第63話 放課後
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昔から、絵を描くことだけは好きだった。
こんなにつまらない世の中でも、絵を描いている瞬間は、世界の住人が自分一人だけになって、何にも邪魔されずに、延々と没頭することができる。
とても上手いわけじゃないけれど、この集中している、という感覚、入り込んでいる、という錯覚が、気持ちいいだけかもしれない。
とりあえず、こうやって、自分一人の世界に浸れる何かが欲しくて、たまたまそれが絵だったというだけの話だ。
かっかっ、という鉛筆を立てるリズミカルで心に響く音が、世界を満たしている。
ふと、その世界にギシ、という雑音が混じった。
隣で漫画を読んでいた元が、椅子から立ち上がった音だ。
「…ふぁぁああ。腰いてぇ…」
元は大きく腕をうんと伸ばして、背中を反らす。元は背が大きいから、天井まで手が付いてしまいそうだ。
「おお、ごめんな勇人。こんなにやってもらって」
「…いいよ別に。おれ、こういうのは嫌いじゃないからさ」
気が付くと、部屋の窓から差し込む光が、淡いオレンジ色に染まっている。
ここは、漫画研究部の一室だ。
六畳ほどしかないこじんまりした空間の壁際には、その壁を多く尽すほどの大きな棚とびっしりと詰め込まれた漫画だち。おれと元を取り囲むように並べられている。
よく日の光を浴びる漫画は日焼けしていて、タイトルの部分がもうほとんど読めないぐらい年季が入っている。
なんでこんな場所にいるかというと、それはおれたちが、漫画研究部の一員だからだ。
言い出しっぺは誰だったろうか。
たぶん、光太だったと思う。だいたい、目新しそうなことをやろうと言い出すのは光太しかいない。それで、実琴がやろうやろうと目を輝かせながら光太に便乗して、遥香は渋々だった気がする。でも皆がやるなら、ということで合わせてくれた。
そして、要領の良い元が、うまく取り合わせてくれて出来たのが、この漫画研究部だ。
昔はこの学校にも漫研があったみたいで、それが残されているのがこの部屋だ。光太はそれを嗅ぎつけて今のおれたちがいる。まあ、光太は絶対、合法的に漫画の読める場所が欲しかっただけだろうが。
おれも、絵を描くことがたまたま好きだったから、この場所は居心地が良かった。教室の片隅で絵を描いていても、生徒たちがうるさくて気が散って仕方がない。
「にしても、ほんと絵上手いよな、勇人」
「いや、そんなことないよ」
元がおれを見下ろす形で描いていた絵を眺める。
これは部室にもともとあった漫画を拝借して、模写していたものだ。人の動く姿を練習したくて、今はバトル系の漫画を借りていた。
「いやいや、それがすげえんだよ。俺なんか、その絵を真似しようとしても、いつの間にか別の何かになってるからな」
「こんなの、誰だって練習すればそれなりに上手くなるって」
それは謙遜ではなく、本心だ。
自分よりも絵が上手いやつはこの世に腐るほどいるし、おれはどちらかというと、絵そのものが好きなのではなく、それに集中できる過程が好きなのだ。その過程をずっと繰り返しているうちに、絵が上手くなるという副産物を得ただけに過ぎない。
元とおれの違いはただ、絵を描いていた時間があったかどうかでしかない。
「それでも、俺は助かってるんだけどな」
はっはっは、と元の野太い笑い声が六畳の部屋に響く。
他の生徒が来ず静かで、漫画が読めて、最高の部活ではあったが、一つだけデメリットがあった。
それは、部員として、何かしらの部活動を記録しなければならないという点だ。
何もせず、漫画を読んで食っちゃべっているだけでは、すぐに廃部に追い込まれる。だから、しっかりと部活してますよ、と周りに証明するために、記録を残す必要があるのだ。
そこでおれたちは、月に一度月末に行われる漫画コンテストに応募する漫画を描くことになった。
漫画のプロット担当は、主に実琴と光太だ。実琴は、趣味で小説を読むことが好きだから、漫画のストーリーや設定部分を主に考えてもらう。
しかし、小説のようなストーリー展開では、絵で表現しなければならない漫画に落とし込むことが出来ないため、今までたくさんの漫画を読んできた光太をアクセントとして、ストーリーにメリハリをつける。
おれはずっと絵を描いていたから、もちろん作画担当。でも一人だけだとさすがに描き切れないので、元にも担当してもらっている。
遥香はいわゆるマネージャーだ。雑務や、ネーム作成、下描きと、おれたちでは足りない部分を補ってもらいながら、スケジュール管理なども取り仕切っている。
今は月の初め。もうコンテスト用の原稿を出し終わって、次のコンテストに向けて準備を進めている段階だ。
おれがバトル系の漫画を模写していたのは、光太が次はバトルモノでやりたい!と言い出したからだ。これからのために、動きの多い漫画を参考にしていた。
だから元も、サボって漫画を読んでいたわけでは決してない。バトル系の漫画を読んで、研究していた。
「やっぱりなあ。バトルと言ったら激しい戦いなんだろうけど、俺の絵じゃなんか止まって見えるんだよなあ…」
「仕方ないって。元は漫研に入ってから漫画描き始めたんだから。むしろ、この短時間でここまで描けるようになる方がすごいよ…」
これも、素直に感嘆するところだった。
元の成長は目を見張るものがあって、この数ヶ月で、もう漫画と呼べるほどにはなってきた。元は勉強でも運動でも、要領がいいからコツをつかむと何でも出来てしまうんだろう。
ちくりと、何かが胸を刺した気がする。
「そうか?俺はまだまだだと思うけどなあ。…まあいいや、今日はもう帰ろうぜ。あいつらも来られないみたいだしな」
あいつら、とは、光太と実琴と遥香のことだ。元は片手でスマホを弄りながら答える。
おれも、ポケットに手を突っ込んで、スマホを取り出しグループチャットを開いた。何件かメッセージが届いていて、彼らから今日は用事で来られない、という連絡が入っている。
「…そうだな、帰ろうか」
スマホに目を落としたまま呟くと、夕暮れ迫る部室に、声が溶け込むように消えていった。
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