33
「編集長ッ!」
ひっくり返さんばかりの勢いで椅子を蹴立てて声を上げたのは、日向野ではなく柊だった。打合せ用の机に阻まれていなかったなら、派手な色のシャツの襟を引っ掴んで、その短躯を吊り上げていたかもしれない。
「まあ、そうカリカリすんなよ、小鳥遊さん」
谷本は上機嫌だ。
「どういうことですか」
苛立ちが高じ、憎しみにまで発展したのか、日向野の声は無色透明極低温である。
「どういう、なあ……」
手近にあった椅子を引き寄せ、谷本は腰を下ろす。大袈裟な態度で足を組み、にやにやと笑うさまは鼻につくを通り越して、むしろ寒々しい。
「そんなの、だいたいんとこはわかってんだろうが、日向野」
笑みの滲む明るい表情とは裏腹に、谷本の声も凍てつくような調子だ。彼は日向野のことが心底気に入らないらしい。
「俺を潰した、というわけですか」
「潰した……、ねえ」
人聞きが悪いなあ、と谷本はわざとらしく頬を掻いた。
「でも、ま、結局はそうなるな」
隠しておいた――少なくとも、隠すふりだけはしていた――牙を剥いて、獰猛な獣が咆哮を上げたような気がした。ついさっきまでたしかに当事者であったはずの柊は完全に置き去りにされ、男同士の醜く烈しい争いをただ見守るしかできない。
だってなあ、と谷本は胸の悪くなるような笑みを見せた。
「そこの新聞さんの躾はおまえの仕事だろうがよ、え? 日向野」
「俺は俺の仕事をしてた。小鳥遊のことだってちゃんと面倒みてた。汚え細工をしたのはあんたでしょうが」
「汚えとは云うじゃねえか、え?」
谷本はひどい貧乏揺すりをはじめた。
「カスだってわかってて、ネタ追わせてたのはおまえだろ。それ使われてカッカすんのは筋が違うんじゃねえのか」
「俺は没にした。小鳥遊もそれを受け入れた」
「受け入れてねえよ」
なあ、新聞さん、と急に水を向けられ、柊は身を縮める。
「ふたりっきりんときにこっそり教えてくれただろ、いいネタあるんですって」
粘りつくような喋り方に寒気を覚えながら、それでも柊は必死に首を横に振った。
「そんなこと云ってません」
「云ったじゃねえか。忘れたのか、エレベータんなかでよ」
柊の脳裏に、やはり、という思いが過ぎる。――やはり、そうか。あのときだ。
「あれはたまたま鉢合わせしただけで……」
「そうだ、たまたまだ。たまたま、な」
だけどおまえ、と谷本は双眸を眇める。厭な目つきだった。
「オレが水を向けたら、ぺらぺらとよく喋ってくれたじゃねえか。なにを追いかけてるとか、なにに興味があるとか、新聞記者ってのはずいぶん脇が甘えんだなと心配になるほどだったよ」
怒りのあまりに身体が震える。柊は頬を手に染め、猛然と反論した。
「それは編集長がしつこく訊くからそうなったんですよ。わたしは別に……」
「ただの記者が編集長にその態度は感心しねえな、新聞さんよ、え?」
編集権持ってんのはオレだ、と谷本は云った。柊に云い聞かせているようで、そのじつ、日向野を威圧している。そのことは痛いほどによくわかったが、谷本を黙らせるすべはまるで思いつかなかった。
「オレが載せると云った記事は載るし、載せねえと云った記事は載らない。そういうもんだ」
「でも、このやり方はあまりにもルール違反でしょうが」
とても黙って見ていられない、という調子で市原が横から口を挟んだ。
「半井さんが校了したところを、あとからデータ差し替えるなんて、そんなの……」
「オレにはその権限があるんだよ」
「あるのは知ってます。でも、あまりにも横紙破りだと云ってるんです」
「ヨコだろうがタテだろうが、必要がありゃ破るよ、オレは。それともなにか? え、市原?」
オレのやり方にケチつける気か、と谷本はあからさまな恫喝を仕掛けた。
「ウィークリーゴシップ編集長であるオレが、今週号には小鳥遊の記事を載せるべきだと判断し、載せたんだ。それのどこが悪い」
「本人の了解もなしにか」
「了解なんかいらねえだろ。小鳥遊はウチの記者だ。ウチの記者が書いたものを編集長のオレが載せようと思った。だから載せた。なにもおかしいとこはねえだろうが」
「あんた、あの記事が嘘っぱちだってわかってんだろ?」
「嘘ォ?」
嘘だって、と谷本は素頓狂な声を上げた。そして、わざとらしく柊を見遣る。
「あれが嘘?」
「そうです」
屈辱を堪えて柊は答えた。
「あの草稿は事実無根です。なんの根拠もない」
「新聞屋ってのは、憶測だけであんなおっかねえ記事書くのか」
