35
その朝、柊はまだ薄暗いうちに眠りから浮かび上がった。
寝具のなかに沈み込むような怠さを覚える身体には、あたたかい腕が四本絡みついている。息苦しさを覚えて身じろぎし、まだ眠っているくせに彼女を放すまいとする双子を振り切って寝台から抜け出した。
床に散らばった服をかき集め、ついでに鞄も持って浴室に籠る。
昨夜、どうにかシャワーだけは浴びることができてよかった、と柊は思う。身体にも髪にもべたつきはなく、若干よれっとしたシャツさえ我慢すれば、このまま外を歩いても不埒にはあたらないだろう。すれ違う誰も、わたしのなした淫らには気づかないはずだ。
云い訳はいくらでもできる。
たとえば、仕事を失った喪失感につけ込まれた。
たとえば、強引さに押し切られた。
たとえば、――これが、最後だと思った。
仕事を失くし、信頼を失くし、そして瀬尾をもまた――彼を、薔子を殺めた犯人として告発することによって――失くすことになる自分が、これから先どうなるのか、柊にはまったくもって想像がつかない。
いままでどおり、記者としてどこかで働き続けることができるのか。
なにもなかったような顔をして、自分の幸せを追い求めることができるのか。
すべては、薔子の死の真相を知ったあとでなければ、考えることができないような気がした。
この期に及んでなお、わたしは薔子に依存しているのかもしれない。
シャツのボタンを留めながら、柊はそんなことを考えた。
薔子はわたしを生かしてくれた。ペンを執ることができなくなり、呼吸する屍のようだったわたしに生きる理由をくれた。
けれどそれは、書けなかった罪悪感を、薔子の死の疑惑を追うことを理由にして忘れようとしただけだ。死してのちの友を自分が生きる理由にした、ということだ。
それが依存でなくてなんだというのだろう。
柊は小さく溜息をついて、鞄のなかからスマートフォンを取り出した。昨夜から一度も確認していなかったが、着信は一件だけだった。
見慣れた名前に、自然と眉根が寄る。映し出されるはずのない名前は、しかし、見方を変えれば、そこにあるべきただひとつの名前でもある。
瀬尾理人。
先輩、と柊は呟いた。
昨日、荻野と約束した期限――今日と明日だけ待ってやる――はもう夕方に迫っている。今日のうちに決着をつけなければ、薔子を殺めた男の言葉をこの耳で聞く機会は永久にめぐってこない。
決着はつけなくてはならないのだ。
瀬尾と。あるいは、己の弱さと。
昨日までは自分のなかに存在しなかったはずのその思いが、いったいどのようにして生まれたものであるのか、誰によってもたらされたものであるのか、そのときの柊はあえて考えないようにした。
ごめん、と柊は思った。
こんなときまで卑怯でごめん。
でも、これが最後だから。本当に、これが最後だから。
見苦しくない程度に手早く身支度を整え、柊がホテルを出ると、まるで待ち構えていたように車寄せに一台のセダンが停められた。レンタカーナンバーのその車を運転しているのが誰であるのかは、確かめなくてもわかる。まるで、そうすることがはじめからの約束であったかのように、驚きはなかった。
「先輩……」
「早いな」
「先輩も」
下ろされた窓越しにそんな言葉を交わし、乗って、という短い言葉に素直に従う。発進は静かで、向かう先が地獄であるとはとても思えなかった。
「おはようございます」
瀬尾は答えなかった。
「よく、わかりましたね。わたしがあそこにいるってこと」
ちらりと視線を流し、瀬尾は指先で数度ハンドルを叩いた。苛立っているわけではない。正しい答えを探しているのになかなか見つからなくて焦っているのだ、と柊は思う。
「安曇たちがおまえを連込むとしたらあのホテルしかない。そう思って張ってた」
「今日の今日に限ってですか」
まさか毎日張り込んでたわけじゃないですよね、と柊は尋ねた。
「なんで今日だってわかったんですか」
「荻野っていう刑事から連絡があった。また近々お話に伺ってもいいですかって、ずいぶんわざとらしい調子でな」
あの食わせ者め、と柊は思う。ちっとも待ってなんかいないじゃないか。
「なにか新しくわかったことがあるでもない、類似性のある事件が起きたわけでもない。なのに、ここ何か月も、下手をすれば一年近くなんの音沙汰もなかった相手からそんなことを云われれば、普通はおかしいと思うだろう」
