29

 荻野のもとを辞したその足で、柊はかつての職場である帝都通信社へと向かった。

 現在も付き合いのある唯一の後輩、小野寺慈に会うためである。


 瀬尾理人が薔子を殺めた証拠を探すのは、そう簡単なことではない。なにしろ警察が一度は諦めた線なのだ。素人である自分が正面からぶつかってどうにかなる問題ではないことくらい、柊にだってわかっている。

 普通なら、どうにもならないと諦めるところだ。


 警察とわたしが違うのは、と柊は考える。先輩が薔子を殺したに違いない、という確信を持って動けるかどうか、という点だ。

 この確信こそが柊と警察の違い――素人に許されて、国家権力には許されていないこと――であり、同時に大きな優越だと云える。

 犯人のあたりをつけ、しかるのちにその証拠を集める。警察ではこれを見込み捜査と呼び、少なくとも表向きは禁じ手としているが、柊は違う。彼女は警察官ではない。情報力に大きな差はあれど、最短のアプローチをとることのできるぶんだけ、柊にはまだ可能性が残されている。


 社の近くから電話をかけると、小野寺は突然のことに文句を垂れながらも、さほど時間をおくこともなく待ち合わせの喫茶店まで出向いてきてくれた。


「早いじゃない。ひまだったの?」

「だいぶ忙しいですよ」


 ぶくぶくとクリームソーダに泡を立てながら、小野寺は肩を竦めた。

 行儀が悪いことこのうえないが、小野寺には、そんな振舞いさえ苦笑いひとつで許してしまいたくなるような朗らかさがある。危険な地域へ赴き、悲劇を取材することを仕事とし、数多の痛みを目の当たりにしているであろう彼女が、いまもってなおまっすぐな心を失わずにいられるのは、その性分に助けられているからに違いない、と柊は思う。


「先輩の頼みだから出てきたんですよ」


 ひさしぶりですよね、こうやって顔合わせるの、と小野寺は上目遣いで柊を見つめた。


「そうだっけ?」


 ひまじゃないのよ、わたしも、と嘯けば、そうですか、と妙に白けた顔で返される。


「なに、どうしたの? しばらく会わないうちに反抗期?」

「先輩」


 茶化そうとした柊に、小野寺は真剣な眼差しを据える。


「大丈夫ですか」

「なにがよ」

「顔色、よくないですよ」


 ストローを唇から外した小野寺が首を小さく横に振る。


「会社辞める前も、ちょうどそんな感じでしたよね。先輩、すぐ顔に出るからわかりやすいんですよ」

「わかりやすいって……」


 帝都通信を辞めて二年。前職関係者でいまも継続的に交流があるのは、小野寺慈ただひとりだ。いかな無愛想者とはいえ、世話になった相手も世話をした相手もそれなりにいたはずだが、ほとんど解雇されたに等しい落伍者に、エリートたちは冷たかった。

 どこかのんびりとした気質で、おまけに心根のまっすぐな小野寺だけが、いまもまだ柊を先輩と呼び、付き合いを続けてくれている。

 そんな小野寺にも、柊はなにも話していない。薔子の事件のことも、退職の理由も、なにも。

 これまでやってきたこと、これからやろうとしていること、すべてを話せば、小野寺はきっと驚くだろう。そして、止めようとするに違いない。――危ないです。無謀ですよ。警察に任せておけばいいじゃないですか。

 彼女はやさしいから。とても純粋だから。他人を信じることを知っているから。


「わかんないから、そうやって訊いてくるんじゃないの?」

「それはまあ、そうなんですけど」


 拗ねたように唇を尖らせる小野寺は、珍しくしつこく食い下がってきた。


「なんか、やな感じなんですよね」

「やな感じって?」

「隠し事はいつものことなんですけど、なんかやな覚悟決めてません? 先輩」

「覚悟って……」


 覚悟は覚悟ですよ、と小野寺は胡乱な目つきで柊を刺した。


「なんか、会社辞めたときと同じ匂いがするんですよね。誰にもなんにも云わないでどっか行っちゃうみたいな、なんかそういう感じの」


 だからやなんですよぅ、とおかしな具合に語尾を伸ばし、小野寺が首を横に振る。


「これから頼まれること、引き受けたくないなって、そう思っちゃう」

「わたし、まだなんにも云ってないけど」

「じゃ、頼みごとじゃないんですか」


 飲みのお誘いとか、と首を傾げた小野寺は、そんなわけないじゃないですか、と自分で自分に突っ込みを入れる。


「会社辞めてから、先輩一回もちゃんとしたごはん誘ってくれませんよね。わたしが誘ってももちろんだめだし。連絡してくるときは頼みごとばっかり、いっつも、心ここにあらずだし」


