21

 大倉卓明は約束の時間ちょうどに姿を見せた。指定された事務所近くの喫茶店に、相変わらずの地味なスーツで現れた彼は、前回と同じ口調で、十五分しか時間は取れない、と云った。

 柊は、再度の面会の申込みに応じてくれたことに対する形ばかりの礼を述べたあと、さっさと本題に入ることにした。


「先日は大変不躾なことを申し上げました」


 柊が口火を切ると、大倉はカフェオレのカップをソーサーに戻し、まだその話か、とうんざりしたような顔をした。しかし、柊と自身のあいだにそれ以外の話があるはずもないことは、彼にもよくわかっている。


「あれから、わたしなりにいろいろと考えてみたんです。それで、いくつかお尋ねしたいことがありまして」


 大倉はなにも云わなかった。ただ、早くしろ、と云わんばかりの苛立った表情を見せた。


「週刊スキャンダルに掲載された、先生の息子さんの記事をご覧にはなりましたか」


 唐突な質問にもかかわらず、大倉はあまり驚いた顔をしなかった。政治家の秘書に必要とされる程度の冷静さは備えているらしい。


「知っているもなにも、先生は弁護士を通じて、週刊スキャンダルに謝罪と回収を申し入れたばかりだが?」

「あのネタはSだけが追っていたわけではありません。わたしたちも同じように息子さんを追いかけていました」

「それがなんだ」

「それはつまり先生を追っていたと、そういうことでもあります」


 清廉な政治家だと云いきってしまうにはいろいろとおありのようではありますが、と柊はそこでようやく浮かべていた厭な笑みを消した。大倉は怪訝な顔をしたままだ。


「正直、先生は、人ひとりの命をどうこうするような、あるいは、どうこうするよう指図するような方には見えなかった。先日申し上げたこととは矛盾するようですが……」

「なら、なぜ、まだこだわろうとする?」

「辻褄が合わないからです」

「辻褄?」


 そうです、と柊は頷いた。

 それはたぶん、前回大倉に会ったときから疑問に思ってはいたのだ。ただ、具体的に質問できるほど、はっきりとした形を取っていなかった。

 だが、あれから一週間以上の日が過ぎた。そのあいだに塩穴の醜聞は世間に対して明らかになった。塩穴は訴訟の準備を調え、記事の撤回と謝罪の申入書を週刊スキャンダルに送りつけた。

 事態が動き、柊は自身が抱く違和感をはっきりと言葉に換えられるようになっていた。


「なぜ、先生は息子さんの写真をSに撮らせたりしたんですか」


 これまで、どれだけ意味深な言葉を投げかけても動じなかった大倉の顔色が、はっきりと変わった。

 それを見て取った柊は探りを入れるのをやめ、一気に畳みかけることにした。


「さきほどのお話です。週刊誌に載った、あの写真のことです」


 いえ、失礼、と柊はさらに言葉を重ねる。


「載せた、のでしたか」

「……なにを云っている」

「Sがすっぱ抜いた、先生の隠し子のことです。おわかりですよね。あの写真、じつによく撮れています。アングルといい、タイミングといい、他誌ながら感心するほどですが、見れば見るほどまったくもって不自然です」


 柊はそこでにこりと笑んでみせた。


「なにが、不自然だ」


 あんな写真を撮られてこっちは迷惑してるんだ、と大倉は呻くように云う。


「あの写真の不自然さを、ここで全部説明したほうがいいですか」


 柊はわざと挑発的な態度をとった。偶然撮られた写真にしては遮蔽物もなく、息子さんの顔もまったく写っていない。たった数歩の距離を行くわずかな時間に撮られた割には、じつによくピントが合っている。車中からの隠し撮りなら、もう少し甘い写真になるのが普通だと思うんですが、よほどカメラマンの腕が確かだったんでしょうね。

