終章 剣士の足跡

 万槐崗ばんかいこうの残党をあらかた平らげ、ふたたび石城せきじょうに戻ってきた張世傑ちょうせいけつは、劉蘭芯りゅうらんしんの変化に少しく驚いた。

 最初に世傑が騎兵を率いて最初にここへやってきた時、山賊の襲撃を受けて父を失ったばかりの少女は、まつ毛が抜け落ちるほどに目を泣きはらし、侍女たちにささえられなければ立てないほどに弱りきっていた。ところが、世傑が万槐崗を落として戻ってきた時にはすでに、父の葬儀をとどこおりなくすませ、りゅう家のあらたな主人としての責務を完璧にこなしていたのである。

「お役目、ご苦労さまでございました。これでこの街の者たちも枕を高くして眠れることでございましょう」

「いや、私は単に閣下より仰せつかった任務を遂行したまでだ。礼をいわれるようなことではない」

 焼失をまぬがれた中庭に面した離れへと招き入れられた世傑は、喪服姿の蘭芯が手ずから入れた茶でのどを潤し、長々と嘆息した。

「……まあ、こうして上等な茶をいただけるのは役得だが」

「恐れ入ります」

 蘭芯は小さく微笑み、一礼した。

 遠くから聞こえてくる音は、賊に焼かれた家を再建するための木槌の音だろう。すでに石城とそこに住む人々は再起のために動き出していた。しかし、そんな街の活気ある姿にくらべて、この屋敷はまだひっそりとしている。

「屋敷の修繕はなさらぬのか?」

「いえ、いずれは。……でも、焼かれたとはいえ、この屋敷の大部分は無事でしたし、わたしどもが暮らしていくぶんには何の不自由もございませんから。それよりは、まずは街の人々の住む家を建て直すことのほうが重要かと」

「……そのための大量の木材を、あなたが私財をはたいてあちこちから買い求めていると聞いたが? それに、犠牲になった者たちの供養のために近隣の寺に寄進しているとか――」

「わたしどもにできることをしているまでです」

「名を重んじ財をうとむのは英雄豪傑の資質というが……本当に、あなたが男であれば石城知県に推挙したいところなのだがな」

 科挙などという制度で選ばれる役人たちが、実務の上ではさほどあてにならないということを知っている世傑は、優秀な人間は出自を問わずその能力にふさわしい地位に置くべきだと考えている。しかしまだこの国は、はたちにもならない娘にそうした地位をあたえられるほど心が広くない。

「……ともあれ、知県については、私のほうからりょ将軍に伝えておこう」

 いかに文徳ぶんとく鄂州がくしゅう防衛の大任を帯びているとはいえ、知県を任命する権限までは持っていない。が、中央の人事が間に合わない以上、代理の者を送るくらいのことをしても問題にはならないだろう。鄂州全体の治安を維持することもまた、文徳に課せられた役目のひとつなのである。

 勧められるままに茶を三杯飲み干してから、世傑は兜を持って立ち上がった。

「それでは私は武昌ぶしょうへ戻るが……最後にひとつ、尋ねたいことがある」

「何でしょう?」

「実は呂将軍はあるものをお捜しになっていて――」

 そこまでいいかけ、世傑は眉をひそめた。この娘に秘仏のことを尋ねたとしても、何も得るものはなく、むしろその存在だけが無意味に広まってしまうだけだと思ったのである。

 どこにあるのかも、実在すらもさだかではないそのような秘宝を捜し求めるのであれば、それを尋ねるのは、広い天下をあてもなく旅するような人間のほうがいい。いかに聡明で誠実な人間であっても、おそらくこの娘は、この先の人生の大半をこの街ですごすのだろうし、そんな娘を相手に、一歩間違えば争いの火種になりかねない秘宝について語るのは、むしろ彼女のためにならないようにも思えた。

