34
そんなことはない、と云いたかった。
だが、云うことはできなかった。
日向野の云うことが正しかったからだ。
もちろん自覚はあった。薔子の死の真相を探るために記者であり続けることを選んだのは誰あろう、柊自身だ。その立場が真実を掴むのには都合がいいことを、よく知っていた。
だから記者であり続けられる場所を探した。そして、ウィークリーゴシップに辿り着いた。
駆け出しとはいえ、もとは国内有数の通信社の記者だった柊である。醜聞専門の三流誌のほかに拾ってくれるところがなかったというわけではない。
しかし、ウィークリーゴシップは、彼女にとって都合のよい媒体だった。
時事全般を扱う一般誌ゆえ、そこにネタさえあれば、誰にも怪しまれることなくあらゆる場所に出入りすることが可能だった。これが専門誌となるとそうはいかない。経済専門誌の記者が殺人事件の容疑者の身辺を嗅ぎまわっていては、いかにも不自然だ。
そして、評判の悪い醜聞誌ゆえ、少々乱暴な取材をすることも難しくなかった。著名なメディアともなれば、記者自身の振る舞いも世間からの評価の対象となる。横暴かつ無茶な取材ぶりを他誌に抜かれ、身動きが取れなくなることは珍しくない。
どこにでも行けて、誰にでも会えて、そして、多少強引なことをしても誰にも咎められない。――だってあれは、ああいう雑誌のああいう記者だから。しょうがないんだよ。
普通に考えればマイナスにしかならないウィークリーゴシップのイメージは、しかし柊にとっては都合のよい隠れ蓑だった。彼女の本当の目的を誰の目からも隠してくれる。
柊はそのことを無意識に悟っていて、そして、いまの場所を選んでいた。
「本当のことを云うとな、それでもいいかと思ってた。腹の底になにを呑んでるかは知らねえが、仕事には熱心だし、まあ優秀ではある。実際、おまえが来てから、うちの班の号の売上はそこそこ順調だった」
俺のクビはおまえが繋いでたようなもんだな、と日向野は云った。
「なあ、小鳥遊。おまえ、大丈夫か?」
突然そんなことを云われ、柊は思わず俯けていた顔を上げる。
「大丈夫……、ですよ」
「大丈夫じゃないだろ」
「なんで……、急に、そんなこと」
日向野は、急にじゃねえだろ、と云い、雑な仕種で頭を掻き毟った。
「ずっと云ってんだろ。おまえが犬飼の件を追いはじめてから、ずっと」
柊は息を飲んだ。
「あれはどうにもおまえらしくなかった。いや、俺はいまもおまえらしくないと思ってる。塩穴の息子のネタをSに持ってかれて変に焦ってんのかとも思ったが、どうも違う。集中力もねえし、心ここにあらずで、推理が破綻してることにも気づかないようなありさまだ」
柊は思わず市原を見た。日ごろは周囲への無関心を貫き通していたくせに、あのときに限って妙に世話を焼いてくれたのは、市原もまた日向野と同じ想いを抱いていたからなのだろうか。
そうだ、とばかりに市原は頷いた。そうでなけりゃ、大倉を紹介したりするはずないだろう。
「大丈夫か、おまえ」
日向野はさきほどと同じことを訊いてきた。少し、慎重な口ぶりだった。
「大丈夫です」
柊もまた同じことを答えた。そう答えるしか、できなかった。
気づけばミーティングルームには柊ひとりが残されていた。
俺たちはもう帰るぜ、お先に失礼します、お疲れさまでした、とそんなやりとりをしたような気もするが、はっきりと思い出すことはできない。
周りのもの、否、自分自身さえもが水の底に沈む小石のごとくゆらゆらと揺れて、ひどく頼りなく感じられる。
わたしはこれまでなにをしていたんだっけ、とふと思った。なにを望み、なんのためにここにいて、どこへ行こうとしていたんだっけ。
――薔子の事件の真相を探り、すべてを明らかにして、未来へ進むため。
それはいったい、誰のために。
薔子のために。
先輩のために。
拓植のパパやママのために。
自分の、――ために。
本当にそうだろうか、と柊は思った。わたしは本当に薔子の死の謎を解き明かしたいと、そう思っているんだろうか。
かつてはたしかにそう思っていた。先輩と約束を交わし、ここへ来たばかりのころは、たしかにそう思っていた。
けれど、いまはどうだろう。
薔子を殺したのが先輩であるという推論が真実味を帯びてきたいま、彼との約束など、あってなかったようなものとなり、記者を続ける目的も失われた。
なんで、と柊は自分自身に問いかける。なんで。なんでなのよ。なんで、こんなに虚しいのよ。