あまりの侮辱に泣きたくなるが、谷本の云うことは間違っていない。柊は憶測で書いた草稿を盗まれ、目の前の男にいいように使われたのだ。
もちろん悪いのは谷本だ。人のデータを盗み、明らかな悪意を持って利用した。
だが、柊にも落ち度はあった。あの草稿は、確証の掴めていない状況で書き起こしていいようなものではなかったのだ。
「あれは、わたしの個人的な覚えです。誰かに見せるつもりはありませんでした」
オレにはそうは思えなかったな、と谷本は大袈裟に目を剥いてみせた。
「日向野はおまえらをがっちり管理してる。あれこれうるせえこと云われずに自由に書きたいって、そういうアピールかと思ったんだぜ、オレは」
「そんなこと……!」
こんなときこそ無駄に豊富な語彙を活かして、この滅茶苦茶な男を論破してやらねばと思うのに、莫迦みたいに口を開けたり閉めたりするばかりで、柊はなにも云い返すことができなかった。
「もういい」
地鳴りのような低い声がミーティングルームに響いた。
「あんたの狙いはわかってる。俺を潰したい、そういうことだろ」
谷本が口角を吊り上げたような気がした。んなこと、オレ、ひとことも云ってねえだろうが。
「第一、日向野よお。オレは小鳥遊の記事が嘘っぱちだなんて、ぜんぜんまったくこれっぽっちも知らなかったんだぜ。それでおまえを潰すってのはどういう意味だよ? ああ?」
よくもまあこれだけ平然とした顔でしゃあしゃあと嘘がつけるものだ、と柊はむしろ感心したくなった。谷本という男には良心の欠片すら存在しないのだろうか。
開き直った強盗を前に戸惑う被害者のような顔になり、日向野が溜息をついた。
「あんた、なにがしたいんだ……」
「オレはなあ、日向野。刷出しを見て戸惑ってるだろう半井に事情を説明しようと思って下りてきたんだよ。そしたらおまえ、半井じゃなくておまえが取り乱してるって云うじゃねえか。だからな」
おまえにも説明をしてやろうと思ってだな、こうしてわざわざ来てやったんだ、と谷本はいつのまにか止めていた貧乏揺すりを再開する。
「そしたらおまえ、記事が嘘だとか、いまさらとんでもねえことぬかすじゃねえか。これはよう、おまえ、責任問題だろ」
谷本を除く全員が一言一句同じことを思った。――この野郎、はじめから全部そのつもりだったくせに。
「オレはこれから関係各所に説明行脚だよ、え? おまえらの処分も含めて、あっちこっちに頭下げてまわらなきゃなんねえ」
処分、という言葉に全員の視線が谷本へと集まる。下種な週刊誌の下種な編集長は、下種な笑い声を立てた。
「日向野班は解散。日向野と小鳥遊は
わかったか、と谷本はドスの利いた声で裁定を下した。
現れたときと同様、谷本は素早く去っていった。云いたいことを云い、告げるべきことを告げたので、もう用はないといったところだろう。
柊にはもう指先ひとつ動かす気力もなかった。日向野も、珍しく市原も呆然としているように見える。そんななか真っ先に口を開いたのは、今回ばかりは誰よりもダメージの少ない北居大和だった。
「ぼくら、これからどうなっちゃうんすかね……」
「……どうって、おまえ」
なんと答えていいかわからないのか、市原が口ごもった。
「馘首とか、謹慎とか、編集長にそんな権限あるんですか?」
日向野と市原が揃って目を瞬かせる。北居が存外にまともなことを云い出したからだ。
「あの人の下で働けないことは、その、もうたしかだと思うんですけど」
急に注目されて緊張したのか、北居の声が小さくなる。
「でも、ここ、会社ですよね。一応ほかの部署もあるし、その、総務に相談とか」
まあな、と市原が疲れたような溜息をついた。
「おまえはそうしろ、北居。まだ若いんだし、ウチ来たばっかりなんだし、ほかに行くとこもあんだろ」
けどオレたちはなあ、と日向野を見て、それから柊を見て、市原は大きな溜息をついた。
「社が持ってる媒体はウィークリーゴシップ一誌だろ。オレたちはその記者として雇われた。ほかの仕事をすることは期待されてない。オレたちを使うと決めた編集長に馘首って云われりゃ、やつにそんな権限なんかなくたって馘首になるんだよ。そういうもんだ」
「市原さんはぼくと同じ謹慎じゃないですか」
「……いいよ、オレも馘首で」
いいよって、そんな、と北居は眉根を寄せる。ただでさえ困った犬のような顔をしているのに、いまは泣き出しそうな表情になってしまっている。
「デスクはなんにも云わないんですか、あんな一方的に……」
