愛のハイブリット桃
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愛のハイブリット桃
遥か蒼穹の雲上界を思い、仙人一族の麒麟児はニッポン・フクシマの桃園に佇んだ。母の指示で雲上界の白桃とフクシマの桃をハイブリットで掛け合わせた新種はいよいよ、実りの時期が近い。しかし、麒麟児の心は揺れに揺れている。桃農家の娘、二十歳の
この使命も文字通り死命を制することになりかねない任務だ。太古以来の桃栽培は天帝府の勅令で遺伝子の組み換えが禁止され、これに違反すると死を賜る。
しかし、遠近種の交配がほぼ壁に突き当たり、新しい血の導入が必要だった。雲上界で一大ブランド、桃源郷農園を営む母は、桃栽培技術研究所の主任研究員として頭角を現していた息子の麒麟児に、その大役を任せた。遺伝子の組み換えでない、二つの世界それぞれ固有のDNAを持つ桃の異世界交配である。
麒麟児は母の期待を一心に担い、フクシマに下って農学博士としてフクシマJAに潜り込み、二十軒の桃栽培農家の技術指導役を買って出た。
年は二十五、六歳に見え、実は二百歳を超えていたが、身長一八五センチ、筋肉質で中国の弦楽器二胡やバイオリン、ピアノの音楽センス、ギリシャ神話から中国は魏呉蜀鼎立の三国志、エロチックな金瓶梅、果ては現代の村上春樹やカズオ・イシグロといった文学の素養豊かで、それに加えて子供たちにサッカーを教えるというから理想の青年を絵に描いたような若者だ。
女の子がほっておくはずがない。だが、麒麟児は自分の使命を胸に女性の誘惑を敢然と蹴って来た。ところが、である。山奥の小さな農家で李に出会い、一目ぼれだ。化粧っ気も丸でなく、シンプルなコットンのブラウスに洗いざらしのジーパンを着て、作業用の胸当て付きエプロンはクマモン柄だ。
快活で伸びやかな声が麒麟児の全身骨格に共鳴する。あの雲上界の大河、太陽江の源、緑湖の深く透明な水を湛えるような双眸、何よりはにかんで浮かべる両エクボ、思わずセクシー感のあるピンクの唇、一緒に仕事をしていると心地よくなる肌の香り、いやはや、人間界に舞い降りた天女に見まごう娘だ。
それに麒麟児は無意識のうちに、李が母の若い頃の面差しに似ていることを大脳皮質の認知・判断・記憶などを司る連合野が感知していた。
一羽の雀が麒麟児の肩に舞い降りた。母が付けた伝令役兼お目付けだ。雀は仙人の子供たちが仕掛けた罠で捕まり、焼き鳥にされるところを、幼かった麒麟児に助けられた。それ以来、雀と麒麟児は友達になった。
雀も仙人と人間の禁じられた愛はもちろん、知っている。報告せねばならないジレンマに陥っている。だが、麒麟児への恩と友情は破れない。一人と一羽は、静寂な農園でひと言も交わさない。雀の細い二本の脚と麒麟児の肩の筋肉の間で十分、コミュニケーションが通じている。
「麒麟児さま、あと三日です」
雀が心の中で呟く。
「そうだ」
麒麟児が同じく応える。
「収穫後、ただちに戻らねばなりません」
「分かっている」
「お母さまの厳命です。辛いですか」
「ああ、母はぼくを育て、桃源郷農園を守るために必死だ」
「このフクシマで、素晴らしい新種作りの成果を麒麟児さまは出された」
「協力してくれた李たちのおかげだ」
「李さまを慈しんでおれますね」
「苦しい、そして幸せだ。愛とは、こうも二律背反なものか」
「李さまのお気持ちは」
「言ってどうなるのだ。私は雲上界に戻る身だ。李を傷付けるやも知れぬ」
「不肖、雀が知るところ、李さまも同じ気持ちです」
「それは、ならぬ。それは母を裏切ることになる」
背後から明るい声がした。
「キンちゃん、ここにいたの。探したよ」
麒麟児が振り返ると、李が満面の笑みを浮かべている。
「ついにやったね」
「うん。きみのおかげだ」
「違うよ。キンちゃんが成し遂げたの」
「きみがいなければ、不可能だった」
李は、麒麟児を見詰めている。互いに自分の思いを隠せない。
「私、こういう性格だから、はっきりと言います。私、キンちゃんが好きです。とても好きです」