本当のことが明らかになれば、心晴れることはなくとも、慰めくらいにはなるだろうと思っていた。悲しいできごとを忘れることはできなくとも、思い出さずにいられるようになるかもしれないと思っていた。
ぜんぜん違った。
すべてを失い、ただただ、ただひたすら、虚しいだけだ。
そう、いまのわたしは、すべてを失くしてしまった。
薔子も。先輩も。約束も。仕事も。信頼も。同僚も。――なにもかも、すべて。
身体のまんなかに大きな穴が開いて、自分のなかにあるもの、周りにあったかもしれないもの、そのすべてが飲み込まれていくような気持ちになった。
薔子の笑顔が思い出せない。
先輩の声が聴こえない。
約束は意味のないものになった。
仕事を失くしてしまった。
信頼を損なってしまった。
同僚たちは去っていった。
きっともう、なにひとつもとには戻らない。
なにが悪かったんだろう、と柊は思った。
同僚たちの気遣いに、信頼を寄せられていたということに、鈍感でありすぎたことか。
仕事上の立場を個人的な目的のために利用する己の浅ましさに、空虚な約束に、先輩の正体に、気づかずにいたことか。
それでは、わたしはなにひとつ変わっていない、ということだ。薔子に依存していたこどものころから、なにひとつ変わっていない、ということだ。
そこまで考えて柊ははっとした。
わたしは薔子に対しても鈍感だったのではないだろうか。彼女のことで、気づいていなかったことがあるのではないだろうか。
そして――、それこそが、薔子が殺められた理由であるとしたら。
だとしたら、わたしは、――わたしはいったいどうしたらいい。
どうしたら――。
「シュウッ!」
身体の右側に強い衝撃が走った。誰かに肘と肩を強く掴まれたのだということに気づくのに、少し時間がかかった。その誰かが、由璃と真璃だということを認識するのには、さらにもう少し時間が必要った。
いつのまに編集部をあとにしていたのか、柊は会社のビルの前で双子に捕まえられていた。
「シュウ」
顔をしかめるふたりを交互に見上げ、柊は、変なの、と思った。変なの。つらいのはわたしのはずなのに、なんだかふたりのほうがひどい痛みをこらえるみたいな顔をしている。
彼らには、わたしが失くしたものなどわかるはずがないのに。
「どうしたの」
ぼんやりと尋ねれば、ふたりは厭な匂いでも嗅いだかのように、そろって鼻の頭に皺を寄せた。
「どうしたのじゃないよ。あんなふうにいきなり飛び出していったら、なにがあったのか心配するでしょ」
「心配……」
そっか、と柊は呟いた。わたしにはまだ心配してくれる人がいたんだ。変なの。最後に残ったのがこのふたりだなんて、変なの。
「そっかじゃない」
由璃がひどく低い声を出した。
「心配してたって云ってるんだ。なにか云うことはないのか」
「大丈夫だよ」
誰かに気遣われると、柊はいつでも誰にでもそう答えてきた。
大丈夫か。――大丈夫だよ。
平気なのか。――平気だよ。
つらくないのか。――つらくなんかないよ。
そう答えなくてはならないと思い込んでいたわけではない。本当に大丈夫だったし、平気だったし、つらくなかったのだ。
けれど、いまこのときばかりは違った。
大丈夫なんかじゃない、平気なんかじゃない。つらくてつらくてたまらない。
大声で叫び散らしたいほどだったけれど、それを云ってはいけないような気がした。
己の愚かさですべてを失くし、最後の最後、近くに残った由璃と真璃にも、否、彼らにだからこそ、云ってはいけないような気がした。
だから柊はいつもの調子で答えたのだ。
そして思った。嘘をつくのは苦しいことだと。これまでずっと、苦しかったのだと。
「なにがだよ」
「どこがだ」
嘘はふたりには通用しなかった。いつのまにか一番近くにいるようになっていた男たちには、なけなしの強がりなどまったくの無意味、それどころか苛立ちの炎に油を注いだだけだった。
「なにも、どこも、別に」
「シュウ」
真璃が日頃のやわらかな――というより、どこか軽薄な――口調をかなぐり捨てた。
「仕事でなにかあったんだろ。あの電話聞いてりゃわかるよ」
「なにがあったか話せとは、いまは云わない」
いまは、と云う由璃の言葉になにやら不穏なものを感じる。その不安を押し殺し、柊は、それなら、と云った。
「もう帰りたい。ちょっと疲れたの。さっきの話の続きは今度また……」
「あのね、シュウ」
