第8話 勇気と勢いと恐怖と
「…うぉああああああああぁあああああああ!!」
何が起きたか、一瞬理解できなかった。次の瞬間にはもう、身体が動いている。
は?おれ?身体?動いてる?なんで?
分からない。でも、何故か叫んでいる。喉が痛い。熱い。
熱いといえば、身体も熱い。身体中を熱湯が駆け巡っているようだ。
視界に、ハルカが見えた。化物が迫っている。
そうだ。ハルカだ。ハルカを、助けないと。
おれは駆けた。というかもう、駆けていた。足を目一杯回転させる。
声を出すのも、止めない。そうじゃないと、立ち止まってしまいそうな気がして、だから、喉がはち切れそうなほど叫び続けた。
目の前に、化物の尻尾の先端が映る。ハルカまで、あと数メートル、いや、数十センチ。いけるか?そんなこと、考えている余裕は無い。今はただ身体を動かす。
でも、少し足りない。身体一つ分。あと、もうちょっとなのに。内心焦る。
何か、無いか?もっと早く動けないか?もう十分全力で、全力どころか、振り切っているけれど。
そこで、気が付いた。背中の重みに。背中にあるじゃないか。身体一つ分埋めるもの。
剣。今まで全く気にも留めていなかったし、むしろ重いだけの荷物のようだった。
何のための武器だ。
おれは右腕を背中に回し、剣の柄に触れる。掌に、柄に巻いてあるグリップのしっとりとした感触が伝わってきた。それを強く握りしめ、一気に抜き放つ。
スァン、という軽やかな音が耳元で聞こえ、剣が鞘から抜けた。
これ、どうやって振るうんだろう、と一瞬戸惑いが生じたが、おれはそれを払いのける。
そんなこと、知るものか。振り方なんて覚えていないけど、届きさえすれば、何でもいい。
当てる。それだけを考えた。尻尾の先に狙いを定める。そして、握った剣を勢いよく振り下ろす。剣先は、奴の尻尾へと吸い込まれるように伸びていく。
上手くいったかどうか、分からなかった。ただ、心地良い音が響いて、尻尾がハルカに当たる寸前で跳ね上がったことだけは、分かった。
力み過ぎて吹っ飛びそうになった剣を何とか握り直して、態勢を整える。おれは、黒い化物とハルカの間に割り込む形になっていた。
化物と目が合った。血走った赤い眼。明らかに、殺意がこちらに滲み出ていた。
ぐ、る、る、る、る、る。
化物の威嚇音が、鼓膜を越えて心臓まで届く。
こう、初めて対峙してみると、恐怖が襲ってきた。怖いなんてものじゃない。というか、怖いを通り越して、冷たい。身体からどんどん体温を吸い取られているみたいだ。あれだけ熱を持っていた身体が冷たくなっていく。
「…ユウ、ト…?」
ハルカの掠れた声が聞こえてきて、おれは我に返った。そうだった。怖気づいている場合じゃない。
また、動けなくなったらここまで来た意味が無い。
怖さを紛らわせるために、おれは歯を食いしばった。化物を睨み返す。
真っ赤な眼が、自分の視線とぶつかる。
すると突然、いや、当然というべきか、化物が動き出した。すっと低い姿勢を取ったかと思うと、また壁から壁へとジャンプして、こちらを翻弄してくる。
化物は、待ってはくれない。
そう、問題はここからだ。ハルカを助けるまでは良かったものの、その先を全く考えていなかった。どうせなら、ハルカを連れてどこかへ逃げることも出来たかもしれない。今さらそんなことを思いついて、自分の馬鹿さに舌打ちしたくなる。
でも、後悔したってしょうがない。思考を切り替えろ。ここまで来たなら、やれるところまでやってやる。
じゃあ、どうすればいい?
考えろ。何をすれば勝てる?いや、この際、勝たなくていい、この場を切り抜けられたら。そのために、何をする?
握りしめた剣の柄が汗で滲む。
焦るな。焦ったら負けだ。まだ負けてないけど、負けな気がする。だから、そう、まずはあいつの動きを見るんだ。目を、放すな。奴を見失ったら待っているのは死だ。
奴の動きに全神経を集中させる。視覚だけじゃない。聴覚も、触覚も、嗅覚も、何に使えるか分からないけれど、味覚も。五感を研ぎ澄ませる。
化物の動く音、地面を蹴る音。殺気。獣じみた匂い。靡く赤い眼。
捉えるんだ。
目前にいた化物の姿が、ふっと消える。そして、後ろの方で、じゃり、という音が聴こえた。
振り返るよりも早く、おれは地面を蹴った。視界の端には、化物の眼が映る。
ドスッという音と共に、おれがいた場所に尻尾が突き刺さった。
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