第六章 亡霊の死 ~第三節~

「悪いけど、決着はつけとかないとねえ」

 史春ししゅん獅伯しはくを殺してでもその剣を奪おうとするような男である。今後のことも考えるなら、ここで始末をしておくべきだった。

 しかし、史春にとどめを刺そうとする獅伯の眼前に、唐突に大柄な男が割り込んできた。

「じいさん、こいつか!? こいつを始末して剣をいただいてきゃいいのか!?」

「……は?」

 いったいどこから現れたのか、史春のそばに飛び降りてきた男は、獅伯に抜き身の剣を突きつけた。山賊どもと大差ない、いかにも粗暴そうな荒くれ者のように見えるが、その構えはなかなか堂に入っている。

「よせ、天童てんどう。余計なことをするな。今のおまえさんがかなう相手じゃない」

 男とほとんど同時に姿を現した小柄な老人は、出血を止めるため、史春の太腿のつけ根をきつく縛り上げていた。

りょさん……?」

「不覚を取ったな、史春。もっとわしらを頼ればよかったろうが」

「すいません……」

 荒い息をつく史春の胸をぽんと叩き、老人は立ち上がった。

「――天童、史春をかつげ」

「あ? な、何だよ、じいさん?」

「黒灰軍と鉢合わせしたくない。……いいから逃げるぞ」

「……ちっ」

「え? おいおい、あんたらいきなり出てきてどういう――」

 獅伯が前に出ようとすると、史春を男に背負わせた老人が、すばやく懐から飛刀を引き抜いた。

「…………」

 この老人の構えもまた、素人のものとは思えない。獅伯が身構えると、老人はいつでも飛刀を投げられる態勢のまま、男をうながした。

「行くぞ、天童。早く史春の手当をしてやらんと――」

「先生にいいつかったお役目はいいのかよ、なあ?」

呂文徳ぶんとくに邪魔されたといえば、先生も文句はいわんだろうさ」

「大丈夫かい、にいさん!?」

 ちょうどそこへ、山賊の親玉とやり合っていたはずの月瑛げつえいがやってきた。位置的には、獅伯と月瑛で男と老人をはさみ込む形になっている。

 月瑛は背中の剣に手を伸ばし、

「……こいつはどういう状況だい、獅伯くん?」

「おれに聞かれてもなあ……ふたりとも史春さんの知り合いみたいだけど」

 月瑛と言葉を交わしつつ、獅伯は頭の中で算盤をはじいていた。すなわち、このままあらたな闖入者ふたりを相手に、さらなる戦いを続けられるかどうか――である。

 深手を負った史春は別として、いきなり割り込んできた男も、飛刀の老人も、かなりの腕前を持っていそうだった。対してこちらは同じく負傷している獅伯と――もし手伝ってくれるのであれば――無傷の月瑛。頭数だけでいえば二対二だが、実力ではどちらが上か。

 しかし結局、獅伯はこれ以上の戦いは望まなかった。最初から老人が逃げる隙を窺っていることが判っていたということもあるが、すでに獅伯自身、かなりの疲労を覚えていたからである。

「…………」

 そっと獅伯が目で合図を送ると、その意図を読み取ったのか、月瑛は柄に伸ばしかけた手を下ろし、静かに数歩後ろへ下がった。

「……押し引きが判ってるってのはいいことだ。それを知らん奴は早死にする」

 しわがれた声で笑った老人は、その見た目からは想像もつかない身軽さで地を蹴り、軒の上まで飛び上がった。史春をかついだ男もすぐにそれに続く。

「行くぞ、天童」

「ああ」

 何かいいたげだに獅伯を一瞥し、男は老人とともに屋根伝いに走り去っていった。

「……何なんだい、あれは?」

「だからおれに聞くなって。――それより、火を消さなきゃまずくないか?」

 大きく息を吸い込み、獅伯は背中の鞘に剣を納めた。

 あらためて見回してみれば、そこかしこに山賊や用心棒たちの骸が転がっている。奉公人たちの犠牲が少なかったのはさいわいかもしれないが、ここで屋敷が焼け落ちてしまえば、せっかく生き延びた連中も路頭に迷うことになるだろう。