雀は近くの桃の木に止まり、李の告白を聞いていた。
麒麟児は溢れる思慕の念を抑え切れない。二つの世界を跨ぐ恋愛を禁じることに正当性はあるのか。常々思っていた疑問が一挙に全身の血を湧き立たせ、それは激しいエントロピーの増加となり、荒い呼吸に表出した。
声にならない。李は麒麟児の表情の変化に驚いている。
「大丈夫ですか。私、困らせたかな」
「違う。ぼくは、言葉が見つからない」
「ごめんなさい。あなたの気持ちも考えずに、ごめんなさい」
「そうじゃない。ぼくは、李さんを愛している。心の底から愛している」
雀は、祝福した。すぐ後に、大問題になると不安が襲う。
二人は抱き合っていた。その口づけは、桃の糖度とは比較にならないほど甘かった。
陽光が雲上界に爽やかさと煌めきの潤沢を満ち満ちさせている。遥か雲平線にたなびく霞の中に消え入らせるほど、広大な桃園の木々になる幾千万の桃の実がたわわに、収穫の時期を迎えている。桃の木自体の枝ぶりの人為的ともいえる技巧に凝った造形美は、仄かに赤らむ桃を加えて雲上界の千紫万紅の艶やかさの中で、熟れた美を競い合う。
近年の技術革新により、ほぼ早春から晩秋まで年間を通じ、早生、晩生各種の桃を生産出来る。遠く白雲の間隙に、高峰雲嶺連山の山並みを望み、川幅とて一望できぬ大河、太陽江の母なる流れに接する肥沃な大地、桃源郷農園。
生産した桃の集散地である万鏡丘のコンテナヤードには早朝から、桃源郷印の桃を満載したコンテナが、銀鈴を激しく響かせて、
日輪マークのコンテナは釈迦牟尼御用達の最高級品を積み、瞬時に億万浄土の彼方に消えて行く。オリーブマークのコンテナは、ゼウスをはじめとしたオリンポスの神々御用達で、神々の飲み物ネクタル用を満載している。むろん、雲上界を支配する天帝御用達は、天帝府専用コンテナで毎日、朝もぎが献上される。
桃について触れておこう。ここで生産する白桃と黄桃は、大きさによってLL、L、M、Sの四種類がある。糖度は特甘、大甘、中甘、甘の四段階。糖度計で計ると十八から十二の間になる。基本、もぎとった桃そのままのホールで出荷する。ネクタルのように飲料の原料になるものはオリンポス側の要望で皮をむいたカット加工も行っている。
農園の貴賓室に、天帝の近衛隊長、安禄山がいた。麒麟児の母を睨みつけていた。
「そなたも、存じておろう。息子と人間の娘のことを」
「存じませぬ」
「それは不行き届きというものだ」
「三日後に、新種のハイブリット桃を収穫し、陛下に献上いたします。息子は、その準備に追われております」
「そなたに申し渡す。人間との恋愛を禁じている天帝府の掟を破ることは死罪である。収穫後、速やかに出頭するよう息子に伝えよ。拒否すれば、フクシマに
「陛下に、お目通りをお願い申し上げます」
「好きにせい。息子を救いたければ、この農園の権利をすべて、わしに渡せ。そなたの命と引き換えに、息子を助けても良い」
「安禄山さま、あなたという方は」
「息子の生き死には、すべて、そなた次第だ。良き母親ならば、覚悟のほどもあろうよ。アッハッハッハ」
安禄山の高笑いだ。この頃、安禄山は、老いぼれた天帝の後添えの若い后と組んで、宮廷を専横していると評判だった。
オリンポス山でゼウスと息子のアポロンが話していた。
「父上は自由恋愛論者ですよね」
「おいおい、何を言い出すのだ」
「天の川の向こうの天帝府は雲上界と人間界の恋愛はご法度、破った者は死罪だそうです」
「それはまた、守旧派だな」
「私の友人がそれに巻き込まれています」
「誰のことだ」
「麒麟児です」
「おう、毎年、ネクタルの原料を生産している雲上界の桃源郷農園の息子だな。素晴らしい二胡、笛子を聴かせてくれた。おまえの竪琴にも負けない音楽家だ」
アポロンと麒麟児は、ピーチフェスティバルのセッションで競演して以来の仲だ。
「彼が人間界のニッポン・フクシマで、娘と愛し合っています。そのため、天帝の近衛隊長、安禄山が追捕使を派遣すると情報が入っています」
