38
「あまりにも長く抱えすぎて、もう恋とは呼べない妄執のような自分の気持ちから、おまえを守ろうとしてた」
瀬尾は柊の腕を掴み直す。
「悔しいけれど、俺には、そのことがよくわかった」
嗚咽にも似た低い声が続く。俺も同じ気持ちだったからかもしれない。
「俺は失敗したけど、薔子は違った。あいつは、最後まで、おまえを守りきった。最後まで、おまえのことしか考えてなかった」
誰かを想い、その気持ちが報われなかったとしても、簡単に諦めることはできない。
そのことを瀬尾は身をもって知っていたし、だからこそ薔子のことをほかの誰よりも理解することができた。非常に歪んだ形ではあったが、瀬尾には薔子に寄り添う理由があり、薔子にはそれを許す理由があった。
俺と薔子は片恋を理由にした共生関係だったんだ、と瀬尾は云った。
「俺はそれでもよかった。歪んでてもなんでも、好きなやつの傍にいられるんだから。でも、薔子は違った」
おまえはあいつから離れていった。少しずつ、でも確実に、離れていった。
「なんだかんだ云いながら、好きなやつの傍にいられる俺と、そうじゃなくなっていく薔子は、いつのまにか似て非なる者になった。薔子はたぶん、寂しくてたまらなくなってたんだと思う」
同じ痛みを背負っているはずだった。同じ苦しみを、同じ闇を抱えているはずだった。
でも、そうではなかった。
そのことに気づいてしまった。
「薔子がいろんな男と寝るようになったのは、俺との経験で男とセックスすることに快感を覚えたからだ。心はともかく身体は気持ちいい。寂しい時間を埋めてもくれる。面倒がなくて後腐れのない相手、ついでに自分の云うことを聞いてくれるならと、あいつはどんどん深みに嵌まっていった」
自分のしてることが俺にばれて、問い詰められて、すべてを白状させられても、あいつはとくに悪びれるふうがなかった、と瀬尾は云った。
「ちょうどいい、せいせいしたとでも云いたげだった。自分と同じように俺も苦しめばいいとばかりに、俺から離れていこうとした」
瀬尾は離れることを許さなかった。
「薔子がおまえを手放さなかったのと同じだ。俺もあいつを手放さなかった」
そして訪れたのは、奇妙に静かな束の間の平穏。
「あいつが、薔子がほかの男と寝ることを許容しさえすれば、俺は薔子の傍にずっといることができたのかもしれない」
でも、そんなことができるわけもない。瀬尾は薔子のことを愛していたのだ。ひとりの男の唯一無二として、心を捧げていたのだ。
「薔子はいろんなことを諦めていた。恋を叶えることも捨て去ることも全部諦めて、それでもおまえへの気持ちと心中するんだと、諦めてた」
だから、おまえが地方へ行くことを決めても反対もせず、笑って送り出したんだ、と瀬尾は云う。
「学生のころとは違うものね、と薔子は云った。なにがなんでも離れたくなくて、癇癪起こして、シュウに無理をさせたこどものころとは違う。シュウにはシュウの人生があるもの。ときどき思い出して、たまに戻ってきてくれれば、それで十分だと」
薔子はきっと、もう疲れ切っていた。好きだ、という気持ちに変わりはなくとも、叶うこともなく諦めることもできない恋に、もうすっかり疲れ切っていたのだ。
「だから、どれだけ拒否されても、めげずにしつこく好きだ好きだと云い続ける俺のことが憎らしくなったんだろう。やりたいだけなんて、そんなことないのはあいつが一番よくわかっていたはずなのに、俺が一番傷つく言葉を選んでそれをぶつけてきた」
耐えられなかった、と瀬尾は云った。
「我慢できなかった。そんなことを云う薔子に、そんなことを云われる自分に」
瀬尾は震える声を飲み込むようにして言葉を切る。失われた続きは、柊の胸の内にたやすく響いた。
そしてきっと、――すべての元凶であるわたしに。
先輩はきっと、わたしをこそ殺してしまいたかったんだ、と柊は思った。心を捧げた薔子ではなく、彼女の想いを踏み躙り続けたわたしをこそ。
