26

 薔子の事件の継続捜査を担当している刑事、荻野おぎの恭春きよはるに会いにくるのは、ひさしぶりのことだった。

 本当のことが知りたい、知らなくてはならないと決意したばかりのころには、それこそ相手がうんざりした顔を隠さなくなるほど頻繁に訪ねたものだが、最近はその機会も減っていた。


 わたしはいつのまにか、本当にいつのまにか、薔子のことを忘れようとしていたんだな、と柊は思った。事件の真相を知るために帝都通信を辞めて、三流週刊誌の記者にまでなったくせに、日々を生きることに必死になるあまり、あれほど強かったはずの決意すら忘れかけていた。

 いや、違う。必死だったわけではない。忙しかったかもしれないが、それほど切実ではなかった。

 ただ、単純に忘れかけていたのだ。

 はじめは、できることなら忘れてしまいたかった。薔子を失ったことはそれほどまでにつらかった。これほどの痛みを忘れられるわけがない、とそう思っていたはずなのに、いつのまにか、忘れてしまいたくない、と思うようになっていた。そして気づけば、そう思っていたことすら忘れて――。

 薔子が死んでたった二年で、わたしは彼女のことを思い出さなくなってしまっていた。

 大切な友だちだったのに。

 ずっと一緒にいたのに。

 彼女がいなくなって、本当に悲しかったのに。

 この気持ちに嘘はない、永遠の真実だと、そのときは本気で思っていても、時間が流れれば心は変わる。どんな悲しみも、どんな喜びも、いつかは必ず薄れていくものだ。そのことこそが残酷だと柊は思う。


 警察署の受付で荻野を呼び出してもらう。制服を着たまだ若い警察官は、さほど不審がることもなく内線電話をかけている。彼の話しぶりから、荻野が珍しく在席しているらしいことを悟り、運がよかった、と柊は思った。所轄署の刑事とは、基本、足で稼ぐ商売で、荻野も不在が多い。しょっちゅう彼の元に通っていたころは、居留守も含め、五回に四回は空振りに終わったものだ。

 少し、というよりはいささか長く待たされたのち、廊下の奥から荻野が姿を現した。

 よれよれのトレンチコートに底の減った靴。ぼさぼさの頭に無精髭。不潔と無精のボーダーラインをすれすれで飛行している五十路男は、柊の顔を見るなり大きな欠伸をしてみせた。


「帳場、入ってるんですか」


 ん、と荻野は唸り、ああ、と頷いた。この警察署では、現在、管内で発生した強盗傷害事件について特別捜査本部が設置されているはずだった。


「刺されて入院してたマルガイが、今朝方死んでな。強盗殺人にランクアップしたもんで、なかはごったごたしてんのよ」


 継続捜査班の荻野が事件捜査に直接かかわることはないのだろうが、人手不足を補うためにあれやこれやと駆り出されているのだろう。


「お忙しいときにすみません」

「いや、別に。ちっとばかりうるせえだけだ」


 刑事の無神経な物云いに目くじらを立てているときではない。柊は軽く頭を下げ、労を割いてくれた荻野に礼を云った。


「オレぁ、あくまでも応援だからな。ちょっとくらいなら抜けてきても文句は云われねえ。それより、なんだ、えらくひさしぶりじゃねえか」


 云いながら荻野は署を出て行く。柊は彼のあとを追い、いいんですか、と背後を気にするそぶりを見せた。


「用がありゃかかってくんだろ」


 胸のあたりを指先で叩くのは、そこに携帯電話が入っているからだろうか。


「一服してえの、付き合えよ」


 捜査本部どころか署内全体が禁煙なのだろう、荻野はコートのポケットからくちゃくちゃになった煙草の箱を取り出し、曲がった煙草を唇に挟んだ。


 喫煙所は建物を出て駐車場を突っ切った、人目につきにくい場所にある。肩身が狭えのなんのって、まるで中坊だな、と荻野は笑い、ワンコインで買える使い捨てライターで煙草に火をつけた。


