25

 安曇由璃と安曇真璃にとって、恋愛事はいつも鬼門だった。

 もてなかったわけではない。

 むしろ本人たちの努力によらぬ付加価値――たとえば、実家が裕福だとか、容姿がさっぱりと整っているだとか――も手伝って、不必要にもてていたとも云える。


 調子に乗った時期もあった。

 とくに心よりも身体の都合が優先される時期には、好きでもない相手と好奇心のままに身を交わしてトラブルになったことも、一度や二度ではない。


 けれど、それでも双子にとって恋愛事は鬼門だった。


 いつか柊にも話したことがあるように、ふたりには厄介な癖がある。本気で思い定めたなにかに限って、片割れと気持ちを同じにすることになる、というそれだ。どうでもいいことが重なったことは一度もないというのに、じつに面倒だった。

 進路しかり、恋愛しかり。


 ふたりは、父親の意志によって幼稚園から高校まで同じ私立の学園に通っていたが、クラスが同じになったことは一度もなかった。共通の友人もそれほど多くはない。家で顔を合わせても、真面目な話などしたこともなかった。にもかかわらず、高校二年生の夏を前に進路を決めるにあたり、ふたりは揃って外部の医大を希望した。

 相談でもしたのか、と父や兄には笑われたが、ふたりは笑えなかった。そのころにはすでに悟りはじめていたからだ。――大事なものほど、こいつと奪いあうことになる。

 進路はまだいい。同じ道に進んでも、敵手ライバルがひとり増えるだけで、どうということはない。


 だが、恋愛は違う。

 中学生のころにも、高校生のころにも、そのときなりに本気で好きになった相手はいた。

 幼いとはいえ、恋心は本物だ。

 中学生のときはふたりとも譲れなくて、相手を泣かせ、自分たちも泣いた。結局、ふたりともうまくはいかなかった。

 高校生のときはふたり同時に受け入れてもらおうとして、やはり泣かせた。そんなの無理だと、気持ち悪いと嫌悪されて傷ついた。

 高校を卒業し、同じ大学に進学してからも、本気で気に入りそうになる相手はいつも同じだった。こどものころからの記憶がいい加減トラウマになりかかっていたふたりは、いつも想いをセーブしてやり過ごしてきた。


 進路をめぐって、好きな女の子をめぐって、本気で喧嘩したこともある。

 おまえが譲れ、いいや譲るのはおまえだと、怒鳴りあいも殴りあいもしたが、そんなことで諦められるなら、とっくにうまくやっている。これはもうどうしようもない病理なのだと、受け入れるしかない歪みなのだと、そう気がついたのも同じころだった。


 安曇の家の男はみんなどこか歪んでいる。兄の希璃もそうだし、親戚筋を見回してもそうだ。最たるものは父の尚希なおきだろう。

 父は、歳の離れた妻――つまり、兄と双子の母親――を溺愛していた。それこそ、髪の毛一本、爪のひとかけにいたるまで、誰にも触れさせたくないと思うほど。

 幼馴染として育った六歳年下の母が十六になるやいなや籍に入れ、学校もろくに通わせなかった。母は生まれつきの持病があり身体が弱かったというが、かかりつけの医者の診察にすらいい顔をせず、まるで見張るようにして必ず付き添ったというから筋金入りだ。

 母は父と結婚して二年後、兄を出産し、それからしばらくは兄にかかりきりだったらしい。とはいえ、己の息子にすら妬心を抱く父のせいで、ずいぶんと人の手を借りての子育てとなったようだ。

 兄の出産後、以前に比べるとかなり丈夫になったらしい母だったが、八年経ったのちに双子を産んだ折、ふたたび体調を崩してしまった。小柄なほうだったというから、ただでさえ負担のかかる多胎児の出産がひどく堪えたのかもしれない。

 結局、母は双子に乳を与えることもなく他界することになった。


 大変だったのはそのあとである。

 母を失うきっかけとなった双子を、父はひどく憎んだらしい。手を上げることはなかったが、いっさいの面倒をみようとしなかった。


 育児放棄状態にあったふたりの命をどうにか繋いだのは、まだ小学校も低学年の兄だった。学校にも行かず、一日中ふたりの世話をしていた兄は、ある日とうとうどうにもならなくなってクラスの担任に相談をした。――お父さんが、弟たちの面倒をみてあげないの。

