第六章 亡霊の死 ~第一節~

「……いかがです、月瑛げつえいさま?」

蘭芯らんしんだけってのはさすがに薄情だねえ。ついでといっちゃ可哀相だが、ぶん先生にも手出しは無用だよ?」

「ええ、かまいませんよ。先生はどうやら都の役人たちとも面識がおありのようですし、うっかり殺してしまっては面倒になると考えてお連れしたまでのことですし」

「げっ、月瑛どの! 勝手なことをおっしゃられては困りますぞ!?」

 茂みの中から這い出てきた大人が、史春ししゅんとやり取りしている月瑛を見上げてわめいた。

「――蘭芯のことよりも、まずはこの屋敷を守ることを考えてくだされ! 誰があなたを雇っているとお思いですか!?」

「わたしはあの子の護衛役として雇われたんだろ? なら、あの子の身を守るために最善の手を選ぶのが仕事さ。……それとも、わたしをくびにするかい?」

 月瑛を馘にすれば、それこそ月瑛に大人のために戦う義理はなくなる。それが判る大人は、うっと言葉に詰まったきり、何もいえなくなっていた。

「ようやく門が開いたようですね」

 塀を乗り越えて侵入した山賊たちが、内側から正門を開く。史春と乾徳けんとくが蘭芯を前に押し出すようにして門をくぐると、奉公人たちの矢を射る動きがあからさまに鈍くなった。さすがに用心棒たちは、誰に雇われているのかをよく判っているようで、人質は無視して戦えという大人の言葉に忠実にしたがっているが、この屋敷で長くはたらいてきた奉公人たちにとっては、奥向きのことを仕切ってきた蘭芯こそが主人という意識が強いのだろう。素人の彼らに、蘭芯に当たるかもしれないこの状況で矢を射ろというのは酷かもしれない。

「乾徳さん、あまり手間取ると、兵たちが本当にここへ来てしまうかもしれませんよ」

「ああ……火が回りきらねェうちに、早いところ蔵を開けてお宝を運び出さねェとな。畢竟、兵どもだって金さえ出しゃあこっちのいうことを聞くんだしよ」

 乾徳と史春は、劉家の蔵に眠っている財貨を兵士たちに分けあたえ、そっくりそのまま自分たちの配下に組み込んでしまおうと考えているようだった。このご時世なら、それも無理な話ではないだろう。

「史春さんよ、人質はしっかり抑えといてくれよ? あのねえさんはちょいと手強そうだからな」

「判っていますよ」

「そんじゃ行ってくらあ」

 史春と数人の手下を人質たちの周りに残し、乾徳は刀を抜いて鞘を投げ捨てた。

「おい蛮軒ばんけん……久しぶりに勝負といこうじゃねェか」

「ひっ……!」

 乾徳みずからが得物を手に迫ってきたのを見て、大人は慌てて屋敷の中へ逃げ込んだ。しかし、その無様な姿を見ても、もはや月瑛には彼を助ける気など毛頭ない。主人が真っ先に逃げ出し、奉公人たちは蘭芯を傷つけることを恐れて閉月楼へいげつろうのほうへ下がっていった。まともに戦っているのは金で雇われた用心棒たちだけとなった今、戦いの趨勢は八割がたは定まったも同然だった。

「――ねえ史春さん」

 邪魔をするつもりはないという意志表示のため、月瑛は背中の鞘に剣を戻し、溜息交じりに腕組みをした。

「何でしょう?」

「ちょっと聞きたいんだけどさ……侍女の数がひとり足りなくないかい?」

「ああ……そういえばそうでした。運がいいというのか、うまく逃げ延びた娘がいたようです」

「へえ……それじゃあのりんどのはどうしたんだい? あのにいさんも逃げたのかい?」

「林さまなら、おそらく谷底でお亡くなりになっているでしょうね」

 史春がしたり顔で答えると、蘭芯がびくっと肩を震わせ、文先生が大袈裟に驚いた。

「し、獅伯しはくさんが!? まさかそんな……」

 史春の言葉を聞いた月瑛も眉をひくっとうごめかせたが、それは蘭芯や文先生の驚きとは意味が違う。

「……どうやらあんたはかなりやるみたいだけど、それでもあのにいさんほどじゃない気がするんだけどねえ?」

「ええ、我が身の未熟さを思い知らされましたよ。もしまた正面から立ち合うことになれば、私では林さまには勝てないでしょうね」

 特に誇るわけでもなく、史春は淡々と事実を述べている。ただ、問われるままに月瑛に答えている時点で、すでに史春には、彼自身も自覚していない驕りがあったといわざるをえない。時にそうした些細な失態によって命を落とすことがあるのも、やはり剣士という生き物の宿命なのだろう。

