27

「しても無駄?」


 どういうことですか、と柊は首を傾げる。

 荻野はここで大きな溜息をついた。


「おまえ、非分泌型ってわかるか」

「非分泌型?」


 いいえ、と柊は首を横に振る。


「DNA鑑定ってのは、あくまでも鑑定だってのはわかるな?」

「はい」


 DNA鑑定においては、人体を構成する細胞の核に含まれるデオキシリボ核酸の塩基配列パターンによって個人を識別することが可能だと云われている。細胞核は皮膚片や血液から採取が可能であることから、犯罪の捜査へも広く応用されている。

 一方で、鑑定、という言葉が示すように、非常に高度な分析技術を必要とするため、あくまでも状況証拠として取り扱われ、裁判において採用されるかどうかはそのときどきの判断に委ねられている。


「ここからは、外部に公表されなかった事実だ」


 いいか、と荻野は云った。


「鑑識は現場を徹底的に洗った。毛髪、繊維片、精液が採取され、鑑定にかけられた」

「科学捜査、ですね」

「目撃情報の期待できないほぼ密室だからな。防犯カメラの画像もあてにならないし、情報は多いようで、まったくないに等しい。科学捜査は大きな望みだった」


 でも、結果は出なかった、と柊が云うと、荻野はまた溜息をついた。思い出すのも忌々しい、とでも云いたげだった。


「被害者の身体に残っていた繊維片は、いずれもホテルで使用されていたリネン類、あるいは被害者自身の衣服のものと判断された。そもそも部屋に入ってからシャワーを浴びたと考えられているわけだから、まあ当然だ」

「髪の毛や体液というのは……」

「髪の毛は多数採取されたが、鑑定に使えるものはほとんどなかった。詳しいことはわからんが、自然に抜け落ちた髪の毛からDNA鑑定に必要な情報を抜き出すことはかなり難しいらしい。毛根が残ってないとな」


 わずかに鑑定できたものも、被害者自身あるいはホテルの清掃係のものであったりして、捜査の手がかりにはならなかったという。


「でも、体液は?」

「被害者の身体には痕跡が残っていなかったが、一方で、ホテルの部屋のゴミ箱には、使用済みの避妊具が複数捨てられていた。どれもこれもなかにたっぷり遺留物を溜めこんでな。だが、そいつも使えなかった」

「なんで……」


 精液は血液と同じで多量の細胞核を採取できる。使えない、ということはないはずだ。


「そこでさっきの非分泌型よ」


 荻野は四本めの煙草に火をつけた。


「DNA鑑定でもっとも一般的に使われるのはABO式血液型の特定だが、この血液型を特定する物質を分泌しない体質ってのがあるらしい」


 オレもあの事件のときにはじめて知ったんだがな、と荻野は云う。


「八割近い人間は分泌型、つまり通常の分析で血液型を特定できる。だが残りの二割は非分泌型と云って、血液や体液に血液型物質を分泌しない体質なんだそうだ。現場に残されていた精液には、血液型物質を検出することができないものが含まれていた」

「犯人は非分泌型の可能性がある、というわけですか」


 犯人じゃねえ、と荻野はきつい声を出す。


「被疑者、いや、被疑者ですらねえ。参考人だ。まあ、呼び方なんかどうでもいいが、とにかく、その時点で一番の手がかりになると思われた精液が複数の人間のもの、つまり、ほとんど役に立たねえとわかって、途端に雲行きが怪しくなった」


 もちろんDNA鑑定でわかることは血液型だけではない。DNAを構成する塩基配列が同一となるのは、数兆分の一の確率であると云われている。つまり、塩基配列を特定し、事件関係者のそれと照合すれば、被疑者が特定できる可能性は高くなる。

 しかし、荻野が云ったようにDNA鑑定には裁判所の令状が必要とされる。関係者を片っ端から鑑定にかけることはできないのだ。そもそも、非常に高度な技術が必要とされるDNA鑑定は、その結果が鑑定者の資質に左右されることもあり、現場の捜査員たちにはあまり歓迎されていない。


「山ほど残されていた科学証拠がほとんど使えないことがわかって、オレたちは由緒正しい警察のやり方で捜査せざるをえなくなった」


 それはそうだろう、と柊は思う。簡単に解決できると思われた事件が、にわかに迷宮入りの様相を呈してきたのだ。


「人間関係に分け入ってトラブルの種を探し、動機のあるやつを見つけ出す。古典的だが、確実なやり方だ」


 そうですね、と柊は頷いた。

 確実だと、警察が信じている手法。たとえ少々時間がかかろうとも、絡まりあった糸を一本一本丁寧に――切れないよう、見失わないよう――辿り、追いかけていく。糸の先にいる、人殺しを少しずつ追いつめていく。

