39

「小鳥遊さん、ほんとにバンクーバーなんか行っちゃうんですか?」

「なんかってなによ、なんかって」

「なんかですよぅ、もう」


 せっかくあのやばそうな会社辞めたと思ったのに、と小野寺慈は唇をへの字に歪め、柊を睨みつけてくる。幼稚園児が拗ねているようにしか見えない童顔だが、彼女はいたって真剣だった。


「先輩、やり直すならこっちにいてもできますよ。醜聞誌にいたハンディはちょっと大きいですけど、うちでのキャリアもありますし、もう一度修行からはじめれば……」

「小野寺」


 柊は鋭い声で後輩を呼び、手にしていたビールのグラスをテーブルに置いた。


「無理だから。無理じゃなくても、わたしが厭なの」


 あんたにぐだぐだ云われる筋合いはない、と付け加えると、小野寺はひどく剣呑な目つきになって不穏なことを云った。


「先輩、また逃げるんですかぁ?」


 逃げる。とても不愉快な言葉だ。


「どういう意味よ」

「先輩の、彼氏っていう人たちに聞いたんですよね」

「なにを?」


 っていうか、あんた、人たちって、聞いたって、と柊が動揺を見せると、小野寺は珍しく人の悪い笑みを浮かべた。


「先輩が会社を馘首になったって聞いて。この前会ったときちょっと様子も変だったし、気になって、行ってみたんですよ」


 小鳥遊さんが変なのはいつものことですけど、なんか引っかかってですね、と可愛くないことを付け加えてから小野寺はビールを追加注文する。


「行ってみたって、どこに?」

「お家です」

「なんにも聞いてないけど」


 あれ、そうでしたっけ、と小野寺はわざとらしく肩を竦めた。



 小鳥遊柊がウィークリーゴシップを正式に退職したのは、瀬尾理人の逮捕から二週間後のことだった。


 元秘書である犬飼要平の死にかかわったという、なんの根拠もない記事を書かれた塩穴雅憲は、当該号の発売当日にウィークリーゴシップを提訴した。同誌は非を全面的に認め、回収および謝罪広告をもって塩穴に詫びた。現在は、塩穴に宛てて和解を申し入れ、回答を待っている。

 対応が的確かつ迅速になされた結果、記事はほとんど人目に触れることなく葬られた。もちろん編集長である谷本智弘が事前に根回しをしておいた結果だったが、柊にとってもまた不幸中の幸いであったといえる。


 ウィークリーゴシップ日向野班は解散となった。


 柊と同様に馘首クビになった日向野大祐と、自主退職した市原嘉幸はそれぞれ同業他誌と専門誌に再就職を決めた。ふたりにとっては、ある意味、運がよかったともいえるのだろう。北居大和は他部署に異動となった。現場を離れた間接部門であるというから、彼にとっては今度こそ本当の新天地となりうるかもしれない。

 残された編集部では、目障りな日向野や柊を追い出した谷本智弘が臨時に一班を担当し、しばらくは彼と半井の二班編成で発行を続けることになったらしい。


 柊にとっては、すべて聞いた話である。


 柊自身は、重大な服務規程違反による懲戒解雇となった。これは編集長である谷本の差し金であり、抗議しようと思えばそれも可能だったが、彼女はそうしなかった。

 ひとつには、自分にはそれだけの落ち度があると思っていたし、もうひとつには、日向野以下、班のメンバーにはお咎めがなかったからでもある。ほとんど読む者がいなかったとはいえ、事実無根の記事によって塩穴の名誉を著しく傷つけたからには、やはり誰かが責任を取るべきで、それは自分をおいてほかにはいない。ペンを執った自分にこそ、相応の罰が与えられるべきである、と彼女は考えていたのだ。


 幸いすぐに暮らしに困るでもない。少し落ち着いて再就職先を探そうとのんびり構えていたところへ、帝都通信社にいたころの先輩記者――といっても、すでに定年を迎えた大のつく先輩である――から声がかかった。

 帝都通信時代、柊に記者のイロハを叩きこんでくれた恩人でもある彼は、同社を定年退職後、妻の故郷であるバンクーバーへ移住し、現地で在留あるいは旅行邦人向けのタウン誌を発行する会社を立ち上げたのだという。人手が足りないから、ひまならば手伝ってほしい、いや、なにがなんでも来い、ガタガタ抜かすな、首に縄つけて引きずって来るぞ、とだいぶ強引に誘われて心を決めた。

 そもそも再就職にあてなどなかったので、正直なところ助けられた感はある。

 たとえ元新聞記者といっても、前職が醜聞誌記者である。まともな媒体では相手にしてくれない。そうかといって、同業他誌に鞍替えする気にはどうしてもなれない。では、とばかりに、記者にこだわる理由もなくなったし、まったく新しい仕事を探すか、と考えてみても、ほかにやってみたいことがあるわけでもない。