「あの美人の母親はどうしているのだ。確か、太公望と自称していた、飲んだくれの夫が、太陽江で釣りをしている最中に溺れ死んだよな。シングルマザーで一人息子を育てた、立派な女性だ。私も一度、お付き合いしてみたいと思っていた」
ゼウスは、女性の情報収集には長けている。
「父上、天帝に口添えして下さい。自由恋愛を認めるように」
「息子よ、それは出来ない!」
ゼウスは大音声できっぱりと拒否した。周囲の空気が震えた。アポロンは瞬間、後退りした。かろうじて、声を振り絞った。
「……な・ぜ・ですか」
「アポロンよ、お前ほどの者が知らぬわけがないではないか。のう、アポロン。天の川協定の不可侵条約を説明する必要があるのか。オリンポスと天帝府は互いに内政不干渉だ」
「しかし、恋愛の自由という私たちの基本原則は、このオリンポス限りですか。父上」
「何を言う。神であれ、人間であれ、それは生きることの真の意味だ。自由な恋愛なくして、何者も存在する必要はない」
ここでひとつ説明しておく。ゼウスはオリンポスの神々の王であり、大変、好色な神である。
正妻ヘラをはじめ多数の女神と結ばれた。さらに人間の女性との間に怪物メドゥーサを成敗した英雄ペルセウス、凶暴な獅子を棍棒ひとつで打ち取るなど十二の功業で知られる英雄中の英雄、ヘラクレスらを生んでいる。つまり異世界との恋愛を自ら実践しているのだ。天帝府の規範などゼウスにとっては噴飯ものだ。
アポロンは落ち着いた。
「父上のお言葉、改めて感銘いたしました。神であれ、人間であれ、もちろん仙人であれ、どのような世界に属していようと、恋愛は自由である。それでよろしいですね」
「そうだ。それに間違いはない」
「では、その大義のためにアポロンは友人の加勢に参じます」
「おい、アポロン、そう短絡的になるな」
「不可侵条約よりも、大義を重んじます」
「参ったなあ」
「父上! 躊躇する必要はありません。オリンポスは全世界を照らすべきです。我々の大義を天帝府に知らしむべきです」
「分かった。アポロンよ、神々を直ちに、召集せよ。ゼウスの名の下に」
「はい、父上。仰せのままに」
天を突き刺すように大きく太い聖木オークの林に囲まれたゼウスの白亜の大神殿に神々が次々と参集した。
大理石の途方もなく大きな円卓を囲み、最上席にはもちろん、天空神のゼウスがいた。その横から時計回りに、神々の女王で女性の守護神のヘラ、知恵・工芸・戦略の女神のアテナ、アテナの双子で予言・芸術・音楽・医療の男神で光明神とも呼ばれるアポロン。アポロンは父に代わって召集の当事者になったので、さすがに緊張していた。
隣席は人間界の美術史を美しく彩る愛と美の女神、アフロディテ、軍神のアレス、豊穣の女神、アルミス、大地の女神、デメテル、炎と鍛冶の男神、ヘパイストス、伝令と旅人の守護の男神、ヘルメス、ゼウスの兄である海洋の男神、ポセイドン、それに竈を守る家庭の守護の女神、ヘスティアだ。ゼウスを含めてこの神々たちをオリンポスの十二神と呼ぶ。
オブザーバーで酒の神、バッカス、別名ディオニュソスも参じた。冥界の王、ハデスとその妻、ペルセポネもホットラインで繋がっている。
ゼウスが口を開いた。
「みなに伝える。天帝府は我々の価値観とほど遠い規範を持っていることが分かった。それは我々の依って立つ大原則である自由恋愛を禁じていることだ」
神々から驚きの吐息が漏れた。そんな野蛮な世界があったのか、という雰囲気だ。嫉妬心の女神でもあるヘラは、夫の浮気に振り回され、この問題にちょっと怪訝な表情ではあったが。
「いま仙人族の息子と人間の娘の恋愛を巡って、天帝府が介入し、ひと悶着が起きている。一方で、後妻の后、近衛隊長が老いぼれた天帝を操っているという情報もある。オリンポスは神酒ネクタルの主原料として、ずいぶん桃を輸入している。その意味でも基本的神権人権問題を抱える天帝府と知らぬ顔で付き合っていていいのかという倫理的な面は重大かつ深刻である。これについて、我が息子、アポロンはオリンポスの大義を天帝に伝えるべきと具申した。みなに申す。このゼウスは、みなが一致して天帝府と相対することを命じる」