「で、今日はどうした?」

「ちょっと、教えてもらいたいことがありまして」


 荻野につられ、ニコチンが恋しくなった柊は煙草を咥えながら云う。


「まぁたなにか新しいことか」


 ねぇぞ、んなもん、と荻野は云い、意外に神経質な仕種で灰を落とす。


 二年前に起きた、未解決の殺人事件。捜査は継続班に引き継がれ、いまも続けられている。だが、それはあくまでも建前だと柊は知っている。刑事たちは日々の業務に忙殺され、なにか新しい事実でも判明しない限り、古い事件に取り組むことはほとんどない。


「いえ、違うんです」

「じゃあなんだ」

「いまの捜査状況を、もう一度教えてもらいたいんです」

「状況だあ?」


 不愉快そうに語尾を上げ、荻野が煙草を捻り潰す。


「おまえ、なに云ってんだ」


 そんなこと云えるわけねえだろうが、と柊を睨みつける眼差しは無駄に鋭い。


「それでも知りたいんです」


 荻野と何度も顔を合わせている柊はよく知っている。この刑事相手に駆け引きはほとんど役に立たない。正直に明かすのがもっとも早道だ。

 筋金入りの叩き上げ、荻野恭春がそろそろ定年退職を視野に入れはじめる歳になったいまも第一線を譲ることがないのは、彼が自他ともに認める非常に有能な刑事だからだ。派手なパフォーマンスも目立った出世もしないが、地味で頑固な彼のような者たちこそが日本の治安を守っているのだ、と柊は思うことがある。


「理由を云え」


 柊は喉を鳴らした。

 荻野に会いにくれば必ず訊かれるとわかっていた。ここを誤魔化さずに荻野から話を聞きだすことは至難の業だ。

 だが、躊躇う。


「どうした?」

「気がついたことがあるんです」

「なんだ」

「お尋ねしたことに、先に答えてもらえませんか」


 荻野は値踏みをするように柊をじろじろと見回した。非常に居心地は悪いが、ここで視線を逸らせば負けが決まる。

 ふん、と荻野は鼻を鳴らした。


「まあ、いいだろ」


 捜査は継続していると云いつつも、荻野のなかで薔子の事件はすでに過去のものだ。新しい手がかりを掴むことは難しく、解決はもっと難しい。事件関係者が訪ねてくる機会も、おそらくほとんどないのだろう。その思惑がなんであれ、新しい情報が手に入るかもしれないとなれば、すでにわかっている事実の一部を開示するくらいなんでもないことだ。

 荻野がそうした思考を辿るかどうかはほとんど五分に等しい賭けだったが、柊の狙いどおり、彼は話をしてくれる気になったようだった。


「ほかのやつには云うなよ」


 お決まりの口止めとともに、荻野はふたたび煙草を咥え、事件発覚から当時を振り返りつつ柊の質問に答えてくれた。



 事件は、薔子の遺体が発見されたラブホテルからの通報で発覚した。

 記録によれば、薔子が男とともにチェックインしたのが十八時ごろ。休憩の利用で、チェックアウトの刻限は二十時ごろだった。

 延長利用の知らせが二回続き、時刻は深夜になった。日付が変わっても精算が行われないことに気がついた従業員が、部屋に電話をかけるも応答なし。宿泊に切り替えるなら切り替えるでいったん連絡をもらわねばならないと、やや時間を空けて二度、三度とコールしたもののやはり答えがないため、従業員は清掃係をひとり伴って部屋を訪ねた。


 従業員によれば、こうした事態はさほど珍しくない。

 ラブホテルでは客同士はさることながら、客と従業員も極力顔を合わせることがないよう、配慮されている。部屋を訪ねていくというのはよほどのことと思われがちだが、実際は頻繁にあることだ。精算トラブルや清掃の不徹底、部屋で販売しているドリンク類やいわゆる大人のおもちゃに不備があるなど、さまざまな理由で呼び出されることも多い。