 大倉は唇の端を震わせたが、じっと黙ったままだ。


「土壇場で追い払われた立場としては、せめて本当のことが知りたいんです」

「本当もなにも、先生の脇が甘かった、それだけ……」

「あれが噛ませだったとばれたら、いろいろとまずいですよね、きっと。今後、いざ訴訟になったとき、裁判所の心証にも影響があるかもしれませんし」


 云い訳のような抵抗にはいっさい取りあうことなく言葉を重ねる柊を、大倉が睨む。双眸に滲む本気の怒りをきちんと感じ取りつつも、柊は言葉を継いだ。


「ですから、教えてもらえませんか。あの写真をなんのために撮らせたのか」


 大倉は大きく息を吸い込んだ。肺から腹、背中まで膨らむのがわかるほどだった。


「わたしは、あの写真はヤラセだと考えています。先生はSと取引をした。一誌独占のスクープを与える代わりに、回収、謝罪の煩わしさを引き受けろ、と。Sにしてみれば決して悪くない話です。一定以上の売上げが見込めるならば、謝罪記事のひとつやふたつ、痛くも痒くもないですからね。あるいはそれすらも商機になるかもしれないわけですし」


 わからないのは先生のほうです、と柊は大倉の顔を覗き込むようにする。


「あんな写真を撮らせて、先生はなにを隠そうとしたんですか」

「隠す?」


 そうですよ、と柊は余裕の笑みを浮かべる。


「記者に追われるのがいい加減煩わしくなったからですか。違いますよね。塩穴雅憲ほどの政治家、記者につきまとわれることには慣れているはずです」


 政治部から醜聞屋、小蝿の毛色が多少変わったところで、怖くもなんともない、そうでしょう、と柊は身を乗り出して大倉に迫る。


「事実、大倉さんはわたしの素性を調べ上げ、いつでも使えるよう情報を揃えておいた。ほかの記者についても同様のはずです。そのうえで脅すか、接待漬けにするか、いずれにしても黙らせることは簡単だった」


 自身にいっさい傷をつけることなく、煩わしい連中を追い払うこともできたはずなのに、塩穴はあえて写真を撮らせた。それがどういうことか。


「時間がなかった。そうとしか考えられない」


 集めたネタを元手に脅すにしろ、旨い酒と美しい女でこますにしろ、記者の口を封じるには――そう長くはないとはいえ――相応の時間がかかる。彼らとて道楽で政治家を追っているわけではない。仕事として、それなりの矜持を持っている。