二の腕を掴んでいる瀬尾の手がひどく震えている。強い力で掴まれ続けたそこは、きっとひどい痣になることだろう。
想いの強さか。あるいは深さか。
いずれにしても、自分にはとうてい持ちえなかったものだ。
柊は瀬尾を見上げた。今朝、彼と顔を合わせてから、もっとも衒いのない眼差しだった。
「先輩」
「なんだ」
「わたしは先輩を許せません。どんな理由があったにしろ、薔子を殺したあなたを許すことはできない」
柊は迷うことなく、そう云い切った。瀬尾の話を聞いていたあいだ、彼の理屈に頷いてしまいそうな自分をおそれていた気持ちは、いまはもうどこにもない。
瀬尾の気持ちを、薔子の想いをすべて知っても、彼を許すことはできそうになかった。そのことに、心の底から安堵していた。
「そうだろうな」
瀬尾は柊の言葉を否定しなかった。
瀬尾は、薔子がなにもかもを諦めていた、と云った。彼女は草臥れ果てていたのだと。
自分は違う、そうではなかったと彼は云ったが、柊からしてみれば瀬尾だって同じに思える。彼もまた、草臥れ果て、なにもかもを諦めていた。
だから、薔子を殺めたのだ。
薔子は自分を殺し、瀬尾は薔子を殺した。
柊はそのことに憤る。ふたりに対し、強い怒りを覚える。
「罪を償ってください。一生かけて、薔子に詫びてください」
誰にではない。ほかならぬ薔子に、もう決して言葉を――許すそれも、責めるそれも――紡ぐことのない薔子に、息の根が止まるそのときまで詫び続けてほしい。
なにをせずともいい。なににならずともいい。誰が許しても、瀬尾だけは自分を許さず、最期のときまで薔子のことを忘れずにいてほしい。
瀬尾は柊をじっと見下ろしている。憎しみの色が消えた瞳は、ひどく静かに凪いでいる。
「おまえに云われなくてもそうするつもりだ」
二の腕を掴む瀬尾の指先に、またいっそうの力がこもった。思わず顔をしかめてしまうほどの痛みが走る。
「それで、おまえはどうする?」
「どうって……?」
「俺の話を聞いたおまえはどうする、と訊いている」
全部忘れて生きていくか。薔子のことも、俺のことも綺麗に忘れて、前を向いて歩いていくか。
「あの双子と」
柊は思わず目を見開いた。瀬尾は力任せに柊の身体を引きずり寄せる。
「あいつらのことは、受け入れるんだな」
なかば吊り上げられたような姿勢のまま、柊は喉の奥で悲鳴を上げた。瀬尾の目には激しい怒りがあった。
「ずっと傍にいた薔子のことは無視し続けたくせに、ぽっと現れたあいつらの気持ちには応えるのか。なんでだ。禁忌という意味でなら、似たようなもんだろう」
云いながら瀬尾は、急に腕の力を緩めた。反動で背後に転倒した柊が体勢を立て直すまもなく、その華奢な身体の上にのしかかる。伸ばした両手で、迷うことなく柊の首を絞め上げた。
「なんでだ。あいつらが男だからか。おまえの弱さを知らないからか。身も心も委ねることができるからか」
柊は、違う、と叫ぼうとした。怒りか、おそれか、酸欠か、とにかく身体じゅうが燃えるように熱い。指先など、溶けてなくなってしまったかのようだ。
「そうやっておまえだけが、傷ひとつ負わないまま、苦しみひとつ知らないまま、幸せに暮らしていくつもりか」
柊は力の限りに抵抗しようとした。だが、言葉どころか呼吸すらままならない。
意識が急速に遠くなり、瀬尾の言葉が理解できなくなる。視界が狭くなり、やがて暗くなって――。
そのとき、なにかが砕ける音が部屋中に響きわたった。
「シュウッ!」
大きく身体を揺さぶられた。指先に、足先に、喉元に、肺の奥に急速に痛みが戻る。自分の名を呼ぶ声すら耳に届かないほど激しく咳込み、床の上に蹲った。
自分を守るように身体を丸める柊を、誰かが庇うようにして包み込んでくれている。
「シュウ」
身体の奥に響くような深い声。
