生田目さん
有希穂
*
ざくざくと、僕と彼女のスニーカーが地面を踏みしめる音が暗い山道に響く。時折風が強く吹き、木々を激しく揺らした。まばたきをすると、感情に左右されない純粋な涙が生まれて、頬にこそばゆい感覚を残す。
枝と葉が擦れ合って盛大に耳を襲う音は、まるで山の泣き声のようだった。余計なイメージを膨らませてしまったせいで、さっきまでは存在していなかった恐怖心が芽生えてしまう。今にも茂みの暗がりから獣かなにかが飛び出してきそうで、今すぐここから引き返したくなる。しかし、目の前を歩く彼女は、きっとそうすることをよしとしない。『それでも男なの』と笑い飛ばす姿が、容易に想像できる。
足元から視線を上げて、先を歩く彼女の背中を見つめる。その向こうでは、彼女が手にしているスマートフォンのライトが、部分的に暗闇を照らしている。僕たちが一歩ずつ進むたび、山道は白い光に切り取られていく。マフラーに覆われた首下や脇の下は汗ばんでいるのに、ずっと冬の冷気に晒されている耳と鼻先は、冷たさよりも痛さと戦っていた。
歩いていくうちに勾配は更にきつくなっていき、僕の呼吸は乱れていく。
「まだ着かないの?」
息を吐き出すついでといった感じで放たれた僕の切れ切れの言葉は、しかしたしかに届いたようだった。彼女はケラケラと愉快そうに笑って、歩みは止めないまま顔だけをこちらに向ける。
「情けない声出さない」
――それでも男なの。
まったく想像通りのイントネーションで彼女はそう言った。馬鹿にされているというのに、僕の唇は僅かに釣りあがってしまう。密かな感情の動きは、夜の闇とマフラーが遮ってくれる。
「前見て歩かないと転ぶんじゃない」
と僕は忠告する。聞き入れてもらえる見込みはないとわかっていても、そう言わずにはいられなかった。
「大丈夫だってば」
そう言った瞬間、まるで狙い済ましたかのようなタイミングで彼女はバランスを崩し、膝を着いてしまった。そのときに聞こえた短い悲鳴が、ちょっとだけ可愛いと思えてしまう。
「ねえ、この辺、石が出っ張ってるから気を付けた方がいいよ」
「わかってるよ。僕も馬鹿じゃ……」
ないから。言い終わらないうちに、踏み出した爪先が硬い何かに引っかかってしまう。ちくしょう、と思う間もなく、僕は誰かさんの失態を再現するみたいに、地面に膝を着いてしまった。夜の澄んだ空気を揺らす、景気の良い笑い声が頭の上で響いた。
「大丈夫?」
いつの間にか立ち上がっていた彼女が手を差し伸べてくる。最初から転んだのは僕だけだったんじゃないかと錯覚しそうになるような、呆れるほどに自然な振る舞いだった。
「大丈夫」
白いレザーの手袋に覆われた、僕とそう変わらない大きさの手。普段だったら、この伸べられた手は掴んでいなかったかもしれない。
けれど、今日は違った。この機会を逃してしまうと、きっと二度と彼女の手を取ることは叶わないということを、僕は確信している。
恐る恐る、手を握る。僕がしているグレーのウール地の手袋越しに、手のぬくもりが伝わってくる――なんてことはない。
「ほら、立って」
立て、立つんだジョー、と言って彼女は一人で笑う。こんなにも笑う彼女は初めて見たかもしれない。もしかしたら、意識して笑おうとしているのだろうか。笑って、この町での最後の思い出を作ろうとしている。そう考えると、胸のあたりが痛くなった。
「まったく、夜道には危険がいっぱいなんだぞ」
あくまでも自分は転んでいないことにしたいらしい。けれど、僕が立ち上がって視線が並ぶと、決定的な証拠を見つけてしまう。
「
しかし指摘に動じる彼女ではなかった。
「知ってる? 今は眼鏡もアシンメトリーの時代なの」
僕は白いため息をつく。その様子を見て、彼女はもう一度ケラケラと笑った。
次の朝が来ると、彼女はこの町を出て行ってしまう。そのことが、僕にはまだ信じられなかった。
生田目さん 有希穂 @yukihonovel
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