ここでゼウスは、一息ついて金杯のネクタルをゴクリと飲んで続けた。「軍神、アレスよ。全軍に戦いの準備をし、天の川の境に布陣せよ。知恵の神、アテナよ、ゼウスの親書を起草せよ。伝令の神、ヘルメスよ、親書を天帝に届けよ。相手にくれぐれも注意を喚起せよ。天帝自身が開封せよと。他の者が開けると、ゼウスの
「父上、では、親書はこれで」
アテナが父にデジタル・タブレットを差し出した。
〈天帝殿に申す。
誰であれ、恋愛は自由なり。これ、大義である。
神々の王、ゼウス〉
ゼウスは、タブレットに指を当てた。タブレットは、その文章を刻んだ漆黒の石版となって空中に浮かんだ。それにゼウスは千℃の高熱を発した人差し指でサラサラとサインし、オリーブ色の布に包んだ。
「さすが、我が娘よ。仕事が早い。では、ヘルメス、出立せよ」
ヘルメスは羽の付いた両足の靴をカチッと音を立てて合わせるや否や、天空を駆けて行った。
ついに天帝府とオリンポスが干戈を交えかねない非常事態に発展した。全知全能の神を自認するゼウスとすれば、自分の気に食わないルールは我慢が出来ない。その存在すら否定したい。頭のいい息子のアポロンは、父の性格をうまく利用し、友人の応援に成功したという訳だ。
天の川の境に続々とオリンポス軍が集結する。アレスは金色の鎧と兜を着け、真紅のマントを羽織っている。右手にゼウスから拝領した万物を切り刻むアダマスの鎌を持っている。アポロンは竪琴を手に、天馬ペガサスに跨っている。
軍神の下に、人間界のトロイ、アテネ、スパルタ、マケドニア、クレタの精鋭が揃っている。その数、数十万。彼らの筋骨隆々たる屈強の兵士たちの不敵な顔よ。大義に殉じようと士気はいやが上にも高まる。ロイヤルブルーの地に明るいオレンジ色と金色でオリーブの木と実を描いた無数の軍旗がはためく。
天帝府国境監視台は対岸の動静を十数台の電波望遠鏡で見張っている。最も大きな川幅は二千光年ある。川の長さは十万光年だ。電波望遠鏡のモニターは対岸に連なる軍兵を感知した。驚愕した監視台の主任は直ちに天帝府に急報した。近衛隊長の安禄山は寝耳に水だ。不可侵条約を結んでいるオリンポスが突然、布陣したのか、理由が分からない。
深夜、一羽の鳩がオリーブの枝を咥えて天帝府に飛来した。門衛は鳩と枝を安禄山に届けた。鳩は告げた。
「明朝、全知全能の神々の王、ゼウスの使者、ヘルメス、親書を携え、参上す。天帝殿にお目通しあれ。他者の介在無用」
「何と尊大な」
安禄山は腹が立った。だが、相手はゼウスだ。形だけであろうと、老いぼれ天帝に報告し、使者に対する裁可を得ねばならない。安禄山は天帝軍に天の川沿いの布陣を命令した。天帝軍もその実力は侮れない。金剛力士をはじめとする神将が精鋭を率いている。未明のうちに、天の川を挟み、両陣営が対峙する、神々の時代始まって以来の未曽有な状況が出現した。
雲上界の朝は明るい。陽光が満ち満ちている。
早朝、緊急招集された宮廷は文武百官が雲霞の如く威儀を正して並んでいた。ダイヤモンド、エメラルド、ルビーの宝石を数百個も散りばめた金の宝冠を頭にした天帝は、官服で最高の権威を示す明黄色の朝服を着て百官を睥睨する玉座にいた。
玉座と並んで若い后が扇のような髷に宝石と赤珊瑚で彩られた宝冠、ペイズリー柄の模様を配した明黄色の朝服で臨んだ。天帝を挟んで、でっぷりと太った安禄山が黒い修道士のような服装で目を光らせていた。
ゼウスの使者、ヘルメスが進み出た。もちろん、御前では佩剣は許されない。が、鍛冶の神、ヘパイストスが作ったアイギスの肩当てを着けていた。これは敵を石化させる防具だ。
通常は戦略の神でもあるアテナが父から貸与されている。重要な使命に付き、生命を脅かす万一の場合を考え、ヘルメスは又貸ししてもらったのだ。何せ、天帝の宮廷に乗り込むのはオリンポスの神々にとってヘルメスが初めてなのだから。古今東西、気に食わない敵の使者は斬り殺されるのが常だ。