 わたしは恋人にワーカホリックを責められてでもいるのか、と柊は憮然とする。小野寺の言葉は、それだけを聞けば、そう聞こえないこともない。


「いい加減、教えてくれません?」

「は?」


 急に切り込まれ、咄嗟に言葉を返すことができない。


「先輩、なに追っかけてるんです?」

「なにって……」

「先輩からすれば、わたしなんかまだまだなんでしょうけど、一応通信社の人間なんですよ、わたしも」


 慈がまだまだなんていうことはない、と柊は思った。報道の世界では圧倒的不利とされる女の身でありながら、カメラマンとして第一線に立ち続けているのだ。経験不足を差し引いても、わたしなんかよりもよほどちゃんとしたジャーナリズムを知っている。


「そのなけなしの勘が云うんですよね。先輩はずっとなにかを追いかけてる、追いかけてるなにかを隠してる。会社を辞めたのもそのせい、会いには来るのに、一緒にごはん食べるの厭がるのもそのせいって」

「小野寺……」

「うちのデータ、欲しいんですか?」


 柊は答えられない。


「ウィークリーゴシップの記事にしないっていう条件でなら、調べてもいいですよ、わたし」

「そんな安請け合い……」


 あんた、共犯者になるんだよ、小野寺、と柊は云った。


「ばれたらまずいことになるかも」

「だからですね、先輩」


 小野寺はテーブルの上にずいと身を乗り出してくる。瞬間で距離が縮められ、柊は息を飲む。


「教えてください。それがもうひとつの条件です。先輩が追いかけてるなにかと、その理由を教えてください。でなきゃ、わたしはなにも協力できません」


 たまらずに小野寺から視線を逸らした。唇を噛んで俯けば、自分の指先が細かく震えていることに気づく。


 云えない、と柊は思った。


 小野寺慈に調べてもらいたかったのは、薔子の事件に関する情報だ。もちろんただの情報ではない。

 公式の記録や公表された記事などであれば、多少の手間を覚悟すれば柊でも集めることができる。そういった検索と収集は仕事のうちだ。むしろ得意分野である。

 薔子の事件は世間の耳目を集めた。取材は念入りに行われ、あらゆるメディアによって広く報道された。

 しかし、解決が遅れ――むしろ迷宮入りし――、時間が経過するとともに、世の関心は薄れていった。あわせて報道も下火となり、やがて完全になくなった。

 だからといって取材まで行われなくなったわけではない。むろん、追い続ける記者の数は減るが、それでもゼロにはならない。人の目に触れることのない情報は、広く膾炙するものと同じだけ、あるいはそれよりもずっと多く存在する。

 帝都通信にはそのようにして集められた情報が蓄積されているデータベースがある。配信されなかった記事、掲載されなかった写真、放送されなかった映像、それらが貴重な資料として静かに眠っている。


 柊はその情報を手に入れたかった。

 瀬尾を追い詰めるには、あらゆる角度からのアプローチが必要だ。事件に直接関係のあることだけではなく、周辺の情報も把握しておきたい。


 事件から二年近くが経過したいま、そうした情報を手に入れるのは至難の業だ。ウェブで検索すれば山のようにヒットするかもしれないが、所詮は有象無象。時間のないいま、真偽のほども定かでないものにかかずらっていることはできない。

 帝都通信のデータベースなら、ある程度精査された情報が集められているはずだ。そこに誤謬や誤解がないとは云わないが、ウェブを彷徨うよりはずっと早く精度の高い情報に触れられる。


「先輩」


 薔子の事件をいまも追い続けていることを口にしたところで、その理由はどうとでも誤魔化すことができる。小野寺なら簡単に騙されてくれる、と柊は思っていた。

 あるいは、嘘と気づいてても黙っていてくれる。

 そう、考えていたのだが――。


「先輩」


 顔を上げない柊に焦れたのか、小野寺が尖った声を出す。


「知りたいことがあるんですよね? なんで知りたいのか、それを話してはもらえないんですか」


 だって話せば、あんたはわたしを止めようとする、と柊は声には出さず反論する。そんな危ないことやめてください、警察に任せてくださいって、正論を云う。


 聞きたくないのだ、そんなことは。


 云われなくたってわかっている。小野寺に、荻野に、ほかの誰に云われるまでもない。

 わかっているのだ。自分がやろうとしていることが、ただの自己満足だと。

 ――ちゃんとわかっているのだ。


「わたしはそんなに頼りないですか。信用できませんか」

「……違う」


 柊は咄嗟に否定していた。そういうことではない。むしろ小野寺のことは信頼している。ほかの誰よりも。


「どうしても云わないとだめ?」

「だってそうじゃないと、先輩、黙ってどっかに行っちゃいそうで」


 小野寺の言葉にびっくりして、柊は目を瞬かせた。


「さっきも云いましたけど、先輩、ずっと変ですよ。自分じゃわかんないのかもしれないけど。データ管理室にいたころの先輩は、元気はなかったけど、その、こういう云い方はなんですけど、まともでした。会社辞めるって云い出す少し前まで、ほんと普通でした」