「シュウ」
おそろしいこと、悲しいこと、つらいことのすべてから守ってくれる、あたたかな身体。
遠くで争うような物音が聞こえる。誰かがなにかを叫んでいる。
待てっ、と声は云い、それに合わせてなにかを振りまわしたのだろう、耳障りな金属音に続けて激しく書類の崩れる気配があった。どたんばたんと誰かが転げ回るような音までする。
「いい加減にしなさいよっ! あんたたちも加勢しなさいってば! あっ、こら待て!」
自分に覆い被さるふたつの身体を押しのけ、柊は身を起こした。
まだ定まらない視線を必死になって動かせば、待てこの野郎ッ、と口汚く叫びながら部屋の隅でなにやら長い棒を振り回し、瀬尾を追いつめている影がいる。
「……義姉さん」
苦々しく呟く双子の声に、柊は驚いた。
「由璃くん! 真璃くん! 早くっ!!」
こいつ逃げる気よっ、と叫ぶのはふたりの義理の姉、安曇繭であるらしい。
いったいなぜ彼女がここに、と首を傾げるまもなく、由璃と真璃は柊の傍を離れ、揃って瀬尾に飛びかかった。
瀬尾は力の限りに抵抗しているようだが、自分よりも体格のよい男ふたりを相手にすれば、体力はすぐに尽きる。やがて俯せに押さえ込まれ、両腕を背中に捩じり上げられる羽目になった。
「シュウちゃんっ! ……大丈夫?」
ひとり呆然としていた柊は、飛びついてきた繭にそのまま抱きしめられ、頭だの背中だの肩だのをひとしきり撫でまわされた。目を白黒させているうちに、やわらかなストールで肩を覆われる。
とくに寒くはないのだが、と意思表示をするも、繭は譲らない。やさしげに微笑んだまま、緩く首を横に振った。
「いいから」
繭の視線が自分の喉元へ落とされていることに気づき、柊はそこではじめて彼女がなにを慮っているのかということに気づく。
柊は瀬尾に首を絞められた。きっとそこには彼の指の跡が――彼の殺意が――、くっきりと残されているのだろう。
ひどい寒気がした。がたがたと身体が震えはじめる。
繭が眉間に皺を刻みながらも、静かに抱き寄せてくれた。
「大丈夫よ。もう、大丈夫。怖いことも悲しいことも、全部終わった」
声が少しずつ遠ざかっていく。
「ちゃんと自分で全部終わらせたのよ、シュウちゃん」
無意識のうちに目蓋が落ちる。
「頑張ったわね。最後までよく頑張った」
身体から力が抜け、抱きしめてくれる腕のなかにゆったりと沈んでいく。
「もういいわ。少し休みなさい。あとのことは、それからよ」
そして、なにも聴こえなくなった。
「目が覚めてから、ひとつずつゆっくり考えましょう」
見覚えのない天井を見上げるのは、これで何度目だ、と柊は思った。意識のないあいだに運ばれて、知らない場所で目覚めることは、毎度毎度、あまり気分のいいものではない。
「目、覚めた?」
声のするほうへと首を捻れば、怒りを湛えたそっくりな顔がふたつ並んでいる。
ああ、と柊は思わず安堵の息を吐く。
「人の顔見て溜息とは、結構なご身分だよね」
真璃は苛立ちを隠しもしない声で、そう云った。
溜息をついたわけではなかったが、反論しようにもうまく声が出せない。けほけほと咳き込むと、莫迦だな、シュウは、と云いながらも由璃が身体を起こすのを手伝ってくれた。
「頸部を強く圧迫されたんだ。しばらくは喉が痛む」
由璃の手つきはやさしいが、目つきには険がある。柊は思わず俯いて、ふたりの眼差しから逃れようとした。
「無事だったからよかったようなもんだけどさあ、おれたちに黙って瀬尾に会いに行くなんて、ちょっと信じらんないよね」
なんでそういうことになっちゃうわけ、と真璃はあくまでも腹立たしいらしい。
「部屋に飛び込むのがあとちょっとでも遅れてたら、シュウ、自分がどうなってたか、わかってんの。喉が痛いとか暢気なこと、云ってられないんだからね」
マジで、と云いながら真璃は柊の顎から頬にかけてを片手で掴み、ぐいと顔を上げさせた。