 月瑛は大袈裟に肩をすくめ、納めたばかりの背中の剣に手を伸ばした。

「はー……あのにいさんが、いくら不意をつかれたとか罠にかかったからって、あんたなんかにみすみす倒されるわけないだろ?」

「月瑛さま? 妙なことはお考えにならないほうが――」

「ひゃ……っ」

「……先生も少しお静かになさってください」

 それまで冷静に、むしろおだやかな笑みさえ浮かべていた史春が、眉間にわずかな苛立ちを刻んだ刹那のことだった。

「――!?」

 史春が唐突に振り返り、刀を一閃させた。

「おっ……おまえ、まさか――」

「…………」

 塀を飛び越えて背後から襲いかかってきた男の一撃が、史春を大きくはじき飛ばしていた。

「へえ……あれが噂の刺客かい? ま、誰だろうとかまわないけどね」

 史春と男が斬り合っている間に、月瑛は悠々と蘭芯たちのところへ下りていくと、いましめの縄を断ち切った。

「た、助かりましたよ、月瑛さん……」

 きつく縛られていた二の腕のあたりをさすり、文先生は泣きそうな笑みを浮かべた。

「いや、あの男が史春さんの隙を窺ってたのに気づいたから、わたしはちょっと史春さんの気を逸らしてやっただけさ」

「そ、それですよ。あの剣士、どうして私たちを……というか、蘭芯さんを助けるような真似をしたんでしょう?」

「さぁね」

 月瑛がくだんの剣士を実際にその目で見るのはきょうが初めてだった。

 聞いていた話では、あの剣士はりゅう大人に対して深い恨みを抱いているらしく、その凶刃が蘭芯にも向かいかねないという話だったが、彼女を殺す絶好の機会を得ながら、剣士はむしろ蘭芯を救うような動きを見せた。その理由は月瑛にもよく判らない。

「あくまで大人だけが狙いってことなのか……ん? どうしたのさ、蘭芯?」

 縄目を解かれた蘭芯は、何もいわずにじっと史春と剣士の戦いに見入っている。徐々に燃え広がり始めた炎の照り返しを受けた彼女の横顔は、どこかいぶかしげで、懸命に何かを考えているようだった。

「……蘭芯?」

「わたし――」

 蘭芯はこめかみを押さえ、きゅっと唇を噛んだ。

「っ……あ、頭が――」

「ど、どうしたんです、蘭芯さん!?」

「とにかく、ここじゃいつ戦いに巻き込まれるか判らないし、まずは――」

「おいおいおい! おかしいだろ、なあ!?」

 蘭芯たちをどこか安全なところに避難させようとする月瑛の前に、大人を追っていったはずの乾徳が立ちはだかった。

「どうして人質を奪い返されてんだ!? 話が違うだろ、史春さんよ!?」

「こちらの事情も理解してほしいですね……!」

「ちっ……例の男か。今までどこで何してやがった? どうせなら武昌ぶしょう行きの道中で姿を見せろってんだよ!」

 史春と斬り結んでいる剣士を一瞥し、乾徳が配下の山賊たちとともに月瑛に襲いかかった。

「先生! こいつらはわたしがどうにかするから、あんたは蘭芯を連れて逃げな!」

「むっ、無理ですよ、そ、そんなの……!」

 頭をかかえて苦悶する蘭芯をかばいながら、文先生はどうにかその場を離れようとしたが、頭目と月瑛との戦いに首を突っ込むより与しやすいと考えたのか、ふたりはあっという間に万槐崗ばんかいこうの山賊たちに囲まれてしまった。さすがに月瑛も、乾徳の相手をしながらふたりを安全に逃がすのは難しい。