「普通?」


 どこが普通だ、と柊は苛立ちを覚える。打ちのめされ、打ちひしがれて、書くこともできなくなって。あのころに比べれば、いまのほうがずっとまともだ。


「違いますよぅ」


 小野寺はまたおかしな具合に語尾を伸ばす。


「そういう意味じゃないです。人として普通、まともってこと」


 こういう言葉好きじゃないんですけどね、と小野寺は顔をしかめながら同じことを繰り返す。


「あのころの先輩、すごくつらいことがあったんですよね。それで落ち込んでた。仕事にも身が入らなくなって左遷されたって、人から聞いて知りました」

「なにを聞いたの?」

「いろいろですよ。お友だちが事件に巻き込まれたとか、そのことを書けなくて飛ばされたとか、そんな感じのことです」


 そう、と柊は素気なく頷いた。人の噂などどうでもいいが、小野寺がそんなことに惑わされたのかと思うとおもしろくない。


「でもね、それ聞いて、わたし、すごく納得したんです。そりゃ、元気もなくなるよ、落ち込むよって。あたりまえよだって」

「あたりまえ?」


 うん、と小野寺は幼い仕種で頷いた。指先でストローを弄びながら、あたりまえですよ、と繰り返す。


「だって、友だちですよ、殺されたの。落ち込むに決まってるし、ショックだって受けて当然です。それを記事にしろとか、書けないなら記者やめろとか、そんなこと云うほうがおかしいでしょ」

「そう、なの……」

「そうですよ」


 小野寺はいったん引いていた身体を、ふたたび乗り出してくる。だから、と彼女は強い口調で云った。


「あのころの先輩は普通です。落ち込んで、元気なくて、やる気もなくて、でもそれが普通。いまの先輩は変です」

「どう、変なのよ?」

「元気すぎる」


 柊は思わず眉根を寄せてしまった。小野寺の云うことは突飛にすぎて、よく理解できない。


「元気すぎます。会社辞める少し前から、先輩、変に前向きですよね。なんか振り切れちゃった感じ。転職してからはもっと変。なんか張り切りすぎだし、頑張りすぎ。いつかプツンて切れて、どっか行っちゃいそうです」

「変、て……」


 だってそんないつまでも落ち込んでるわけにいかないでしょうが、と柊は云った。


「悲しいとか寂しいとか、いつまでもそんなこと云ってられないでしょ。友だちは死んじゃったけど、わたしは生きてかなくちゃいけないんだし、仕事だってしなくちゃいけない。わたしは記者でいたかったんだから、記者の仕事をさせてもらえるところに転職するのはあたりまえじゃない。なにが変なのよ」


 図星を突かれた動揺を隠そうとして、喧嘩腰になっているのは自分でもわかっていた。だから、小野寺が呆れたような溜息をついたのに、さらにカチンときてしまった。


「悲しくていいじゃないですか。寂しくても。それがあたりまえだって云ってるんです。大事な友だちだったんですよね。悲しいのも寂しいのも長く続いてあたりまえです。どうしてそこを否定しようとするんですか」


 悲しむ資格がないからだ。寂しがる資格がないからだ。


 思わずそう云い返そうとして、すんでのところで思いとどまった。ここまで云われてもなお、自分の無力こそが薔子を貶めてしまった事実を誰かに――ほとんど唯一、まともにつながってくれている後輩に――謗られることがおそろしかった。

