22
泥沼の底を進むようなのろのろとした足取りで編集部に戻った柊を出迎えたのは、例によってひとりで留守番をしていた北居大和の素頓狂な叫び声だった。
「あッ、小鳥遊さん!」
「……なに」
持ち慣れているはずの鞄を重石のごとく感じながら、柊はあからさまに不機嫌な顔を北居へと向けた。
北居にはなんの罪もない。そんなことは柊にだってわかっている。それでもなんとなく八つ当たりの的に選ばれてしまうあたりに、この後輩の不幸が垣間見える。
「お客さん、でしたよ」
突慳貪な返答をものともせずに、北居が告げた。彼の鈍感力はここへきてぐんぐんと鍛えられている。
「でした、ってなによ」
「秋山さんって人。受付に、たったいま」
「秋山?」
咄嗟に思い当たる顔が浮かばずに、柊は首を傾げる。
「あれ、知りませんか。さっき受付から電話があって、小鳥遊さんってご指名だったのに」
受付とは総務部のことだ。ウィークリーゴシップはごくごく小規模の出版社である。看板雑誌である週刊誌のほか、単行本やムックを細々と発行することを業としている。編集部と営業部以外の間接部門はふたりの総務部員が担っており、社へ訪ねてくる客の対応は彼らに委ねられていた。
「悪いけど……」
ちょっと思い当たらないなあ、と続けようとして、柊の脳裏に閃くものがあった。
「待って、秋山さんって云った?」
「ええ、秋山さん。女性だそうです」
いままさに腰を下ろそうとしていた椅子をそのまま背後に弾き飛ばし、柊は勢いよく立ち上がる。鞄もなにも放り出したまま、慌てて編集部を飛び出した。
秋山。秋山斗貴子。一週間前に訪ねたばかりの、元法医学者。いまの暮らしを、小さな幸せを守りたいのだと云って、尋ねたことになにひとつ答えてくれなかった臆病な女。
その彼女が、なぜ――。
襤褸エレベータを待つ間を惜しみ、狭い階段を駆け下りた。六車線道路に面した広い歩道に飛び出す。左右を見渡し、まだすぐ近くにいるはずの背中を探した。
「いた……!」
まだ記憶に新しい、薄い、しかしまっすぐに伸ばされた背中が人波に埋もれていく。
「秋山さん!」
名を呼びながら柊は走った。ウールコートの裾が邪魔だが、脚は軽快に動いた。さっきまでの重さが嘘のようだ。
「秋山さんっ!」
三度か四度、呼ばわっただろうか。ようやくのことで声が届いたのか、秋山が振り返る。駆け寄ってくる柊に驚いたようにやや目を瞠り、あら、と云った。
「小鳥遊さん」
いたの、と秋山は確かめるように云った。
「すみません、行き違いです」
たったいま戻ったところで、と息を弾ませながら云うと、そう、と秋山はうっすらと笑った。
「急に訪ねていったから、怪しまれて居留守でも使われたのかと思ったわ」
「まさか」
ウィークリーゴシップをなんだと思っているのだ。持ち込みタレコミ大歓迎の醜聞専門誌だ。急な来客を歓迎することはあっても、用件も確かめずに拒絶することはない。
「それよりも、訪ねてきてくださるとは思いませんでした」
そうね、と秋山は頷いた。
「二度と会うつもりはなかった」
「では、なぜ……?」
秋山は眉を持ち上げ、さあね、と云った。そんな仕草をすると、秋山はいかにも才女らしい、どこか冷たい雰囲気を纏う。
「なんでかしら。でも、あなたたちが帰ってからずっと、私の頭には柘植さんのことがあった」
使い込まれた雰囲気のショルダーバッグを肩に掛け、ポケットに片手を差し込んで話す秋山は、遠くを見つめるような眼差しになる。
「気持ちが変わったのか、と云われるとよくわからない。でも、彼女のことをずっと考えているうちに、話しておいたほうがいいのかもしれないと思うようになった」
「薔子と、仲がよかったんですか」
そんな話は聞いたことがなかった。もし、薔子と秋山が親しかったのなら、柊が知らないはずはない。柊の友人に薔子の知らない者がいなかったように、薔子の交友関係の大半を柊は把握していた。
