第六章 亡霊の死 ~第二節~
☆
「――で、その
「そういう金持ちのところには、いろんなお宝が集まるもんだろう? つまり、先生がお捜しの剣についての情報も入ってくるかもしれん」
「ああ……うん、だろうな」
「だから、少し前から、大人の屋敷にわしの仲間が入り込んでる」
「そりゃあつまり、そいつも信用できる弟子って意味か?」
「まあな」
かたわらへと目をやると、あちこちに火をつけて回っている賊たちの姿が目に入った。賊たちが放火のついでに民家に押し入り、金目のものを奪っていくのを見ていると、決して正義感ではないが、腹の奥底からふつふつと込み上げてくるものがある。
そんな天童のまなざしに気づいたのか、呂翁がいった。
「……どうした?」
「いや、何つーかな……俺はよ、弱っちい奴がもっと弱い奴らを踏みつけていい気になってんのが、どうにも好きになれねえんだ」
「畢竟、世の中はそんなもんだろう? おまえさんだって、先生の強さを身をもって味わったからこそ、おとなしくその下についたんじゃないのか?」
「そりゃそうだよ。強さに差があるといったって、俺も先生も、自分の腕っ節で世の中を渡ってこうって人間なわけだろ? けどあいつらは、戦う覚悟のねえ連中をただ一方的に踏みつけてるだけだ。絶対にやり返してこねえ、絶対に自分にはかなわねえって判ってる連中を狙って好き放題やってる。それが何かよ、ムカつくのさ」
「……本当におまえさんは純粋だな。
「いうなよ。――別に俺は善人じゃねえ。身勝手に腹は立てるけど、だからってあいつらを助けてやろうって気にもならねぇしな。せいぜいあんな賊になんか身を落とすことのねえよう、腕を磨こうって思うだけだ」
大仰にかぶりを振り、天童は呂翁をうながしてふたたび走り出した。
「――で、そのお仲間が何だって?」
「ああ。先生がお捜しの剣が見つかったかもしれんと、わしに知らせてきてな。だからわしはすぐに、腕の立つ奴を寄越してほしいと山荘に手紙を送った」
「へえ……それで
「お目当てはいわくありげな剣だ。なら、持ち主は十中八九、剣士だろう? それに、劉大人のところにはもともと用心棒がたくさんいるからな。そこで高そうな剣を盗み出すってのは、そう簡単な話じゃないのかもしれん」
「ま、そのへんはどうだっていいさ。これで先生の覚えがめでたくなるならな。……それより、その劉大人のお屋敷ってのはまだ遠いのか?」
「いや――あそこだ」
呂翁が指さした先にも、曇天を焦がすような火の手が上がっていた。
「……何か燃えてねぇか?」
「ああ。そもそもそのへんで暴れてる賊どもは、その
「はぁ? 史春てのは誰だよ? お仲間のことか?」
「そうだ。ま、詳しい事情は本人からおいおい説明させるが、とりあえずわしらは史春を手伝って、その剣てのを――」
呂翁が不意に口を閉ざして振り返った。
「おい、じいさん――」
「……こいつはまた面倒なことになってきたな」
街の北門のほうから、塵埃を巻き上げて騎馬の群れがやってくる。全員が黒い鎧をまとい、かかげた旗には「呂」の一文字が縫い取られていた。
「まさかとは思うけど、ありゃあじいさんの親戚か何かか?」
「わしの身内に軍人はおらん。……おそらくあれは、
「誰だって?」
「呂文徳だ。
若い頃から剣の修業に打ち込んできた天童でも、呂文徳の名前くらいは聞いたことがある。呂文徳率いる黒灰軍が、今のこの国で一番精強な軍だという噂もしばしば耳にしていた。
その精兵たちが、石城を荒らす山賊たちを急襲し、またたく間に駆逐していく。それは天童にとっては胸の空く光景ではあったが、同時に、事態がより複雑になったことも意味していた。
「おいおいおい……どうしてあんな連中がここで首を突っ込んでくるんだ? 田舎の山賊なんかじゃ天下の黒灰軍の相手になるわけねぇだろ、なあ?」
「呂文徳は鄂州を拠点として蒙古の次の襲来に備えるつもりだろう。となると、まずは自分の足元にのさばる山賊どもの退治に乗り出すのは当然だな」
「呑気なこといってんなよ……じいさんのお仲間は、山賊を抱き込んでその剣を奪おうとしてんだろ? ってことは、下手すりゃ黒灰軍とぶつかるってことじゃねえの?」
