37

「あの日、薔子は実習から戻ったばかりだった」


 公衆衛生学教室の学生は、地方や海外で行われる実習に参加することも珍しくない。

 そのころの薔子は、島嶼部における公衆衛生を研究していて、始終どこかの島へと出かけていた。柊が東京へ戻ってくることがあっても、薔子が離島で実習に入っていて会えないということがあったから、よく憶えている。


「ほとんど二か月ぶりで、俺たちは会うことになった」


 実習明けだしいいわよね、とかなんとか云ってまだ明るいうちからビールなんか飲んで、薔子は妙に機嫌がよかった。チェーンの焼肉屋でほどよく燻されつつほろ酔いとなり、ふたりは他愛のないことを云い合いながら街を歩いた。


「俺も気分がよかった。学会の留守番だったから飲めなかったけど、楽しそうにしてる薔子を見ているのは幸せだった」


 だから俺はうっかり調子に乗ったんだ、と瀬尾は云った。自分を責めるような口調だった。


「ちゃんとした恋人に戻らないか、と俺は云った。今日はすごく楽しかった。だからまた恋人に戻らないかって」


 それって、あたしと寝たいってこと、と薔子は云った。ものすごく冷たい、蔑むみたいな目つきで瀬尾を見て、鼻を鳴らした。結局それなのね、男って。


「そうじゃない、それだけじゃない、って俺は云った」


 でも、あたしとやりたいんでしょ。

 そうじゃない、いや、そうだけど、でも。

 じゃあ、そういうことじゃない。


「平行線なんてもんじゃなかった。言葉の通じない宇宙人と話してるみたいだった。薔子は俺の言葉なんかぜんぜん聞いちゃいなくて、俺にも薔子がなにを云ってるのかぜんぜんわからなくて……」


 どうしたらいいかわからなくなってしまった瀬尾に、薔子は云った。


「わかった。ふたりで会うのはこれで最後にしましょ。だからやらせてあげる、って」


 俺は頭が真っ白になった、と瀬尾は両手で頭を抱え込む。


「そんなつもりはなかった、やるとかやらないとかどうでもいい、だから会わないなんて云うなとか、そんなことを云いながら、気づいたらホテルまで連れてこられていた。あのホテルの前まで」


 すでに陽の落ちたホテル街、若い男女が痴話喧嘩とも呼べないような云い合いをしながらラブホテルの前で睨みあっている。さぞ多くの好奇の目を集めたことだろう。下世話な野次も飛んだかもしれない。耐え切れなくなったのは、おそらく瀬尾だ。


「ほとんどやけくそみたいな気分でホテルに入った」


 瀬尾はひどく混乱していた。薔子を大事に思う気持ちはたしかにあるのに、必死になってそれを伝えようとすればするほど、想い人の態度は頑なになっていく。

 ひどく傷ついた。けれど同時に、――なぜか――彼女をひどく傷つけているような気持ちになった。

 好きだとか愛してるとか云ったって、結局やりたいだけでしょ。突っ込んで出したら満足なんでしょ。だからそうさせてあげるって云ってんの。なんでわかんないのかな。

 違うんだと、おまえは俺の気持ちをわかっていないと云えば云うほど、薔子は誤解を深めていくようだった。

 もうわかったから。そろそろうざい。黙って出すもん出してとっとと出てって。


「部屋を手配したのは薔子だ。とっとと出てってと云ったときのあいつは、もうほとんど裸みたいな恰好で、部屋の灯りとか風呂の温度とか適当に調整してた。慣れてるなって思った」


 思えばそのときだったんだろう、と瀬尾は云う。


「殺してやるって、はっきり思ったのは」


 身体の奥に生まれたひどく熱い塊がどんどん膨らみ、目や耳の奥を塞いでいく。なにも見えない。なにも聞こえない。


 ――なにも見たくない。なにも聞きたくない。


 柊は、けれど、瞬きひとつせずに瀬尾を見つめている。なにひとつ聞き逃すまいと、きつく歯を食いしばっている。


「このあと約束があるって云われた。あんまり時間ないけど、あなた早いからいいわよねって」


 さっきから瀬尾は、わざとのようにひどい言葉を使う。薔子が云ったそのままだとしても、繰り返すたびに心が削られていくのだろうに、この期に及んでなお、薔子を貶めたいのか。あるいは彼なりの罪の意識なのだろうか。