 先輩からの誘いは渡に船だったのだ。


 心を決めた途端、とにもかくにも忙しくなった。

 渡った先での住まいは先輩に甘えるにしても、出国前にやらなければならないことも山ほどある。就労ビザや銀行口座などの手続的なことにはじまり、引越しの手配や不要物の処理など、時間はいくらあっても足りないほどである。


「先輩とは会えなかったんですけど、お家の前に見たことある人たちがいて」


 それが小鳥遊さんの彼氏さんたちだったんですよねぇ、と小野寺は云う。


「たちって、あんた……」

「先輩、水臭いじゃないですかぁ。あの人たち、わたしも飲んだことありますよね、一緒に」

「……そうだっけ」

「そうですよぅ。云ってましたもん、ひさしぶりだねって」


 思わず派手な舌打ちが出た。柊は塩気とハーブの効いたフライドポテトをむしゃむしゃと頬張りながら、で、と顎をしゃくる。

 先輩、態度悪すぎ、と小野寺は顔を顰めたが、所詮は人の好い彼女のことだ。本当の意味で逆らうこともなく、しかし態度だけはしぶしぶと口を開いた。


「ふたりから聞いたんです」


 聞いたって云うか、むしろ問いつめられたって云うか、と小野寺はぶすぶすと云う。

 聞かずともわかる。由璃と真璃のふたりがかりでこれでもかとばかりに質問責めにされたのだろう。――シュウはどこだ。どこへ行った。連絡はあるのか。


「先輩が会社を辞めて、バンクーバーへ行くことにしたんだって、そのときに聞いて」

「それでしつこく連絡を寄越したわけね」


 しつこくってひどい、と小野寺が喚く。


「うるさい。ってか、さっきからそれもうるさい」


 テーブルの上に置かれている彼女のスマートフォンを手にしたフォークで示してやると、い、いいんですよこれは、と妙に慌てた素振りを見せる。そのくせぶるぶると震え続ける小さな筐体を手に取るでもなく、掌で隠すばかり。