「だからこうして考えている。……わしらがお役目にしくじって命を落とすだけならまだいいが、牙門と黒灰軍が真正面から敵対することは避けたい。先生にご迷惑をおかけしては申し開きができん」
呂翁は右手を懐に差し入れたまま、屋根に伏せてじっと何か考え込んだ。
☆
乾徳の頬に赤い線が走り、その足元がふらついた。
「くっ……さすがは“
「へえ。わたしのことをご存じなわけかい?」
「まあな」
「けど、残念ながらわたしのほうはあんたを知らないねえ。“
剣をひらめかせて背中に隠し、月瑛は笑った。
みずからの身体で剣を隠すこの独特な構えは、月瑛がいつ斬り込んでくるかを相手に読ませないためのものである。この構えとすさまじい太刀行きの速さによって、いつしか彼女は“艶風絶影”と呼ばれるようになった。もっとも、本人としては、そうした異名が広まるのをいいこととは思っていない。それはすなわち、
「……まあ、こっちの手のうちを知っていたとしても、それなりの腕がなきゃあねえ」
すでに月瑛の周りには、乾徳の手下たちが絶命して倒れている。“艶風絶影”の異名を知っていようがいまいが、あの程度の力量しか持たない男たちでは、いずれ同じ道をたどっていただろう。
なら、乾徳はどうか――。
「そっちがいつどうやって仕掛けてくるか判らねェのは確かだが、だったらこっちだって馬鹿正直に待つ必要はねェよな! 違うか!?」
頬に増えた傷口を拳でぬぐい、乾徳はみずから間合いを詰めにかかった。月瑛の剣が下からすり上がってくるのか上から袈裟懸けに降ってくるのか、あるいは水平に飛んでくるのか、出方が判らないのなら逆にこちらから仕掛けて月瑛を受けに回らせればいい――それは確かに彼女を敵に回した際のひとつの手ではある。
が、ある程度の腕のある剣士ならその考えに行きつくということを、月瑛もまた当然のように理解している。そしてこれまで月瑛は、そういう剣士たちをことごとく倒してきょうまで生き延びてきた。
「あいにくだけど……わたしは“
血の曇りの残る
「――!?」
おそらく乾徳は、月瑛の脳天をまっぷたつに断ち割るつもりでいたのだろう。しかし月瑛はさらに半歩ぶん深く速く踏み込むことで乾徳の狙う間合いをはずした。
「ぐっ……」
乾徳の刀は空を切り、代わりに、その柄を握り締める右の拳が月瑛の額を打つはめになった。というより、月瑛のほうから乾徳の右拳を狙って頭突きを打ち込んだようなものだった。
「おお、痛そうだ……その指じゃしばらく得物は持てないねえ」
指の骨が砕けた拍子に刀を取り落とした乾徳の目の前で、月瑛は黒衣の裾をひるがえした。
「……まあ、もうそれを心配する必要もないだろうけどさ」
風を切るわずかな音とともに半回転し、そしてすぐに月瑛は肩越しに乾徳を振り返った。
「お、ぶっ、ふ――」
臍の上のあたりを真一文字に斬られた乾徳は、血の混じった泡を吐きながら数歩後ずさり、そして仰向けに倒れた。
「とっ、頭領!?」
「お頭!」
荒くれたちを力でしたがえていた乾徳の死は、その荒くれたちに大きな動揺をもたらす。間近で乾徳の敗北を見ていた山賊たちから順繰りに、まるで池の水面に波紋が広がるかのように、驚愕と狼狽、それに月瑛に対する畏怖が広がっていった。
剣についた血を振り払った月瑛は、威圧的なまなざしであたりを見回した。残っている山賊たちは決して多くはない。放っておいてもいずれ逃げ散るだろう。むしろ今は、確実にいきおいを増していく火の手のほうをどうにかすべきだった。
「もう矢はいい! それより火を消して! みんな灰になっちまうよ!」
奉公人たちに指示を出し、月瑛は獅伯と史春の戦いをかえりみた。
先刻、史春は、まともに立ち合えば自分では獅伯にかなわないだろうといっていた。月瑛の見立てでもそれは間違いない。
なら、獅伯が負傷している今ならどうなのか――。
両者の戦いに割って入るつもりはなく、ただ単に月瑛は、その趨勢に興味があった。
☆
史春を見据え、獅伯は呟いた。