「俺はもうなにも感じなかった。あったのは明確な殺意と、計算だけだった」


 どう殺せば疑われないか。捕まらずにいられるか。

 絶対に失敗できない新しい手技を試すときのように、慎重に、しかし大胆に、瀬尾はことを進めた。まったくの無計画、衝動的な殺意を抱いたにしては、冷静すぎるほどに冷静だった。

 本当はずっとこうしてしまいたかったのだと、そんなふうに思いさえした。

 薔子がシャワーを浴びている隙に、瀬尾はグラスに水を用意し、そのなかに睡眠薬を入れておいた。薔子はなんの疑いもなくそれを口にし、瀬尾が風呂場から出てくるころにはぐっすりと眠りこんでいた。アルコールと疲れのせいもあったかもしれない。


「眠ってるあいつの鞄を漁って、見つけた携帯からアドレスを引っ張って、あいつのふりをして男に連絡を入れた。約束はキャンセル、ホテルには来るなって。ちょうど同じころ、俺は仁科さんから電話を受けて、云われた作業に取りかかった」


 仁科が間違ったデータを持って行ったのは、作為ではなかったと瀬尾は云った。

 彼はまったく衝動的に薔子を殺め、偶然を利用してアリバイを作った。警察がそこに作為を見つけ出すことができなかったのは、当然のことだったのだ。

 目を醒ますことなく眠り込む薔子を置いて、瀬尾はいったん部屋を出る。監視カメラを意識して行動し、ふたたび部屋に入った。


「作業を続け、時間ぎりぎりになるのを待った」


 ラブホテルのいわゆる休憩時間、二時間が過ぎるまで、ということだ。


「それから、薔子の首を絞めた」


 喉の奥がぐっと狭くなり、息が苦しくなる。肩を大きく上下させ、喘ぐような呼吸を繰り返しながら、柊は瀬尾を睨み据える。


「ホテルを出て、研究室に戻った。いずれ検案の要請が来るのはわかってたからな」


 瀬尾がゆっくりと柊に視線を戻す。


「そのあとのことは、おまえも知ってるよな」

「なんで、自分の手で薔子を解剖しようと……」


 自分の声がひどく遠く聞こえた。


 ――違う。わたしが本当に訊きたいのはこんなことじゃない。


「血液検査で睡眠薬が検出されると面倒だからだ。あいつに飲ませたのは病院内で使う薬で、あまり処方されるような薬じゃない。成分が明らかになれば、俺が殺したことに気づくやつが出てくるかもしれないと思った。検査には、冷凍保管されてる適当なサンプルを出して誤魔化した」

「部屋に、証拠を残したのは」

「ラブホに入ってなんにもしませんでした、じゃ話がおかしいだろう。少なくとも警察はそう考える。実際には存在しないふたりめの男に信憑性を持たせるには、小細工が必要だった」