おれたちの云うこと聞いてなかったの、と真璃が云った。
「心配してるって云ってるんだ。ひとりになんか、するわけないだろ」
「ひとりにしてよ、お願いだから」
うんざりとした口調で柊は云った。全部失くしたわたしの傍に残るのが、なぜこのふたりなのだ。受け入れることのできない、彼らなのだ。
由璃と真璃を嫌っているわけではない。はじめは苦手に思っていたが、いまでは心を許していると云ってもいい。それでも彼らと恋愛はできない。柊にとっての恋とは、ひとりを相手にするものだと決まっているからだ。
だからこそ、と柊は軽い眩暈を覚えて思わず目蓋を閉じた。
だからこそ、いまはひとりにしておいてほしい。いまのわたしは普通じゃない。自分でもわかるほどに弱りきってしまっている。誰の腕でもいい、誰の胸でもいい、縋りついて飛び込んで、思いきり甘えてしまいたい。
でもそれが、いまだけの感情だと柊にはわかっていた。なかば意識的に依存してきた仕事を失い、どうしていいかわからなくなっている、いまこのときだけの感情だ、と。
時間が経ち、冷静になって、先のことを考えられるようになれば、こんな衝動は消え失せてしまう。そしてきっと――、後悔だけが残る。
そんなのは厭だ。
由璃と真璃を後悔になんかしてしまいたくない。一度は過ちを犯した相手ではあるけれど、あんなことはもう二度としない。一度ならば忘れられる。でも、二度はだめだ。忘れられなくなって、すっかり溺れて、だめになって、あるときふっと我に返るんだ。わたし、なにやってるんだろうって。
柊にとっての恋愛は、その先の人生をともに過ごすことへとごく自然に繋がっている。常識的かつ保守的、さらに経験値の低さがあいまって、よくも悪くも初心なのだ。ふたりの男を相手にする恋愛など、柊のなかには端から存在しない。一夜の過ちは過ちにしかならず、そこからなにかが生まれることなど、彼女には思いもよらない。
ますます強くなる眩暈に耐えかねて、柊は縋るものを探して腕を伸ばす。
由璃と真璃には、柊の考えていることがよくわかっていた。だからこそ、ここまで時間と手間をかけてきた。
なにが悲しくて、こんな頑固で意地っ張りな女に惚れたのかと自分たちのことが厭になりもするが、それでも互いに譲る気はない。譲れないならふたりで彼女を共有するしかない、と彼らはとうに腹を括っている。
双子は忍耐強かった。柊が自分たちに慣れるのを待ち、心を開くのを待ち、好機を待った。
そして、――いまが、いまこそがそのときだった。
「シュウ」
由璃と真璃は視線を交わし、浅い笑みを浮かべた。獣の本性を抑え、おとなしくしていたことに対する美味しいご褒美が目の前にぶら下がっている。あとは思うさま食いちぎり、引き裂いて、貪るだけ。
「シュウ」
低くやさしい声でその名を呼びながら、真璃が柊の腕を引く。あまり具合がよくないのだろう、青白い顔をした柊は、誘われるまま真璃の胸のなかで静かにしている。薄い目蓋を伏せた顔からは、表情がすっかり抜け落ちている。
由璃はスマートフォンを取り出し、実家で抱えている運転手に連絡を入れた。具合の悪くなった知り合いを送ってあげたいので、車をまわしてもらえませんか。
それからもう一件電話をかける。今日これからと明日の半分、誰にも邪魔されない静かな場所が必要だ。
必要な手配をしながら、由璃は柊の髪をそっと撫でる。ほとんど力を込めたつもりはないのに、小さな頭がぐらぐらと揺れて、彼女が半分意識を失っていることがわかった。真璃に凭れかかっていなければ、その場に崩れ落ちてしまっていたことだろう。
「なにがあったのか、先に聞き出しておかないとね」
真璃がぽつりと呟くように云う。そうだな、と由璃は瞳を眇めた。そして、しばらく目を離さないようにしなければならない。
「逃げちゃだめだよ、シュウ」
いまや真璃はしっかりと柊を抱きしめている。いつもは片割れとわけあわなくてはならないぬくもりを独占できることが嬉しいのだろう。そのひどく幸せそうな顔を、由璃は苦々しく睨みつける。
「逃がすつもりもないけどな」
「一気に落とす気満々だね。由璃、顔が変態くさくなってるよ」
「おまえもな」
「あのときは時間もなかったしね」
今回は違うよ、と真璃は柊の耳元で囁く。ひどく顔色の悪い柊はなおもぼんやりとしていて、なにを云われているのかきっと理解していない。
柊には悪いが、これは千載一遇の好機だ。またとない機会だと云ってもいいだろう。彼女がこれほどにまで落ち込むことは、そう何度もあるものではないはずだ。