 警察のそうした地道な捜査は、これまで大きな成果をあげてきたし、おそらくはこれからも変わらないだろう、と柊も思う。


「被害者はトラブルの種をたくさん抱えていた。手間はかかるが、いずれは解決できる。オレたちは事件を、そんなふうに捉え直すことにした」


 幸い、と荻野は低い声で云った。


「被害者には恋人がいたしな」


 冷たく大きな手に、心臓を鷲掴みにされたような心地がした。指先が震え、柊はきつく拳を握りこむ。

 被害者の恋人――。それはつまり、先輩のことだ。


「若ぇ女が殺されるとな、明らかな通り魔的犯行を除けば、真っ先に疑われるのはだいたい恋人か夫だ。まず動機がわかりやすい。別れ話が縺れたとか、浮気がばれて詰られてカッとしたとかな」


 青褪めて震えるばかりの柊を不思議そうに見ながら荻野は続ける。


「とくにこの事件では動機があったからな。被害者の売春を知った瀬尾が、頭に血ぃ上らせて首絞めちまったんだろう、と」

「先輩は……、その……、知ってたって云ってたんですか?」

「被害者の売春か」


 柊は小さく頷く。


「知らねえ、とは云ってたな。が、本当のところはわからねえ。やつにはずいぶん詳しくいろんな状況を話してやったが、いちいちショックを受けてるような顔をしながら、変に冷静でいるように見えることもあった」


 自分以外の男と関係を持った薔子に対する怒り。それが先輩の動機なんだろうか、と柊は考えた。先輩は薔子のことが好きだった。浮気とも呼べない不貞を働いた彼女が許せなかった。だから、殺した。そうなのか。


「もちろんオレたちは瀬尾を疑った。本人も疑われていたことはわかっていたはずだ。任意の取調べにずいぶんと付き合ってもらったよ」


 やつは協力的だった、と荻野は柊を見据える。


「根ほり葉ほり、訊かれたくねえはずのことばっかりだったはずだがな。青い顔しながらも、感情を抑えてひとつひとつ答えていたな。まるで、なにもかも話すのだから、一刻も早く犯人を捕まえてくれと、そう云われているような気にもさせられた」


 先輩はやはり犯人ではないのかもしれない、と柊は思った。職業的猜疑心を持って聴取にあたった警察をもってしても、彼の誠実に嘘があるとは考えなかったのだ。


「先輩が、その、犯人ではないと判断した根拠は……?」

「……根拠な」


 荻野はいい加減煙草にも飽きたように、吸い殻を灰皿へと投げ捨てて両手をコートのポケットに突っ込んだ。袖口と同じようにポケットの口も薄汚れ、擦り切れかかっている。


「アリバイだ」

「アリバイ?」

「事件当日の瀬尾理人には、被害者を殺す時間がなかった。そのことが状況から明らかになったんだよ」

「不在証明、というやつですか」


 物理的に事件現場に居合わせることができなければ、殺人を実行することはできない。やはり、瀬尾の容疑は否定されていたのか――。


「事件当日、法医学教室の連中は、なんだ、研究会、学会か、なんかそんなような集まりがあって、大半が西のほうに行っていたんだったな、たしか」


 ええ、と柊は頷いた。


「その出張組のなかに、仁科って助手がいただろう。瀬尾の先輩にあたるやつだ」


 現在、帝都大学法医学教室で准教授を務める仁科は、事件当時はまだ助手だった。


「その仁科が、瀬尾のアリバイを証言した」

「どういうことです?」


 荻野は説明を続けた。


 学会一日目が終わった日の夜、仁科は翌日の分科会での質問の準備に追われていた。本来は東京で終わらせておくべきものだったが、雑務に追われ、前日の夜まで手を付けられずにいたのである。

 飲みに行くという教授らを見送ったあと、仁科はホテルの部屋に籠って作業を続けた。だが途中で、格納してきたデータの集計に重大な誤りがあることに気づいた。最新のデータを持って来るべきところ、うっかり一年古いものを入れてきてしまったことに気づかなかったのだ。