「先生はわたしたちの口を素早く、しかも全部まとめて塞ぐ必要があった。余計なことに気づかれてしまう前に」


 その余計なこととはなにか、と柊は問うている。


「なにを隠したかったんですか、先生は。記者と取引をするなんていう禁じ手を使ってまで、なにから目を逸らさせたかったんです?」


 大倉がひどく緊張している。ぎりぎりと神経を絞る音が聞こえてきそうなほどだ。


「それが、犬飼さんのことではないとしたら、なんですか、と訊いているんです」


 踏んだな、柊は内心でほくそ笑んだ。なかば鎌をかけたようなものだったが、読みは当たっていたのだ。


「いまさら誤魔化せると思いますか」


 大倉は音を立てて息を吸い込む。厭な女だ、と罵る声が聞こえた気がした。それでも相手は腐っても政治家秘書だった。


「誤魔化しはしない。だが、俺にも云えることと云えないことがある」

「云えないことですか」


 柊はわざとらしく顔を顰める。


「すべては仕組まれたことだったと書いてもいいんですよ。先生とSがヤラセ記事を仕掛けたと」

「好きなように書けばいい」

「好きなようにね……」


 本気ですか、と柊は大袈裟に肩を竦めた。


「Sはともかく、先生はそれでいいんですか。社会的信用は地に落ちる。こういうやり方で世間や司法を欺けば、政治家といえどもただでは済まない。そうですよね」


 大倉と柊のあいだに張られた見えない糸が限界まで張りつめた。

 押し黙ったまま双方とも口を開かない。目も逸らさない。身動ぎもしない。お互い負けることを許されない立場なのだ。


 壁にかけられた時計の針が秒を刻む音をいくつ聞いただろうか。


 いつ切れてもおかしくないその糸を緩めたのは、より繊細な立場にある大倉のほうだった。


「話をする前に、ひとつ約束がほしい」


 大倉はそう云った。ここで聞いたことを、誰にも明かさないという約束だ。

 衆議院議員塩穴雅憲の秘書には忸怩たるものがあるのだろう、と柊は思う。たかが三流醜聞誌の記者に屈する悔しさはおおいに理解できる。しかし、だからといって手加減するつもりはない。


「もちろんです」


 が、と柊は留保をつけた。苦り切った表情を見せていた大倉が、いよいよ憎悪を孕んだ眼差しを向けてくる。


「それは、大倉さんのお話に納得がいったときだけです」


 大倉はなにかを見定めようとするかのように双眸を細めた。そして、そちらこそ忘れないでもらいたい、と云う。


「なにをですか」

「これから話すのは、先生のことではない。先生の息子さん、慶太郎くんのことだ」


 柊はわずかに首をひねった。


「先生は公人だが、慶太郎くんは違う。彼は私人で、そのプライバシーは最大限に尊重されなくてはならない」


 なるほど、と今度は柊が瞳を眇めた。やられた。大倉は、これから聞くことは決して記事にするな、と云っているのだ。おまえが納得しようがしまいが、そんなことは知ったことではない、と。

 そして、またこうも云っている。自分の話を聞いた以上、それたとえ作り話であったとしても、塩穴の件は記事にするな――、と。

 さすがは政治家の秘書、転んでもただでは起きない。

 柊は返事をしなかった。だが、いまさら彼女が否を唱えることなどできないということは、大倉にもわかっていた。彼は即座に話を切り出した。


「あんたは、慶太郎くんのことをどこで聞いた?」


 香港領事館に絡むスキャンダルのことを、その取材の顛末を、いちいち話して聞かせる義理はない。柊は要点だけを伝えることにした。すなわち、香港でさる筋から、とだけ。


「さる筋ね……」


 大倉は皮肉っぽく笑った。


「だいたい見当はつく。朋義盟ペンイーメンでなければ、七海幇チーハイバン。そのどちらかだろう」


 柊は訝しげに顔を歪めた。


「なんのことです?」

黒道ヘイタオ。香港マフィアと云ったほうがわかりやすいか?」


 柊に最初に塩穴の息子のことを教えたのは、たしかに香港の裏社会の人間だった。だが、なぜ大倉がそのことを知っているのだろう。


「……先生は裏社会にもお詳しいんですね」

「あれだけ始終通っていれば厭でも詳しくなる。あの国では、黒道とまったくの無関係でいられる人間はとても少ない」

「でも、それって……」


 まずいんじゃないんですか、と柊は最後まで云うことができなかった。もちろんだ、と大倉が遮ったからだ。


「云っただろう。香港に暮らして黒道とかかわらずにいることは難しい。向こうから狙われていた場合は、もっと難しい」

「狙われていた?」


 去年の秋、香港領事館で大きな事件があったことは知っているか、と大倉が尋ねるので、柊は少しばかり驚いた。意図的に伏せた情報を、当の相手から持ち出されれば、誰だって意外に思うだろう。