案の定、いいえ、と秋山は首を横に振った。
「親しい、ということはなかったわ。ただ、医学系の教室には女が少ないのよ。わかるでしょ」
同じ研究棟を使う女同士、互いのことはなんとなく見知っているし、顔を合わせれば話もする。学食で鉢合わせれば、並んで食事をすることもなくはない。
「そうは云っても、込み入った話をしたことはない。そんな時間もなかったし。でも、一度だけ、普段ならばあまりしないような話をしたことがあるわ」
「普段、しないような話?」
そう、と秋山はなにかを懐かしむような顔をした。彼女にしてみれば、これは思い出話なのだろう。かつて交流のあった、そして不幸な亡くなり方をした後輩にしばし思いを馳せる――。
けれど、柊にとってはそうではない。これは前進だ。薔子の死の謎に迫る、かつてないほどに大きな一歩だ。
「女同士、普段しない話って云えば、恋の話に決まってるでしょ」
秋山は悪戯っぽく笑った。そうなのだろうか、と柊はややずれた感覚でそんなことを思う。普段も特別も、わたしは誰かとそんな話をしたことがない。薔子ともほとんどしたことがなかった。
「薔子が、秋山さんに先輩、いえ、瀬尾さんの話を……?」
秋山は、刹那、憐れむような眼差しを柊に向けた。柊は戸惑い、首を傾げる。
ねえ、と秋山は唐突に云った。
「ここ、寒くない?」
片側三車線の広い道路を、多くの車が行き交うこの場所は、たしかに立ち話をするに都合のいい場所とは云い難かった。
秋山はすぐ近くにあるコーヒーショップを指さすと、行きましょ、と短く云って歩き出した。彼女を追った柊は、すぐにあることに気づいて立ち止まる。
「あ、わたし、財布……」
財布どころかスマートフォンすら自席に置いてきてしまった。あの、と呼びかける柊に気づかず、秋山は歩いていってしまう。小走りに追いかけ事情を話すと、奢るわよ、と顔をしかめた。
「煙草が吸いたいの。悪いけど、付き合って」
たしかにそこに見えるチェーン系列の店には、大抵喫煙フロアが用意されている。嫌煙禁煙のご時世にありがたいことだ。
席に落ち着いたところで、秋山は早速煙草を取り出して一本くわえた。先日の様子といい、彼女はずいぶんなヘビースモーカーであるようだった。
「それで、どこまで話したっけ?」
「薔子と、恋バナをしてたっていうあたりまで」
ああ、そうだったわね、と秋山は美味そうに目を細め、煙を吐き出した。
「してた、じゃないわ。したことがあった、よ」
はい、と柊はコーヒーを啜る。
「許されない恋って、云うじゃないですか。あれって、本当は許さない恋ですよね。許さないのは自分。ほかの誰でもないんです、って」
薔子の口調を真似たのか、ひどく柔らかい声で秋山が云った。柊は息苦しいようなおかしな気持ちになって、口を開くことができなかった。
「当時は私も松島さんといろいろあって、でも、そのいろいろは誰にも云えなくて、それなりに悩んでいた時期だった。だから、柘植さんの言葉がひどく印象に残ったの」
なんでもない日だったのよ、と秋山は続ける。
「学食でばったり会ったの。私は宿直で、柘植さんは論文の締切が近いとかで、ふたりとも髪はぼさぼさ、肌はがさがさのひどい状態でね。内臓もいい具合に荒れてたんじゃないかと思うけど、ラーメンなんか頼んじゃって」
それがまた美味しかったのよ、濃い味でさ、と秋山は唇の端をわずかに持ち上げた。
「食べ終わって、ああ、もう研究室に戻らなくちゃっていうときにね、なにがきっかけだったのかぜんぜん思い出せないんだけど、柘植さんが云ったの。秋山さん、好きな人はいますかって」
秋山の話を聞きながら、柊の脳裏には薔子の残した言葉が浮かんでいた。誰にも知られることなく綴られていた、短い言葉たち。