「……いや、いい」

「は……?」

「馳走になった」

 怪訝そうな蘭芯にぎこちなく微笑みかけ、世傑は劉家の屋敷をあとにした。


          ☆


「やっと帰ったかい、あの男……」

 劉家の門前に整列していた騎兵たちが、世傑とともに去っていくのを閉月楼の窓から見送り、月瑛は酒を満たした碗をかたむけた。

「張世傑といえば呂文徳の懐刀といわれる武人ですからね。顔をつないでおくのは蘭芯さんにとってはいいことですよ」

「そんなものかねえ?」

「ええ。これで武昌との強い伝手ができたことになります」

 そう答えたぶん先生は、床の上の本の山を前にしてあれこれと悩んでいる。大好きな酒を飲むのも忘れ、かれこれ半刻ほど唸り続けていた。

「……そんなに悩むくらいなら、いっそ全部持ってったらどうだい?」

「さすがに無理ですよ、この量は」

「けどさ、ほとんどはもう読んじまった本なんだろ? だったらまだ読んでない本だけを持ってきゃいいじゃないか」

「そういう単純な話じゃないんですよ。月瑛さんは韋編三絶という言葉をご存じないんですか? 書物というのは、折に触れて読み返すことで――」

「あー、はいはいはい」

 おしゃべりな文先生のうんちくをさえぎり、月瑛は甕を手に取ってじかに口をつけて飲み始めた。文先生が飲まないのなら、わざわざ碗にそそぐ必要もない。

「私はまた旅に出ますけど、月瑛さんはいつまでこちらに残るおつもりなんです?」

獅伯しはくくんはさっさと消えちまうし、その上わたしまでいなくなっちまったら、さすがに屋敷を守る人間がいなくなっちまって物騒だろ? それにあの子だって、毅然とふるまっちゃいるけど、まだ父親を亡くした哀しみは癒えてないだろうしさ」

「そうですか? 私は蘭芯さんにも存外に怖いところがあると知ってびっくりしてますけどね」

 あのあと、蘭芯は月瑛や文先生の助けを受けて屋敷の混乱を鎮めると、世傑らによって街から山賊たちがいなくなるのを待ち、父親をはじめ、一連の騒動で命を落とした用心棒や奉公人たちの葬儀をすみやかに執りおこなった。はたからは、父を失ったばかりの少女が気丈にふるまい、懸命に務めを果たしているように見えただろう。

 だが、月瑛や文先生だけは、葬儀の裏で何があったかを知っている。落命した者たちを荼毘に付した際、蘭芯は劉大人の遺骨を屋敷の裏手の運河に捨ててしまったのである。いずれ建立される劉大人の墓石の下には、本人の遺骨の代わりに、蘭芯の実の父である嘉生かしょうの遺骨が埋葬されることになるだろう。

「まあ、あれがあの子なりのささやかな復讐なんじゃない? そもそも女って、みんな大なり小なりそういう怖いところを持ってるもんだろ? あんた、わりと女癖悪いくせに、そんなことにも気づいてなかったのかい?」

「……今後は気をつけますよ」

 首をすくめ、文先生は苦笑した。

「――とにかくわたしは、せめて知県なり知県代理なりがやってきて、この街が落ち着きを取り戻すまでは、あの子のそばにいてやりたいんだよ」

「月瑛さんは本当におやさしいですね。そういう女性、嫌いじゃないですよ」

「だからさ、あんたは女なら誰でも好きなんだろ?」

「いや、でも、女が嫌いだなんていう男は信用できないと思いませんか?」

 最終的に一〇冊ほどの本を選び出し、それを荷物の中にしまい込んで、ようやく文先生はひと息ついた。

「……それはそれとして、あれからもう十日近くたってしまっているんですよね。今から追いつこうにも、獅伯さん、いったいどこにいるのやら――」

「おや、先生は獅伯くんといっしょに旅をするつもりだったのかい?」

「もちろんですよ。獅伯さんの素性にしろあの剣にしろ、いろいろと気になることがありますからね。それに、もともと私は見聞を広めるために旅をしたわけですし、だったら獅伯さんのように強い人といっしょに行動していたほうが安心でしょう?」