 俺は自分が少し変わった体質だって知ってたしな、と瀬尾は云う。


「俺が犯人だと気づくやつはいないと思ってた」


 自分でも気づいていなかった熾火のような怒りが、不意に激しく火柱を上げる。柊は堪えることもなく、それを瀬尾へとぶつけた。


「なんで……なんで、そんなことができたんですか……」

「おまえ以外には」


 瀬尾は柊の言葉などまるで聞こえていないかのように、自分の云いたいことだけを口にする。


「気づくなら、おまえしかいないと思ってた。だから俺はおまえを見張ってた。おまえが勝手なことをしないよう、俺の傍を離れないよう、ずっと見張ってた」

「だから、なんで……」


 瀬尾はようやく口を噤み、柊をじっと見つめた。


「なんで薔子を殺したの? 好きだったんですよね」

「好きだったから」

「好きだったからって、なんで……」

「あいつは俺を踏み躙った。これ以上ないほど徹底的に」


 あいつがなんで俺とは寝ないで、ほかの男とは寝たのか、その理由がわかるか、と瀬尾は尋ねた。柊には答えようもない。


「俺を傷つけるためだ。自分を傷つけた俺に復讐するためだ」

「先輩が……薔子を、傷つける?」


 逆じゃないか、と柊は思う。薔子に傷つけられたと思ったからこそ、瀬尾は彼女を殺めたのだろう。


「俺はあいつを諦めなかった。いや違う。諦められなかった。もういらないと云われてふられたあとも、諦められなかった。だからだ」


 意味がわからない、と柊は首を横に振る。


「先輩が薔子を諦めなかったから、それが薔子を傷つけることになるの? なんでですか? どうして?」

「あいつ自身が諦めたくても諦められない想いをずっと抱えていたからだ」

「だからそれが、どうして……」

「あいつは諦めたかったんだ。叶うはずのない想いを抱えていることに傷ついて、疲れ果てて、もうほとほと厭になっていた。それでも諦められなくてボロボロだった。俺は違った。想い続けることが幸せだった。つらくなかったわけじゃないけど、たまにはいい日もある。それで十分だった」


 薔子と瀬尾は、ある意味では同志でもあった。ふたりとも叶わない恋をし、その想いを諦めることができなかった。つらく、苦しく、けれどどこか麻薬のような幸いをもたらすその想いを捨て去ることができなかった。

 薔子は瀬尾の想いに応えることはできなかったが、諦められないという彼の心を理解することはできた。瀬尾もまた、想いに応えてもらえない苦しみはあったけれど、想う相手をたやすく変えられない薔子の心を理解することはできた。


 想いはすれ違っていても、ふたりには通いあうものもあったのだ。


「でもやっぱり、俺たちがわかりあうことはなかった」


 つらいとき、苦しいときに傍にいて温めあうことは、恋の成就とは違うけれど、ほんのわずか心を慰めてくれる。

 そのことを幸いに感じる瀬尾と、つらく感じる薔子。彼我の差は絶対だ。


「でも、だからってなんで……」


 柊は声を震わせた。本当は大声で叫びたいのを我慢して、けれど抑えきれない感情が渦を巻いている。


「だからってなんで殺したりなんかしたの? なにも殺すことはなかったじゃない」


 返してよ、と柊は云った。


「薔子を返してよ」


 わたしに友だちを返してよ、このひと殺し――!


 抑えていたつもりの声は、思いのほか大きく響いた。

 自分で上げた大声に自分で驚く柊とは対照的に、眼差しひとつ揺らぐことのない瀬尾。彼が抱えているものが平静さなどではないと気づいたのは、直後のことだった。


「おまえがそれを云うな」


 瀬尾はいきなり立ち上がった。柊が思わず身を竦ませるほどの勢いだった。


「おまえが、それを、云うなッ!!」


 目の奥にぎらぎらと燃えるものがある。悲しみではない。怒りとも違う。それは、――憎しみだった。

 瀬尾は柊を憎んでいる。


「薔子が俺を傷つけたかったのは、あいつ自身がもうどうしようもないほどにボロボロだったからだ。好きだと感じるたび、でも諦めなきゃと思って、そうできない自分を責めて」


 ――あなたがすき。とてもすき。


「相手を悪く思うにも限界がある。なんたって惚れた相手なんだから」


 ――もういや。きらいになりたい。


「遠く離れられれば変わるものもあったのかもしれない。でも、それはそれで苦しくてたまらない」


 ――でもすき。すき。だいすき。


「それは、誰なんですか」


 薔子がそんなにも、自分を失くすほどに恋い慕った相手。


「誰なんですか、先輩」


 瀬尾の目の奥に燃える憎しみの炎が、よりいっそう激しさを増した。わからないのか、と彼は聴き取ることすら難しいほど低い声で云った。


「本当に、わからないのか、おまえ」


 一語一語区切るように云いながら、瀬尾は一歩一歩柊に近づいてくる。柊の足は根でも生えたかのように、その場から動かない。


「本当に、わからないのか」


 瀬尾はもうすぐ傍にいた。吸い込まれるように暗い瞳を覗き込めば、燃え続ける憎しみがちろちろと不気味な舌を蠢かせている。


 柊は黙ったまま唇の端を震わせた。


「おまえだよ、小鳥遊。薔子がずっと好きだったのは、おまえ。自分を削って、削って、極限まで削って、それでも諦められなかったのは、おまえだよ」


 瀬尾の声はやさしかった。


「こどものころからずっと好きだったと云っていた。離れていかないように縛りつけて、自分以外に友だちができないように囲い込んで、そのくせ早く離れていけばいいのにって思いながら、ずっとずっと好きだったって」