「自分ではずっと用心していたつもりなんだけどね……あんたのおかげで、それでもまだ足りないって気づいたよ。これからはもっと用心することにする」
あの谷川からこの屋敷までは、盗んだ小舟と馬を乗り継いでやってきた。あまり身体を動かさなかったおかげで、傷はずいぶんふさがっていると思う。だが、満足な食事は取れなかった。流したぶんの血を取り戻すことはできていないだろう。それに、激しく動けばまた傷口が開かないともかぎらない。
つまり、戦いが長引けば長引くほど獅伯が不利になる。
対する史春は、一定の間合いをたもったまま、じりじりとすり足で史春の横合いに回り込もうとしている。が、それでいて決して自分からは斬りかかってこない。
おそらく史春も、今の獅伯の弱みに気づいている。大きく左右に動いて獅伯の隙を窺っているのは、獅伯の疲労を誘うのが狙いなのだろう。史春に攻めるつもりがあろうとなかろうと、向こうが有利な位置に回り込もうとするのであれば、それに合わせて獅伯も否応なく動かなければならない。傷が癒えていない今の獅伯は、そのくらいの動きにも容赦なく体力を削られてしまう。
「もしかしておれが弱るのを待ってる?」
「さて」
「怪我人相手にあんたも用心深いね」
「いくら挑発なさっても無駄ですよ、林さま。前回は詰めが甘かった……だからあなたを仕留めそこねた。同じ轍は踏みません」
「いやぁ、あれはあんたの詰めが甘かったんじゃなく、おれの抜け目のなさが一枚上手だったってだけの話だよ」
獅伯は左手で自分の胸を軽くたたき、にっと笑った。
「――派手に斬られたように見せかけただけで、実際にはさほどの怪我は負ってないっていうか」
「そうおっしゃるわりには顔色がすぐれないようですが?」
「酒が切れてるからさ。おれは酒を飲んでいないと頭痛がするんだ。――だいたい、本当に深手を負っていたなら、あの崖を落ちた時にそのまま死んでるはずだろ?」
「――――」
史春が口を閉ざし、眉間のしわを深くする。そこに獅伯は、史春のわずかな逡巡を感じ取った。
「あんたはおれが出血のせいでふらふらになってると期待してたのかもしれないけど、それはちょっと見通しが甘すぎじゃないかな? こうしておれがここに現れたってことは、少なくとも今のおれには、あの岩壁に激突することなく下まで下りられるくらいの余力があるってことでさあ」
「……かもしれません。ですが、それを確かめる方法はいくらでもございますので」
「!」
黒く細いものが飛んできたことに気づき、獅伯は咄嗟に左手をかざして顔をかばった。
「ちっ……」
史春が飛刀を使うということはすでに知っていたし、用心もしていた。飛刀を引き抜くそぶりがあれば、その刹那に一気に踏み込み、投げる前に勝負を決めるつもりでいた獅伯が、それでも一瞬反応が遅れたのは、史春が投じたのが飛刀よりもずっと小さくて目立たない、先端が鋭利に研ぎ澄まされた長さ三寸ほどの釘を思わせる鉄の棒だったからである。おそらく史春は最初から袖の中にこの鉄針を隠し持っており、それを最小限の動きで投じたのだろう。
「ふだんの林さまであれば、今のような鉄針ごとき、たやすく打ち返していたと思いますが……」
すかさず史春が刀をかざして斬りかかってくる。わずかに出遅れたものの、獅伯も剣を振るって史春を迎え撃った。
「――――」
史春の柳葉刀をはじき返した瞬間、刃を通して鎖骨に痛みが走った。傷口をしっかりと縛ったつもりでも、やはりこうして激しく動けば痛みもするし、何よりまた出血が始まる。獅伯は傷口を刺激しないよう、左腕を懐に差し入れてできるかぎり動かさないようにしながら、史春の攻めをしのごうとした。
「義理堅いのも考えものですね、林さま」
火の粉が舞う中、史春は細かく素早い刺突で獅伯を追い詰めにかかった。
「……今からでも逃げてみますか?」
その切っ先を左右に散らすために、おのずと剣を振るう獅伯の動きも激しくなっていく。傷の痛みは徐々に大きくなっていたが、それを表情に出すことなく、薄ら笑いを浮かべた。