安禄山は親書を受け取ると、自らオリーブ色の布の結びを解こうとした。
「お待ちください。親書は陛下ご自身でお開け下さい」
「何と、何と、無礼な。我が宮中では、まずは側近が検分した後、陛下に奏上するのが習わし。控えよ」
「これは我が主、ゼウスの命令でございます。貴殿が開けますと、雷が直撃します」
「何と、そら恐ろしい親書を持ち込むとは」
安禄山は進退に窮した。自分で開けられないし、かと言ってこんな危険な親書を衆目の場で、天帝に渡すのもどうかしている。
「ロクシャン、ここに持て」
天帝が助け舟を出した。ロクシャンとはゾクド語で明るいという意味である。安禄山の愛称だ。
「はっ」
脂汗をかいていた安禄山が御前に登り、親書を手渡した。天帝は震える両手で包みを開いた。何事もなく、黒い石版を読んだ。
「ほう、ゼウス殿はこう申すのか。
〈誰であれ、恋愛は自由なり。これ、大義である〉
これは、どのような意味か」
天帝はヘルメスに問おうた。そしてチラッと隣りの若い后を一瞥した。心に何か感じるものがあったらしい。狡知に富み、詐術に長けた策略の神でもあるヘルメスは、その一瞬を見逃さない。
「我が主、ゼウスの意中は、陛下の御意にございます」
「ほう、余の心の中に、とな」
「はっ」
「ハッハッハッ」
天帝が突然、高い笑いを響かせた。居並ぶ百官はギョッとして玉座を凝視した。安禄山は口をポカンと開けている。ついに認知症も極まったか。廃帝するしかないか。
「ハッハッハッ」
二度の高笑いだ。恐れ多くて、誰も口は挟めない。さすがに后は眉を潜めた。
「ヘルメス、そなたの名はヘルメスだな」
「はっ」
「ゼウス殿は、機知に富んだ良い部下を持っておられる。ヘルメス、余の言葉を託そう」
その時である。高官が安禄山の耳元により、囁いた。安禄山は直ちに天帝に伝えた。
「麒麟児の母親が陛下にお目通りを願っています」
「ほう、ドラマチックだなあ。久しぶりに濃密な時間を過ごせそうだ。すぐに通せ」
「御意」
天帝の顔は生き生きとして来た。脳細胞が本来の活動を開始したらしい。后と安禄山は暗い。天帝の頭が活性化すると、どのような判断、裁定が下されるか予想がつかない。
母親は、美しい桃色の絹のチイパオを着て、髷に赤い珊瑚の簪を指していた。御前に歩み寄り、ヘルメスと並んで跪いた。
「おお、久しぶりだ。顏を上げなさい」
「陛下、お目通りを許され、感謝いたします」
「麒麟児の問題が、この天帝府とオリンポスの一触即発となっておる。知っているな」
「はい。愛する息子の助命に参りました」
「助命とな。はて、どのうように」
「わが農園をすべて陛下に献上し、わが命は断ちます。どうか、麒麟児の一命はお救い下さい」
「なに、そなたは家も財産も、自らも命を捨て、息子の救命を願うのか」
「御意のままに」
「わしは、まだ何も示しておらんぞ」
「陛下、この申し出は正道と」
安禄山が口をはさんだ。天帝は右手をやや挙げて、やんわりと制止した。
「言うでない」
ひと呼吸置いて、天帝はヘルメスに尋ねた。
「そなたは、この申し出をどう考えるか」
「御意のままに」
ヘルメスは即答した。
「御意ではなく、そなたの意見を聞きたい。はっきりと申せ。それはゼウス殿の意志でもあろう」
「それは…正直に申し上げます。オリンポスと天帝府の最大貿易産物である、桃の生産量は桃源郷農園が全生産量の五〇パーセントを占め、品質は最高であります。その農園経営は、この女性の尽力によるものと聞いております。もし、この申し出を陛下が裁可なさるとすれば、桃生産に重大な問題が生じるかと懸念いたします。どうか、ご明察、ご賢察を」
「アッハッハッハ」
破顔一笑とは、このことだろう。
「よくぞ、申した。そなたは、ゼウスの第一の賢臣じゃな。みなの者、よく聞きなさい。余は天帝である。全知全能である。そなたたちの全ての所為は、余の掌中にある。細々とケチを付けていると、この広大な世界を統治することは出来ない。そうであろう、ヘルメス」