「それで、なんでわたしに?」
「双子がなんかこそこそやってんのは知ってたからな。あいつらはおまえにずいぶんと執心してたし、そこから考えれば、まあ、予想はつく」
カッと頭に血が上るのがわかった。それは、つまり自分が犯人だと認めたということと同じだ。
柊の表情が変わったことに気づいたのだろう、瀬尾が声の調子を一段低く変えた。
「いまはやめておこう。おまえだって俺と心中したくはないだろう」
瀬尾の運転する車に乗っている以上、彼に命を預けているのと同じことだ。柊は努めて冷静になるべく、静かな深呼吸を何度か繰り返した。
「どこへ、向かってるんですか」
さあな、と瀬尾は相変わらず低いままの声で答える。
「どこだろうな」
そんなことはひとことも云われていないのにもかかわらず、柊には、瀬尾が途方に暮れていることがわかったような気がした。
ずっと隠してきた秘密が暴かれそうになって、彼はきっとどうしたらいいのかわからないのだ。
否、違う。そうではない。
どうしたらいいのか、ずっとわからないままなのだ。
薔子を殺めてしまったときからずっと。
きっと理由はあるのだろう。なにかきっかけもあるのだろう。
けれど、薔子の命をその手で摘み取ったときから、瀬尾は迷子になってしまった。深く、昏く、果てのない森へと迷い込み、いまもまだそこを彷徨っている。
もしかしたら先輩は、と柊は思った。先輩はずっと、己の彷徨う暗闇を拓く焔を探し続けていたのかもしれない。
「大学へ」
え、と瀬尾が訝しげな視線を寄越す。柊は前を向いたままもう一度云った。
「大学へ行きませんか」
「……なんで」
薔子の話を聞かせてくれるんですよね、と柊は云った。瀬尾が息を飲む。
「わたしたちを繋ぐ場所は帝大しかない。先輩とわたしが話をするのに、あそこよりもふさわしい場所はほかにないと思いますが」
瀬尾はしばらくなんの反応も見せなかったが、やがて、そうか、と小さく頷いた。
「それも、そうかもしれないな」
それからふたりはひとことも口をきかず、朝の街を帝都大学へと向かった。
帝都大学附属病院の脇を抜け、医学部職員専用スペースに車を停めた瀬尾は、無言のまま車を降りた。柊も後に続き、ふたりは言葉もなくキャンパスへと足を踏み入れる。
煉瓦造りの医学部棟は、隣に建てられた新館とともに、いまだ現役で活躍中の重要文化財である。趣があり、卒業生を含む外部からは大層なお褒めに与っているらしいが、容易には外観を変えられないためか、エアコンも古いままだしサッシの動きも悪いしで、学生からはあまり評判がよろしくない。
まだ早朝であるせいか人気のない建物を見上げていた瀬尾は、ここだったな、と不意に云った。
「俺が薔子を知ったのは」
「そう、なんですか?」
柊が最初に瀬尾――と、一緒にいる薔子――を見かけたのは、たしか学生食堂だった。そういえばふたりの馴れ初めを聞いたことはなかったな、とふと気がついて、柊は急に可笑しくなる。わたしは先輩のことをほとんどなにも知らないんだ。
「新歓オリがあるんだ、ここで、毎年」
新入生歓迎オリエンテーション。医学部は一学年の人数が少なく、学業も厳しいためか、学生同士の結束が固い。ほかの学部では学生課職員がおざなりに行うオリエンテーションに、医学部では職員や大学院生も顔を出すのだという。
「俺は実習前だったし、そう乗り気でもなくて。でも、周りのやつが騒いでたんだ。すごく、可愛い子がいるって」
法医学という専攻のせいか、あるいはその冷たい容貌のせいか、どこか浮世離れした感のある瀬尾が、周囲のそうした噂に耳を傾けるとは意外だった。けれど、当時瀬尾はまだ二十歳を過ぎて数年。男性として、ごくごく当然の反応だったのかもしれない。
「ほとんど一目惚れだった。実習に出るまでになんとかして機会を窺って、声をかけようって、いま思えばものすごく恥ずかしいけどな」
拓植薔子と過ごした七年は、人生最良の日々だった、と瀬尾理人はいまも思っている。
自らの手で彼女を殺め、亡き者としてしまったいまもなお。
出会いはありふれたものだった。惹かれるきっかけもまたありふれていた。
それでも瀬尾にとって薔子は特別で、唯一で、絶対だった。はじめからずっと、最後の最後、失われるその瞬間まで。
薔子に誰か想う相手がいる、ということには、比較的早くから気づいていた。彼女に心惹かれるようになるよりも前のことだ。
