32

 鉛のように重たい沈黙が降りた。柊だけでなく、双子もまた口を開こうとしなかった。

 瀬尾が薔子を殺めた、というなかば妄想にすぎなかったはずの推測が、やおら実体を持って柊に襲いかかってくる。柊は空になったカップを見つめ、ひとつひとつ数えるように深い呼吸を繰り返していた。


 双子の推理に穴はない。少なくとも柊には見つけられない。


 柊はなにやら可笑しいような気持ちになった。

 薔子を殺した犯人を見つけてやる、裁きの場に引きずり出してやると、あんなに思っていたのに。いまのわたしはまるで、先輩が殺人犯ではないことの証を、どうにかして探し出そうとしているみたいだ。

 わたしはまだ、そんなに先輩のことが好きだったんだろうか、と彼女は場違いな疑問を思い浮かべた。瀬尾に特別な感情を抱いていることはたしかだが、それはもうとうに恋とは呼べなくなっていたはずなのに。


 ああ、違う。そうではない。


 わたしは、先輩のために彼の無実を信じたがっているのではない。

 薔子のために願っているのだ。

 だってこれではあまりにも薔子が気の毒だ。恋人であった男に殺され、その男が罪を償うこともなく、清い顔をして暮らしているなど――。

 だからわたしは認めたくない。瀬尾理人が拓植薔子を殺したことを、どうしても認めたくない。


 そのとき、聞き慣れた振動音が柊の鞄のなかから持ち主を呼んだ。着信に気づいた柊は、けれど、いまこの電話に応答するのはよろしくないとまっとうな判断を下し、無視することに決めた。

 だが、電話はしつこく鳴り続ける。一度やんでもすぐにまた震えはじめ、それが二度、三度と繰り返されるうちに、真璃が、出たら、と不機嫌そうに云った。


「ごめん」


 気まずい思いでスマートフォンを取り出してみれば、表示されているのは編集部の番号だ。休暇中だとわかっているはずなのになんで、と思いつつも、画面をタップして応答する。


「小鳥遊ッ! てめえッ、いまどこにいるッ!?」


 極小のマイクから本人が飛び出してきたのかと思うほどの大音声である。柊は慌ててマイクを指先で押さえ、なにごとですか、デスク、と問い返した。


「てめッ! 書くなとあれほど云ったろうがッ! なんで俺の云うことが聞けなかったんだッ!!」


 マイクから指先をそっとずらせば、耳を押し当てなくとも日向野が怒鳴っているのが聞こえる。が、声は聞こえても、彼がなにを云っているのかさっぱりわからない。


「なんのことですか?」

「とぼけんなッ! 谷本にネタ持ち込んだんだろうが! くそッ、狙っての休暇か、性質悪ぃな!!」

「だからなんのことかって……」

「なんのこともクソもあるか! てめえ、俺を騙しやがって! いまどこにいやがる? え!?」

「だ、騙すって……」


 不穏な会話に双子が眉をひそめ、様子を窺ってくる。話をあまり聞かれたくない柊は席を立とうとしたが、隣に座っている由璃に腕を掴まれ、阻まれてしまった。


「デスク、お願いですから……、デスク!」


 わたしの話を聞いてください、という言葉は、ぶっ殺してやる、という物騒きわまりない怒鳴り声に遮られる。柊は顔を歪めた。


「なにがあったのか、教えてもらえませんか」


 電話の向こうが急に静かになった。デスク、デスク、と幾度か呼びかけるも返事はない。


「……小鳥遊か」


 このままでは埒が明かない、いったん切ってかけ直すか、と思ったそのとき、日向野とは別の低い声が耳を打った。


「市原さん」

「おまえ、いまどこにいるんだ」

「どこって、えっと、それは……」

「どこでもかまわねえ、すぐに来い。とんでもねえことになってる」


 とんでもないってどういうことですか、デスクはどうしたんですか、と矢継ぎ早に尋ねると、市原は深い溜息をついた。


「つべこべ云わずに来い。デスクは北居が別室に連れてった。何発か殴られたり蹴られたりしてたから、おまえ、あとであいつに適当に謝っとけよ」


 どんなに深刻そうな声を出そうとも、北居の扱いは常に雑なんだな、と柊はなかば逃避気味にそんなことを思う。いったいなにが起きたのかさっぱりわからないが、いずれにしろろくでもないことになっているのは確かなようだ。