 シュウってね、ほんとにお莫迦さんなの。好きな子ができるとすぐにわかるのよ。隠すってことを知らないの。可愛いわよね。

 だからあたしはその子に気があるふりをするの。男の子はみんな莫迦だし、あたしはこういう見た目から、その子はすぐにあたしのことを好きになる。そうするとね、シュウはね、ちょっとだけ傷ついた顔をするのよ。自分では自分の気持ちに気がついてないから、なんで自分が傷ついたのかわかってないのにちゃんと落ち込むの。可愛いよね。

 で、あたしが慰めてあげるとね、複雑そうな顔をしながらも嬉しそうにするんだよ。ほんと可愛い。食べちゃいたいくらい可愛い。


「あいつが俺と付き合うようになったのも、おまえがいたからだ。おまえが俺を好きだったから、あいつは俺と付き合った。俺がふられたのは、おまえがゼミやら就職活動やらに気を取られて、俺に興味を失くしたからだ。おまえが傍にいなくなれば、俺を自分に惹きつけておく意味がなくなるからな」


 ああ、もういいのよ。その手帳、見ちゃったんならわかるでしょ。あたし、あなたのこと好きじゃないの。最初っから好きじゃないって、それでもいいってそういう話だったけど、もういい加減ウザいわ。

 もう、シュウもいないのに彼氏ヅラされるとか、ほんと勘弁してほしい。あたしのこと理解してるのは俺だけだ、みたいな顔されると虫唾が走るの。あなたとあたしは違うのよ。わかるでしょ。わかんないの。もうほんとウザい。


「あいつは、おまえ以上におまえのことを知ってたよ。自分が女であるおまえも愛せるバイセクシャルであることを自覚していたように、おまえはそうではないってこともちゃんと知ってた。だから、苦しんでた」


 あたしが心だけで満足できる聖人君子だったら、ちょっとは違ったのかな。一緒にごはん食べて、お酒飲んで、旅行とか行っちゃって。唯一の親友、それだけで我慢できるんだったら違ったのかな。

 あの子にいつか本当の本当に好きな人ができて、その人もあの子のことちゃんと好きになって、ふたりで幸せになるのを見守って。苦しいけど、でも、あの子は彼氏ができたからって友だちを蔑ろにするような子じゃないから、きっとあたしのことを忘れちゃったりしない。彼氏ができても、あたしとも遊んでくれる。でも、セックスはしない。キスもしない。そういうのは彼氏とだけ。


 思わず踵を引いたのは、ほんのはずみだった。

 けれど、わずかであっても身動ぎをしてしまえば、自分がどうしたいのかに気づかずにはいられない。


 ――逃げたい。


 柊は迷わなかった。自分を憎む、目の前の男から逃げたいと、震える足を叱咤する。


「逃げるのか」


 強い力で両の二の腕を拘束された。引きずり寄せられ、間近から顔を覗き込まれる。咄嗟に目を瞑り、顔を背けた。


「おまえはいつもそうなんだってな」


 軽蔑していることを隠しもしない声だった。


 勉強からも恋愛からも人間関係からも、シュウはすぐに逃げちゃうの。頭も悪くないし、そこそこ可愛いし、気遣いだってちゃんとできる子なのに、根性がないの。しんどいことが嫌いなの。自分に云い訳ばっかりして、すぐに投げ出しちゃう。