さんざんパワハラを受けてきた割には、北居は日向野に懐いているらしい。彼が去ることに納得がいっていないのか、今度はそんなことを云い出した。
日向野はすぐには答えなかった。彼はじっと柊を見据えている。いたたまれずに俯く愚かな部下を責めるように。
この事態を招いたのは間違いなく自分だ、と柊は思っていた。
デスクは止めたのに。
市原はアドバイスをくれたのに。
北居まで心配してくれたのに。
彼らの云うことを聞こうとせず、暴走して、油断して、最悪の状況を作り出してしまった。
谷本が日向野を目の敵にしていることは知っていた。それは柊だけが承知していたことではない。ウィークリーゴシップ編集部のなかでは周知の事実だった。
売れさえすればなんでもありの谷本に対し、醜聞専門誌といえども最低限の矜持――なんなら良心と呼び換えてもいい――は持っているべきだという日向野。
谷本の自尊心を損ねないよう上手く言葉を選べるもうひとりのデスク、半井とは違い、日向野は器用な性質ではなかった。その場にいたことがあるわけではないので目の当たりにしたことはないが、会議の場での谷本と日向野の衝突は、そこにいる者たちの眉をひそめさせるほど激しくなることが多かったらしい。
利益至上の谷本に対し、正論の日向野。社会的な理は後者にあるが、社の方針に忠実なのは前者。そして、権力を持っているのも。
いずれ日向野はウィークリーゴシップを追い出される、というのが、周囲の一致した見解だった。
「莫迦だな、おまえは」
日向野の声は静かだった。だからこそ深く鋭く柊の胸を抉った。
「すみません」
「あれほど気をつけろと云ったのに」
谷本はな、と日向野は重たい溜息を交えて続ける。
「死ぬほど厭なやつだけど、莫迦じゃねえんだ。記憶力はいいし、計算も速い。物事を自分の思うとおりに運ぶことにかけちゃ、俺なんざやつの足下にも及ばねえ」
「すみません」
「そりゃあまあ、いつかはって思ってたけどな」
「……すみません」
莫迦、と日向野は苦笑いをする。そういう意味じゃねえよ。
「いつかはって思ってた。俺はな。俺は、いつかこの会社を追い出されるって思ってた。けどそれは、俺ひとりのことで、おまえたちを巻き込みたかったわけじゃない」
市原と北居が、視線だけを日向野に向けた。柊は下を向いたままだ。
「俺は谷本とは合わない。合わせる気もない。やつだけじゃない。谷本に迎合するやつも、そうでなくとも上手く付き合っていこうとするやつもあんまり好きじゃねえ。でもな、俺はこの仕事が好きだし、この仕事を好きなやつのことも好きだ」
立派だと誇れるような仕事でもないけどな、と日向野は少し照れたように云う。
「おまえたちにもそうであってほしかったんだよ、俺は。谷本みたいな亡者にはなってほしくなかった」
他人の弱みにつけ込んで、下種な興味を満たしてやることで金儲けをしているような三流誌の記者がなにを云うかと、人は笑うかもしれない。
それでも柊は、日向野のことを幸せな人だと思った。幸せな、やさしい人だと思った。
この世の中でいったいどれだけの人が、いま、このときの自分の仕事を好きだと堂々と云うことができるだろうか。
きっと、そう多くはない。少なくとも、わたしは違う。わたしはこの仕事が好きではない。
誇れる仕事ではない、と日向野は云った。それでもこの仕事が好きだと云った。この仕事にかかわる部下たちにもそうであってほしいと云った。
自分と同じように、幸せであってほしいと――。
そんなふうに云える人から、わたしは仕事を奪ってしまったのだ。彼がたいせつにしていたものを壊してしまったのだ。
「すみません。デスク、すみません……」
あのな、と日向野はあきれたような声を出す。
「俺が云いたいのはそういうことじゃねえんだよ、小鳥遊」
小鳥遊、と今度は少し厳しい声音で名を呼んで、日向野は、顔を上げろ、と云った。
「こっちを見ろ。俺を見ろ」
指先でテーブルを叩き、日向野は柊を呼ぶ。逆らうことができずに、柊はのろのろと顔を上げた。
「俺は別になんも後悔してねえよ。いつかはこうなるってわかってた。谷本を殴って辞めるよかマシだ、犯罪者にはならなかった。そうだろう?」
そんなことを云われたって頷くわけにはいかない。頑なな柊に苦笑いし、日向野は続けた。
「俺はな、自分のことよりもおまえのほうが心配だよ、小鳥遊。おまえ、本当はここでなにがしたかったんだ?」