――あなたがすき。とてもすき。
「いると答えたわ。でも、そのことは誰にも云えない、とも云った。周囲の誰かや当の相手はおろか、自分自身にも云えない、と」
自身にも家族がありながら妻子ある男を好きになる女の気持ちなど、柊にはとうてい理解できない。社会的な常識や倫理を忘れて盲目的になることも、自分自身を失くすほどに耽溺することもまるで想像できない。だって恋って、幸せになるためにするものでしょう。
小鳥遊柊の恋愛観は、人によっては恋愛とは呼ばないのではないかと思えるほどに理性的なものなのだ。
「自分もそうなんだ、と拓植さんは云ったの。好きな人がいて、好きとは云えなくて、ずっとずっと隠してるんです、そんな自分が大嫌いなんです、って」
柊には、秋山の云うことが理解できるはずもなかった。にもかかわらず、さっきから彼女の言葉に呼応するかのように、薔子の声が耳の奥に木霊している。
――もういや。きらいになりたい。
「同じよ、と私は云った。でも、好きなのよね。誰にも云えなくても、態度にすら見せなくても、それでも、好きなのよね、って。拓植さんは、頷かなかった」
頷けない気持ちが、私にはよくわかったわ、と秋山は云った。
「自分ですら持て余すような気持ちを、一度でも口にしたらもう止めることはできない。自分を壊しても、相手を傷つけても、止めることはできない」
――でもすき。すき。だいすき。
柊は息を詰めて秋山の言葉を追っていた。一度も、聞いたことのない話だった。
薔子に、それほどまでに想いを寄せる相手がいたなんて。いったい誰なのだろう――。
「……その相手って」
思わず囁くように尋ねれば、秋山は、さあ、と肩を竦めた。
「私はよく知らないわ。瀬尾くんじゃないことはたしかだと思うけど」
ショックを受けるよりも先に、やはりそうか、と柊は思ってしまった。
薔子の想う相手は、先輩ではなかった。先輩と付き合いながらも、薔子はずっと別の誰かに恋焦がれていたのだ。遺品となってしまった薄い紫色の手帳に記されていた言葉は、その相手にこそ捧げられたものだった。
「なりゆきとはいえそんな話をしたからかしらね、とくに親しくもなかったけれど、拓植さんのことはなんとなく気にかけていたの。瀬尾くんと付き合っていたこともあったし、まあ、正直あんなことを聞かされたら、気にするなっていうほうが無理よね。自分でも品のないことだとは思ったけれど」
それはそうだろう、と柊はわずかに秋山に同情した。同僚の恋人というだけならまだしも、彼女が本当は同僚のことなど好きではないのだと知ってしまえば、どうしたって下世話な関心を向けてしまうのは人の性というものだ。
「瀬尾くんには、まあ、同情というか、気の毒だなと思わないでもなかった。あの人、傍から見ててもはっきりわかるくらい、拓植さんのこと大好きだったからね。澄ました顔してクールぶってるけど、色ごとに関しちゃぜんぜんお子様なのもバレバレだった」
拓植さんのほうが数段は上手だったわよ、と秋山は煙草の箱を弄びながら云う。正直、おもしろかったわ。
「あんなに拓植さんのこと好きなのに、拓植さんが自分を好きじゃないって気づいてないみたいに見えたところが、余計にね。だから、あのふたりのことは、ただの同僚というよりももう少しだけ、なんていうか、興味深い存在だった」
秋山そう云うと、まだ湯気の立つカフェモカを口に含んだ。甘い匂いが、柊のほうにまで漂ってくる。
「そのことを、わざわざ……?」
暗に本題に入るよう促すと、秋山はなかば目を閉じ、いいえ、と云った。
「これは理由。私が、あなたに会いに来た理由よ。ほんの少しだけとはいえ、拓植さんの真実を知っていた私が、彼女のことで隠しごとをするべきではないと思ったの。とくに、あなたにはね」
秋山のその言葉を、柊は言葉どおりに理解した。秋山さんは、親友の死の謎を追うわたしに同情してくれたのか――。