「ま、だからあたしが傍にいる隙があるんだけどね、って」


 涙を堪えることはできなかった。冷たい雫が眦から溢れ、頬を伝い、顎から滴り、胸元を濡らしていく。


 なんにも知らなかった。

 十年以上も一番近くにいて、なんにも知らなかった。

 亡くなってからも薔子のことを考えない日はなかったのに、なんにも知らなかった。


「泣くな」


 瀬尾は冷たい声で云った。


「おまえに泣く資格があると思うのか」

「先輩に……云われたく、ないです」

「俺は泣いてない。薔子を殺した日から一度も。あいつを殺した俺がそうしてはいけないと、わかってるからな」


 おまえも俺と同罪だ、と瀬尾は云った。


「なんで、そんな……」


 わたしと先輩は違う、と柊は思う。わたしは薔子を殺してなんかいない。


「俺はあいつを殺した。あいつの身体を。でもおまえは、あいつの心を殺した。何年も何年もかけて、じわじわと」


 違う、と柊は首を振りたくる。


「そんなこと……」

「してただろ。あいつの気持ちを無視して、踏み躙って、そのくせ離れていくこともしないで。あいつがどれだけ苦しんだと思う?」

「でも、そんなの……」

「知らなかったから仕方ないとでも云うつもりか。知らなかったら傷つけてもいいのか。え、小鳥遊。知らなかったからって、全部許されるのかよ、え?」


 瀬尾にガクガクと揺さぶられ、知らない、知らない、と柊は悲鳴のような声を上げた。


「なんで、なんにも云ってくれなかったの!」


 そんなにも長く、そんなにも強く、好きでいてくれたというのなら、なぜ、なにも告げてくれなかったのだ。こんなふうに全部が終わってしまったあとで、その命さえ失われてしまったあとで、その想いを知ったとて、なにを返すこともできない。


「云ったところで、なにがどうなるわけでもなかっただろ」


 嘲笑うような瀬尾の声に、柊は伏せていた顔を上げた。


「……そんなことわからない」

「わかるさ」

「わからない」

「わかるんだよ」


 深い声はまるで諭すように響いた。


「性嗜好は持って生まれた資質だ。容姿や骨格や体質を根本的に変えることができないのと同じで、ホモセクシャルであることもヘテロセクシャルであることも、自分の意志で変えることはできない。どちらがいい悪いということもない」


 いくら便利だからといったって、口をふたつにしたり、手を四本にしたりはできないだろう、と瀬尾は淡々と云う。


「同じことだ。薔子ははじめ、自分のことを女しか愛せないホモセクシャルだと思っていたらしい。レズビアンだと。でも、俺やほかの男とセックスできたわけだから、実際にはバイセクシャルだということになるんだと思う。本人もそう云ってた」


 それは、変えることのできない薔子の本質だった。そして、それはおまえも同じだ、と瀬尾は云う。


「おまえはヘテロセクシャルだ。女として異性である男だけを愛する資質の持ち主なんだ。薔子のことをどれほど好ましく思っていたとしても、恋愛的な意味で心を交わしたり、身体を重ねたりすることはできない。それは、おまえの根本を歪めることだからだ」


 薔子はそのことをよく理解していた。


「あいつは云った。何度も思ったって。自分の本当の気持ちをシュウに云おうって。うまくいかない、だめならだめで、もう仕方ないって、諦められるかもしれないし。でも、シュウはやさしいから。本当に、本当にやさしいから。やさしくて、莫迦だから。それにあの子、あたしのこと好きだしね。友情と恋情の区別もできなくて、もし受け入れてくれちゃったりしたらどうなるって」


 それは柊の本質を捻じ曲げることになる。異性しか愛せないヘテロセクシャルである柊を、彼女の鈍感さにつけ込んで歪ませることになる。

 それでもいいかなって思うこともある。あきれちゃうくらい鈍いけど、それがシュウなんだし。歪んでも、捻じ曲がっても、あたしなら、一生勘違いさせたまま、あの子を幸せにしてあげられる自信あるし。


「そんなことをすれば、つらいのは薔子のほうだろうと俺は思った。おまえはいいよ、小鳥遊。騙されてたとしても、そのことに気づかなきゃ幸せだ。あいつはそれくらいのこと、きっとやってのける」


 そのとおりかもしれない、と柊は思った。薔子に騙されていたとしてもわたしは気づかなかっただろうし、薔子は最後までわたしを騙し切っただろう。


「だから、あいつにそう云ったんだ」


 それでおまえは幸せなのかって。


「薔子はしばらく考え込んで、幸せかも、と云った。好きな人を騙して、歪めて、それでも幸せかも、あたし、って」


 けど、それはやっちゃいけないことだと思うのよね。いろいろ足掻いて、さんざんじたばたして、それでもあたしは自分を変えられなかった。なのに、シュウのそれをどうこうするのは違うと思う。それが、人のなかにある核みたいなものだとすれば、そんなことをするのは、シュウを殺しちゃうのと同じだから。


「自分を変えられないからってシュウを変えちゃうのは、それは、なにか間違ってるような気がして仕方がない」


 薔子はおまえを守ろうとしたんだ、と瀬尾は云った。


「おまえのことだけを、守ろうとした」


 重たいくせに虚ろな声が、まるで涙のようにぱたりと落ちた。

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