36

 柊は驚きのあまり、思わず足を止めてしまった。瀬尾もまた立ち止まり、しかし、振り返ることなく続ける。


「ショックだった。でも、諦められなかった。だから云った。俺は一緒にいたい。おまえが厭だって云うなら、もうなにも求めない。だから、友だちとしてならいいかって」


 心臓が雑なリズムを奏で、ひどい息苦しさを感じた。柊はニットの胸元をきつく握りしめ、じゃあ、と云った。ひどく掠れ、震える、みっともない声だった。


「ふたりは……付き合ってたわけじゃ、なかったんですか」


 いいや、と瀬尾は答えてこちらを振り向く。ゆっくりと瞬きを繰り返す瞳には、なんの色も浮かんでいない。


「付き合ってた。そのあと、何度か頼み込んで、合意することにしたんだ」

「合意?」

「互いの事情を尊重することで、合意した」


 尊重、と柊は鸚鵡のように瀬尾の言葉を繰り返す。


「薔子は、俺が薔子を好きだ、という気持ちを。俺は、薔子に想う相手がいるという事実を、な」


 身体の奥のどこか深いところが厭な具合に疼くのを感じ、柊は身を震わせる。そして、その刹那思い出していた。

 遺された薄紫色の手帳。綴られていた言葉。――あなたがすき。とてもすき。


「薔子には想う相手がいた」


 瀬尾はふたたび歩きはじめる。震える膝を叱咤しつつ、柊はそのあとに従った。


「長い長い、とても長い片想いなんだと云っていた。告げるわけにはいかない想いだ、とも。けれど、諦めることはできないんだ、とも」


 ぜんぜん知らなかった、と柊は思う。薔子にそんなに深く想う相手がいたことを、わたしはぜんぜん知らなかった。


「それって……」


 薔子の想い人とはいったい誰なのかを問おうとしながら隣に並んだ柊に、ちらりと眼差しを流した瀬尾は、けれどその問いには答えることなく先を続けた。



 瀬尾と薔子は付き合いを続けた。

 片恋の相手、自分を好きなわけでもない相手と付き合うのは楽ではなかったが、それでも瀬尾は薔子の近くにいたかった。近くにいさえすれば、いつかは彼女が自分を顧みてくれるかもしれないと、そんな打算もあった。


 薔子の気持ちを知ったうえで彼女のことを見ていると、やがていくつかのことに気がついた。

 薔子は好きでもない男を手玉に取ることに慣れていた。きっとこうしたことをするのが、はじめてではないのだろうと思えた。

 そうやって何人と付き合ってきたのかはわからないが、決して男慣れしているわけではないらしいこともわかってきた。キスもしたことがない、というのはどうやら嘘ではないらしかった。

 ふたりの関係がプラトニックなものでなくなったのは、あらためて付き合いはじめて一年ぐらい、その前も含めて数えれば三年近く経ってからのことだ。無理強いをするのは瀬尾の好みではなかったし、互いに多忙だったせいもある。そういう雰囲気にはなかなかならなかった。

 はじめてのとき、瀬尾は薔子に何度も尋ねた。本当にいいのか、俺でいいのか。

 偽りの恋人とは云え、ほかの誰よりも長く一緒にいるのだ。薔子の心に変化があった――瀬尾に惹かれるようになった――わけではないことは、よくわかっていた。都合のいい夢想に耽るには、瀬尾はいささか現実的すぎたのだ。


 薔子はいいと云った。大丈夫だと。


 瀬尾はその言葉を、自分の都合のいいように解釈した。薔子はついに片恋を諦めたんだと、長年の想いを諦めて、俺の気持ちを受け入れてくれたんだと、そう理解した。



「それからしばらくは順調だった。びっくりするくらい穏やかに時間が過ぎていった。俺は実習を終えて、院に進んで、研究の目標も見えてきた。薔子は五年になっていて、そのまま医者になるのか研究者になるのか、悩みはじめていた」


 迷う薔子の相談に乗る機会も増えたし、恋人らしい時間を過ごすことも増えた。


「けど、その頃から厭な噂が耳に入ってくるようになった」


 学生向けの掲示板の前に設えられているベンチを示し、瀬尾は座るかとジェスチャした。柊は頷き、彼の隣に腰を下ろす。人ひとりぶんほども空けられた隙間は、そのままふたりの距離を表していた。