 だからこのとき従業員は、さほど不審に思うこともなく部屋へと向かった。まだ若い彼は、いろいろ夢中になりすぎて精算とかチェックアウトなんて忘れちゃったのかな、と暢気に考えていたのだという。

 廊下から部屋の扉を強めにノックすること数回。ほかの部屋に響かないよう気を配りつつも、何度か声をかけ、その後マスターキーを使って室内に入った。

異変にはすぐに気がついた。


 大きなベッドの真ん中に女の死体が転がっていた。首につけられた痣など確認せずとも、見開いた目や口から飛び出した舌、失禁の様子から、生きているとはとても思えなかった。


 従業員と清掃係はふたりしてその場にへたり込み、しばらく動くことができなかった。だが、やがて自分を取り戻した清掃係――中年を過ぎ、人生経験を積んだ女性は逞しい――が事務所に内線で連絡を入れ、ようやく通報が行われた。


 真っ先に駆けつけたのは交番勤務の巡査で、彼が状況把握に努めているあいだに所轄署と機動捜査隊も到着し、鑑識にも臨場が要請された。誰の目にも明らかな他殺体であったため、順当な手続をもって本部の庶務係、捜査課の刑事と次々に到着し、現場はにわかに騒然となったのだという。

 鑑識の捜査がいったん落ち着き、遺体は司法解剖にまわされることとなった。帝都大学法医学教室が受け入れ先となり、ここで遺体は搬出されていった。


 荻野は巡査の次に現場に到着し、機捜や鑑識の捜査にも立ち会っている。


「ありゃあ紛うことなき殺人現場だった。被害者は素っ裸、持ち物は部屋中にぶちまけられて、財布とケータイと鞄本体が行方不明。まあ、パッと見は強盗殺人の現場って感じだったな」


 はずみで殺して、すぐに足のつきそうなモンだけ慌ててかき集めて逃げ出したって雰囲気でな、と荻野は当時を思い出すように云う。本部の連中もあんまりやる気がなさそうだった。おまけにその夜はもう一件事件が起きて、人手不足もここに極まれりって感じだったのもある。


「とにかく、あのときは簡単な衝動殺人に見えたんだよ」


 だが、警察の予想に反し、捜査は難航する。理由はいくつかある、と荻野は云った。


「残された証拠が多すぎたこと。被害者自身が好んで複雑な人間関係を作り上げていたこと。それから、現場がラブホテルの個室という限定空間だったこと」


 証拠ってのはな、多すぎても使えねえんだ、と荻野は苦々しげに吐き捨てた。


 遺体発見現場となったラブホテルの客室には、数多の証拠が残されていた。体液、体毛、皮膚片、指紋。鑑識はそれらの証拠を採取し、DNA鑑定を行った。その結果、部屋には薔子のほかに複数人の出入りがあったことが明らかになった。その時点で捜査本部には厭な予感が漂ったという。


 清掃員や従業員にも協力を得てできる限り対象者を絞り込もうとしたが、ホテルという場所の性質上、DNA鑑定の結果によって被疑者を絞り込むことは困難だと判断された。採取された毛髪等が、事件にいっさいかかわりのない人物――たとえば、別の日、別の時間帯にその部屋を利用した者など――のものである可能性が捨てきれないからだ。


 また、被害者の人間関係をひととおり当たるだけでも大きな労力が必要とされた。

 通常、殺人などの強行事件の捜査は、被害者の人間関係を当たる敷鑑に重点が置かれる。薔子の事件についても例外ではなく、荻野も本部の捜査員とともに聞き込みに当たった。

 そりゃもういろんな話が聞けたよ、と荻野は険しい顔をして云った。オレたちが飛びついたのは、被害者が売春してたっていう噂だ。マスコミもさんざん書きたてたが、一番トラブルの種になりそうな話だったからな。

 被害者は携帯電話を二台所持していた。一台は周囲の人間たちも記憶しているスマートフォン。そしてもう一台は、誰もその存在すら知らなかったケータイ、いわゆるガラケーだ。