「市原さん。いったいなにがあったんです?」


 柊の真剣な声に市原は沈黙で答えた。


「お願いします。いきなり怒鳴られても、なにがなんだかわけがわからない」

「オレたちもわからねえ。わからねえがまずいことになってるのは間違いない」

「だからなにが……」


 電話で話すことじゃねえな、と市原は云った。


「会社に着いたら下から電話しろ。デスクに会う前に、状況だけは説明してやる」



 長期の休みなんじゃなかったの、話はまだ終わってない、と口々に云い立てる由璃と真璃を置いて、柊は編集部へと文字どおり駆けつけた。地下鉄に乗っているあいだを除いて走りに走り、ウィークリーゴシップが入居している雑居ビルの一階に辿り着いたときには、肩を大きく弾ませ、ろくに声も出せないようなありさまだった。

 市原のプライベートナンバーをコールすると、すぐにそれに応じた彼は、柊がなにかを云う前に、そこで待ってろ、と云い、通話を切った。低い声の底には引き攣れるような緊張があり、いよいよもってただごとではないと柊は身を震わせる。


 現れた市原はひどく硬い顔をしていた。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。

 疲れのせいばかりではなく膝が震えるのを感じ、柊は強く拳を握って先輩の言葉を待った。


「小鳥遊、おまえ、犬飼の記事、編集長に渡したのか」


 市原がなにを云っているのか、柊にはまったく理解できなかった。ぽかんとしてその顔を見上げれば、苛立った様子の彼に腕を掴まれ、ビルの駐車スペースの奥にある喫煙所へと引きずっていかれた。


「おまえがこだわってた犬飼と塩穴の件だ。あれ書いて、谷本に渡したのかって訊いてる」


 とんでもない、と柊はぶるぶると首を横に振った。


「渡してません」

「書いたのか」

「書いてません」


 デスクをあれほど怒らせた理由が薄々ながら察せられる。膝が震え、太腿が震え、肩が震えた。立っていられない。


「正直に云え」

「だから、書いてないって……」


 壁に凭れ、しゃがみ込まずにいるのもやっとの柊に市原は迫る。


「本当だろうな」

「本当です」


 鼻先と鼻先が触れあわんばかりの距離にまで間を詰められ、柊は思わず呼吸を止めたくなる。


「本当、だろうな?」


 市原はしつこかった。


「本当だって、云って……」

「じゃあ、これはなんだ?」


 押しつけられたのは、くしゃくしゃにされた大判紙だった。見慣れたフォントとレイアウトで、それがウィークリーゴシップの刷出しであることがわかる。

 ひどく皺になった紙を丁寧に伸ばしながら、柊はそこに目を落とした。そして、今度こそ息を詰まらせた。


「息をしろ、小鳥遊」


 どん、と肩を叩かれた柊は蒼白の顔で市原を見上げる。


「こ……、こ、これ……、これ」

「おまえの文章だろ」


 そこには四分の一頁ほどの記事があった。写真の一枚もなく、文字ばかりが並ぶ時事ネタを扱うコーナーは、柊自身埋め草に困ることもあるウィークリーゴシップ唯一の読物欄である。

 転職してきたばかりのころは特集を任されることもなく、ここを埋める記事ばかりを書かされていたっけ、と柊は思うが、いまは懐古に浸っているときではない。


 明日には読者の手に渡ろうという、その記事の内容こそが大問題だった。


「犬飼の自殺に塩穴がかかわってるって件。あの線は完全に捨てたんじゃなかったのか」

「……捨てました」


 震え、弱々しい反論の声を上げつつも、柊は必死になって文字を追った。


 書かれているのは、ついこのあいだまでの柊が追いかけていたネタそのものだった。汚職の疑いをかけられていた市議会議員が自殺をし、その裏には塩穴の陰謀があったのではないかというその線は、しかし、塩穴の秘書を務める大倉卓明に取材をかけたことで、完全に没になったはずだった。

