第68話 誘導

皆、無言だった。


後ろでは、ハルカたちがついて来ているであろう幾つかの足音だけが聴こえてくる。


おれは、ソラの手を握ったままだった。相変わらず、手は氷のように冷たい。こっちまで冷たくなってきたけれど、放しては駄目だ、と思った。


皆のついて来るスピードに合わせるためだ。ソラは手を繋いでいないと足早になって、すぐ見失ってしまいそうだから。だから、歩く速さをおれが調節している。


でも、ソラはおれが止まると、彼女も足を止めてくれる。おれが引っ張る力を緩めると、彼女は歩き出す。


それぐらいの考慮はしてくれているようだった。


だけど。


妙に胸がざわついて、その理由だけじゃなく、手を放しては駄目だ、と直感する。言葉に出来ないけれど、放したら、本当にどこかへ行きかねない。張り詰めた緊張感と、危うさを感じる。


本当に、どうしてしまったんだ。


ソラ。


あの遺跡での出来事が蘇った。


気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべていた表情。銀砂を散りばめた、吸い込まれそうなほどの純粋な銀の瞳。柔らかく、温もりのある掌。


今はもう、その面影はどこにもない。


それと同時に、ホワイトの言葉をずっと頭の中で反芻していた。


“ソレが何なのか、ご存じなのですか?ソレの、何を知っていると?”


ソレとは、絶対にソラのことだ。ということは、ホワイトたちは、ソラの過去を、ソラが何者なのかを、知っているのか?


もう一度、おれは彼女の背中を見た。迷いなく一直線に歩を進めている。


一人でこの森から遺跡まで来たことと言い、今のこの状況と言い、確かにソラは、“普通“じゃない。何か隠しているのは間違いないだろう。それが、ホワイトが言っていたことと、関係があるのか。


だから、ソラを追っていた?


嫌な思考が頭を廻った。手を繋いでいる先の彼女が、その人間が、別の誰かのように感じてきて。


止めろ。


おれは自分の思考を覆い被せるように遮った。


変な詮索はするな。彼女は彼女だ。それは変わらない。今は、そう、少しだけ、混乱しているだけなんだ。起きたばかりで、コウタに起こされて、夢見心地なのかもしれない。


おれは足元に目を落とした。ソラのすらりと伸びた白い足が目の前に映る。


ソラは裸足のままだった。せっかくミコトに治してもらったのに、もう切り傷が出来ている。


心配だったが、彼女はまるで痛覚を忘れたかのような勢いで、ずんずんと突き進んでいく。


何を目指しているんだろう。


ソラについて行くのは別に構わないが、ソラはこの森を知っているのか。

だから、こう迷いなく進んでいる?いや、そもそもついて来い、と自分が勝手に解釈しただけで、ソラは適当に進んでいるんじゃ?その可能性も無くは無い。彼女はホワイトたちから逃げていたから、その衝動でただ動いているだけだって、あり得る。


なら、止めた方がいいのか。ソラはおれが止まれば、自然と止まってくれる。少し落ち着かせて、ちゃんと話を聞いた方がいいのではないか。だったら——。


その時だった。

水の音が聴こえた。


空耳じゃない。ちょろちょろという微かな音だが、静かな森の中なので、よく分かる。それが耳の奥にまで響き渡る。


はっとした。


この音、知っている。これは確か、あの窪地に来る直前に聴いた音だ。どこかに水源があるのかもしれない、と思ったんだ。


ということは。まさか。


ソラが、ぴたりと足を止めた。おれが止まっていないのに。勝手に止まって、ぼーっと何かを見つめている。


おれはソラの視線の先を眺めた。それを見て、心臓が一拍、跳ね上がった。


霞む視界の向こう。白い霧が滞留している。まるで、霧の湖だ。その中に、一つだけ、見間違えようのないものがあった。そう、あれは。


「黒い、化物…」


知らず知らず、呟いていた。でも、そんなことはどうでもいい。間違いない、あれは化物の遺体だ。数時間前、自分たちが剥ぎ取りを行った後だから、しっかりと覚えている。


だから、ここは紛れも無く。


あの、窪地だ。


色んな思考が頭を過った。なんで、窪地がここに?ソラはどうしてここが分かった?ソラはこの窪地を知っていたのか?偶然じゃないのか?明確な意思を持って、ここまで来たのか?


言葉になる前に、疑問がごちゃ混ぜになって、喉に詰まった。すると、ついて来ていたゲンの声が後ろから聞こえた。


「…え?もしかしてここって…」


その言葉が言い終わる前に、さらに変化が起こる。


ふわりと柔らかな風が頬を掠めた。それに流されるように白い霧が徐々に薄れていって。


数十秒としないうちに、あれだけ視界を阻んでいた霧が蒸発するように消えたのだ。


おれは、目を何度も擦った。夢じゃない。痛みも感じる。現実だ。視界がはっきりとしている。真っ白な霧で見えなかったけれど、真っ青な空に輝く太陽が、ゆっくりと温かな光を身体に届けてくれている。


でも。どうしてもそれを受け入れられない自分がいた。


不意に、ソラがこちらに振り向いた。


太陽の逆光で、顔はよく見えなかった。けれどまだ、彼女の瞳は薄く濁っていたように思う。


その唇が、僅かに動いた。


…何て言った?


聞き取れなかった。でも、ソラは何かを口にした。それだけは分かる。


それを言い終えた途端、ソラの瞼がすっと瞳を隠して、ふらりと態勢が崩れた。


「…うわっ!?ソラ!?」

寸でのところで、おれは彼女を抱きかかえる。ソラはもう既に意識が無かった。


一度に色んなことが起き過ぎて、全然頭が追いつかない。


「な、なんなのよ、もう…」


後ろでは、魂を抜かれたようなハルカの声が、活気を取り戻しつつある森に、静かに溶けていった。

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