秋山は、またもや目の前の愚鈍を憐れむような目つきをする。だが、柊がその眼差しに気づくことはない。
「話したいのはあの日のこと」
「あの日?」
「拓植さんが亡くなった、あの夜のことよ」
柊は意識的に強く唇を噛んだ。そうでもしていないと、わけのわからない、しかしとてもつもなく強い衝動に叫びだしてしまいそうだったからだ。
「あの夜、拓植さんの遺体を解剖したのは、私でも松島さんでもない」
秋山は顔を上げ、強い瞳で柊を見据えた。柊は息を飲み、続く言葉を待った。
「瀬尾くんよ。瀬尾くんがひとりで、拓植さんの遺体を検めたの」
しばらくのあいだ、ふたりとも身じろぎひとつしなかった。
やがて、灰皿で燻っていた煙草を秋山が取り上げた。
彼女の仕種も、立ち上る煙も、すべての動きがひどくゆっくりと感じられた。柊は大きく喉を鳴らした。喉元までせり上がってきた鼓動を、ふたたび飲み込もうとでもするかのようだった。
「先輩が、ひとりでって……、それって、どういうことですか」
ようやく発した声はひどく掠れていた。
「ひとりで。そのままよ。ひとりで解剖室に入って、ひとりで検案を行った。そのまま」
「そんなこと……」
そうね、と秋山は煙草の火を消して頷いた。
「許されないわ。……普通はね」
「普通は」
「あの日は普通の日じゃなかった。束原さんをはじめとする教室の人間の多くが、学会に出席するために不在にしていたの。東京に残っていたのは、松島さんと私、瀬尾くん、それから外部から来てもらっていたスタッフがふたりの、合わせて五人。とても手薄だったのよ」
でも、と柊は何度も唾を飲み込みながら、必死に言葉を探す。
「それでも、ひとりで、なんて」
「そう、まず絶対に不可能なこと。ありえてはならないこと。でも、瀬尾くんはひとりで拓植さんの遺体を解剖した。それが事実。私はそのことをあなたに伝えにきた」
柊の身体が大きく震えた。手の甲がテーブルの上のカップに当たり、耳障りな音を立てる。
「順を追って話してもらえませんか」
秋山は小刻みに頷き、ふたたび煙草に火をつけた。彼女にとっても冷静ではいられない話であるらしい、と柊は頭の片隅でぼんやりと考える。
「あの日、最初に検案要請を受けたのはオンコールだった松島さん。彼と私は、大学近くの松島さんのアパートにいたの。そこは松島さんが研究のために借りている部屋でね。束原さんも学生たちも知っている場所だった。もちろん彼のご家族もね。普段はそんなところで会ったりしないけど、あの夜は、人目が少なかったから」
秋山は大きく煙を吸い込み、吐き出しながら続けた。
「束原さんが不在のときは、松島さんか私がオンコールになる。呼び出される可能性を考えなくはなかったけれど、研究室に人が少ないときならば、たとえ一緒に駆けつけることになってもそれほど怪しまれることはないと、そこまで考えてた」
用心はしていたのよ、これでもね、と秋山は自嘲の笑みを浮かべる。結局は、全部無駄になったけれど。
「呼び出されたのは日付が変わるころ。そろそろ眠ろうかという時間だったけれど、松島さんも私もすぐに部屋を出て大学に向かったわ。歩きながら、ほかのメンバーに電話をかけた。外部協力者のふたりがすぐに駆けつけるのは無理だとわかって、なんとしても瀬尾くんを捕まえなきゃならなくなった。解剖には最低でも三人の人手が必要だから」
瀬尾への電話は繋がらなかった。苛々しながらも大学へ辿り着き、秋山は術衣に着替えるために更衣室へと向かった。
「着替えて戻ってきたら、研究室には瀬尾くんの姿があった。松島さんとなにかを云い争っていたみたいで、なんだか不穏な空気でね。じきに警察が到着するっていうのに、なにをやってるんだって、私は云ったの。松島さんはまだ着替えてもいなかったからね」