 柊の根拠なき暴走を、日向野や市原が止めた形で終息したはずのそのネタが、なぜいま記事になって目の前にあるのか、柊にはまったくもって理解できない。

 ――これはわたしの文章だ。でも、こんな記事を書いた覚えはない。

 デスクや編集長にどれだけ直されても消しきれない書き癖はたしかに柊のもので、その内容も知り尽くした事柄ではあるが、しかし、誓って自分の書いたものではない。


「あのネタ、班の外の誰かに話したか」

「話してません」

「半井さんとこにもか」

「もちろんです」


 市原の問いに答えながらも、柊は刷出しから目を逸らすことができずにいる。

 市議会議員犬飼要平の死の陰で笑う大物国会議員、という見出しは前後に一行ずつの空白を取ってはあるものの本文と同じ大きさのフォントで淡々と並んでいる。それだけに内容のインパクトは大きく、読んだ者の興味を強く惹きつけるだろう、と思われた。


「今週号の担当は半井さんだ」


 市原の声から詰問の色が抜けた。柊ははっと顔を上げ、続く言葉を待つ。


「刷出しがあがってきたのは昼前だ。そいつを見るなり、半井さんがデスクんとこに駆け込んできた」


 おい日向野、ふざけんな、編集長になにねじこみやがった。

 市原は淡々と悪罵を吐き、半井さんはそう怒鳴ってデスクの襟首を締め上げたんだよ、と云う。

 なんのことだ、とわけがわからないで目を白黒させてる日向野は、こりゃおめえんとこの新聞屋の筆だろうが、とさらに半井に怒鳴りつけられ、我に返った。


「半井さんから刷出しを見せられたデスクは赤くなって青くなって、また赤くなっておまえに電話した。北居を蹴ったり殴ったりしながら打合せ室に籠ってる。おまえはこれからそこに行って申し開きをするわけだが……」


 その前に、と市原は柊の手から刷出しを取り上げた。


「経緯を話せ。ことと次第によっちゃ加勢してやらんこともない」

「加勢って……」


 柊はゆるゆると力なく首を横に振った。――無理だ。なんにも言葉を思いつかない。


「大倉には会ったんだよな?」

「もちろん会いました」

「あいつから全部聞いたんだろ」


 はい、と柊は頷く。大倉卓明から聞かされたことを編集部で話した憶えはないが、彼を紹介してくれたのは市原だ。こだわっていたネタをあっさりと捨てた――捨てざるをえなかった――理由を知っていてもおかしくはない。


「……書くわけけないよな」


 市原はひとり頷いている。


「書いてません。でも……」

「でも?」

「でも、この文章はわたしのものです。わたし自身が一番よくわかる。間違いない」


 おまえは莫迦なのか、とでも云いたげに市原は鼻を鳴らした。


「けど、書いてないんだろ」


 書いてない、と柊は首を横に振る。書いてない。書いていないけど、でもこれはわたしが書いたものだ。

 頭がおかしくなりそうだった。自分の身になにが起きているのか、事態を把握したはずのいまもさっぱりわからない。


「上へ戻るぞ」


 しばらくのあいだ、項垂れる柊をじっと見降ろしていた市原が不意にそう云った。


「ここでこうしてても埒が明かん。おまえが経緯を思い出せるならと思ってたが、そうでないなら話は別だ。デスクと直接話せ。それが一番いい」



 開けた扉からなにが飛んできてもいいように壁に張りつく市原を、このときばかりは柊も笑うことができなかった。彼女自身は日向野に殴り飛ばされても文句は云えないが、市原は違う。

 ままよ、とばかりにノックもおざなりに部屋に入れば、はたしてそこには暴れ疲れて椅子の背にぐったりと凭れかかる日向野と、それ以上に草臥れ果てて打合せ用のテーブルに突っ伏している北居がいた。


「……デスク」


 おそるおそる声をかければ、日向野が視線だけを柊に寄越す。すわ怒鳴られるか、掴みかかられるかと身を竦めたが、怒声や日向野自身も含め、なにかが飛来する気配はまったく感じられなかった。

 扉の向こうからなにも飛んでこないことを察するや、市原は柊の背後から滑り出て、連れてきました、と日向野に云う。見りゃわかる、と云わんばかりの目つきで日向野は市原を見遣り、疲れたような溜息をついた。


 なあ小鳥遊、と急に年齢相応に老け込んだような顔をしたデスクは呼びかける。


「俺にもわかるように、全部説明してくんねえか」


 柊の背中に冷たいものが走った。いつも、いつでもわかりやすい怒りを見せていた日向野大祐は、本当に本当の怒りを抱くと温度の下がる男なのだ。


「はい」


 声が揺れないようにするのが精一杯だった。腰を下ろすために椅子を引いたとき、自分の指先がひどく震えていることに気づいた柊は、さっき市原と話していたときと同じようにぐっと拳を握りしめる。