「知っています」

「慶太郎くんはその事件の関係者だ。正確に云えば、同時にふたつ起きた事件のうち、ひとつの当事者だった」


 いろいろ複雑な事件でな、と大倉は難しい顔をした。柊がその事件の概要を理解しているとは思っていないのだろう、どこまで話すべきか、迷う表情だった。

 柊はネタを明かしてやることにした。


「……聞いていたのか」


 事件の折、慶太郎が誘拐されたことならばとっくに知っていると話してやると、大倉は驚いたような顔をした。


「わたしに慶太郎くんのことを教えてくれた男から聞いたんです。そんなに意外なことでもないでしょう」

「慶太郎くんを誘拐したのは、香港を二分する黒道組織、朋義盟だ。やつらは身代金目的で小学生のこどもたちを誘拐する裏で、慶太郎くんのことも拐かした」

「なんのために?」

「詳しいことはわからない」

「慶太郎くんは被害者ですよね。関係者として説明を求めなかったんですか」

「実行犯は結局逮捕されなかったようだ。大勢が死んで、誰が首謀者だったのかも不明のままだ。憶測はさまざま飛び交っているが、なにが本当でなにが嘘か、事件の全容はいまもまだよくわかっていない」


 そう云いきられてしまえば、柊には先を促す以外できることはない。大倉は冷めたカフェオレを飲み干して、言葉を繋いだ。


「朋義盟の人間が慶太郎くんを誘拐し、監禁した目的ははっきりしない。しかし、そのきっかけはわかっている」

「きっかけ?」

「本人の軽率な行動だ」


 それが具体的になにを指すのかについては、訊くだけ無駄なのだろうな、と柊は思った。慶太郎が誘拐された発端を最初に掴んだのは大倉本人なのだが、まさかそんなこととは知らないからだ。


「慶太郎くんは積極的に朋義盟の人間とかかわりを持ち、自覚のないまま利用され、誘拐された」


 柊の腹の底がじんわりと冷たくなった。

 それは、非常によろしくない醜聞だ。塩穴雅憲にとって致命的ともいえる、大きな疵だ。

 誘拐された慶太郎はまぎれもない被害者である。だが、被害者自身に落ち度があった場合、そして、相手が裏社会の人間だった場合、世間の目が大層厳しいものとなることはよくあることだ。

 息子がマフィアとかかわりを持っていた。となれば、あるいはその親も、と考えるのが一般大衆というものだろう。愛人や隠し子どころの騒ぎではない。このことが明らかになれば、塩穴は国政を預かる政治家ではいられなくなる。


「先生は、どうしてもその事実を隠したかったんですね」


 そうだ、と大倉は頷いた。


「慶太郎くんは誘拐事件の被害者でもあり、親のエゴの犠牲者でもある。朋義盟に目をつけられたのは本人の責任だが、彼を追い詰めた先生にも責任がなくはない。奥さまがありながら、外国に愛人を囲い、子までなし、その子の人生までご自分の好きになさろうとしたのだから」


 先生もそこはわかっておいでだ、と大倉は云った。


「事件のときもだいぶショックを受けておられた。だからといって自分をあらためようとはなさらなかったがな」


 柊は返事をせず皮肉っぽく笑うにとどめた。


「先生は、慶太郎くんに対しては親としてごくあたりまえの感情をお持ちになっている。彼の身に悪いことは起きてほしくない、つらい目には遭ってほしくない、望みがあるなら叶えてやりたい。そういう、ごくあたりまえの感情を」

「なにが云いたいんです?」

「先生が慶太郎くんと朋義盟のかかわりを隠蔽なさろうとされたのは、決してご自身の保身のためだけではない。彼の将来を考えてのことでもあるということだ」


 大倉はどこか遠い眼差しで柊を見遣る。

 いったいどこで嗅ぎつけたのか知らないが、慶太郎の存在を探る記者たちが現れたときには肝が冷えた。慶太郎が塩穴の実子だという事実が明らかになるだけならばまだいい。塩穴はいずれ彼の存在を明らかにし、家に入れることまで考えていたのだから、かえって都合がよいくらいだ。

 けれどそれは、あくまでもこちらが主導権を握っている場合に限ってのことだ。出すべき情報を完璧に統制したうえでなければ、都合がいいどころか、塩穴の政治生命が潰える事態になりかねない。