 仰天したのは学校側である。古くから続く由緒正しいお家柄、大きな製薬会社を経営する安曇の家のご当主さまが、まさか育児放棄など――。

 だが、事実は事実だった。

 学校側は父に配慮しつつも、カウンセラーを派遣した。なにか困ったことがあるなら、と差し延べられた手を、当初、父はいっさい拒んだのだという。兄が必死に頼み込み、カウンセラーが粘り強く説得して、そのころ少し離れた土地で暮らしていた親戚の女性――兄弟にとっては実際の叔母ではないが、叔母と呼んで慕っていた――が屋敷に来てくれるまで、安曇家は本当に大変だった。

 由璃と真璃は、兄とその叔母の手によって生かされたようなものだ。

 ふたりはその事実に感謝こそすれ、悲しいと思ったことはない。幼いころこそ、自分たちをまったく顧みない父の姿を寂しく思ったものだが、成長してからは、父の気持ちがよくわかるようになった。


 もし、自分たちが父と同じ立場に置かれたら――息子のせいで最愛の女性を失くしたら――、きっと、息子のことを許しはしない。


 いや、きっと父は自分たちのことを憎んでいるわけではないのだ、と双子は最近になって理解しはじめた。

 関心がないだけだ。

 母以外のすべてに、父は興味がない。たとえ、彼女が産んだ自分の子であっても、彼女ではないものには興味がないのだ。


 病んでいる。


 息子の目から見ても明らかに病んでいるが、父のその血は間違いなく、兄にも自分たちにも流れている。見え方が違うだけだ。

 だから双子は、自分たちをあらためることをとっくに諦めていた。仕方がない。おれたちはそういうふうに――大事なものほど片割れとわけあうように――生まれついてしまったのだ。


 だが、そういうものなのだ、と自分たちが悟っていたとしても、相手は違う。ふたりをいっぺんに受け入れてくれと迫って頷いてくれる相手など、そう簡単には見つからない。

 好奇心から、あるいはたくさん愛されたいという邪心から、三人で寝てみたい、と云い出すような女には、双子の心は動かない。

 双子が好きになる女は、おしなべてみな、地味で警戒心が強く、気は強いが静かな性質で、そして、ひどく生真面目な性格をしていた。おもしろみのないそんな女のなにがいいのだと訊かれても、そういうのばかりに惹かれるのだから仕方がない。きっと自分たちにはない美徳を求めているのだと、そう考えることにしていた。

 ともあれそんな女が相手だと、三人で、などと云い出せば、その瞬間に振られる。外堀を埋めようにも逃げ足ばかり早いのが、そういう女の特徴だ。しかも容赦がないので、下手に追いかけることもできない。


 そんな、本当に好きな相手には触れることもできなかった可哀相なふたりの前に、突然現れたのが柊だった。


 否、突然、という云い方には語弊がある。


 柊のことはずいぶん前から、そう、ふたりがまだ帝都大学医学部の学生だったころから知っていた。

 経済学部の学生であるくせに、始終医学部の研究棟に入り浸っていた柊は、当時、学部のなかではそこそこ有名だった。彼女自身が知らないだけである。


 学部内でも指折りの美人、拓植薔子の親友。

 学部内でも指折りの偏屈、瀬尾理人にまがりなりにも声をかけられる他学部生。


 にもかかわらず、本人はいたって地味でありきたり。多少可愛らしい見た目をしてはいるが、磨くことを知らない純朴は、清純と云うよりは垢抜けないと云ったほうが正しい。


 しかし、柊が周囲の目を引いたのは、その外見が理由ではなかった。拓植薔子と瀬尾理人、ふたりとの歪んだ関係性ゆえのことだ。


 当時、三人を見る周りの見解は一致していた。

 あの子、可哀相。ああいうのも生殺しって云うのかな。ちょっと違うんじゃない。なんにしても、――気の毒に。


 第三者から見るに、柊の瀬尾に対する想いはあまりにもあからさまで、そのくせ当の瀬尾は薔子に夢中。薔子は恋人よりも柊を優先している様子を見せながらも、いざとなれば話はまた別、といった風情で瀬尾と別れる気配はない。