「わわっ!?」

 狼狽しきった文先生が悲鳴をあげる。自力で動くこともできない蘭芯に山賊たちの刃が向かおうとしたその時、史春と戦っていた剣士が一足飛びに割り込んできた。

「がはっ」

「うぐぅ……!?」

 血飛沫を巻いて倒れ伏す賊たちを踏み越えた剣士と、その場にうずくまった蘭芯が、束の間、まじまじと見つめ合った。

「……蘭芯」

 その時、強い風が吹きつけてきた。ふたたびの雨の予感を含んだ湿っぽい風も火を弱めることはなく、むしろ強くあおることであたりにおびただしい火の粉を散らし、奉公人たちの悲鳴を誘った。

「蘭芯さん!?」

 蘭芯が細かく震えているのに気づいた文先生が、かたわらにしゃがみ込み、少女の肩を揺すった。

「どうしたんです、蘭芯さん?」

「あ……!」

「!」

 炎にあぶられた熱い風に乗って飛んできた矢を、剣士が叩き落とした。

「いっ、いい加減に、あきらめたらどうだ!? こっ、この、死にぞこないが――!」

 屋敷の奥に逃げたはずの大人が、屋根の上によじ登り、ごてごてと装飾のついた弩に矢をつがえていた。

「おお、おっ、おまえさえいなければ……! 全部、おまえが悪いのだ、蘇嘉生そかしょう! すべてが終わってから、の、のこのこと現れて――鬱陶しい!」

 弩から放たれた矢が嘉生と呼ばれた剣士目がけて飛んでいく。その実力からすれば、わざわざ叩き落とすまでもなく、かわすことなど造作もないはずだったが、なぜか嘉生はその場から動こうとはせず、大人が射た矢を次々に剣ではじき飛ばした。

「……え?」

 蘭芯の隣でへたり込んでいた文先生が、唖然とした表情でそのさまを見上げていた。

「も、もしかして……蘭芯さんを、守ってくれたんですか?」

 身をかわせば流れ矢が蘭芯に当たると考え、嘉生はあえてその場で矢を防いだ――文先生にはそう見えたのだろう。理由は判らないが、月瑛にもそう見えた。

「――このっ、こ、この!」

 大人がいくら矢を放とうと、嘉生はそれを残らずはたき落としていく。あまつさえ、少しずつ前に歩いていく。大人に隙があれば、ひと息に屋根の上まで飛び上がり、間合いを詰めて斬りかかることもできただろう。

 月瑛がそう安堵した直後のことだった。

「ぐ――」

 嘉生の口から黒みがかった血があふれ、そして、大人の矢が彼の胸に突き立った。

「……ぉ、ぐ」

 嘉生はその場に膝をつき、胸を押さえてうなだれた。薄い肩を何度も震わせて咳き込むたびに、その口から血があふれ出てくる。胸に矢を受けたとはいえ、ふつうならこれほどの血を吐くことはない。

「――――」

 ひざまずいた恰好の嘉生の手から、剣がすべり落ちる。そのさまをすぐそばで目の当たりにした蘭芯は、火の粉交じりの熱風に目を細めることもなく、ただ凍りついたかのように押し黙っていた。


          ☆


 目に何か飛んできて、蘭芯は思わずまばたきをした。

 それは、時ならぬ強い風にあおられて飛んできた、誰かの――おそらくは目の前に崩れ落ちた剣士の血潮だった。何とはなしに目もとをぬぐった手の甲に赤いものが広がり、火勢にあぶられて早くも生々しい腐臭を放ち始めたような気さえする。

「…………」

 蘭芯は呆然と剣士の横顔を見つめ、そして、長い間忘れていた、自分の母親のことを思い出していた。

「かあ、さん……」

 蘭芯の母親もまた、胸に矢を受けて死んだのだった。少なくとも今の蘭芯には、突き立った矢を引き抜こうとしてできず、血を吐きながら崩れ落ちた母の姿をまざまざと思い出すことができる。

 それが、蘭芯の母の最期だった。

 父からは、母は早くに病でみまかったと聞かされていたが、本当はそうではなかった。母は蘭芯を連れて逃げる途中、何者かに矢に射られて死んだ。

 蘭芯はゆっくりと視線をめぐらせ、屋根の上で次の矢をつがえている劉大人を見やった。

「……っ!」

 武昌へと旅立つ日まで父と呼んでいた男を凝視し、蘭芯は唇を震わせた。

 現実の蘭芯の眼前に倒れているのはあの日の母ではなく、彼女が見つめているのも父ではない。血を吐いて倒れている男こそが蘭芯の本当の父であり、弩を構えている男こそが母の仇であった。