「つまり慶太郎くんのかつての過ちが暴かれる前に、わたしたちを彼から引き剥がそうとした。それがSとの茶番に繋がると、そういうわけですか」


 その栄誉あるお役目に、うちは選んでもらえなかったわけですね、と柊は皮肉る。

 むろん塩穴とて人の子。親としての感情はあるのだろう。

 塩穴とその息子のあいだにどんな事情や感情があったのか、柊にはわからない。わからないが、塩穴が自らの醜聞を躊躇なく世間に晒したのは、たしかに息子を守るためではあったのだと思う。


「でも、結局はご自身のため。そういうことですよね」


 柊は思わず舌打ちをした。――腸がちぎれるかと思うほど悔しい。

 読みは間違っていなかった。たしかに塩穴には週刊スキャンダルと取引する理由があった。しかし、すべては大事な息子のためであり、犬飼は無関係だった。

 大倉の話に嘘があるとは思えない。三流醜聞誌の記者ひとりを追い払うための嘘にしては、リスクが大きすぎる。

 息子の将来のためなどという建前は鵜呑みにできるものではない。だが、ここは飲まなくてはならない。慶太郎は犯罪を犯したわけでもない私人にすぎないのだ。記事になどできるわけがない。


 柊が大きな溜息をつくと、大倉は軽く唇を結んだ。笑みとも呼べぬ表情は、しかし、彼がこれまでに見せたなかで、もっとも晴れやかな顔だった。

 悔しい、と柊はまた思った。

 日向野や市原に冷や水を浴びせられ、塩穴が犬飼に自殺を教唆したという推理に対する熱はだいぶ冷めてはいた。それでもネタをひとつ諦めるときには、内臓をひとつすり潰されるような気持ちになる。


「そろそろいいか。予定の時間をだいぶ過ぎている」


 時計に目をやれば、たしかに約束の十五分はとうに経過していた。

 大倉は財布から小銭を数えてテーブルの上に置き、それでは、と席を立った。引き止める言葉などない。柊は黙ったまま大倉を見上げる。


「あんたにひとつ忠告をやろう」


 大倉の不意の言葉に、柊はぽかんとする。


「あんたみたいな記者は醜聞屋には向いてない。転職を考えたほうがいいんじゃないのか」


 どういう意味だ、との問いを込めて視線を逸らさずにいれば、大倉は表情を変えずにこう続けた。


「理屈で納得したことに素直すぎるって意味だ。醜聞を追うならもっと感情的、少なくともそのふりくらいはできないとな」


 そして、そのまま店を出て行ってしまう。

 柊は呆気にとられた。不思議なことに、大倉の言葉に反発する気力は湧いてこなかった。



 大倉が去ってしばらくのあいだ、柊は冷めていくコーヒーをぼんやりと眺めていた。

 組み立てた推理は塵となって消え、起こしたばかりの草稿はすっかり無駄になった。

 こんなのいつものことだ。下調べや取材に費やした時間が水の泡と消えるなど、日常茶飯事。

 そう強がってみても、柊のなかで折れたなにかは容易には元に戻りそうにない。


 なんか、疲れた――。


 日向野や市原の云うとおりだった。

 柊はすっかり冷たくなったコーヒーを喉の奥に流し込んだ。酸味ばかりが鼻につき、気分が悪くなる。軽い目眩がして、指先が冷えていることに気づいた。軽く拳を握ってみると、指の関節や掌を妙に腫れぼったく感じる。無視できないほどの疲労が、身体に蓄積されているのだ。

 ネタを追い、取材を進め、しかし最終的に徒労に終わることは、この仕事では珍しくないことだ。だからこんなことには慣れているはずだった。

 なのにどうしたわけか、いまは立ち上がる気力すら湧いてこない。


 草臥れているのはたしかだ。

 誰に云われるまでもなく、そんなことは自分が一番よく承知している。

 ウィークリーゴシップに移ってきてから、否、薔子が亡くなってから、柊には心身ともに休まるときがなかった。瀬尾とともに事件の真相を探ると決めたとき、すべてを解明するまで安らぎなどいらないと思ったのは自分自身だ。だが、なかなかにつらいものだ、とたまに思うことがある。