だからはじめ、瀬尾は己の恋心が理解できなかった。
会えるはずのない場所で姿を探し、すれ違うはずのない場所で声を探し、そんな自分に戸惑い、苛立った。
言葉を交わし、薄い笑みを向けられ、それだけで歓喜する自分に混乱し、叱咤した。
けれど、どんな惑乱も否定も戒めも無意味だった。
瀬尾理人は拓植薔子に恋をした。
それまでの人生で、誰にも想いを寄せたことがなく、誰とも身体を重ねたことのなかった瀬尾の恋は、とても初心だった。近づきたい。でも自分からは近づけない。
話しかけるにも、傍にいるにも理由が必要だった。どうすればその理由が手に入るのかさえわからずにいた瀬尾に、運が味方してくれた。
混みあった学生食堂で、薔子のほうから声をかけてくれたのだ。よかったらここ、空いてるので座りませんか。
心臓が止まるかと思うほど驚いたが、努めて平静を装って礼を云った。椅子を引く手が震えていたが、そのことには気づかれていなかったらしい。
四つも歳上なのだ。男の矜持もある。惹かれている相手であっても、否、そういう相手だからこそ、みっともないところを見せてはいけない。
きっかけがささやかだったぶん、その後の進展もゆっくりだった。食堂や講義棟で顔を合わせるたびに目礼を交わしていたのが、やがて挨拶が伴うようになり、立ち話をするようになった。
偶然を装うのではなく待ち合わせをするようになり、食事をともにするようになり、彼らの関係にはゆっくりと色が添えられていった。
徐々に距離が縮まり、気を許し、やがて心を寄せあうようになった。
――と、思っていた。
薔子の真実を知るまでは。
「順調だったんですね」
わたしの入る隙など、はじめからどこにもなかったんだな、と柊はあらためて思った。瀬尾は最初から薔子しか見ていなかった。
「順調?」
瀬尾の声にわずかな険が含まれた。
「いや、そうでもなかったよ」
まるで云い捨てるようにして瀬尾は歩きはじめる。一瞬呆気にとられた柊は、慌ててそのあとを追うような格好になった。
想いを告白したのは、彼女への気持ちが膨らみすぎて、重たくなりすぎて、もう自分ではどうにもできないと感じるようになってからのことだ。黙っていてもわかってもらえるのではないかとも思ったが、それでは男らしくない。はっきりと言葉にするべきだと、そう考えて告白した。
好きだと。付き合ってほしいと。愛しているとさえ云ったかもしれない。
正直、自分に酔っていたと思う。
けれど、それを差し引いても、そのとき薔子に告げた言葉に嘘はなかった。
想いは叶った。薔子は微笑み、瀬尾の言葉を受け入れてくれた。
とても嬉しい、と彼女は云った。ありがとう、と。
そして、こうも云った。あたしも瀬尾さんのこと、ずっと、いいなって思ってたの。
瀬尾は浮かれた。浮かれずにはいられなかった。
はじめての病院実習は、自分のほうが病気になるのではないかと思うほどに忙しかったが、ぜんぜん苦にならなかった。たまの休みに薔子に会えると思えば、重病の告知や患者の死といった、どんなにつらい事態にも強い心で臨むことができた。
想いこそ伝えあったものの、ふたりの関係はなかなか進展しなかった。
瀬尾はいまどき珍しいほどに忍耐強く、また誠実な男だった。薔子がはじめて付き合う相手だったということもあるだろう。手さえ繋ぐこともないまま、最初の半年を過ごした。
無愛想で生真面目な瀬尾には友人が少なかったし、交友のある数少ない相手とも下半身事情を語りあったりはしなかった。
研究室や講義室や食堂で顔を合わせ、他人よりは幾分か親しく話をする。指先や靴の先が偶然ぶつかったときには、礼儀正しく、ごめんね、と云い合う。互いの家族構成は知っていても、写真を見せあうこともない。どこに住んでいるかは知っていても、実際に訪ねたことはない。
なにかがおかしい、と思いはじめたころには、付き合いはじめてから一年が過ぎていた。
手を繋ぎたいわけではない。キスがしたいわけではない。セックスがしたいわけではない。
いや、したい。したいが、それだけではない。
もうずいぶんと一緒にいるような気がする。ふたりでいることにもだいぶ慣れてきた。そのくせ俺は彼女のぬくもりをまったく知らない。
自分と違って、好きだ、という気持ちをあまり顔に出さない薔子の感情は見えにくいけれど、一緒にいることを拒まれてはいないのだ。それも、もう一年も。身体を繋げるにはまだ早くても、キスぐらいは、いや、手を繋ぐくらいは許されるだろう。