こんな機会は、もう少し先にならないとめぐってこないものだと思っていた。
それはつまり、瀬尾理人と柘植薔子の真実が明らかになったとき。
柊が大切に思っているあのふたりのあいだになにがあったか、双子はなにもかも承知しているわけではない。
ただ、そこに繋がっているかもしれない綻びを知っているがために、柊よりも強く瀬尾の罪を確信しているだけだ。
柊がその真実を知れば、きっと大きなショックを受けるはずだ。そして、それはそのまま、どうにかして彼女を手に入れたい自分たちにとっての最大の好機でもある。そんなふうに思っていた。
けれど、機会は思っていたよりも早くめぐってきた。
許せ、シュウ、と由璃は願う。許せ、そして、受け入れてくれ。
たった一度の過ちだとシュウは思っているのかもしれない。だけど、その過ちで、おれたちはシュウに落ちてしまった。
ずっとひとりで――あるいはふたりで――いなければならないかもしれない。
自分たちを受け入れてくれる存在などないのかもしれない。
そんな恐怖から救ってくれたのだから、あたりまえだ。
なあ、もう諦めろよ、シュウ。おれたちに見込まれたのが運の尽きだ。弱っているところにつけ込むなんて最低だよな。わかっている。わかっているけど、でも、そうでもしないと自分を変えようとしないシュウにも、反省すべき点があるんじゃないか。そうして、少しくらいはおれたちとの未来の可能性を考えてくれてもいいんじゃないか。
だけど、そう簡単にはいかないだろう。
由璃はこれから起きるだろうことを想像し、小さく溜息をつく。
おれたちがこれからすることに、柊は怒り、怯え、嫌悪するだろう。そして、間違いなく逃げだそうとするはずだ。
弱っているところへ快楽という暴力を与えてさらに弱らせ、つけこみ、居座ってしまおうというのだから、それもまたあたりまえだ。
しばらくは苦しくなるなあ、という想いで片割れを見遣れば、そちらもまた同じ想いでいたようで、どこかせつないような顔をして由璃を見ている。
「
部屋を確保できたか、という意味の問いに、ああ、と由璃は頷いた。そっか、と真璃は云う。
「じゃあ、安心だね。これでシュウはおれたちのものだ」
目覚めるとまったく記憶のない場所にいる。
それは人生で二度めの経験だったが、最初のときと同じように、やはり柊をひどく不安にさせた。
しかも今回は傍には誰もおらず、部屋のなかも薄暗い。暑くもなく寒くもなく、シーツの肌触りは極上と云ってもよかったが、落ち着かない気持ちは拭えない。
柊はそろそろと身を起こし、そこではじめて自身が半裸であることに気がついて仰天した。身につけていたはずのデニムパンツとシャツとニットはどこへ行ったのだ。
慌てて寝台から降りようとじたばたしているところへ、低い声が飛んできた。
「目が覚めた?」
聞き間違えようもない、双子の――これはたぶん、真璃の――声だ。
「こ、ここはどこ?」
「オテル・ドゥ・シェーヌ」
え、と柊は戸惑った。
「それって……」
「親戚がやってるホテル。落ち着いて話せるとこ、ほかに思いつかなくて」
彼の云い方だとまるで避暑地の民宿かなにかのように聞こえるが、柊の記憶に間違いがなければ、オテル・ドゥ・シェーヌは都心の一等地に立地する超のつく高級ホテルだ。貧乏大学院生はおろか、一介のサラリーマンが泊まれるようなところではない。
「親戚って、たしかここは
目覚めたばかりであまり回転のよくない頭を叱咤し、わずかばかりの知識を引き出そうとする柊を笑うように由璃が云った。
「柏葉烏紺。うちの親父の遠縁で、おれたちの命の恩人。前にちょっとだけ話しただろ?」
最愛の妻を亡くしたショックで育児放棄した父親に代わり、双子を育ててくれた叔母という人か。
「彼女は柏葉グループの現オーナーで、おれたちに理解のある数少ない人のひとりだ。この部屋も身内価格で使わせてくれる」
柏葉は解体された旧財閥の一派に属する古い家で、いまもこの国の経済に強い影響力を持っている。飲料メーカーを軸にして多くの事業を展開しており、このホテルもそうしたビジネスのひとつだったはずだ。
「ここは、柏葉の名前こそ背負ってるけど、半分くらいは烏紺ちゃんの趣味みたいなもんだからさ。紹介制で細々やってるんだって。おれたちは親戚枠で顧客リストに名前を入れてもらってる。しょっちゅうは無理だって云われてるけど、まあ、たまにはね」