「間に合わなかったら、とか、手遅れだったら、とか、悪いことばっかり考えさせられるほうの身にもなってよ」
そういえば、なぜ、ふたりはわたしたちの居所がわかったのだろうか、と柊はふと思った。盗聴器を仕掛けていたとか、GPSで追跡していたとかいった物騒なタネでないといいのだが。
途切れ途切れにその疑問を口にすると、そんなことどうでもよくない、いいよね、どうでも、とますます苛立つ真璃とは対照的に、義姉さんのおかげだ、と由璃が静かに答えてくれた。
「繭さん、の?」
「朝、シュウがいなくなったことに気づいておろおろしてるおれたちを見たホテルの人間が、家に連絡したんだ」
「兄さんはほっとけって云ったらしいけど、義姉さんが来てくれたんだよ」
「シュウがいなくなったって云ったら、兄と結婚する前に働いていた事務所の先輩に連絡をしてくれて」
「先輩、って?」
あの人、兄さんと結婚する前は探偵だったんだよ、と真璃がぶすっとした口調で付け加える。ついでに柊の顔も解放してくれたが、えらく興味を引かれる単語のせいか俯く気にはならなかった。
「探偵?」
一般的な暮らしのなかではめったに聞かない職業である。
「興信所とか調査会社とかいろいろ云うが、まあ、そういう仕事だ。依頼を請けてあれこれ探る、いわゆる探偵」
その事務所の先輩がね、なんかすごい人らしくて、と真璃がそこばかりは心底感心したらしい口調で云った。
「実際すごかったよ」
「なにが?」
「シュウと瀬尾の居場所を特定したのはその人だ」
「電話で話しただけなのにね、ふたりは帝大の研究室にいるって。間違いないって、すぐに断言した」
おれたちが知ってるシュウと瀬尾のこと、なにもかも全部洗いざらい話せって、で、話して、それだけなのにね、とふたりはそっくりの顔を見合わせる。
「義姉さんは、あの人にかかればそんなことなんでもないんだって、当然だーなんて云ってぜんぜん驚かないんだけど、あれはちょっと普通じゃない」
「どんなこと、話したの?」
「だから、おれたちが知ってること、全部」
柊は思わず眉根を寄せる。
「もちろん、瀬尾のしたことも話した。シュウのしてきたことも」
そう、と柊は小さく溜息をついた。
隠し通すことはできないとしても、瀬尾の罪を知る人がひとりでも少ないほうがいいと思ってしまうのは、わたしが卑怯だからかもしれない、と柊は項垂れる。彼の犯した罪とその咎を負うべきは彼ひとりではない。自分もまた同じだとよくわかっているからだ。
「あの窓から侵入しろって云ったのもその人だよ」
「扉は施錠されているに違いない。物音を立てれば警戒されて、シュウの身に危険が及ぶから、不意打ちで窓を割って部屋に入って、すぐに取り押さえろって」
「武器があったほうがいいって云ったのは義姉さんだけどね」
あの長い棒っきれのことか、と柊が尋ねると、双子はそろって肩を竦めた。
「あれは刺又だ。警備室から借りてきた。あの人は前にもああいう修羅場に踏み込んだことがあるらしくて、いろいろと妙なことに詳しかった」
「ちょっと遅かったみたいだけど、一応は間に合ったよね」
たしかにあの荒業にはびっくりさせられた。瀬尾もきっと驚いたことだろう。一時、繭ひとりでも彼を足止めすることができたのは、たぶんそのせいだ。
「なんにせよ」
双子はそこで同時に溜息をついた。
「無事でよかったよ、本当に」
「……先輩は?」
柊はもうひとつ気になっていたことを尋ねる。双子は露骨に厭な顔をした。
「おれたちに心配かけたことよりも、瀬尾のことが気になるわけね」
「警察に引き渡した」
双子と繭は、帝大に到着するなり、警察に一報を入れたのだという。通報したのち、警備室から脚立を借り、法医学教室への侵入を試みた。
「そう」
布団の下で柊は拳を握った。
――薔子を殺めた者に断罪を。