 その奇妙にも思える三角関係を、周囲は有体に云っておもしろがっていた。

 由璃と真璃のふたりも、最初に柊を意識したのは周囲の心ない噂話が発端だ。自分からグラインダーに飛び込んでいくみたいな女がいるんだよ。ミンチになりたいなんて、変わってるよな。


 柊はまったく記憶していないだろうが、そのころ、双子と彼女は言葉を交わしたこともある。

 いまでこそ、教室における立場にずいぶんと開きがあるが、瀬尾と双子は二歳しか変わらない。当時も先輩後輩であることに変わりはなかったが、いまよりももう少し気安い間柄だった。

 瀬尾と薔子を待つ柊に声をかけても許されるほどには、親しかったのだ。


 瀬尾さんのこと待ってるの。

 いえ、薔子を、あ、拓植さんを。

 ふうん、そうなんだ。あのふたり、まだしばらくかかるみたいだよ。

 大丈夫です。課題、あるんで。


 おれたちもここにいていい、と尋ねたふたりに、柊は、なんでだ、と云わんばかりの胡乱な眼差しを向けてきた。そんな彼女に、双子はごくうっすらとした好感を抱く。

 ただ、言葉を交わしたのはそのとき一度きり。その後は、これといった機会もないまま、柊が大学を卒業し、双子もまた臨床のために教室を離れた。


 再会は三年半後。拓植薔子の死がきっかけだった。



 柊はあまりよく知らないことかもしれないが、拓植薔子は学部内であまり評判のよくない学生だった。所属していた公衆衛生学教室においてはもちろんのこと、医学部全体においても、彼女にはいつも、とある噂がついてまわった。


 ――誘われれば誰とでも寝る、淫乱。


 真偽のほどは定かではない。自ら確かめたことのない由璃と真璃にとって、噂はあくまでも噂にすぎない。

 だが、云われるほど淫らではなかったとしても、拓植薔子が複数の男と関係を持っていたことは事実だろう、とは考えている。そのことで瀬尾と彼女が揉めている現場を目撃したことがあるからだ。


 あれは、由璃と真璃がともに法医学を志して大学院に戻ってしばらく経ったころ、薔子が殺害される少し前だったと記憶している。


 おまえは、どうしてそうなんだ。

 どうしてなんて、あなたに云われる筋合いないわ。もう別れてって何度も頼んでるのに、別れてくれないあなたが悪い。

 別れる理由なんてないだろう。こんなに好きなのに。

 あたしは好きじゃない。あなたを好きだったことなんて一度もない。

 薔子。

 付き合う理由がなくなったから別れてって、こんな簡単なこと、どうしてわかってくれないの。


 あまりのやりとりに、思わず立ち聞きしてしまっていたふたりだが、すぐに瀬尾に気づかれ、気まずい思いをしながら立ち去らざるをえなかった。いろいろあったとしても仲は悪くないのだろうと、勝手に想像していた瀬尾と薔子の間柄を、そもそものところから疑うようになったのは、このことがあったからだ。


 ふたりの脳裏には、当時から柊のことがあった。薔子を親友と慕いながらも瀬尾を想っていた柊が、あのふたりの真実を知ったらどれだけ悲しむだろうか。


 そして、薔子が殺された。


 なんの証拠も、根拠もなく、しかし、双子はずっと瀬尾を疑っていた。――拓植を殺す動機は、瀬尾にこそある。


 だが、そのことは誰にも云えなかった。薔子の死後、まもなく事情聴取にやって来た警察にも、にわかに騒々しくなった大学関係者にも、やがてふたたび研究室に姿を見せるようになった柊にも伝えられなかった。

 知らない仲ではない瀬尾の名誉を傷つけたくなかったし、好ましい相手でなかったとはいえ、同僚であった拓植の尊厳を貶めたくもなかった。

 なによりも一番は、柊に傷ついてほしくなかったのだ。


 拓植と瀬尾と、三人で過ごしていたころの柊が、なにをどんなふうに考えていたのか、由璃と真璃には知るすべもない。ふたりが想像するような苦しみや痛みなどなかったのかもしれない。