「なに? 誰?」


 仕事じゃないんだ、とからかってやると、違いますよ、と怒った声が返ってきた。


「なにが違うの? わたし、なんにも云ってないじゃない」

「いいんです、違うんです。これのことはどうでもよくて、いまは先輩のこと」

「んー、電話がうるさくってぇ、話す気にならないなぁ」

「小鳥遊さんっ!」


 小野寺の本気にややたじろいだ柊は、動揺を隠すためにビールを煽った。


「あの人たち、心配してましたよ。ぜんぜん連絡もつかないし、心当たりも尽きたって。連絡があったら知らせてくれって、わたしにも」

「……小野寺、あんたまさか」


 大丈夫ですよぅ、と小野寺は手をひらひらさせる。


「今日のことは云ってません。会いたくないんですよね、彼氏さんたちと」

「だから、そんなんじゃないって」


 小野寺は唇を引き結び、鼻から息を吐いた。


「別にそんなのどっちでもいいですけど。でも、あの人たち、先輩のこと、本気で心配してました。わたしもしてます。先輩、いま、ここを離れるべきじゃないですよ」


 なんにも知らないくせに、と柊は思った。なんにも知らないくせに、知ったようなこと、云わないでよ。


 けれど、その一方で、小野寺にはなにも知らないままでいてほしいとも思った。


 なにも――。そう、わたしの愚かさとか、卑怯さとか、身勝手とか、なにも。

 この世にひとりくらい、なにも知らないでわたしを心配してくれる子がいたっていいじゃないの。


「なんかつらいことがあったんですよね。仕事のことじゃなくて、なにか」


 わたし、なんにも知らないですけど、それくらいはわかります、と心やさしい後輩は云う。


「云いたくないなら、訊かないですけど。でも……」

「でも?」

「話したいなら聞きますよ」


 驚く柊を後目に、小野寺は澄ました顔をしてビールを飲む。


「話したい……わけじゃない」


 そうですか、と小野寺は云った。気を悪くした様子はない。


「話したくない、わけでもない」

「なにを話したらいいか、わからないって感じですかね」


 さほど鋭いとも思っていなかった小野寺に図星を指され、柊は黙り込む。

 そうなのだ。いまのわたしは誰になにを話したらいいのか、わからない。

 双子を避け続けているのもそのせいだった。


 瀬尾から聞かされた薔子の話は、柊に大きな混乱をもたらした。日を追うごとに混迷は深まり、いまや自分がなにに戸惑っているのかすらわからないようなありさまだ。

 薔子のこと、瀬尾のこと、事件のこと。自分なりによく理解しているつもりだった。


 けれど、柊にはなにも見えていなかった。


 事件の真相や瀬尾の心境はおろか、誰より近くにいたはずの薔子の想いですら、なにひとつ理解できていなかったのだ。

 いまだにわからないことはある。どれだけ考えてもわからないこと。

 知りたいこともある。この先ずっと知らないままかもしれないこと。


「先輩」


 澱みに沈み込む柊を掬い上げようとするかのように、小野寺が呼んだ。


「先輩がいま、一番話したい人は誰ですか?」


 薔子だ。失われ、二度と戻らない大切な友人。


「でも、だめ。もう、会えないから」

「その人のことを、一緒に話したい人は?」


 瀬尾だ。誰よりも彼女を愛し、それゆえに憎んだ可哀想な男。


「でも、やっぱりだめ。そう簡単には会えない」

「じゃあ、その話せない人たちのことを話したい人は?」

「話したい……?」


 由璃と真璃、だろうか。


 柊は考える。

 薔子と瀬尾の真実を知る者は、この世界にとても少ない。本人たちとわたし、それから捜査関係者と由璃、真璃くらいのものだ。

 警察と話すことはなにもない。というより、なにも話す気はない。荻野からは公式にではないものの、事情聴取の要請が来ているし、それをいつまでも突っ撥ねられるとは思っていないが、云いたくないことは口が裂けても云わないつもりでいる。

 そうなると、残るのは――。


「その人たちが、先輩がいま、話をするべき人たちですよ」


 柊は黙ったまま小野寺を見た。


「いなくなってしまった人たちは戻ってこないです。どんなに待っても、どんなに想っても」


 どんなに泣いても、と小野寺はやさしい声で云う。


「もう会えないし、声も聴けないし、笑顔も見られない。でもね、思い出すことはできるんです。思い出して、言葉にすることはできる。わたしは昔からずっと、そう思ってきました」


 写真の才能があって、その才能を活かすだけの努力ができて、こいつの人生、きっと順調だったに違いないと誰にも思わせる小野寺慈は、じつは目に見えない重たい荷物を抱えているのかもしれない、と柊は思った。この子はそういう子だ。誰にもなにも云わず、誰にもなにも気づかせず、傍にいる誰かを力強く支え続けていけるのだろう。

 その、誰か、のなかにはわたしも含まれている。わたしが、これまで気づかなかっただけで。


「だから、話したほうがいいです。話して、ちゃんと思い出して、息をさせてあげないと」

「息をさせる?」


 誰に、と柊は首を傾げた。


「思い出に、っていうか、その、先輩のなかにいる大事な人たちに」


 失われ、二度と会うことのできない人たちも、このなかには生きていると思うんですよね、と小野寺は云う。女性にしては逞しい指先が、彼女自身の胸を押さえている。

 柊もつられて掌を胸元に当てた。薔子の遺したペンダントが硬く冷たい感触を伝えてくる。


「だって、どうしたって思い出すじゃないですか。もう会えない人、好きな人も大事な人もですけど、嫌いな人とか苦手な人のことも」


 そういう人って、生きてるんですよ、ずっと、と小野寺はむずかしい顔をする。賢しらなことを云おうとする幼子のようだが、それを笑う気にはなれない。


「人だけじゃなくって、いいこととか厭なこと、昔のことってどうしても思い出しちゃいますよね。なにかのはずみだったり、ぜんぜんなんの脈絡もなかったり、いろんなときに。いい意味でも悪い意味でも、どうしても忘れられないことってあるじゃないですか。わたし、あれ、無理に封じ込める必要ないと思ってるんですよ」


 思い出すたび笑顔になれて、心があたたかくなるようなこともあれば、死にたくなるようなつらいこともあるかもしれないんですけど、どちらにしろそいつはまだ生きてるんです。いいことや大切なことは、呼吸させてあげたらまたしまっておけばいいけど、悪いことやしんどいことは、少しずつでも時間の流れに乗せてやって、風化させてあげないと。


「どこにも行けないまま、どっか深いところで、ずっとずっと悲しんだり恨んだり憎んだりし続けることになる」


 そのほうがよっぽどつらいじゃないですか、と小野寺は苦い笑いを見せた。


「それって、なんか矛盾してない?」


 思い出せって云ったり、忘れろって云ったり、と柊は眉根を寄せる。


「無理しないでほしいって云ってるんです。思い出してもいいし、忘れてもいい。泣いちゃだめとか笑っちゃだめとか、そういうのは、ないんですよ」


 わかりますか、小鳥遊さん、と小野寺はぐっと顔を近づけた。


「誰かを好きになっちゃだめとか、そういうのもないんです」


 柊は空になったグラスをそっとテーブルに戻した。動揺のあまり、小野寺から目を逸らすことができない。


「あの人たちがふたりとも恋人とか、そりゃあ、まあ、なんていうか、あんまり常識的とは云いがたいかもですけど、でも……」


 もともと恋愛なんて、常識とか普通とか一般とか、そういうの、ないじゃないですか。


「もしもそう見えるとしたら、それは当事者じゃないからです」


 依存的でもなく、暴力的でもなく、盲目的でもない恋愛なんかないと思うんですよ、と小野寺は極論を云った。


「対等で、平和で、視野が広いのは、ごく理想的な隣人関係です。そこには穏便に大過なく付き合っていければそれでいいという意図っていうか、諦めっていうか、究極のところは無関心なんであって、絆も情も存在しない。そんなの、友人でも恋人でも家族でもない。わたしはそう思います」