望んでいた結末に辿り着いたはずなのに。こんなはずではなかったと、そう思えてしまうのはなぜなのだろう。
「訊きたいことはそれで全部か」
柊ははっとして由璃を見つめた。
「ちなみにここは病院だ。頸部を強く圧迫されていたからな、念のため診察を受けろと警察に云われた」
帝大附属病院だという。近かったし、コネも利くし、と真璃は云った。
「特に異常はないって。意識が戻ったら帰っていいって、お墨付き」
うん、と柊は頷いた。
「だからさ、おれたちも遠慮はしなくていいよね」
「遠慮って……?」
柊が問うなり、真璃が飛びかかってきた。布団のなかで伸ばされていた太腿の上に馬乗りになり、両手でシャツの襟をひっ掴み、間近から顔を覗き込んでくる。これを飛びかかると云わずになんと云おう。
「なんで黙っていなくなったの。やっとおれたちのものになってくれたと思ったのに。そんなふうに油断したのがいけなかったのかなって、こんなことならしっかり繋いでおけばよかったかなって」
おそろしい言葉を投げつけられ、手酷く揺さぶられ、柊は思わず助けを求めて由璃を見る。
「ホテルなんか使わずに、最初から家に閉じ込めればよかった」
壊れていたのは由璃も同じだった。柊は決死の思いで真璃を見上げ、云い訳を口にする。
「荻野さんがくれた猶予は今日までだったから……。その、ふたりともよく寝てたし、先輩の居場所はそのときにはわからなかったし、あの、少しでも早く探さなくちゃって……」
「おれたちが一緒でもよかっただろ」
そうではない、そんなつもりはなかった、と見え透いたことを云っても一蹴されるだけだろう。開き直った柊は、ひとりで向き合いたかったの、と本音を漏らした。
「さんざん手伝ってもらっておいて、いまさらなんだって思うかもしれないけど、でも、先輩と向き合うときはひとりじゃなきゃって思った。これはわたしの問題だから。あんたたちの力は借りたくなかった」
薔子への思いも、瀬尾への思いも、それは、柊ひとりのものだ。彼らとともに過ごした幸せも、彼らを失う不幸せも、だからひとりで受け止めるべきだと思ったのだ。
「それでも、おれたちを連れていくことはできたよね」
「ひとりで話したいならそうすればいい。近くに待機させておくことはできただろう」
待機って、と柊は思わず苦笑いしたが、双子はにこりともしない。
「瀬尾が自分に危害を加える可能性はまったく考えなかったのか」
「自分だけは安全だって?」
皮肉っぽく云う由璃に、柊は、そういうわけじゃないけど、と答えた。
由璃と真璃は、瀬尾が薔子を殺めた動機を知らないはずだ。このまま知らせないままでおくことはできないだろうか。
「そんなわけないだろう」
「瀬尾は、シュウのことを恨んでたんだろ」
柊は目を見開いた。そのままふたりの顔を交互に見遣れば、心底呆れた、といった風情で溜息をついた真璃が、襟元を掴んでいた指先を緩めてくれた。
「あのね、シュウ」
シュウに目と耳がついてるように、おれたちもいろんなものが見えるし聞こえるの。シュウに口と足があるように、おれたちも喋れるし走れる。
「おれたちも、いろんなことを考えるんだよ。シュウと同じようにね」
「瀬尾と拓植はうまくいってなかったんだろ。その原因はおまえだろう、シュウ」
「な、んで……」
知ってるから、と由璃は短く答えた。
「ふたりが揉めてるところも見たし、いろんな噂も聞いた」
「噂って……、薔子の?」
「売春してるっていう話もだけど、それだけじゃない。拓植が好きだったやつの話も。シュウのことだ」
柊は瞬きすら忘れて由璃を見つめる。
「わたしの?」
「秋山さんも知ってたはずだよ。最初に会いに行ったとき、気づかなかったの。あの人、あからさまにシュウに興味持ってたでしょ。知ってたんだよ、拓植の噂」
真璃に視線を移したときには、完全に呆けていた。
――なんだって。薔子が、わたしをって、そんなまさか、噂になるほどに。