紹介制でも成り立つようなビジネスモデルであるということは、つまり、客ひとりあたりにつきそれ相応の対価を求めている、という意味だ。すこぶる快適な滞在と絶対のプライバシーの保障がいったいいかほどの価値を持つものであるのか、知りたいような知りたくないような気持ちになる柊である。
しかし、いずれにしても甘すぎる身内はろくなことをしない。そう毒づくつもりで口を開いたものの、言葉を発する前にこめかみが疼くように痛み、柊は低く唸りながら顔を歪めてしまう。
「軽い脱水起こしてるんだよ。水飲んで」
真璃が差し出すペットボトルを素直に受け取って一息に半分ほども空けると、生き返ったような心地がした。
「お腹は空いてる?」
空いていない、と首を横に振り、ふと気づいて時間を尋ねる。
「四時くらい。そんな時間経ってるわけじゃないから安心しなよ」
ぽすん、と軽い音を立てて真璃が寝台の足元のほうへ腰を下ろした。その軽い揺れにすら頭が痛み、柊はまたペットボトルを傾ける。
「少し腹に入れたほうがいいな」
柊の様子を観察していた由璃が云うのへ、慌てて声をかける。
「待って。いらない。お腹すいてないから」
「なんで?」
なんで、ではない。こんなところでなにか食べようものなら、それがいくらになるのか考えすぎて味もへったくれもあったものではないではないか。ならばここを出て、チェーン店の丼ものをかき込むほうがなんぼかマシというものだ。
まったくこれだからボンボンは、と柊は思う。根本的な価値観が合わないというのは、いろいろと不都合なうえに、ときには不愉快ですらある。
柊がそう云うと、双子は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をして――本当にそんな顔をするやつをはじめて見た――、それから、さも愉快そうに笑いはじめた。最初は小さく、やがて、腹を抱えるようにして。
自分がなぜ笑われているのか、まったくわからない柊ははじめのうちこそ呆気にとられたような顔をしていたが、いつまで経っても双子が笑い続けているので、少しずつ少しずつ機嫌を損ねていった。
由璃と真璃を交互に睨んでも、ふたりは一向に笑いを止めない。そのことに焦れ、柊は勢いよくベッドから飛び降りた。くらり、と軽い眩暈に襲われるが気力で堪え、ソファの上に投げ出してあった鞄と衣服を掴んで、扉へと向かう。
「帰る」
だが、そう云い捨てるよりも早く、背後から腕を取られて引きずられた。バランスを崩し背中から倒れ込む彼女を支えたのは、さっきまで寝台の上で笑い転げていたはずの真璃である。正面から伸びた腕は由璃のもので、彼は長いリーチを活かして柊の肩を押さえ、さらには顎を掴んで顔を上げさせた。
「元気そうだよね、シュウ」
耳のすぐ傍で真璃の声が聴こえた。咄嗟に振り向こうとした柊の目許を、形のよい濡れた唇が掠めていく。ひっ、と首を竦めて目を瞑れば、掴まれたままの顎がわずかに痛んだ。
「遠慮する必要はなさそうだな」
遠慮してくれ、頼むから、と柊は思った。しかし言葉にはならない。
たった一度だけの三人の夜が、途切れ途切れに思い出される。あのときもそうだった。ろくに抵抗できないまま、いいようにされてしまったのだった。
本当のことを云えば、流されてしまってもいいのかもしれない、いっそ流されてしまいたい、という気持ちがないわけではない。抵抗するには気力と体力が必要で、いまの柊にはそのどちらもおおいに不足している。
由璃と真璃が柊を大事に思っているのは本当なのだろう。あまりにも無体なことはされないはずだ。いいようにされたあの夜も、気持ちがいいばかりで、痛いこと、不快なことはひとつもなかった。
ただひたすら恥ずかしいことだけを我慢すれば、そして、自分のなかの倫理観さえ忘れてしまえば、三人で睦みあうこと自体は厭なものではない。
厭なのは、そんなふうに簡単に流されてしまいそうになる、自分自身。気持ちよく愛されることに酔わされてしまう、自分自身。
彼らに暴かれる本当の自分と向かい合うことが、厭でたまらないのだ。
だから厭だったんだ、と柊は泣きたいような気持ちになる。
だから、わたしは由璃と真璃に近寄りたくなかった。
ふたりを好きになりたくはなかったのだ。
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