「噂って、もしかして……」

「拓植薔子は誰とでも寝る、とんでもないビッチだって」

「……ひどい」


 いったい誰が、と柊は拳を握ったが、所詮は噂。誰が云ったということもなく、いつのまにかみなに囁かれるようになっていたのだろう。


「はじめは本気にしなかった。薔子は成績もよかったし、見た目もああだから、どこへいっても目立ってた。つまらないことで彼女に嫉妬した誰かが、厭がらせでそういうことを云い出したんだろうって、そう思った」


 けれど噂は収束しなかった。それどころか、よりひどい話も聞こえてくるようになった。


「誰とでも寝るだけじゃない、売春してるんだってな」

「売春?」

「出会い系で知り合った相手から金品を受け取るだけじゃない。講座のなかで実験当番を融通してもらったり、資料を優先的に回してもらったり。そういうことの見返りに寝た相手が、学内だけでも両手じゃ足りないって話だった」


 肉体関係に対価が伴うという意味でとらえれば、それもたしかに売春ではある。柊は顔を歪める。そんなわけない、と力なく首を横に振った。


「薔子がそんなこと、するわけがない」

「俺もそう思った。だから訊かなかった。ただの一度も、ひとことも」


 あのときまではな、と瀬尾は遠くを見るような目つきをした。


「あのとき?」

「薔子が持ってた手帳を見るまでは、な」

「手帳……」


 ああ、と瀬尾は頷く。おまえも知らなかったのか。


「綺麗な色をした薄い手帳だ。スケジュール帳とかそういうんじゃない。日記というか、メモ書きというか、そういうものだ」


 あの手帳のことだ、と柊は直感したが言葉にはしなかった。先輩もあれを見たんだ。あの言葉を見てしまったんだ。


「そこには誰かに対する恋心が綴られていた。時間が経って、色の褪せたインクで書かれた言葉もあれば、きのう書いたばかりだというように鮮やかな文字もあった。俺に向けられたものではないと、すぐにわかった」


 柊は瀬尾の横顔を凝視する。瀬尾は頑ななまでに柊のほうを向こうとしない。


「噂なんか気にしてないつもりだった。平気なつもりだった。でも、本当はぜんぜん大丈夫じゃなくて、俺はいつのまにか薔子を疑うようになってた。あいつの荷物を漁って、見たことのない手帳を探し出して、秘密を暴くような真似をして、それから……」


 その声はまるで悲鳴のように聞こえた。


「あいつを問い詰めた」


 これは誰だ。好きで好きでどうしようもなくて、嫌いにもなれなくて、傍も離れられなくて、でも、絶対に想いを告げることのできない相手。


 これは、――誰だ。


「薔子は真っ青になった。でも、表情はいつもと変わらないんだ。やさしく微笑んでるみたいな、俺が惚れた顔だ」


 それで俺は気がついた、と瀬尾はきつく目蓋を閉じた。


「薔子は俺のことなんか好きじゃなかった。一度たりとも。これっぽっちも、好きじゃなかった」


 心臓が止まってしまったかのように、身体のなかが静かだった。息苦しさもすっかり消えて、柊は自分と世界が乖離したような感覚に陥る。決して強くはない初冬の陽射しが鮮やかに眼を焼いて、ひどく眩しいのに瞬きひとつできない。

 息を詰めて、ただ瀬尾を見ていた。


「薔子がいつでも笑っていられたのは、俺のことなんかどうでもよかったからだ。周りのことなんかどうでもよかったからだ。事実、あいつは、好きなやつの前ではほとんど笑おうとしなかった。とても楽しいとき、本当にうれしいときにしか、な」


 あたりまえのことだと思うだろ、と瀬尾は唇を歪める。


「でも、そんなあたりまえのことさえ、あいつは俺には見せようとしなかったんだ」


 そのことに気がついて、俺は我慢ができなくなった。


「訊いてることに頑なに答えようとしない薔子を追い詰めるために、手帳を燃やす真似までして、俺はようやくあいつの想う相手を知った。あいつは俺の手から手帳を取り戻して、吐き捨てるみたいに云ったよ」