 スマートフォンに問題はなかった。登録してある電話帳にも、閲覧履歴やアプリにも、もちろん通信記録にも。

 だが、ガラケーは違った。こちらには問題しかなかった。電話帳には架空の人物の名前やプリペイド携帯の番号ばかりが並び、閲覧履歴も出会い系サイトやその手の掲示板ばかり。残っているメールや通信アプリの履歴には逢瀬の約束が溢れ、いっそ潔いほどの乱れっぷりだったという。

 警察はもちろん記録のひとりひとりに連絡を取ろうと試みた。だが、百を超えて登録されていた番号のうち、まともに繋がったものはほとんどなかった。通信会社から記録を取り寄せ、契約者を調べ上げたが、契約者と使用者が一致し、さらに本人に会うことのできた相手はさらに少なかった。追える限りは追ったが、限界はある。


 しかもなあ、と荻野は苦笑いをする。会えたやつらも口を割らなかった。割らなかったっていうよりは、会っただけだ、と云い張るんだ。まあ、買春は犯罪だからあたりまえっちゃあたりまえなんだが、脅しても宥めすかしてもなにしてもだめでな。だから、被害者が売春をしていたかどうか、本当のところはわかっちゃいないんだよ。限りなくクロに近くとも、断定はできない。


「まあでも、オレたちだって莫迦じゃない」


 荻野はさほど愉快ではなさそうに云う。


「どうにかこうにか、被疑者の人数まではあたりをつけた」

「人数?」


 柊は首を傾げる。


「人数だけですか?」


 そうだよ、と荻野はひどく苦い顔をする。数々の困難にもめげず、地道な努力で捜査を続ける荻野たちを最後に打ちのめしたのは、現場の特殊性だった。


「なんでですか」

「なんでって云われても、それ以外わからねえんだ。二進も三進もいかねえ。だから捜査が行き詰まったんじゃねえか」


 被疑者の人数をある程度まで絞り込めたのは、現場となったラブホテルに設置されていた監視カメラのおかげだった。

 客に対する配慮のため、特殊な人員配置を取るラブホテルだが、結果どうしても薄くなりがちな監視の目を補うべく、防犯カメラが多数設置されていることは周知の事実である。室内は別として、フロントやエントランス、廊下やエレベータの内部にいたるまで、死角のないように監視、録画されているのだ。


 あの事件でも、その防犯カメラが役に立った。

 録画されていた画像を詳細に分析したところ、事件にかかわっている可能性のある人物は三名であることが判明した。

 なんだ、じゃあ、その三人は顔がわかってるんじゃないんですか、と柊が尋ねれば、阿呆、と荻野が直截に罵倒する。わかってりゃいまごろこんな話してねえだろうが。

 それもそうか、と柊は荻野の話の続きを待つ。荻野は大いに不満げに、しかし、事実を淡々と並べ立てた。


 監視カメラの画像で確認したところによると、事件当日、被害者は最初の男と連れ立ってホテルにチェックインした。死体となって発見されるまでのあいだに、二回の時間延長をフロントに連絡している。その記録と画像を照らし合わせた結果、いずれも連絡の直前に、部屋に男が訪れた可能性が見えてきた。


「つまりこういうことですか」


 我慢しきれず、柊は口を挟んだ。薔子はひとり男を帰して、そのあと同じ部屋に別の男を呼ぶ、ということを二回繰り返した。

 たぶんな、と荻野は頷く。

 フロントへの連絡はいずれも男の声で、ごく事務的なものだった、というのが、従業員の証言である。二回とも同じ声だったかどうかは憶えていない、と彼は云った。

 でも、と柊はまたもや疑問を口にした。たとえ顔が見えていなくても、背格好とか歩き方とか仕種とか、なにか手がかりはあったんじゃないんですか。


 そこなんだよ、と荻野はいよいよ苦りきった声を出す。あのホテルは古くからある老舗でな。防犯カメラはあとから取りつけられた。客との信用で商売が成り立ってた牧歌的な時代からの連込宿ってわけだ。新しいホテルと違って、いかにもって感じの監視カメラがいやでも目立つ。客の心情を配慮して設置した結果、微妙な死角ができちまうんだよ。どうしてもな。

