらず夕日を写し続けている。
「ぜったい、他の人たちには言わないでよね!お願い!」
「あ、ああうん、分かった」
「だから、これはわたしと君との秘密!分かった!?」
「わ、分かった分かった」
「うんうん、これで良し」
彼女は満足げに頷く。何が良かったのだろう。分からない。
そもそも、なんでこうなってしまったのか。
それから、はっとしたような表情で、彼女はこちらを見据えた。
「そういえば、君の名前は?」
そうだ、名前。名前を言っていなかった。思い出して、おれは口を開いた。
「…おれは、その、勇人。神崎勇人…」
こう、自分の名前を自己紹介するのはいつぶりだろう。ちょっとだけ、気恥ずかしくて、声が小さくなったが、彼女はそんなこと気に留めずに、自分の名前を復唱した。
「そう。ユウト。勇人ね。わたしは…」
彼女は一瞬何かを躊躇った後、もう一度、その強くて柔らかな瞳をこちらに向けた。
「わたしは、葵。これからよろしくね」
それが、葵との出会いだった。
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