「それはもう指示してあるよ。頭目が斬られたのを見て、山賊どもはさっさと逃げ始めてたしね」

「それならひと安心、か……」

「と、ところでさっき、あの老人が妙なことをいってませんでしたか?」

 白蓉とともに獅伯の戦いを見守っていたぶん先生が、居住まいを正して立ち上がり、老人たちが走り去っていったほうを見やった。

「黒灰軍と鉢合わせるがどうのって……」

「ああ……うん、いってたかもね」

「ということは、近くに黒灰軍が来ているんでしょうか?」

「だからさぁ、どうしてみんなおれに意見を求めるわけ? そもそも黒灰軍て何? そんなのおれ知らないってば」

「きゃあああああ!」

 鎖骨の傷を押さえてぼやいていた獅伯は、突如として響き渡った甲高い悲鳴に思わず首をすくめた。

「うわ……完全に忘れてた」

 視線を転じれば、嘉生にすがって泣いていた蘭芯らんしんの前に、泥だらけのりゅう大人が立っていた。その右手には刃が毀れた剣が握られ、異様に血走った双眸はじっと嘉生かしょうめつけている。

「……どけ、蘭芯……」

「……い、いや」

「どけ、蘭芯……父のいうことが聞けぬというつもりか!?」

「ち、違います! あ、あなたはわたしの父親じゃ――」

「黙れえ!」

 声を震わせる蘭芯を無造作に蹴りつけ、劉大人はわめいた。

「おっ、おまえは私の娘だ! わ、私のために、こ、これからも役に立ってもらうぞ! だが、今はまず、その男を始末しなければならんのだ……! さ、さんざん、私の邪魔をしおって――」

「やめて!」

 蘭芯はすぐにまた嘉生の身体におおいかぶさった。

「蘭芯、私に逆らうか!?」

「ちょっ……な、何を考えてるんですか、大人!? や、やめましょうよ、ねえ――」

「だっ、黙れ! 黙れえ!」

 文先生を怒鳴りつけた劉大人は、血走った目を左右に走らせ、聞き取りにくい声でぶつぶつといい始めた。

「当初の考えとは、ち、違ったが……乾徳けんとくと山賊どもは、片がついた――あとはこの男を始末して、あらためて、武昌ぶしょうに遣いを送ればいい。それで、この石城県は、わ、私のものだ……!」

「…………」

 どこか狂気じみた劉大人の呟きを、獅伯は静かに聞いていた。月瑛もまた、その場から動こうとはしない。文先生は獅伯のかたわらに座り込んでいたし、白蓉はくようもまた、劉大人の尋常でない様子に怯えたように、月瑛の腰にしがみついて震えていた。

「お、おまえたちには、約束通り、金をやろう。当分は遊んで暮らせるほどの金をな。……それを持って、どこへなりとも行くがいい」

「それって要するに、もうおれたちには用はないってこと?」

「ああ、そうだ」

 大人はちらりと嘉生を一瞥し、太い唇をゆがめた。

「こ、こんな死にぞこないひとり、他人の手を借りるまでもない。おまえたちとて、あ、あれだ、剣士の――矜持か? こいつを斬れといってもその気にはならんだろう? はは……結局は人を斬ることを仕事にしているくせに、くだらんことにこだわりおって、じ、実にくだらん……おまえらも、この男も!」

「好き放題いってくれるよ……」

 正直いえば、大人のこのやり方にも口上にも腹が立つ。だが、大人の剣がすでに嘉生と蘭芯に向けられていることを思えば、迂闊には動けない。劉大人が前のめりに倒れるだけでも、その剣は娘の身体をつらぬき、実の父の身体にも食い込むだろう。