 けれど、少なくとも柊は、あのふたりの幸せを願っていたように見えた。本当のことなど、なにも知らずに。


 それでいいじゃないか、とふたりは思っていた。瀬尾が拓植を殺した確証などどこにもない。柊を徒に動揺させるようなことなど、云わなくていい。


 なにも知らなくていい。

 気づかないままでいい。


 瀬尾を訪ねて時折姿を見せる柊を、双子はそうやって見守ってきた。

 思いが変わったのは、瀬尾が柊に奇妙な提案を持ちかけたことを知ってからだ。

 ――俺は本当のことが知りたい。どこかの誰かにすっかり歪められた薔子じゃなくて、本当のあいつのことが。

 柊は瀬尾とふたりだけの秘密だと云ったが、彼女から話を聞くよりもずっと前から、双子はその約束とやらを知っていた。

 ほかでもない、瀬尾から聞いたのだ。

 束原さんには黙っていてくれ、と瀬尾は云った。小鳥遊に情報を流す代わりに、薔子のことを探ってもらっている。おまえたちだって薔子とは知らない仲じゃないはずだ。な、頼むよ。


 おそらく瀬尾は、同じ口実で教室中の人間に口止めを図ったのだろう。瀬尾が柊に検案の情報を流していることを知らない者はいない。彼が黙っていてほしい相手として名前を挙げた束原と仁科でさえ実際のところを知っていて、知ったうえで彼の振る舞いを黙認している。


 知らないのは、柊だけなのだ。


 瀬尾が柊に渡している情報は、じつはたいして価値のあるものではない。警察の捜査関係者、あるいは司法関係者には公にしていることで、裁判になれば明らかになることもある。

 ただ、一般の目にはなかなか触れにくい。遺体は――もっと云えば、死は――大衆の目からは隠されるものだからだ。

 たとえ報道機関の人間であっても、ごく普通の取材を行っていたのでは、遺体そのものはおろか、それを映した写真や詳細な解剖記録を見る機会はとても少ない。


 瀬尾はその事実を利用して柊を囲い込んだ。自分が渡す情報がさも重大であるかのように振る舞って、柊の行動を制限していたのだ。

 彼女がなにを考え、なにを思っているか。なにを掴み、なにを見逃しているか。

 そのすべてを監視し、あるいはコントロールしようとした。


 目論見は成功していた。

 双子が柊の鈍さと愚かさに苛立ち、行動を起こすまでは――。



「あんまりにもなにもかも瀬尾の思惑どおりになってるから苛々しちゃったんだよ。シュウはいつまで経っても、先輩先輩って莫迦みたいに瀬尾を信じてるし」

「転職したあたりで気づくだろう、なんて思っていたおれたちのほうこそ莫迦みたいだった」


 我慢したよね、我慢しただろ、とまるで褒める手をねだる犬のように、ふたりが擦り寄ってきた。真璃に押さえつけられたままの柊は、せめてもの抵抗に枕とマットレスに後頭部と背中を強く押しつける。だが、あたりまえのように距離は縮まらなかった。


「おれたちはずっとシュウを見てたの。あの夜、あの店で会ったのも、偶然じゃないよ」

「あ、あとでもつけてたの」


 情けなくも声が震えるのを、柊は抑えることができなかった。


「そうだよ」


 即座に肯定した由璃がにやりと笑って半身を見遣った。悪びれない彼らに柊は呆れて言葉もない。


「あの日もシュウは研究室に来ていただろう。瀬尾と話しながらも、時間を気にしているような素振りだったから、このあとなにか約束があるんだろうと思った」

「あの店はシュウの行きつけだよね。瀬尾とも行ったことがあるはず」

「研究室では瀬尾の目があるし、なかなか話しかけるチャンスが掴めなくて。仕事に戻るなら引き止めるのも難しいけど、飲みに行くなら話は別だよね」

「おれたちの話を聞いてもらう、いい機会だと思ったんだ」


 奇妙な三角関係に陥っている不器用そうな女が気にかかったのが、そもそものはじまり。その女が親友を失くし、親友の恋人だった男――彼女が好きだった男――に都合よく利用されていることが、おかしなくらい気に障った。だからずっと見ていた。男の嘘にいつ気がつくのかと、やきもきしながら。でも、女はぜんぜん気づかなかった。男の嘘にも、自分たちの視線にも。