 汚い真似しやがって。これだから男は。


 ざっくりと傷ついた瀬尾の心が見えるようだった。柊は思わず俯き、瀬尾の矜持を思い遣る。


「もう全部わかったでしょう、別れてくれ、と薔子は云った。俺は厭だと云った。なんでだ、と訊かれて、好きだからだ、と答えた」


 莫迦じゃないの、と薔子は云った。恋人ごっこをいくら続けても、あたしの気持ちがあなたに傾くことは絶対ないのに。


「わからないだろう、と俺は云った。人の心は変わる。これまで変わらなかったからといって、明日も同じだとは限らない。半年後、二年後、同じだとは限らない。本気でそう思ってたから云ったことだったが、薔子は気に入らなかったらしい」


 話にならない、とあいつは云った、と瀬尾はゆるゆると目蓋を持ち上げる。


「このあたしに向かってよくそんなことが云えたわね、って。変えたくても変えられない気持ちをいいだけ拗らせてここまできたあたしに、よくそんなことが云えたわね、って」

「先輩……」


 震える声で自分を呼ぶ柊を、瀬尾はどこか憐れむような目で見つめた。


「それって誰なんですか」

「それ?」

「薔子の、好きな、相手です」


 瀬尾は口を噤んだ。薄く結ばれた唇からは、呼吸の音すら聞こえてはこない。


「先輩?」


 不意に立ち上がる瀬尾を咎めるように、柊は声を荒らげる。


「教えてください! 誰なんですか、それは」

「ここは冷える。続きは研究室で話そうか」


 柊の激昂に取り合うことなく、瀬尾は静かにそう云った。



 通い慣れた廊下も階段も、まるで見知らぬ場所であるかのように思えた。

 柊は知らず知らずのうちに緊張を高めながら瀬尾についていく。瀬尾の足取りは平静そのものと云ってよく、いまこの瞬間、重い罪を告白している者のようにはとても見えなかった。


 先輩を責めるべきはわたしであるはずなのに、と柊は思う。なぜだろう、先輩がわたしの罪を断じようとしているかのような気にさせられる。


 法医学教室の前で、瀬尾はにこりともせずに、どうぞ、と云って扉を開けた。ノブを掴む指先が震えるでもなく、柊を見つめる眼差しが揺らぐでもない。ただ静かで、平らかで、それだけにとてもおそろしかった。

 ふる、と無意識のうちに肩を揺らし、しかしそのことには気づかないまま、柊は研究室へと足を踏み入れた。いつもながらに雑然とした空間が、ほんのわずか、柊の心にゆとりをもたらす。


 瀬尾は柊について研究室に入り、扉を閉めたあと、それがあたりまえのことであるかのように錠を下ろした。カチリ、という小さな音にも敏感に反応した柊だったが、なぜ鍵をかけたのか、と問うことはできなかった。

 あたりまえだ、と柊は自分に云い聞かせる。他人が入ってこないようにするのはあたりまえのことだ。誰にでも聞かれていいような話じゃないんだから。大丈夫、なにがあるわけでもない。


「座るか」


 いつの間にか柊を追い越し、自席に腰を下ろしていた瀬尾が、そう声をかけた。


「いいえ」

「長い話になる」

「大丈夫です」


 不自然かとも思ったが、そう答えた。なにがあるわけではないと思っていても、これから聞くことになるであろうことを思えば、瀬尾の近くにいたいわけもない。座るとなれば彼の傍に寄らざるをえないのだし、それを避けようと思えば立っているしかない。


 瀬尾はとくに気分を悪くした様子もなく、そうか、と云った。


 この人はなぜ、こんなふうに冷静でいられるんだろう、と柊はそのときの彼の態度をこそ不愉快に思った。

 わたしが薔子の死の真相――それはつまり、瀬尾が彼女を殺めたという事実――に気づいたことに、瀬尾はもちろん気づいている。気づいているからこそ、すべてを話そうとしているのだろうし、わたしも彼の言葉を聞こうとしている。

 泣いて許しを乞えと云うつもりはない。声高に心の内を叫べと云うつもりもない。ただ、こんなふうに平静でいられると、おかしな勘違いをしそうになってしまう。

 人を殺めるに、理由もなにもない。なにがあろうと罪は罪で、許されるべきことではない。

 けれど、許されるべきではないけれど、それはそれとして殺した立場にも同情の余地がある、というのは、世の中には往々にしてあることだ。裁判の場にでさえ、情状酌量の余地という言葉があるのだから、人の心となればなおさらだ。