「いやいや、そういうあんただって意外に真面目じゃない? あの夜、おれに向かって投げつけた飛刀に毒でも塗っておけば、火の粉の下でこんなことしなくてもすんだろうにさ」
「それは……踏み越えてはならないものがございますので」
わずかにいい淀んだところに、史春の剣士としての矜持を見た気がした。
「……まあ、いまさら毒を使おうが人質を盾にしようが、負ける気はないけどさ」
眉間に降ってきた刃を半歩下がってかわした獅伯は、柳葉刀の背を左足で踏みつけた。
「!」
柳葉刀の切っ先が地面に深くめり込む。すかさず獅伯が身体をひねりながら右脚を振り上げると、史春の肩口にかかとがめり込んだ。
「ぐ……っ!」
「はずれたか」
獅伯が狙ったのは史春の側頭部だった。こめかみの骨を蹴り割ってやれば、剣に頼らず一撃で決着がつくと思ったのだが、そこまで史春も甘くないらしい。
「……抜け目のない人ですね」
史春の右手が強引に柳葉刀を引き抜いた。すばやく刃を返し、下から上へと一気に刀を走らせる。
「それはおれのせりふだろ」
足を切り落とされる寸前、獅伯は史春の胸を蹴って間合いを取ろうとした。
「……足癖の悪いおかたですね」
二、三歩後ずさった史春の左手の指先には、またあの鉄針が用意されていた。
「そういうとこだよ、抜け目がないってのは!」
獅伯は後方に飛びのきつつ、飛んできた鉄針をはじいた。
次の瞬間、獅伯の足元がふらつく。それを見た史春はすぐさま前に出て一気呵成に攻め立ててきた。当初、距離を取ってじりじりと睨み合いをしていたのとはまるで真逆の光景だった。
「あ、ちょっと――」
「待ちませんよ」
矢継ぎ早の突きをかろうじて受け流しつつ、獅伯は少しずつ後ろへ下がっていった。柳葉刀がかすめるたびに、獅白の衣のあちこちに真新しい切り込みが入る。皮膚が裂けて鮮血が飛び散り、それが熱風にあぶられて嫌な臭いを放った。ふたりの戦いを見守っている人間の目には、獅伯の劣勢はもはや動かしがたいところまで来ているように思えたかもしれない。
だが、至近距離で史春と斬り結んでいた獅伯は、その時、ずっと懐にしまい込んでいた左手を唐突に引き抜いた。
「!?」
獅伯が指先にはさんでいたのは、史春がたびたび使っていた鉄針だった。最初に顔を狙って投げつけられた時に、あやういところで掴み止め、そのまま隠し持っていた一本である。
「それは――」
「ま、おれも毒とかは使わないから安心してよ」
史春が鉄針に気づいて目を見開いた時には、獅伯は手首の小さな動きだけで鉄針を投じていた。ただし、投げたのは正面にではない。
「ぐ……!」
史春の右足の甲に鉄針が突き刺さる。獅伯にとどめを刺そうと前がかりになっていた史春には、唐突なその一撃はかわしようもなかったのかもしれない。
「ほっ……本当に、抜け目の、ない……っ」
急所にでも当たらないかぎり、決して致命傷にはならないが、痛みという意味ではかなりのものだったのだろう。史春の表情がそれを物語っている。
「すごいな、刺さったの小指のつけ根だよ? おれなら泣いてるね、絶対」
「だっ……もう黙ってください!」
わずかに身をかがめただけで痛みをこらえ、史春は刀を振り上げた。
「そうはいかないんだよねえ」
刀が振り下ろされるより早く、獅伯は史春の懐にもぐり込み、肩口から身体をぶつけていった。
「うぐっ!?……ふ――ぅ」
息を詰まらせた史春が大きくたたらを踏んだところへ、獅伯は身体を回転させて橫薙ぎの一撃を繰り出した。その剣先が史春の刀をはじき飛ばす。
「……っ!」
史春は左足だけで大きく後ろに跳び、間合いを取ろうとした。
「さっきのあんたじゃないけど、おれも待たないよ?」
逃げる史春に追いすがり、獅伯は剣を一閃させた。
「がっ……!」
獅伯が考えていたよりも史春の動きが速かったためか、その切っ先が史春の胴を捉えることはなく、ただ、史春の右の太腿――膝の少し上のあたりを深くえぐっただけだった。
「ぐ、ぉ……あ!」
おびただしい血飛沫を上げ、史春は倒れた。
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