 柊はきつく唇を噛みしめる。


「知りたいのは、そのお友だちのことなんですよね?」


 柊は頷かなかったが、小野寺には確信があるようだった。


「なんで知りたいんですか。いまになって、どうしてそんなこと頼みに来たんですか」


 顔を覗き込むようにして小野寺がはっきりと問うてくる。柊は答える言葉を持たない。


「先輩、自分で気がついてますか」


 なにに、と無言で返せば、小野寺はひどく案じるような表情になる。


「会社辞めたころよりも、よくない顔してますよ。痩せましたし、でも、それだけじゃない。うまく云えないんですけど、すごく、よくない顔です」


 あのころも地に足がついてないみたいなふわふわした感じでしたけど、いまはふわふわなんて可愛いもんじゃありません。


 それはそうだろう、と柊は思う。

 嘘だとわかっていながら、たくさんの偽りを書いた。

 誰かを傷つけるとわかっていながら、たくさんの疑いを撒き散らした。

 武器だったはずのペンを凶器に変えて、許されない過ちを重ねてきたのだ。

 いい顔をしているはずがない。


「もう、いい」


 柊は低い声で云った。


「あんたには頼まない。全部忘れて。わたしが云ったことも、あんたが云ったことも」

「先輩っ!」


 席を立った柊に追い縋るようにして小野寺も立ち上がる。


「だめですよ、どこ行くんですか」


 しがみついてくる掌はあたたかく、柊は迂闊にも涙ぐみそうになった。冷え切った自分の指先がなにやら疚しさの表れであるかのように思えてくる。

 正しいのは小野寺だ。わたしは間違っている。だからいま、こんなにも恥ずかしい。


「離してよ」

「厭ですよ」


 だって離したら、先輩、どっか行っちゃうでしょ、と小野寺は半泣きだ。


「やなこと云ってすみません。でも、謝らないです。いまの先輩に必要なの、情報じゃなくて人ですよ。話できる人、そういう相手、いますか、ちゃんと……」


 柊は返事をせず、腕を振って小野寺の手をほどこうとする。小野寺はしがみついて離れない。


「わたしじゃだめなら、ほかの誰かでもいいです。さっき、意地悪云いましたけど、情報が必要なら調べますから」

「いらない」


 そこだけはきっぱりと柊は云った。急に暴れるのをやめた柊に小野寺がきょとんとする。


「なんでですか」

「気が変わった」

「わざわざ会社まで来たのに、なんで……」


 だから気が変わったって云ってるでしょ、と柊は、今度は小野寺の指を引きはがそうと試みる。


「理由を云えって云ったからですか」

「違う」


 嘘をつくことに慣れた舌も、このときばかりは正直だった。――違う。本当に、違う。


 巻き込んではいけない、と柊は思ったのだ。小野寺を巻き込んではいけない。

 わたしは間違っている。


 それは唐突な、しかし、たしかな感触だった。

 なにを、とか、どこで、とかではなく、きっとはじめから、なにもかも間違えてしまっていたのだ。

 きっともう、取り返しはつかない。

 けれど、引き返すことはできない。どこへ戻ればいいのかわからないからだ。

 ここに立ち止まることもできない。容赦のない流れに、すでに乗ってしまっているからだ。


 だけど、と柊は強い力を込めて小野寺の指を外させた。流され、飲み込まれ、沈められるのは、わたしひとりでいい。小野寺まで道連れにすることはない。


「先輩?」


 こちらを窺うような小野寺の声に顔を上げ、柊はわずかに高い場所にある後輩の顔をじっと見つめた。


「いいよ、もう。ありがと」

「ありがとって、わたし、なんにもしてないですし。まだ話も終わってないですし」


 どこへ行くんですか、とふたたび伸ばされる手を上手く躱し、柊は薄く笑ってみせた。


「小野寺の云うとおり、わたしは友だちが殺された事件の真相を追ってるの。仕事を続けてるのもそのため。あと少しで全部わかりそうで、だから、あんたにも力を借りようとした」


 だけど間違いだからね、と柊は呟くように云う。


「間違い? なにが?」


 柊の笑みが深くなっていくのと対照的に、小野寺の顔は徐々に険しくなっていく。


「わたしなら別に……」

「違うよ、そうじゃなくて。あんたのことだけじゃなくて」


 巻き込む、というのなら由璃と真璃もそうだ。古い傷を抉られた松島や秋山だってそうかもしれない。


「全部、はじめからなにもかも。でも、それももう終わる。終わらせる。だからもういいの。大丈夫なの」

「なんにも大丈夫じゃないですよ、先輩」

「かもしれないね」


 それなら、と迫る小野寺はこれまで見たこともないほど怖い顔をしている。こんなまっすぐな子にこんな顔をさせて、と柊は自分に悪態をついた。莫迦だ、わたしは。


「悪かった、小野寺」

「ちょっと……!」


 ここ頼むね、と柊は云い、小野寺の手をくぐり抜けて店を出る。追いかけてこようとした小野寺が、店員に、ちょっとお会計、と呼び止められているのを背中で感じながら、急ぎ足でその場を離れた。

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