 獅伯はひとつ大きく咳き込むと、弱々しくその場にへたり込み、

「先生……」

「は、はい?」

「おれの懐にさ、大人からもらった粒金の袋が入ってるんだよ。……それを大人に返してやってくれるか?」

「……えっ?」

「大人がいった矜持ってやつだよ。――おれはあの剣士を倒せなかったし、武昌への護衛にもしくじった。なら、この金をもらういわれはないじゃん?」

「そ、それは、獅伯さんの責任というわけでは……」

「いいから持ってってくれ。……おれが下手に動くと、あのおっさん、錯乱してお嬢さんまで刺し殺しかねないからさ」

「か、代わりに私が刺されたりしませんかね?」

 そう怯えながらも、文先生は獅伯の懐を探って錦の袋を取り出すと、それを持って大人のほうへ足を向けた。

「は、はは……本当に変わった小僧だ。まあ、屋敷の修繕費の足しくらいにはなるか」

 太った身体を揺すって笑った大人は、文先生から袋を受け取ろうと左手を伸ばした。

「――――」

 この一瞬、獅伯が欲しかったのは、強欲な男の意識が粒金に向く刹那だった。獅伯はさりげない動きで背中の鞘に手を伸ばし――。

「――あ?」

 次の瞬間、大人の右肘があり得ない方向に曲がっていた。大人の意識が錦の袋に向いた瞬間、嘉生が唐突に立ち上がり、自身の左肩を使って大人の右肘を下から思い切りかち上げたのである。それを見た獅伯は、もう自分の出る幕はないと感じて剣の柄から手を離した。

「……おまえは俺といっしょに来るんだ」

 まるで紙のように痩せ細り、血の気を失った嘉生は、大人の手を離れて宙に浮いた剣を受け止め、迷うことなく大人の首筋にねじ込んだ。

「おまえには、冥府でおれといっしょに妻に詫びてもらう」

「がっ……びゅ、ら――」

 何をいおうとしたのか、大きく開いた大人の口からは一気に大量の血があふれ、彼のいまわの言葉を押し流した。

「――――」

 二、三回ほど身体を痙攣させた大人は、そのまま仰向けに倒れて動かなくなった。

 と同時に、今度こそすべての力を使い放たしたのか、嘉生もまたその場に膝から崩れ落ちた。

「! おとうさん!」

 はたと我に返った蘭芯が、慌てて父の身体をささえる。

「おとうさん! おとうさん!?」

「おまえの父は……とっくの昔に、死んだ……」

「……え?」

「ここにいるのは、亡霊だ……すべて、忘れろ……」

 血の気のない頬を震わせ、嘉生は焦点の合わない瞳を空に向けている。すでに蘭芯のことは見ていない。

「おとうさん……!」

「おまえの父は、もういない――俺のことは忘れて、しあわ、せ、に……」

「おとうさん!!」

「あ、あの、蘭芯さん――」

「何もいうなよ、先生」

 獅伯は文先生に歩み寄ると、その手から錦の袋を取り返して懐にしまい込んだ。

「――いまさら何をいったって無駄だろ。もう助かりっこないんだし」

「ま、何のなぐさめにもならないってのは事実だしねえ」

 ようやく記憶を取り戻した蘭芯と対面を果たした嘉生には、娘の恨みつらみを聞いてやるほどの時間は残されていまい。それでもその表情がどこか安堵しているように見えるのは、死ぬ前に妻の仇を討ち、娘をいつわりの日々から解き放つことができたからだろうか。

「……でも、確かに身勝手な男だよね」

 ただひとり、実の娘を残してさっさと死のうとしている剣士に背を向け、獅伯は歩き出した。それに気づいた文先生が、

「し、獅伯さん? どうしたんです、どこに行くんです?」

「よく判らないんだけどさ、おれの剣を狙ってるやつらがいるみたいじゃん? さっきの男たちがもし仲間を引き連れて戻ってきたら、さすがにちょっとやばいかもしんないし、ひとまずここから逃げるんだよ」

「に、逃げるって――どこへです!?」

「どこへでもいいよ。とにかくこの街にいるのはまずい」

 それは半分は真実で、もう半分は方便だった。

 自分と同類だったはずの蘭芯は、すでに記憶を取り戻した。ならば獅伯も過去を捜す旅に戻るべきだろう。何より、これ以上ここにいると、蘭芯のそばから離れられなくなるかもしれない。自分がそんなことを感じるようになるとは、かつての獅伯には想像もつかなかった大きな変化だった。