秋山の非難に答えたのは瀬尾だった。
「瀬尾くんは云ったの。いまから運ばれてくる遺体の解剖は、自分がひとりでやります、って」
すぐ耳元で鐘を打ち鳴らされでもしたかのように、秋山の声がわんわんと響く。
――いまから、運ばれてくる、遺体の、解剖は、自分が、ひとりで、やります。
「なにを考えてるんだって松島さんは怒鳴って、私ももちろんそれに同調したわ。恋愛云々は関係なく、そのときばかりはそれこそ百パーセント、松島さんが正しかったから」
目だけをきろりと動かして、柊は秋山を見た。ほかの音はなにひとつ聴こえない静寂のなか、秋山の言葉ばかりがやけに明瞭に飛び込んでくる。耳を塞いでしまいたい、と柊は思った。もうこれ以上、彼女の話を聞きたくない。
「おふたりのことを、束原先生にお話ししてもいいんですかって、瀬尾くんは云った。お付き合いされているんですよね、って」
上手く隠せていたつもりだったから、死ぬほどびっくりした、と秋山は顔を顰めた。
「松島さんも同じだったみたい。私たちがふたりとも黙ってしまったことで、瀬尾くんは自分の優位を確信したように、次々と要求を突き付けてきた」
いわく、警察には松島が全面的に対応しろ。
いわく、検案書には自分の名前を載せるな。
いわく、このことは絶対に誰にも話すな。
「そんなことできるわけがないだろうって、松島さんはどうにか云い返したわ。もちろん私も。執刀者を偽ることは検案書の偽造に等しい。警察を、被害者を、ひいては国民を欺くことになるって」
大きすぎる話をする松島さんを、瀬尾くんはただ笑うばかりだった、と秋山は苦い声で云った。そして、瀬尾くんは松島さんを脅したの。
「秋山さんと引き換えに、すべてを失くす覚悟があるんですかって」
秋山と松島の関係において、失うものが多いのは男のほうだった。キャリア、信用、家族――。
秋山にも家族はあったが、彼女はまだ研究者となって日が浅く、年齢も若かったから、まだどこでもやり直すことができた。そううまくはいかないのが現実だが、少なくとも瀬尾はそのように判断したのだろう。
「そうじゃなくても、松島さんを狙い撃ちしたのは正しかったわ。私と彼との関係は、私が望んで始まったものだったし、それにたぶん、私のほうが想いが深かった」
秋山はほんの短いあいだ、せつなそうな表情を浮かべた。二度と戻ることのないなにかを悼むように。
「松島さんは瀬尾くんの脅しに屈したの。冗談じゃないと云い続ける私を、最後には怒鳴りつけて黙らせて、彼は瀬尾くんの要求をすべて飲んだ」
運ばれてきた遺体を受け取り、解剖室へと運んだのは松島と秋山だった。遺体が見知った者のそれであることに驚きはしたが、瀬尾の無茶な要求に動転していたせいで、なにかを深く考えることはできなかった。術衣を身に着けてスタンバイしていた瀬尾に遺体を引き渡し、ふたりは研究室で数時間を過ごした。
「もう一度私たちが呼ばれたときには、縫合まで完璧に済ませてあった。清書するだけになった検案書案を手渡されて、サインをして警察に渡せ、とそう云われたのよ」
それがあの、由璃と真璃がわたしに見せてくれたこともある検案書なのか、と柊は思う。あれは、瀬尾の手によるものだったのだ。
「私はもうなにも云わなかった。検案書を清書して、ふたりでサインして、警察に渡したの。遺体を遺族に返して、そして、全部なかったことにした」
掌に爪が食い込むほどに強く握りしめていた拳を、柊はゆっくりと開いた。指先が震え、二の腕が震え、足が震え、身体が震えた。
ぶるぶると怯える柊を、秋山が気の毒そうに見つめている。
「ごめんなさいね」
とても静かな声だった。
「もっと早く、本当のことを云うべきだった」
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