 血と炎に染め抜かれた修羅場の風に吹かれて、蘭芯はみずからが封印していた過去の記憶のすべてを取り戻した。

「おっ、おまえら、みんな、し、死んでしまえい!」

 劉大人がふたたび弩の引鉄を引く。その矢が果たしてどちらを狙ったものかは判らないが、判らないままに、蘭芯は父を守ろうと、その背中におおいかぶさった。


          ☆


 蘭芯の背に矢が突き立つ寸前、獅伯はそれを掴み止め、逆に投げ返した。

「うづっ!?」

 矢が頬をかすめ、大人は足をすべらせた。

「間に合った……かな?」

「だ、だと思いますけどぉ……」

 背中に白蓉はくようをしがみつかせたまま壁を飛び越えてきた獅伯は、油断なくあたりを見回し、蘭芯のそばにしゃがみ込んだ。

「大丈夫か、お嬢さん?」

「お嬢さま!」

「え……?」

 嘉生の背中におおいかぶさっていた蘭芯が、獅伯たちの問いかけに顔を上げた。

「獅伯さま……それに白蓉も、無事だったのね?」

「は、はい! お嬢さまもご無事なようで――」

「わ、わたしはどうにか……でも」

 涙を浮かべた蘭芯の瞳が、血を吐いて倒れ伏した嘉生に向けられる。

「その様子だと……あんたは昔のことを思い出したんだな」

「……はい」

「そうか」

 見たところ、嘉生は胸の矢傷以外にこれといって負傷していない。玉砂利の間に吸い込まれていく大量の吐血は、おそらく怪我ではなく病によるものだろう。思えば獅伯と最初に対峙したあの時も、嘉生は激しく咳き込んだのを契機に引き下がっていったし、あの横穴で話し込んでいた時も、嘉生はたびたび咳をこらえていた。

「胸の病か……」

 矢傷うんぬんを抜きにしても、嘉生の命はもう長くないのだろう。いずれにしても、もうこれ以上は戦えまい。獅伯は白蓉に蘭芯についているようにいい含めて立ち上がると、周囲の賊たちの中に交じる史春を見据えた。

「――とりあえず、話を聞こうか?」

「何です? 私に何をお聞きしたいと?」

「あんたの師匠だったっけ、おれの剣を欲しがっているとか何とかいってたじゃん? その話をもっと詳しく聞かせてもらおうかと思ってさ」

「おとなしく私がしゃべるとでも?」

「まあ、それはついでといっちゃついでなんだけどね。おれにとって重要なのは、お嬢さんの身の安全を守ることでさ」

「……妙なことをおっしゃいますね?」

 史春は目を細め、軒から転げ落ちて呻いている劉大人を一瞥した。

「林さまもご覧になったでしょう? 先刻、大人はみずからの手でお嬢さまのお命を狙ったのですよ?」

「そうだね。だから守ったじゃん、おれ?」

「……判りません。雇い主である大人が林さまを裏切ったというのに、なぜ大人との約定をかたくなに守るのです?」

「前金はもうもらってるからな」

 袖を揺すってじゃらじゃらと粒金を鳴らし、獅伯は笑った。

 日々をつつがなく送るため、獅伯は極力、面倒ごとにはかかわらないようにしている。しかし、同時に誰かと交わした約束は絶対に守ろうとも考えている。それはもはや自分自身に対する意地のようなものであった。たとえ誰かが自分を裏切ろうと、自分は一度交わした約束は絶対に破らない――判りやすくいうなら、そういう義理堅くて恰好いい自分が、獅伯は大好きなのである。

「――そもそもさあ、他人との約束をほいほい破るようだと、いつか自分自身を信用できなくなりそうじゃん? あんたは違うの?」

「私に同意を求められても困りますね」

 呆れ果てたように溜息交じりにかぶりを振った史春は、左手をかかげて賊たちをけしかけた。

「いや、だからさぁ、いまさら無駄じゃない?」

 殺到してきた賊たちをあっさりと斬り伏せ、獅伯は刃についた血を振り払った。

「――この前の夜襲で学ばなかった? おれに手傷を負わせられたのは史春さんだけで、それも騙し討ちだけだったじゃん? 名もなき山賊のみなさんでどうこうできるわけないって思わない?」

「思いますよ。ですから結局こういうことになるわけです」

 柳葉刀を肩にかつぐような独特の構えで、史春は獅伯に対峙した。

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