 そして、そんなことを思う自分を、心のどこかで責めていた。

 赦されてはならないのだ、と柊は思っている。

 薔子が亡くなったときにペンを執ることができず、彼女を守ることができなかった。そんなわたしにできることは、薔子の死の真相を明らかにし、心なき言葉に傷つけられてしまった彼女の名誉を回復することだけだ。

 そのときがくるまでは、立ち止まってはならない。どんなに苦しくとも、つらくとも、立ち止まってはならない――。


 しかし、己の非力を嘆き、世間の非情に憤り、悲しみを晴らそうと強く決意していても、気持ちはごくごく些細なことで消耗していく。

 取材がうまくいかない、調査に行き詰まる、誰かと揉める。買ったばかりの靴で雨に降られた、頼んだメニューが失敗だった、紙の端で指先を切った。

 くだらなくとも、取るに足らなくとも、生きること、日常とは、些細なことの積み重ねだ。少しずつ少しずつ薄皮を剥ぐように削られた心は、気づいたときにはひどく痩せ細ってしまっている。

 自分には、なにをどうしてもやらなければならないことがあるのだと、己を鼓舞し、発破をかけ、ときに騙すようにしてここまできた。けれど、と柊は思う。もうそれも、限界に近づいているのではないか。

 できることはしてきたつもりだ。当時の記事を読み、集められる限りの資料を集め、話を聞ける相手には会いに行った。由璃と真璃のおかげで、ほんの少しなにかが進んだような気になったりもしたが、結局、具体的な進展はみられなかった。


 いや、違う。

 先輩を問い詰めれば、まだなにかわかることがあるかもしれない――。


 でも、それでも、と柊は無意識のうちに小さく首を振った。きっとたいした話を聞くことはできないだろう。先輩がわたしになにかを話さずにいたとしても、それが薔子の死の真相に結びついているはずがない。

 だって、もしもそんな重大な事実を知っているなら、先輩はわたしにちゃんと話してくれるはずだ。なにしろ、薔子を殺したやつを俺たちで探し出そうと、最初に云ったのは先輩なのだから。


 そこで立ち止まってはいけない、という小さな声が聞こえたような気がした。瀬尾を云い訳にして足を止めるな。前を見ろ。先へ進め。


 厭だ、と柊は思った。聞きたくない。見たくない。進みたくない。


 新しく入って来た客の気配に、店内の空気が揺れた。柊の思考も揺れる。

 吐き出した空気の塊の代わりに、そうは云っても、といういつもの諦め――あるいは、それに似た思考停止――が入り込んできたことを感じる。

 そうは云っても、薔子の事件を迷宮入りのままにしておくわけにはいかない。

 だから、わたしはこの仕事を続けていかなくてはならない。


 喫茶店の狭いテーブルの上に、いつも持ち歩いているノートパソコンを広げた。パソコンのハードディスクには、塩穴の件以外にもいくつか、すでに記事になったネタや没を食らったネタが保存してある。それらをまとめてネット上のクラウドと外部メモリにコピーすると、ハードディスクからはデータを消去する。会社からの貸与品であるパソコンに、取材メモや記事原稿を残すことはしない。それは、なかば防衛本能とも云える、いつもの習慣だった。


 柊はパソコンを閉じた。すっかり冷めたコーヒーの残りを飲み干したころには、さきほどまでの気鬱はすっかり鳴りを潜めている。

 いまだけだ、いまだけ。

 いつかちゃんと向き合うから。

 そうした感情が逃避と呼ばれることを柊は知っていたし、自覚もあった。それでもいまさら引き返すことも、立ち止まることもできない。

 自分を誤魔化してどうにかなるのなら、それでかまわない。

 柊はゆるゆると頭を振る。

 仕事に、編集部に戻らなくてはならない。収穫はなかった、いや、別の見方をするならばおおいなる進展があった、塩穴の件は没になったと、デスクに報告しなくてはならない。

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