 人を殺めるのは許されないことだ。

 けれど――。


 柊とて、これまで記者として数多の事件に触れるなかで、罪を犯した者たちに同情したことがなかったわけではない。ひどい虐待を受け続けて、耐えかねて刃を握った者。老いた身で障害のある身内を介護し、しかし感謝の言葉ひとつかけられることなく罵られ、ついにその首を絞めてしまった者。


 罪は罪。殺人は殺人。しかし彼らは、本当に許されざる罪人なのか。


 柊にはそうは思えなかった。殺められた側にも悪はあったのではないかと思えた。


 でも、そのことと薔子のことは違う。

 薔子は柊の友人だ。とても大切な、何者とも代えがたい友人だ。

 彼女を殺めた者は、誰であれ許すことはできない。そこにどんな事情があろうとも、たとえ薔子に悪があろうとも、絶対に。

 それは理性ではなく感情で、だからこそ理屈や理由で変えることはできないし、変えるつもりもない。

 もしも犯人に辿り着くことができたなら、ありったけの憎しみと怒りと悲しみをぶつけてやろう。言葉で。あるいは拳で。

 瀬尾が薔子を手にかけたことがわかったいまこそ、ふたりのあいだにあった事実が明らかになろうとしているいまこそ、柊は瀬尾を怒りのままに罵ることができる。殴りつけることができる。


 ――はずだった。


 瀬尾が激昂すればそのぶんだけ、悲嘆に暮れるならそのぶんだけ、柊の怒りと悲しみは深くなる。あんたの心のその倍よりもなお、自分は心を痛め、憎しみを深めたのだと、そう罵ることができる。


 けれど、瀬尾は冷静だった。落ち着いた表情や、平らかな声からはなんの感情も読み取ることができない。

 だから、柊はついこう考えてしまった。――瀬尾には、薔子を殺す、正当な理由があったのではないだろうか。


「さっき訊いたよな。薔子の好きだったやつは誰なのかって。おまえ、本当に心当たりはないのか」


 机の上に左肘をつき、拳で頬を支えるようにしながら瀬尾が尋ねた。柊はすぐに首を横に振る。


「本当に、これっぽっちもか」


 ずっと一緒にいたくせに、と責めるように云われたって、わからないものはわからない。遺品である手帳を受け取ったときにも、そのあとにも、ことあるごとに考えてはみたが、思い当たる人物はひとりもいない。


「ずっと一緒にいたのは、先輩だって同じじゃないですか」


 ていうか、あれ、先輩のことじゃないんですか、と柊はなかば喧嘩を売るような気持ちで云い返した。


「あれは俺のことじゃない。おまえにだってそれくらいわかるだろう」


 柊は思わず黙り込む。薔子の想い人に心当たりはない。けれど、それが瀬尾でないことだけは、なぜかはっきりと理解できていた。


「じゃあ、誰なんですか」


 答えはなかった。沈黙に苛立ち、柊が次の言葉を口にしようとしたとき、瀬尾が云った。


「薔子が売春していたのは本当だ」


 重たい拳で思いきり殴られたような心地がした。思わずふらついた柊は、近くにあった机に手をついて身体を支える。


「な、なにを……」


 なにを云うんですか、先輩は、と、しかしその言葉はすべてを発することはできなかった。


「噂は本当だった、と云ったんだ」


 血の気の引いた顔で自分を見つめる柊を、瀬尾はどこか勝ち誇ったような顔で見返す。俺は知っている。おまえの知らない拓植薔子を、俺は知っている。


「出会い系を使ってただけじゃない。大学でもだ。教室では、資料や実験室の融通とか、論文の指導とか、ちょっとばかりの心遣いが大きな利に繋がることがたくさんある。薔子は男と寝る代わりにそういうものを受け取っていた。次から次へと、誰彼かまわず」