 被害者が使った部屋はその死角にある部屋だった。もっとも、その部屋へ続く廊下と扉の上部は映りこんでいるから、廊下を歩いてきたやつがその部屋に出入りしたかどうかくらいは十分推測できるようにはなっている。まあ、そういう意味では厳密な死角じゃねえんだが。

 被害者と最初の男がその部屋へ入ったことは確認できた。問題はふたりめから先だ。

 最初の男が部屋を出たのは、チェックインからほぼ二時間後だ。急ぎ足で廊下を歩いていく姿がカメラに残っていた。ついでに云うと、この直前、フロントに男の声で、外出したい、という連絡があったそうだ。もちろんこの外出というのは云い訳だ。戻ってくるときは別の男になっている。

 最近はホテル側も犯罪に敏感だからな。普通、こうした手口は通用しねえんだが、そこは、まあな、と荻野は言葉を濁す。客商売ゆえ杓子定規にはいかないこともある、ということか、と柊は苦々しく思った。


「ふたりめは、最初の男が帰ったあと、十分ほどで現れた。だが、こいつはカメラには映っていない」

「なんでですか?」


 柊の問いに、こいつあちっとばかり説明が面倒なんだがな、と荻野は肩を竦めた。


 現場となった部屋は、ホテルの二階の突き当たりにある角部屋だった。廊下のどん詰まりに扉があって、部屋の扉の左側の壁に非常階段の扉がある。防犯カメラは部屋の扉の左上の角、天井付近に設置してあった。つまり、現場となった部屋に向かってくる廊下と部屋の扉の開閉、さらに非常階段扉の開閉が一台のカメラで確認できることになる。

 ここまではわかるか、と荻野は尋ねた。柊はぎこちなく頷く。

 普通はこれでなんの問題もない、と荻野は云う。だが、この件ではおおいに問題だった。最初の男以外のふたりは、部屋の出入りにこの非常階段を使った。

 つまり、廊下を歩いてくる姿がカメラに捕らえられていなかった。

 じゃあ、と柊は必死に荻野の話を整理する。


「部屋に人の出入りのあったことはわかるけど、それが誰かはわからない、とそういうことなんですね」

「部屋に出入りしている姿が直接映るわけじゃねえが、まあ、合理的推測はできる」


 でも、と荻野は苛立たしげに付け加える。


「問題がないわけじゃねえ。部屋の扉はまず間違いなく映るんだが、非常階段の扉のほうは開ける幅によっては、カメラに映らないことが確認されている。こっちにも死角があったんだ。身体を横向きにして、扉を開ける角度を慎重に調整すれば、カメラに映らずに出入りができたかもしれない」


 おまけにこの非常階段は便利だったらしくてな、事件とはなんの関係もないやつが、ここを使って出入りをしていることも確認されている、と荻野は云った。


「フロントを通らずに駐車場へ直接降りられるからな。便利だったんだろう」

「そうすると、非常階段の扉の開閉階数は考慮に入れられないってことなんですね」

「そうなるな」


 もう何度も検討を繰り返したことだからだろう、荻野はあっさりと頷く。


「部屋のほうもあてにはならん。誰が出入りしたか、決定的な瞬間を確認できないのは致命的だ」

「で、でも……」


 柊は考えながら反論した。


「部屋の扉の開閉はカメラに映っているんですよね」

「死角がある以上断定はできない。とくに、カメラにまったく人影の写っていない二回目は、出入りした人数すらたしかなことは云えない。扉の空いている時間の長さを計って、おそらくひとりだっただろうと推測することしかできない」