問の意味がわからず、思わず眉をひそめた柊である。
「ここで?」
「そう、ここで」
ここでって、と呟いた柊は、腹の底を見透かされたような気がしてひやりとする。
「谷本や俺の下で、ウィークリーゴシップで、記者がやりたかったわけじゃないだろう、おまえは」
谷本に大事なUSBメモリを盗まれていたと知ったとき以上の衝撃が柊を襲った。唇を小さく開き、瞬きを忘れたように自分を見つめてくる部下に、日向野は苦く笑う。――甘く見られたもんだ、俺も。
「小鳥遊、おまえは優秀だ。肝も据わってるし、機転も利く。鼻もいいしな。いい記者だ、拾い物をしたと思ったよ」
おまえを採用するなんて、谷本もたまにはいい仕事するじゃねえかと、そう思ったんだ、と日向野は少しおどけた口調で云った。
「はじめはな」
「はじめは?」
「けど、おまえはいつまで経ってもうちの記者にはならなかった。かといって、新聞屋のまんまだったってわけでもねえ。おまえは、ずっと何者でもなかった」
柊は日向野を見ていた。見つめるでも睨むでもない。ただ、――見ている。
「おまえがうちへ来るのには、なにか事情があるんだろうと思った。そりゃ、泣く子も黙る帝都通信からわざわざウチみたいな泡沫に転職してくるんだ、そりゃなにかあるに決まってる。云ってみりゃここは肥溜めみたいなもんだからな。市原だってそうだ、俺もな」
それでも俺たちはここの人間で、おまえは違った。日向野は立てた指を柊に向ける。
「それがどういうことか、わかるか」
柊だけではなく、市原も北居も日向野の言葉をひとことも聞き漏らすまいといった風情で、じっと耳を傾けている。
「おまえの抱えてる事情がいまもまだ続いてるってことだ。市原や俺みたいに、過去にできてない」
勘違いするなよ、と日向野は云う。
「詮索しようってんじゃない。でも、俺はこう思った」
――ああ、だからこいつは記者になれねえんだって。
柊はたまらなくなって、日向野から目を逸らした。俯くことこそ堪えたが、しかし、視線だけはたしかに逃げた。
「仕事には真面目だった。努力もしてた。ウチで求められているものをすぐに掴んで、次々にいいネタを抜きもした。が、普通に考えれば、それはあまりにも不自然だ」
「不自然?」
思わずと云った調子で北居が呟く。彼に応えるように日向野は続ける。
「不自然だ。そうだろう。まだ駆け出しだったとはいえ、天下に轟く帝都通信の記者だったやつが、醜聞専門の週刊誌に転職して、すぐに前向きに頑張ろうなんて思えるか」
俺なら思えないね、と日向野は笑う。
「片や、名刺を出せばだれもが相手にせざるをえないような通信社と、片や、うっかりすれば目の前で名刺を破り捨てられるような雑誌屋とでは、ネタの扱いも取材の仕方もぜんぜん違う。記者会見の会場にすら入れず、情報屋にも足元を見られ、夜討ち朝駆けどころか不法侵入まがいのことをやらかしてようやくネタを掴んでくるようなウチの実情を、小鳥遊、おまえ知ってたか?」
知らなかったよな、と日向野は断言した。
「驚いただろう。同じ記者でもこれほど違うかと、おまえは戸惑ったはずだ。戸惑って、きっと後悔したはずだ」
「後悔……」
どこかぼんやりとした声で柊は繰り返し、ひどく遠い目つきで日向野を見遣った。
――後悔。そんなもの、あったっけ。
「しなかったのか」
しなかったんだよな、という日向野の声は、まるで幼いこどもに云い聞かせるようだ。
「おまえは後悔なんてしなかった、小鳥遊。そうだな?」
柊は頷かなかったが、日向野はわずかに目を眇めただけで、答えを強要しようとはしなかった。
「なんでか、わかるか」
わかるはずがなかった。日向野の云うようなことを、柊はこれまで一度も考えたことがなかった。
「おまえがこの仕事を仕事として考えていなかったからだ、小鳥遊。おまえにとってうちの仕事は仕事じゃなかった。なにかの手段だった。生活費を稼ぐためとか、自尊心を満たすためとか、そんなんじゃない。もっと具体的な目的のための、具体的な手段だった」
云い方を変えようか、といった日向野の声は残酷に思えるほどやさしい。
「おまえは、うちの仕事を利用してたんだよ」
だから全部どうでもよかったんだ。
追いかけるネタが醜聞であることも、ときにはガセを流すことも、それがもとで誰かが傷ついていることも、――なにもかもどうでもよかったんだ。
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