 仁科は仕方なく、瀬尾に連絡を入れた。ひとりでは翌朝までにデータ解析を終えられないと判断し、手伝いを要請するためである。瀬尾は仁科の頼みを快く引き受けてくれた。


「その解析ってのがな、なかなか面倒な代物で、仁科は明け方近くまで、手伝いの瀬尾も夜遅くまで手が離せなかった、というんだ。専門的なデータの扱いなんぞオレにはわからんが、仁科によれば、やつ自身十九時ごろから夜中の三時近くまでかかったらしい。途中で被害者の検案要請があって、瀬尾は作業中断を余儀なくされたが、仁科はその連絡も受けたと云っている。瀬尾は、途中まで解析したデータを仁科に送り、仁科はそれを引き継いで作業を終えた」


 つまり、と荻野はそこで軽い咳払いをした。あとでなにか飲物くらいは差し入れるべきか、と柊は思う。


「仁科は、瀬尾と直接顔を合わせていたとか、ずっと会話していたとかではないんだが、間接的にやつのアリバイを作ってるんだ。わかるだろう?」


 瀬尾が仁科の依頼に応え、作業に追われていた時間は、薔子の死亡推定時刻とぴったり合致する。遠隔地において予測のできない突発的な事故が発生し、その対応にあたっていた瀬尾には殺人を犯すひまなどなかったはずだ、というのが警察の見立てなのだろう。


 柊は腕を組んで考え込んだ。

 たしかに、荻野がいま話してくれたことがすべてだとすれば、捜査が行き詰まるのもわからなくはない。


「瀬尾理人を疑う声は根強かった。被害者が性的に狂った生活をしていたのは間違いねえし、そんな女が恋人となりゃ、そりゃあ揉めもするだろう。実際、被害者が所属していた公衆衛生学教室では、ふたりがしょっちゅう云い争いをしてたって云ったやつもいた」


 どうにかやつを引っ張れねえかってな、そりゃあいろいろ嗅ぎまわったもんよ、と荻野は淡々と続ける。


「けど、オレたちはじきにやつの線を諦めることになった。決定打はやつ自身の証言だった」

「証言?」


 そうだ、と荻野は双眸を眇め、まるで柊を睨むように見据えてくる。


「やつも、あれやこれやと理由をつけて始終警察が周りをうろうろするのが気になったんだろうな。あるとき、こんなことを云い出した」


 そのとき、瀬尾は、自分にはひとつだけ、どうしても云えなくて黙っていたことがある、と云ったという。


「あの日、薔子が殺された日、現場のホテルに僕も行ったんです、ってな」


 柊は思わず息を詰め、大きく目を見開いた。彼女を観察するようにその様子を窺っていた荻野は、ほんのわずか首を傾げ、驚くだろう、と云う。


「こっちゃ血眼になってホテルに出入りした人間を探してんだ。瀬尾はそれを知ってる。自分からあそこに出入りしたことを認めるなんざ、犯人だと名乗り出るようなもんだ。オレたちゃ色めきたったね。オレだって、いよいよ落ちたかと小躍りしたいような気分だった」


 柊は知らず拳を握りしめていた。メモにペンを走らせるゆとりはなかった。


「瀬尾はホテルに、被害者と一緒に入ったと云った。つまり、ひとりめの男だ。ホテルを出た時間や、そのとき着てた服なんかの証言は、カメラ映像の記録と一致する。疑う余地はなかった。だがやつは、そのとき信じがたいことを云った。被害者と自分とはセックスをしなかった、ってな」


 え、と柊は思わず声を漏らした。

 友人とその恋人のベッドタイムなど想像したくもないものだが、ふたりは長く付き合っていたのだ。そういった時間は当然あっただろう。というか、ないほうがおかしい。


「ありえねえだろう、とオレたちは云った。でも、瀬尾は譲らなかった。自分たちはずっとセックスレスだったと。あの日、ラブホテルに行ったのは、その状況をどうにか変えたくて自分から誘ったからだと」


 当然、裏なんかとれねえ、と荻野は云う。


「極めて個人的なことであるうえに、当事者のひとりは死んじまってる。オレたちは、瀬尾が自分の犯行を隠蔽するために、事実を都合よく捻じ曲げているんだと、そう判断して、やつを締め上げた」

「無駄だった……、わけですね」


 そう云った自分の声が掠れていることに、柊は気づいていない。


「本人に云われて確認してみたところ、瀬尾には心療内科への通院歴があった。自身の身体的な問題、つまり、EDに悩んで通っていた、と云うんだ。もちろん、事実かどうかはわからない。瀬尾の担当医は守秘義務を盾にカルテを開示しなかったから、実際のところは知りようがなかった」