「ちょ、ちょっと! お嬢さんを置いてくつもりですか!?」

「おれを雇った大人もおれが斬るはずだった刺客も、仲よくいっしょにあの世へ行っちまっただろ? だったらおれの仕事はもう終わりじゃん?」

「ですけど――」

「……もともと、ここには長居するはずじゃなかったんだ」

 文先生との会話を一方的に打ち切り、獅伯はかぶりを振った。

「女に気をつけろって……お師匠さまは適当なことをいってたわけじゃないんだな」

 最後に一度、父を抱いて泣き続ける少女の小さな背中を振り返ってから、獅伯は傷の痛みをこらえて屋敷の塀を飛び越えた。


          ☆


 騎兵と山賊たちの小競り合いをうまく避け、史春を自分の店まで連れ帰った呂翁は、奥のほうから大量の酒と白い布を持ち出してきた。

「おいおい……出血がやばいぜ」

「傷口を縫わんと駄目だな」

 ふたつならべた卓の上に史春を寝かせ、太腿の傷口をあらためてしらべた呂翁は、思っていた以上のその深さに眉をひそめた。傷口を強い酒で清めるたびにあらたな痛みが走るのか、史春は激しく身をよじって苦悶の呻きをもらしている。

 史春の身体を押さえていた天童は、その苦しみようを見て眉をひそめた。

「……人を斬るぶんには何も思わねえが、こうして見ると、自分が斬られる側には回りたくねえな」

「虫のいいことをいうな。――覚悟はいいか、史春?」

「え、ええ……お任せしますよ、呂さん」

「気をしっかり持てよ?」

 呂翁は針と糸を用意し、いまだに血をあふれさせ続ける傷口を縫い始めた。

「ぐ……!」

 血がにじむほどに唇を噛み締め、史春は身体を硬直させた。

「今からこんなことをいうのも酷だとは思うが……たとえ傷が癒えても、これまでのように動けるとはかぎらんぞ?」

 飛び散る血飛沫で顔まで赤くしながら、呂翁は淡々と史春に告げた。

 史春の命をおびやかしているのはあくまで出血の多さであり、傷口を縫って血が止まれば助かる目も出てくるだろう。だが、膝近くの筋肉に深く刻まれたこの傷は、あとあと尾を引くかもしれない。場合によっては剣士として生きる道を閉ざされることも考えられた。

「……生きてさえいれば、どうにか、なります、から――」

 顔中にびっしりと脂汗をにじませた史春は、こわばりきった笑みを浮かべた。

「早く、傷を治して……先生に、稽古をつけていただかないと……」

 絶え絶えの声で呟き、史春は気を失った。

「おいじいさん、こいつ失神したぜ!? 冗談抜きにやばいんじゃねえか、なあ?」

「おたおたしても始まらんだろ。……第一、死ぬとしてもそれははおまえさんじゃないんだ」

「そりゃそうだがよ――」

 呂翁は天童を一瞥し、いった。

「……手当がすんだら、おまえは史春を連れて山荘に帰れ」

「は?」

「史春が回復するにはかなりかかるはずだ。もう劉大人の屋敷には戻れんし、だからといってここに置いておくのもな……」

「いや、それはいいけど……じゃあじいさんはどうすんだよ?」

「わしはしばらくさっきの小僧を見張ることにする。この街にとどまるならいいが、どこかに雲隠れされるってこともありえるからな」

「……大丈夫かよ、ひとりで?」

「わしを見くびるな」

 天童を睨んでそう呟きはしたものの、先刻目にした林獅伯という若い剣士の力量は、すでに自分のおよぶところではないと呂翁は思っている。せめてあと二〇歳も若ければ、真正面から戦いを挑んであの剣を奪うということも考えられたかもしれないが、今の呂翁では望むべくもない。

「おまえは山荘に戻って、おまえが見たことを先生に正確にお伝えしろ。そして先生のご指示を仰げ」

「お、おう」

「おまえはまだ若い。わしのように年を取ってからは無理だが、若ければまだやり直す機会はある。……まずは生き延びることを第一に考えることだ。臆病なくらいでちょうどいい」

「……何だよ、まさか遺言か?」

「馬鹿をいうな。先達からの助言だ。多少はありがたがれ」

 指先を血まみれにしながら、呂翁は史春の傷口を縫い続けた。

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