「はっ、御意」
「ゼウス殿も、そう言っていないか」
「我が主、ゼウスは陛下を相並ぶ統治者と心得ております」
「天の川を挟んでな」
「はっ」
「ロクシャン、追捕を解け。おまえと后には、追って話がある。それで、おかか様よ」
天帝はにこやかにに微笑んだ。
「フクシマの桃の出来はどうだ。麒麟児に研究させていた桃は、どうなった。若返る桃というではないか。楽しみで仕方がないのだ」
「陛下…申し訳ございません。桃は降雹で全滅しました」
「何と、何とな」
天帝は絶句し、その表情は一転、落胆に変わった。
その前日だ。フクシマの朝に日差しはなかった。未明から雷鳴が轟いた。激しい上昇気流で積乱雲が湧き起り、天空から白い氷の塊が時速百キロで数々の桃園を直撃した。降雹、hail stormである。
降雹は、過去に一八八八年四月、インドで二百三十人が死亡、一九八六年四月、バングラディシュで九十二人が死亡、ニッポンでは一九三九年六月、兵庫で死傷者百七十四人の人的被害も出している。
翌朝、ひどく傷付いた桃を手に麒麟児は黙していた。助命のために参内した母親と農園を救い、この災厄を乗り切るには……もう、この方法しかない。
麟児は、茶の小さな皮袋から、小石を取り出した。玉虫色に輝く、知る人ぞ知る、あの如意宝珠だ。太陽江に沈む、この小石は人間界では一切の願望を成就させる。しかし、重大な副作用がある。仙人がこれを使えば、神通力は失われ、雲上界に二度と戻れない。人間界での記憶も失う。
「これは、何ですか」
李が訊いた。
「母上が、何かの時にと持たせてくれました。これに願えば、桃園を蘇らせます」
「そんなこと、出来るの」
「うん。でも…李、ぼくはホントに、きみを愛しているよ」
「何か、決意していますね」
李は鋭い。
「愛を確かめておきたいんだ。きみを忘れたくない」
「わたしは、ここにいる。どんなことがあっても、あなたと一緒だよ」
「うん。分かっている。李、愛している」
「愛している。麒麟児」
二人は強く抱き合った。
麒麟児は如意宝珠を左の掌に載せ、右手を被せた。唱えた。
「桃の神よ、桃園を蘇らせたまえ」
天に雷鳴が響いた。にわかに暗雲が裂け、一条の光が眩いばかりに大地を貫いた。それは波状に広がり、数々の桃園を覆い尽くした。
おお、折れた桃の木が立ち上がる。枝が伸びる。緑の葉は揺れ、桃の実が膨らむ。空は青く澄み、転がっていた大きな雹は一瞬に雲散霧消した。降雹の傷跡はどこにもない。家屋の被害も人々のケガもすべてが元に戻った。
天の川を挟んだ双方の布陣は解かれた。安禄山は、近衛隊長を解任され、宮廷から永久追放となり、須弥山の帝釈天に預けられた。トイレ掃除や洗濯の下働きに励んでいる。若い后は廃后され、裕福な実家に戻された。
仙人の術と人間界の記憶を失った麒麟児は、すべてを知る李に世話されて結婚し、間もなく可愛い男の子を授かった。母親は孫を抱きたいのを我慢して、いつの日か親子三代が再会できるのを待ち、農園経営に多忙な毎日を送っている。
フクシマの国道沿いに、小さな店がある。早生、晩生のシーズンに合わせて数種類の桃を販売している。実は、その中に雲上界とフクシマの異世界交配、ハイブリット桃がある。あまりに小さな店なので、行き交う車は止まりもしない。このハイブリット桃は人間が食べるととても健康で長寿となる。
宣伝はしない。YouTubeにアップされない。もちろん、Facebook、Instagram、Twitterにも載らない。雲上界でハイブリット桃の特許を取って本格的な生産に入り、天帝もゼウスも大喜びだ。ふたつの世界は今のところ、桃の縁でとても仲良くやっている。
もちろん、お分かりだろう。この桃のブランド名は麒麟児と李の息子の名前をとって「桃太郎」だ。 了
愛のハイブリット桃 rokumonsen @rokumonsen2018
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