 狭い世界でそんなことをすれば、そりゃあ噂にもなるだろう、と瀬尾は自嘲を込めた口調で云った。


「薔子にはほとんど隠すつもりがなかったような気がする。俺が彼女の噂を知って、本当なのかと問い詰めたときも、まるで悪びれるふうもなく、そのとおりだとすぐに認めた」


 柊には返す言葉もない。感覚のない指先をきつく握りこみ、ただ瀬尾の云うことを受け止めている。


「そんなことはいますぐにやめろ、と喚く俺に、薔子は、別れてくれ、と云った。もうあなたに用はないからと。俺は納得できなかった」


 できるわけがなかった、と瀬尾は大きく息をついた。


「散々云い合いをして、それでも話は平行線で、薔子は態度をあらためず、俺も別れを認めなかった」


 別れてくれと云ったくせに、会いたいと云う瀬尾を薔子が拒むことはなかった。だからだろうか。瀬尾は少しずつおかしくなっていく自分に、まるで気づくことができなかった。


「ときどきひどく云い合うことを除けば、俺たちは普通だった。会えば話もした。教室のことや同僚のこと。酒を飲んだり、メシを食いに行ったり。いままでどおり、これまでどおり、なんにも変わっていないような気にさえなった」


 ただ、身体の関係だけがなくなった。その気になった瀬尾が身体に触れようとすると、薔子はごくさりげない仕草でそれを避け、帰る意思を告げる。薔子に嫌われたくない瀬尾は無理強いをすることもできず、彼女を解放するしかなかった。


「ほかの男とは寝るくせにと、はっきり云ったこともある」


 あの人たちはいいの、と薔子は云った。だって心がないから。あなたは違うでしょ。


「あなたは、違う?」

「俺には心があるから、と薔子は云った」


 あたしはあたしを好きな人とは寝ないの。少し前にそう決めたんだよね。面倒なことになるって、あなたが教えてくれたから。


 瀬尾の声は低く静かなままだった。それでも柊には、彼の悲鳴が聞こえるような気がした。引き裂かれ、踏み躙られても、なされるがままでいるしかできなかったやわらかな心の、悲しい悲しい声が。


「なんで、そんな……」

「みんな同じなんだからだそうだ」


 あたしはね、本当に好きな人と肌を合わせることはできない。だからみんな同じなの。


「そういう意味では、俺は特別なんだと云われたこともあったな」


 瀬尾の笑みはごく薄い。


「あなたとは寝たくない。そういう人、あんまりたくさんいないのよ、ってさ」


 しばしの沈黙が降りた。

 瀬尾の言葉が途切れても、柊はなにも考えることができない。彼の語る真実に打ちのめされ、立っているだけでもやっとだった。


 わたしは知らない、と柊は思った。そんな薔子、わたしは知らない。


 瀬尾理人の目に映っていた拓植薔子は、柊の知る拓植薔子とはまるで別人のようだ。

 平気で人を傷つける言葉を吐き、平気で幾人もの男と身体を重ね、けれど、その心の裡に強く烈しい熱を秘めていた薔子。


 わたしの友だちだった薔子は違う。

 やさしくて明るくて、少し思い込みの強いところはあったけど、誰かをわざと傷つけて平気でいられるようなおそろしい子ではなかったはずだ。


「薔子は学部を卒業したあとも研究室に残った。俺たちの関係は変わらないままだった。俺はあいつへの想いを断ち切れなかったし、あいつは俺を切り捨てなかった。いや、もしかしたら切り捨てられなかったのかもしれない」


 わたしはなにも知らなかった、と柊はまた思った。瀬尾の苦悩も、薔子の懊悩も、なにも。


「そういう話はしたことがなかったから、本当のところなんか知りようもないけどな。あいつと話すのはくだらないことばっかりだった。新発売の発泡酒が不味かったとか、おまえと食いに行ったホルモン焼きが美味かったとか、そんなことばっかり。あいつ、食の好みはオヤジだったから」


 可憐な容姿に似合わず、薔子は酒飲みだった。圧倒的な辛党で、高タンパク高コレステロールな食べものに目がなかった。


 柊は不意に泣きたいような気持ちになった。


 薔子はいなくなってしまった。もう失われ、決して戻らない存在となってしまった。

 ほかでもない、目の前の男のせいで。

 けれど、薔子の話は彼としかできない。

 薔子が好きだったもの、好きだったこと。そういうものを誰よりよく知っているのは、わたしたちしかいないのだ。

 薔子がいなくなってしまったいま、彼女を想い出す縁は先輩ただひとりだ。なのに、これからわたしは、彼をもまた失おうとしている。


 柊の葛藤など気にかける素振りもなく、薔子を殺めた男は告げる。


「それで、あの日がやってきた」

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