 監視カメラの画像では、たしかに、被害者のほうが乗り気でないように見えないこともなかったのだ、と荻野は苦々しく云った。なんとなく男から距離を置いててな。少なくとも、これからメイクラブを愉しもうっていう、仲のいい恋人同士には見えなかった。だからこそ、売春をしていた、なんていう噂もそれっぽく思えちまったのかもしれねえ。


「でも、先輩は、ひとりめの男は自分だと云ったわけですよね?」

「そうだ」

「ホテルの部屋から証拠は?」

「出たよ。指紋がな」

「指紋……」


 ああ、と荻野は頷いた。


「任意で採らせてもらった。照合した結果、現場に残されてたうちのひとつと一致した」

「じゃあ、先輩がホテルに入ったことは確実なんですね」


 まあな、と荻野は頷く。


「だが、んなことは指紋採るまでもなく明らかだ。自分から事件現場に出入りしたと嘘を吐くやつがいるとは思えない。そこにいたのにいなかった、って云うならまだしも、いなかったのにいた、って云うってのは、な」


 それもそうか、と柊は思う。


「っていうか、指紋、出たんですね」


 ああ、と荻野は首を傾げた。


「拭いたりとか、しなかったんだなって。普通、人を殺したら、証拠を隠そうとするもんじゃないですか」

「そうだな」


 荻野は眉をしかめた。


「ホシは指紋から足がつくとは思ってないんだろ。警察のデータベースに登録のないことをちゃんと知ってたんだよ。前科もない、事件に巻き込まれたこともない、職業的な必要性もない。そういうやつは世間に大勢いる。あるいは、捜査協力として指紋の採取を求められるほど、被害者との関係が深くなかったのかもしれない」


 柊も、その大勢のひとりだ。だからこそ思う。犯人は、指紋から正体が割れることをおそれていなかった。ならばそう、同じように成り立つのではないか。精液についても、同じ理屈が。


「荻野さん」


 柊の呼びかけに荻野が表情をあらためる。第一線に立ち続ける凶悪犯罪専門の刑事は、柊が言葉を発するよりも前から、その内容を嗅ぎ取っているかのように頷いた。


「あんたの考えそうなことはわかる」


 避妊具のなかの精液だろう、と荻野は云った。


「犯人は、自分が非分泌型だと知っていたのかもしれません。それならば現場に体液を残しても、怖いことはないんじゃないですか」

「オレたちもそれは考えた。だが、科捜研の連中の云い分は違った」


 非分泌型、というのは、珍しい体質だ。なにしろ、この国の人口の八割以上は分泌型の人間で占められている。しかも、自身が非分泌型だという事実を知るためには、指紋などと違い、特殊な検査を必要とする。己の特異な体質を知る人間が、それほど大勢いるとは思えない。