 人と人とがくっつけば、争ったり偏ったりするのがあたりまえです。歪んでるのが当然で、どんな歪みなら許せるか、どこまでの歪みなら耐えられるか、それがすべてなんじゃないかって、最近思うんですよ。


「なにを許せて、なにを受け入れられるかは、人それぞれ違います。みんな違うし、お互いに理解なんかできない。ときどきは自分でもよくわかんなかったりする」


 結局みんな、自分と自分の周りだけが大事なんですよ、と小野寺は薄く笑った。


「言葉にするとずいぶんな感じになりますけどね、でも、それが本音です。自分と似た歪み方をしてる人、自分と相性のいい歪み方をしてる人、そういう人ならだいたい許しますよ、助けますよ、そうじゃない人も存在していることはとりあえず認識しますよ、おとなしくしてるなら攻撃はしないでおいてあげますよ、っていうのが、まあまあよくできた穏やかな人です。普通の人は、そういうの、見ないふりして存在を無視するか、攻撃して蹴散らすかですからね」


 人間、みんなそうやって自分を正当化して生きてる。わたしもそうですよ。先輩もそうです。


「だからいいじゃないですか、周りからどう見えるかなんて気にしなくても。恋人がふたりいたっていいじゃないですか。寂しがりの先輩にはちょうどいいです」

「寂しがりって……」

「寂しがりですよね、小鳥遊さん」

「今日はなんか偉そうだね、小野寺」


 そうですかね、と小野寺はすっとぼけた声を出す。


「あんたはどうなのよ。いっつもはぐらかすけどさ」

「わたしのことは、いまはいいんですよ」


 話を逸らそうとしてあっさりしくじった柊は黙り込んだ。今日はどうも分が悪い。


「わたしはいいんです。振り切れたら、たぶんどんな我儘でも通せるんで」


 まるでとりなすような口調だ。憎たらしい。


「でも、先輩は違いますよね。自分の我儘、通せないですよね。周りを潰すんじゃなくて、自分を潰しちゃいますよね。だから云ってるんです」


 別に、と柊は唇を尖らせた。


「そんなことはないけど」

「そうですかね」


 そんなことはないよ、と柊はもう一度云った。わたしは自分を潰したりしない。そうなる前に逃げ出すからだ。


「それって、つまり自分の居場所を潰してるってことですよね。あんまり違わないんじゃないですか」

「ぜんぜん違う」


 わたしは違う場所で生きていけるからね、と柊は云った。


「痛いのとか、苦しいのとか、つらいことから逃げてさ」

「逃げてないですよ。そういう云い方はだめです。それは卑怯ですよ、先輩」


 つらそうでしたもん、小鳥遊さん、と小野寺は溜息をついた。


「なにがあったか知りませんけど、前の仕事、しんどそうでした。辞めればいいのにって何度も思いましたけど、云えなかった。鬼気迫るっていうか、必死っていうか、なにがなんでもしがみつかなきゃみたいな顔見てたら、どうしても云えなかったです。続けなきゃいけない理由、あの仕事じゃなきゃいけない理由があるんだろうって、そう思ってました」


 十分苦しんだとかね、そういうの好きじゃないんですけど。仕事にも失礼ですしね。


「苦しんでなかったとか、つらくなかったとか、そういうのはだめですよぅ。しんどかったから辞めた、でいいじゃないですか。ラクになることのなにがいけないんですか。愛されることのなにがいけないんですか。いいじゃないですか、もういい加減、自由になりましょうよ」

「自由に?」


 なにからだ、と柊は思った。いったい、なにから自由になれというのか。


 薔子の死からか。瀬尾の罪からか。自分自身の、――咎からか。


「無理だよ、小野寺。それは、無理だ」

「だから、外国へ行くんですか。どこへ行っても、あなたを本当に縛るものからは自由になれないから。だからですか。だから、あなたを知る人が誰もいないところへ行くんですか」


 そんなの狡いです、と小野寺は腹を立てている。柊の卑怯に、臆病に、腹を立てている。


 ごめんね、と柊は思った。あんたの云うことは正しい。正しいけど、正しすぎて、いまのわたしには眩しすぎる。

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