 そうか、と柊は目を見開いた。


「部屋の扉は合計で六回開閉した。でも、出入りした男が三人とは限らない」


 一回目が薔子とひとりめの男。二回目はその男が出ていくとき。

 三回目、姿の見えない人物が非常階段を通って部屋へ入ったとき。四回目は、おそらくその人物が部屋を出て行ったとき。


 フロントの記録と従業員の証言によれば、三回目の扉が開閉して二時間後、部屋から男の声で外出を申し出る連絡があった。あの部屋にいる女性――つまり被害者――には売春の可能性がある、出入禁止にしたほうがいいんじゃないか、などとそんなことを話したからよく憶えていたようだ。


 そして、五回目に扉が開いて、三人めが部屋へ入る。彼が出て行って、六回。


 柊がそうまとめると、いや、違う、と荻野は首を横に振った。


「違う?」


 柊が首を傾げると、刑事は苦笑いをする。


「三人めの男は、たぶん一番最初に被害者を発見したんだ。通報はなかったからたしかなことは云えないが」


 こいつは部屋の扉を完全に閉めきる前に部屋から飛び出してきた。廊下のカメラにその姿が映っている。


「そうなんですか」


 部屋の構造上、扉を入ってすぐベッドが見えるわけではない。三人めの男は、室内に足を踏み入れたところでそこにいるはずの被害者に呼びかけ、しかし返事がないのを不審に思って、扉を完全に閉じることなくなかの様子を窺ったのだろう。


「だから部屋の扉は、ガイシャが部屋に入ってから死体で発見されるまでのあいだに五回、開閉したことになる」


 それって、と柊は慎重に口を開く。ふたりめの男、っていうか、姿の見えない人物が犯人っていうことになるんですよね。

 単純に考えればな、と荻野は頷いた。すっかり燃え尽きた煙草を灰皿に落とし、ぼりぼりと音を立てて顎を掻く。けどまあ、共犯の可能性も捨てきれねえし、とにかくカメラに映ってるやつらだけでも特定しねえことにはなんにも進まねえ。

 それが、できなかったんですね、と柊は云った。荻野が三本の煙草を灰に変えるあいだ、彼女は結局一本も吸っていない。それほど彼の話に緊張しているのだった。

 できなかった、と荻野は答えた。


 犯罪捜査における画像解析の技術は日々進歩している。最新技術を用いれば、たとえ顔がはっきり映っていなくとも、骨格や歩容などから該当する人物を割り出すことさえ可能なのだ。


「でもな、画像解析はDNA分析と同じだ。それひとつで犯人を特定できるわけじゃねえ。必ず比較解析が必要になる」


 被害者と一緒にホテルに入ったひとりめの男も、死体に驚いて逃げて行った三人めの男も、結局特定することができなかったのは、そうした比較解析に必要なデータを入手することができなかったからだ、と荻野は云った。


「DNAにしろ、骨格にしろ、歩容にしろ、現場に残されていたものと比較する対象を採取しなけりゃならん。それにはな、令状が必要になる」


 任意で行うことのできる事情聴取等と異なり、家宅捜索や身体検査、DNA採取などには裁判所の令状が必要となる。個人の権利を著しく制限する強制捜査となるためだ。


「裁判所は、被疑者が特定されない限り捜査令状を出さない。もし、令状なしに、あるいは無差別にDNAを採取したことがばれれば、たとえ判定が黒でも裁判には使えない。結果、被疑者が無罪放免になることもあるんだよ」


 たとえば、対象を特定することなく拾い集めたサンプルと、被疑者の同意なしに採取したサンプルとをDNA鑑定にかけ、犯人である可能性が高いという結果を得ることができたとしても、その捜査手法そのものに違法性があるとして、証拠とは認められなくなるのだ。

 そういえば、と柊はふとあることを思い出す。


「現場の遺留物については、DNA鑑定をしたんですよね?」

「したよ」


 それなら、と柊は眉をひそめた。なにかわかったことがあるんじゃないんですか。


「もちろんある」


 そう答えた荻野は、期待する表情を抑えきれない柊を嘲笑うように続けた。


「鑑定しても無駄だった、ということがよぅくわかったんだよ」

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