とうに二十歳を過ぎた男にしては驚くほどの純情さで、瀬尾はそう考えた。そして実行に移した。
必死にタイミングを計り、夕暮れの大学構内、人気のない場所を狙って、瀬尾は薔子の手を取った。一瞬、薔子はひどく身体を強張らせた。冷たい指先は、全力で瀬尾を拒んでいるかのようだった。
ごめん、と瀬尾は云おうとした。触れあうことだけがすべてじゃない。いまじゃないと薔子が云うなら、やめておくよ。
そう口にする寸前だった。ひんやりとした薔子の指先が、瀬尾の掌のなかでやわらかく解れた。まるで、夜に咲く花のようにひそやかに。
嬉しかった。とても、嬉しかった。
喜びは、長く続いた。けれど、ずっとは続かなかった。
瀬尾のなかに新たな焦りが生まれていたからだ。
付き合いはじめて二年が経とうとしていたころのことだ。ふたりの関係にはまったく進展が見られていなかった。
顔を合わせるのは講義の合間だけ。触れあいは手を繋ぐことだけ。家を行き来することも、友人を交えて遊びに出かけることもない。
いくら医学部生が忙しいとはいっても、長い休みだってある。夏も冬も、休みのあいだ、薔子は瀬尾からの連絡にまったく応じない。
いい加減、そろそろ先へ進みたい。
国家試験に合格し、将来のことをはっきりと考えはじめていた瀬尾は、そう云って薔子に迫った。薔子のことを抱きたいんだ、と。
薔子は頷かなかった。いつも浮かべている微笑みもなかった。
拒まれているのだ、と瀬尾は気がついた。いや、違う。はじめから受け入れられてなどいなかったのだ、と。
自分でもおかしいと思うほどの怒りが湧きあがってきた。なぜだ。なぜ、俺を拒む。
学生食堂の片隅で、中途半端な時間だったせいか、人は少なかった。瀬尾は情けなく顔を歪ませて薔子に縋った。
厭です、と彼女は云った。あたしは瀬尾さんのことを好きじゃありません。この先、好きになることもありません。だから、あなたとこれ以上どうこうなるつもりはありません。
付き合ってるだろ、俺たち、と瀬尾は声を上擦らせた。これ以上ないほど屈辱的な台詞だったが、口にせずにはいられなかった。
そうですね、と薔子は肩を竦めた。そういうことにしておいたほうが都合がよかったんですけど、でも、そろそろやめにしたほうがいいかもしれません。本気でとか、面倒くさすぎるんで。
面倒ってなんだ、と瀬尾は思った。俺ははじめからずっと本気だった。
知ってますよ。面倒ってのは、あれです。理人さん、本気でしょ。で、エッチするでしょ。そしたら、あたしのこと、いよいよ自分のもんだって、そうなるじゃないですか。それが面倒だって云ってるんです。
あたしは誰のものにもならない。あたしはあたしのものです。
所有欲とか独占欲とかが厭だって云うなら、それは努力する、と瀬尾は食い下がった。そういうもの、おまえには見せないように努力するから。
努力とかそういうことじゃないんですよね。その前に、あたし、先輩のこと好きじゃないからエッチはできません。好きでもない人とするなんて、気持ち悪いじゃないですか。
好きでもない人。
瀬尾の耳にはその言葉だけが残った。
じゃあ、なんで、俺と付き合った、と瀬尾は怒鳴った。生きてきたなかで一番の大声だったかもしれない。
食堂中が静まり返り、ふたりのやりとりに耳を澄ませていたが、彼はそんなことに気づきもしなかった。それくらい必死だった。
薔子の声は落ち着いていた。そうすることが必要だったからです。
まるで、生きるためには腕を切り落とすことが必要です、とでも告げられているかのようだった。あなたの困難には心から同情します。けれど、これは必要な処置なのです。
必要ってのはなんだ、と瀬尾は云った。さきほどとは打って変わって、絞り出すような掠れ声だった。
必要。そのままの意味です。薔子の声の調子は変わらなかった。あたしにはあなたとのお付き合いが必要だったんです。
好きでもないのにか、と瀬尾は薔子を責める。
好きでもないのに、と薔子はなにかを諦めたような口調で繰り返した。
好きじゃないけど、仕方がなかったんです。
そうするよりほかにどうしようもなかったんです。
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