 だから、思い切って近づいた。


「勢いあまって近づきすぎちゃったけど、それがよかった」


 ぜんぜんよくない、と柊は意味もなく首を横に振った。さりさり、さりさり、と髪と枕がこすれる音がやけに大きく響く気がした。


「少なくとも、シュウはおれたちのことを無視できなくなった」


 わたしとしては別に無視したままでよかったのだ。そっちが放っておいてくれなくなったかけじゃないか。そう云い返したかったけれど、いまにもくっつきそうなほど迫ってくる真璃の唇がおそろしくて口を開けない。


「相変わらず頑なだけどね」

「頑なすぎる」


 そもそも、と由璃が柊の隣に寝転ぶようにして真横から顔を覗き込んでくる。目だけを動かしてそちらを見遣れば、彼はひどく不満げな顔をしている。


「おれたちがシュウに対して甘すぎる」


 どういう意味だ、と視線だけで問えば、答えは真上から降ってきた。


「約束したよね。おれたちが渡した情報でなにか進展があれば、シュウを頂戴って」

「そ、それは……」


 たしかにそんなことを云われたような記憶はある。けれど、柊にそんな約束をした覚えはないし、第一、双子ははじめから薔子の遺体検案書に隠されていた嘘を知っていたのだ。ずるいじゃないか。


「云っておくけど、おれたちにだって確証はなかったよ」

「そんなの……」

「シュウが、おれたちが得たのと同じ結論に辿り着くかどうか、確信もなかった」

「だから、そんなのは……」


 全部あとづけの云い訳じゃない、と柊は思った。由璃と真璃は最初から瀬尾を疑っていて、柊にも同じ疑惑を抱かせるために検案書を見せたのだ。


「……ずるい」


 ふたりのおかげで真犯人への手掛かりを掴んだことは事実だが、素直に感謝する気にはなれない。

 第一、瀬尾が薔子を殺したなんて、柊にはいまだに納得がいかないのだ。真相を追及しなければならないと思う気持ちの裏には、瀬尾が犯人でなければいい、という願いがまだ潜んでいる。ほんのわずかしかないその可能性を捨てきれない。


「ずるいって」


 真璃が苦笑いをする。


「ずるいのはシュウだろう」


 由璃が微笑みもせずに云う。


「なんで、わたし……?」

「云い合いなんて無駄なことはしない」


 真璃の掌が柊の頬に伸ばされる。

 由璃の指に顎先を押さえられて逃れることもできないまま、ふたりの男に貪られそうになったまさにそのとき。


 これ以上ないほど派手な音を立て、扉が開かれる音がした。



 結果から云えば、柊の貞操は無事に守られた。もうすでに一度暴かれている身で貞操もへったくれもないが、少なくとも過ちを重ねることだけは避けることができた。

 ひとえに、繭のおかげである。

 洗濯し、すっかり乾いた柊のシャツと下着を持って部屋に戻ってきた繭は、そのときまさに柊に襲い掛かろうとしていた獣二匹を、さほど声を荒らげることもなく素早く追い払ってくれた。


 許してね、と繭は双子の保護者であるかのような口調で詫びてきた。ここなら大丈夫だろうって油断したわたしが悪かったわ。

 いつ誰が出入りするかわからない部屋で、ふたりが直接的な暴挙に及ぼうとするなんて予想もしてなかったの、と繭は云った。あの子たちには当分、わたしのごはんしか食べさせないようにするから勘弁してやって。


 冗談とも本気ともつかぬ自虐を口にする繭に毒気を抜かれ、もういいです、と柊は答えた。いろんなことがいっぺんに起こりすぎて、許容量を超えているのだ。とにかく一度家に帰って落ち着きたい。

 そういう意味のことを繭に告げると、それがいいわ、と彼女は云った。シュウちゃん、だいぶ混乱してるみたいだもの。

 わたしの名前はシュウではありません、柊です、と訂正する気力は湧いてこなかった。とにかくもう、一刻も早く安曇の牙城から出て行きたい、とそればかりを考えていて、必ずまた来てね、という繭の言葉にうっかり頷いてしまったことも意識していなかった。

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