「シュウは本当になにも知らなかったんだ。自分で思ってる以上にね」
身体じゅうから力が抜けた。枕の上に体重を預けると、そのままずぶずぶと沈んでいくような気がした。
どこから。――明るく澄んで、ただそればかりだった楽園から。
どこへ。――暗く濁って、しかし、だからこそ遠く瞬く光を眩く感じることのできる場所へ。
瀬尾から薔子の気持ちを聞かされたとき、なぜ最後までなにも云ってくれなかったのか、とそればかりを思った。痛みを抱えていたのは薔子であって、自分は彼女を責める言葉など持たないとわかっていても、それでも思ってしまった。
なぜ、と。
どうして、と。
たったひと言でいい、想いを告げていてくれたなら、薔子の望む答えでなくとも、なにかを返すことはできたはずだ。
ふたりのあいだにあった過去を、あるかもしれなかった未来をすべて壊してしまったとしても、この世から薔子が失われてしまうことにはならなかったはずだ。瀬尾がすべてを失うことにもならなかったはずだ。
いまより悪い結果には、ならなかったはずだ。
そう思った。
けれど、違ったのだ。そうではなかったのだ。
なにも知らなかったのは、柊だけだった。
薔子の気持ち。瀬尾の葛藤。
由璃と真璃ばかりではない。秋山も知っていた。きっと、松島も束原も仁科も、ほかの人たちも。
わたしはこれまでなにを見てきたのだろう、と柊は思う。なにを聞いてきたのだろう。なにに触れ、なにを考えてきたのだろう。
きっと、――なにも、してこなかった。
見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞き、触れたいものだけに触れてきた。
そうして、知ったふりをして、考えたふりをして。
ただ、それだけだった。
ちゃんと薔子の顔を見ていれば。
ちゃんと薔子の言葉を聞いていれば。
ちゃんと薔子の心に触れていれば。
きっと、あの子は死ななかった。
瀬尾の言葉は正しかった。
わたしが、薔子を殺したのだ。無関心と、無知によって。
膝を抱え込み、身体を丸めて、ベッドのうえに蹲った。
涙は出ない。悲鳴も出ない。
首許で揺れる薔薇の花をしっかりと掴んだ。――薔子。
掌に突き刺さる輝石が、やがてぬくもりを帯びる。――ごめんね、薔子。
「……シュウ」
慰めるような響きを帯びる双子の声は、いまの柊には届かなかった。
彼女が見つめているのは過去だけだ。
無邪気に笑う、出会ったばかりのころの薔子。
ふたりでひそやかに揃えた髪留めや文房具が、秘密を共有しているみたいで嬉しかった。
憂いを知った思春期の薔子。
傍にいたいと望み、離れることをおそれたのは、柊だけではなかった。
秘めた想いに苦しむ薔子。
胸の奥に吹き荒れる嵐に傷つき、内なる闇を深めていきながら、柊の幸いだけを願っていた。
すべてを諦め、安息を求めた薔子。
瀬尾の手で首を絞められながら、あるいは彼女は、自らの死こそが抱き続けた想いの終着点であると知っていたのかもしれない。
大切な友だち。大切な大切な、薔子。
なにも知らなかった。
あの子の憂いも苦しみも、痛みも諦めも、なにも知らなかった。
知りたいと思った。知らなかったものを、憂いを、苦しみを、痛みを知りたいと思った。
けれど、柊にはなにもなかった。
憂いも。苦しみも。痛みも。
心にも身体にも、どこにも、――なにもない。
涙もない。
笑顔もない。
からっぽだ。本当の本当に、からっぽだった。
虚しさのなか、柊は、自分のどこかに棘が刺さったことに気がついた。
心のどこか奥深く、目にすることも手で触れることもできない場所を痛める、ごくごくちいさな棘。ほそく、やわらかく、けれど決して抜くことのできないそれは、薔子の想いの最後の欠片だった。
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