「刷出しを見ました」

「そうか」

「まるで覚えのない記事です」


 あれを書いたのはわたしではありません、と柊は云った。日向野は表情を動かさない。


「本当です。信じ……」

「でもありゃ、おまえの筆だよな」


 信じてください、という言葉を遮られ、柊は唇を噛みしめる。


「だよな?」


 日向野の声は低く落ち着いていた。嘘をついてもなにもかもを見透かされてしまうような気がして――どうせもう市原にはすべてを話してしまったのだから、嘘をついても無駄なのだ――、柊は、はい、と頷いた。


「オレは、書くな、と云った。谷本には気をつけろ、とも云った。おまえはなんて答えた?」

「わかりました、と……」


 だな、と日向野は頷く。そうしながらも、彼は柊から目を逸らさなかった。柊もまた同じだ。

 市原も北居も部屋を出て行ったわけではない。息を殺し、気配を殺し、立ち去ることなくふたりのやりとりを見守っている。柊はそのことに助けられるような気もしたし、同時に追い詰められるような気もした。


「それがどうしてこんなことになる?」


 日向野の指先がテーブルの上の刷出しに触れた。書かれている文字を、それがまるで忌まわしい呪文であるかのような目つきで眺めながら彼は続ける。


「書いたのか」

「いいえ」

「谷本にタレこんだのか」

「いいえ」

「それなら……」


 爆発は唐突だった。


「それなら! なんで、こんなことに、なるんだよッ!!」


 日向野の手が刷出しを引っ掴み、それを自分に向かって投げつけるのを、柊はただ茫然と眺めていた。空気抵抗で勢いを失った紙に緩くこめかみを叩かれ、ニットの胸倉を引っ掴まれて、ようやく我に返る。


「デスク! それはまずいっす! まずいっすよ!」


 北居が日向野の腰にしがみついている。彼がそうしていなければ、まず間違いなくわたしは殴りつけられていただろうな、と柊は妙に冷静だった。


「これ書いたのはてめえだろうがッ!」


 俺の目はごまかせねえ、と喚く日向野に柊は小さく頷く。そうです、これはわたしの文章です。


「しれっとした顔で、自分がなに云ってんのかわかってんのかッ! 小鳥遊!!」

「でもこの記事を書いたのはわたしじゃない。編集長に持ち込んでもいない。信じてください!」

「信じられるかッ!」


 強い力でガクガクと揺さぶられた。脳震盪を起こしそうな勢いだ。


「半井もな、青天の霹靂だっつってたんだよッ! 校了のときはたしかに別の記事だった、班の連中にもしっかり確認したってな!」


 差し替えたのは編集長だ、とそこだけひどく低い声で日向野は云った。


「そんなことができるのは谷本しかいない。元の記事とあらかじめ用意しておいたこの記事とを差し替えて、発売日に間に合わせるよう印刷に圧力をかけられるのはやつだけだ」

「でも、わたしは……」

「俺は書くなと云った。おまえはわかったと云った。俺は谷本には気をつけろと云った。おまえは……」

「でも、わたしは本当になにも知らない。なにもしてない、本当です」

「本当か?」


 ふいに市原が口を挟んだ。


「本当におまえはなにもしてないのか?」


 胸倉を掴まれたまま柊は激しく頷いた。縋りつくように市原を見つめ、してない、してません、と繰り返した。


「よく思い出せ。どんな些細なことでもいい、思い出すんだ」


 そんなことを云われたって、と柊は思う。犬飼と塩穴の件は、記事の下書きさえ起こさないまま没にした。そもそも存在するはずのない原稿なのだ。それがなぜか記事になってここにある。なにがどうしてこうなったのか、一番知りたいのは柊本人だ。


「おまえ、いつもメモを作るだろう。あれはどうした?」


 なんのことだ、と柊は市原を見遣った。


「原稿にする前のネタ、なんでもかんでも放り込んどくゴミ箱USBがあるだろう。パンダの首が取れる、趣味の悪いやつ」


 柊は大きく目を見開いた。慌てて日向野の手を振りほどき、鞄を掴む。

 訝しげな表情を浮かべる日向野と北居の前で鞄をひっくり返し、目当てのペンケースを見つけ出す。もどかしげな手つきでケースを開き、なかを探り――、そして、絶望的な顔になった。