「でも、先輩は医学部にいるんですよ」


 荻野の顔つきがますます剣呑なものへと変わる。


「あんた、瀬尾を疑ってんのか」

「先輩なら自分が非分泌型だと知っていてもおかしくない。警察の捜査事情もよく知っている。アリバイのことは考えてみる必要があるけど、でも……」


 おい、と荻野が大きな声を上げた。数メートルほども離れていたのに、一呼吸の間に詰め寄られて柊は身体を硬くした。


「聞けよ」


 荻野の声は低い。


「瀬尾は、オレたちが一度は疑った相手だ」


 そして、諦めた獲物。柊はあえて冷めた眼差しを荻野に送る。


「なにか、知ってんのか」


 柊は黙ったまま荻野を見つめた。荻野もまた口を噤み、柊をじっと見据える。


「知ってますよ」


 しばしの睨みあいののち、柊は静かに口を開いた。


「知ってますが、まだなにも云えません」


 荻野は大きな舌打ちをした。


「なめてんのか、あんた」

「ひとつ、教えてもらいたいことがあるんです」

「もうさんざん教えただろう。あんたが先だ」

「いいえ、そちらが先です」


 なにを知りたい、と荻野はほとんど囁くような低声で云う。


「事件当日の、警察の動きです」

「はあ?」

「事件が発覚したあと、警察がどう動いたか。わたしはそれが知りたい」

「さっき教えたろ」


 荻野は唇の片端だけを器用に持ち上げ、笑みのような表情を浮かべてみせた。


「通報があって巡査が駆けつけ、機捜、鑑識、所轄、本庁が順に現場にやってきた。事件性があると判断が下り、帳場が立って……」

「違いますよ、荻野さん」

「なにが違う?」

「わたしは、警察の動きが知りたい、と云ったんです」

「だから、それは……」


 荻野の声に被せるように、柊は声を張る。


「現場に駆けつけた巡査は何人ですか? その氏名は?」


 決して大きな声ではない。だが、その迫力は荻野を怯ませた。


「機捜、鑑識、所轄、誰が来て、誰が途中で帰り、誰が最後まで残りましたか。本庁の庶務、管理官、班長、それぞれ誰で、何人の部下を連れてきたか、それを知りたいんです」


 柊が本当に知りたいのはたったひとりだ。現場から運び出され、帝大へと移された薔子の遺体に、誰が付き添ったか。その点について、検案書が信頼できないことはわかっている。立会人としてサインを残した刑事、つまり荻野の口から本当のことが知りたい。

 だが、そのことずばりを問えば、柊がなにを知っているか話してしまうのと同じになる。荻野のことを信用しないわけではないが、彼に瀬尾を売り渡すつもりはない。


「なんだってそんなこと……」


 荻野は心底訝しく思っているのだろう、やや弱ったような声で問うてきた。


「知りたいんです。わたしが知っていること、考えていること、その裏付けが欲しい」

「あんた、なにを考えてる?」

「云えません」


 おい、と荻野が苛立ちをみせる。


「オレからは引っ張るだけ引っ張っといて、自分はなんも云えねえ話せねえは理屈が通らねえだろ。せめてなにを考えてるかぐらいは云えよ」

「いまは云えません」

「じゃあ、オレも云えない」


 柊は荻野に向かって半歩踏み出した。明らかな威嚇の態度に、荻野はますます態度を硬化させる。


「……てめえ」

「書きますよ」


 あ、と凄む荻野の様は、まるで反社会勢力の一員だ。だが、柊も負けてはいない。


「知ってることを、書きますよ、と云ってるんです」

「だからなにを知ってるんだって……」

「云うわけないでしょう。わたしをなんだと思ってるんです」


 記者ですよ、週刊誌の、と柊は冷たく笑った。笑うだけで相手を不愉快にさせる特技というのは、決して自慢できるものではないが重宝はする。


「発売を楽しみにしてるといいですよ」


 自分が男だったらぶん殴られていただろうな、と柊は思った。荻野が放つ不機嫌は、もはや殺気の域に達している。


「……国家権力なめやがって」


 唸るようにそんなことを云う荻野は、きっと善良なのだろう、と柊は同情を寄せる。自分が強大な力を手にしているという自覚があり、それをふるうことを躊躇っている。


「てめえが知りたいことを教えたら、そのあとはどうなる?」

「わたしなりに裏を取ります」

「そのあとは?」

「荻野さんにすべてをお話しします」


 せいぜい誠実に見えるように、と柊は薄く笑ってみせたが、逆効果だったようだ。荻野は苦虫を噛み潰したような顔をする。


「信用できねえ」

「お話ししますよ」


 しばらくのあいだ、荻野は柊を睨み据えていた。いけ好かない週刊誌記者が梃子でも動かないことにようやく納得し、彼は深い溜息をついた。数歩下がって、不必要に詰められていた距離を空けた。


「わかった」


 了承の意を示したにもかかわらず、なおも表情を変えない柊に向かい、荻野はまた溜息を吐く。


「けど、いまあんたが云ったこと、オレも全部を憶えてるわけじゃない。記録を見なきゃわからねえことがほとんどだ」


 だからすぐには無理だ、と付け加える彼に向かい、柊は拒むように首を横に振った。


「いいんです。荻野さんの記憶で」


 おいおい、と荻野は嫌味っぽく笑う。


「あんた、オレをなんだと思ってる。憶えてるわけねえだろ、んな細けえこと」

「いいんです」


 云い張る柊に、しかし納得のいかないらしい荻野は、自身も首を振り、ちょっとくらい待ってられるだろ、と云った。


「別に誰かと相談して、あんたを誤魔化そうなんて思っちゃいねえよ。ほんとに憶えてねえんだ、それだけだよ」

「わかってます」

「なんだと?」

「荻野さんの記憶が曖昧なことはわかっている、と云ったんです。でも、それでいい。というか、荻野さんの記憶こそが知りたい。記録は信用できません」

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