「ま、このご時世だから、あんたのいわんとするところも判らなくはないけどねえ」

 月瑛は甕の酒をあっさり空にすると、窓枠に肘をかけて頬杖をついた。

「――けど、先生が獅伯くんを追いかけたいんだったら、そう難しくもないかもよ?」

「え? なぜです?」

「それならこの子が知ってるはずだからねえ」

 月瑛の言葉に合わせて、窓からひょっこりと白蓉が顔を覗かせた。文先生と同じような旅装束に身を包み、背中には大きな荷物を背負っている。

「確か……蘭芯さんの侍女で、月瑛さんの妹弟子とおっしゃる娘さんでしたよね?」

「はぁい。白蓉はくようでぇす」

 白蓉は大きな饅頭をかじりながらうなずいた。おそらく屋敷の台所から勝手にいただいてきたのだろう。

「白蓉、獅伯くんが今どこにいるか判ったかい?」

「もちろんですよう。ここ数日は、石城から東に四〇里くらい行ったところにある小さな村に滞在してるみたいですぅ」

「は……? それ、本当ですか? 獅伯さんはそこで何をしてるんです?」

「村の人たちにお金を渡してお酒と食べ物を用意してもらってぇ、毎日だらだらしてるみたいですねえ」

「だ、だらだら……?」

「たぶん傷が癒えるのを待ってるんじゃないんですかぁ? ただ、新しい衣の仕立てを頼んでたし、じきにまた旅に出るつもりかもしれないですねえ」

「そ、それじゃ早く追いつかないと――」

 荷物を背負っていそいそと階段に向かう文先生に、月瑛はいった。

「先生! この子を道案内に連れてきなよ」

「え? で、でも……いいんですか?」

「わたしも蘭芯がひとり立ちできるようになったら、あのにいさんを追いかけようと思ってるのさ。そのために、白蓉にあとをつけさせようと思ってね」

 白蓉には、今後の獅伯の行き先が判ったらすぐに手紙を寄越すように指示してある。白蓉や文先生が獅伯の同行者になるなら、おのずと獅伯の足も遅くなるだろうし、あとを追うのはさらに楽になるだろう。

「そういうことならお願いしますよ、白蓉さん」

「は~い。それじゃ師姐、先に行きますねえ」

「ああ。……ちゃんと蘭芯にあいさつしてから行きなよ?」

 文先生と白蓉を見送り、月瑛は寝台に横になった。

「……そういやまだ聞いたことがなかったね。何もいわずに消えた獅伯くんのことを、あの子はどう思ってんのかしら?」

 そうひとりごちた月瑛は、音もなく忍び寄ってきた心地よい酩酊に、静かに目をつむった。


          ☆


 真新しい衣をはおって帯を締め、そこに瓢箪をぶら下げる。さほど上等とはいえないが、この村で酒を買い求めたおかげで、たぷんと頼もしい音がした。

「――隣のぼくさんのところにちょうどよさそうなのがあったよ」

 戻ってきた老婆が、いくぶん使い込まれた傘を獅伯の隣に置いた。

「助かったよ。このへんはわりと雨が多そうだしさ」

 いわくつきの剣と傘を持って、獅伯は立ち上がった。背負った包みの中には、朝一番に老婆に作ってもらった饅頭と鹿の干し肉、それに血止めの軟膏が入っている。石城にやってきた時よりよほどぜいたくな旅支度だった。

「世話になったね、ばあちゃん。これ、村のみんなで分けてよ」

 獅伯は小柄な老婆に粒金を数粒握らせ、正午前に村を出た。

 五日以上もこの村ですごし、肉と酒をたっぷり口にしたおかげで傷はすっかり癒えていたが、その間まったく動かさなかったせいか、少し身体が重く感じる。ただ、それもじきにもとに戻るだろう。というより、もどさなくてはならない。

 これまで旅を続けてきて、その糸口すら見つけられなかったこの剣――林獅伯の銘につながるかもしれない手がかりが、はからずも向こうから現れてくれたのである。はっきりとこの剣を捜しているといっていた史春には逃げられてしまったが、こうして旅をしていれば、また向こうから剣を奪おうとする者がやってくるかもしれない。

「――でもまあ、きょうくらいはいいか」

 緑の濃い田園の中をのんびり歩きながら、あくびをひとつ噛み殺し、獅伯は瓢箪の酒をぐびりとあおった。

                                 ――完――

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龍に拝せよ 第一部 孤侠剣残影 嬉野秋彦 @A-Ureshino

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