「……ない」


 市原に向かって首を振る。市原は、やっぱりな、という表情で、しかし口を開かなかった。


「小鳥遊さん」


 衝撃のあまりぐらぐらする視界に耐えかねて、柊はぐったりと椅子に座りこんだ。自分を呼ぶ声は無視だ。


 そうだ、そうだった、と柊はいまさらのように思い出す。

 大倉に会う直前まで、わたしは塩穴に対して強い疑惑を持っていた。なかば確信に近い推理をもとに草稿を起こし、それをUSBに保存しておいた。いつも持ち歩く鞄のなかにしまい込み、誰にも触れられないようにしてはあったが、記事は――原稿の元となる草稿は――たしかにそこにあったのだ。


「小鳥遊さん」


 おそるおそる、といった調子だった声が少しだけ大きくなった。


「……なによ」


 追いつめられた手負いの獣にふさわしい唸り声で、柊は答える。


「ぼく、そのパンダ見ました」

「どこでッ?」


 一瞬前まで項垂れきっていたはずの柊と、しっかり押さえ込んでいたはずの日向野から異口同音に怒鳴りつけられ、気の毒な北居はあからさまに怯えた顔をした。


「へ、編集長が持ってたんですよ」

「谷本がッ!?」


 いつだッ、と日向野が怒鳴る。大声で相手を威嚇することも立派なパワーハラスメントになるんだけどな、と柊は思った。だが、日向野がやらなければ自分がやるだけだ。


「え……、え、いつって……」


 北居は視線をうろうろと彷徨わせ、あ、そうです、と柊を指差した。


「あの日です、あの日! 小鳥遊さんに来客のあった日。女の人が訪ねてきて、でも、そのとき小鳥遊さん不在で、あとから帰ってきて、ほら、なんか慌てた感じで追いかけて行った日あったじゃないですか! あの日ですよ」


 秋山斗貴子が訪ねてきた日か、と柊は思い出す。あのときはたしか、帰社したばかりのタイミングで秋山の来社を告げられ、とるものもとりあえず彼女を追いかけたのではなかったか。


「あのとき、珍しくうちの班に編集長が来たんですよ。たぶん、ぼく以外誰もいなかったからだと思うんですけど」


 谷本と日向野は折り合いがよくない。谷本は日向野の仕事のやり方に不満があるし、日向野は谷本を軽蔑している。だから、谷本は日向野が在席しているときは、決して部下のテリトリーに近づかない。


「なんか、調子はどうだ、とか、仕事は憶えたか、とか、デスクに不満はないか、とか、いろいろ訊いてきて……」


 ぼくは適当に返事してたんですけど、と北居はまだ叱られてもいないのに首を竦める。


「なんか隣でごそごそしてんなって、そう思ってはいたんですけど……」


 北居と柊の席は隣り合っている。柊は己の迂闊をまるっと棚に上げ、後輩を睨み据える。


「あんた、なんにも云わなかったわけ?」

「云えるわけないじゃないですか」

「人の持ち物漁ってるんだよ? 泥棒でしょ、それ」

「……云えません。ぼく、もうグラビアに戻るのは厭なんです」


 ほんとに厭なんです、と北居は泣き出しそうな声で云った。

 谷本智弘はウィークリーゴシップの編集長だ。編集権だけでなく人事権も握り、編集部内においては絶大な権力を誇っている。異動してきたばかりの、それもまだごく若い北居が彼に逆らえるはずもない。わかっている。わかってはいるのだ。

 けれど、それでも――。柊は耐えきれずにきつく目を瞑った。


「ひとつわからんことがある」


 またもや口を挟んだのは市原だ。


「編集長は、小鳥遊が犬飼のネタを追ってることをどこで知ったんだ?」


 日向野と北居が、まるで振りつけられたかのような揃いの仕種で市原を見遣った。

 みなが息を詰めるなか、柊だけが喉を鳴らす。――もしや。

 そこへ、場違いに明るい声が割り込んだ。


「そうだな。その質問にはオレが答えてやろう。それが筋ってもんだ」


 腹が立つほど明るい声が、さして広くもないミーティングルームに響き渡る。

 すべてを知るはずの当の本人、谷本智弘のおでましだった。

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