20

 薔子の死の真相はわからずじまいだった。事件の調査にこれといった具体的進展のないまま出勤した柊を待ち受けていたのは、これまでと同じ仕事漬けの日々である。

 単独で取材を続けることになった犬飼要平の件以外にも、追いかけるべきネタはいくらでもある。


 いまや多くの人々の情報源として主流にあるウェブに押され、順調に部数を減らし続けるウィークリーゴシップは、年に数発のスクープでどうにか生き延びているようなものだ。記者のひとりひとりが広くアンテナを張り、醜聞の種を探し続けなければ、いずれ休刊の憂き目を見ることは確実だ。

 そのほうがいい、と思う向きのほうが多いだろうが、わたしはそれじゃ困るのよ、と柊はタブレット端末に文字を打ち込みながらコーヒーをがぶがぶ飲みほした。取材に出向いた地方整備局の近くにあるチェーン系コーヒーショップの二階席の隅で、公金の無駄遣いについてのベタ記事を上げている最中である。


 北陸への旅から戻り、ちょうど一週間。

 校了を挟み、息つくまもなく取材に追われている柊は、ここしばらく双子とは連絡を取っていない。所轄署をまわって事件を漁る美味しい役目を北居に譲った――これは日向野からの指示によるものだ――ため、事件らしい事件にも遭遇せず、瀬尾の元、すなわち帝都大学法医学教室を訪れる機会もなかったのだ。

 決して薔子の事件を忘れたわけではない。この数年間ずっとそうだったように、柊の頭の片隅にはいつも親しい友人の事件のことがある。


 けれど、双子との旅から戻って以降、柊はどこか躊躇する自分に気がついていた。

 薔子を殺した犯人をなんとしても突き止めなければ、と思う一方で、これ以上踏み込んではならないという声が聞こえるような気がする。

 ――気がする。

 そう、気がするだけだ。そんな声が聞こえるはずがない。聞こえていいはずがない。踏み込んではならないとはどういうことだ。

 自分の思考が理解できない。

 ならばすぐに動け、と柊の半分は声高に叫ぶ。薔子の解剖に立ち会ったかもしれない――否、間違いなく立ち会っている――瀬尾に、本当のところを確かめに行け、と。

 しかし、残る半分はぐずぐずと躊躇する。だって、でも、と云い訳は無限にある。仕事は忙しく、やらなければならないことが列をなしている。日向野も市原もあてにできないうえに、北居は死ぬほど使えない。

 そんな云い訳も、所詮云い訳でしかないことは自明だった。


 わたしはこわいんだ、と柊は空になったカップの底を覗き込んで溜息をついた。

 先輩がわたしに嘘をついていたと、その事実を確かめに行くことがこわくてたまらないのだ。だって、と柊はその先を考えずにはいられない。先輩の嘘の先は、どこに繋がっているのだろうか、と。

 どこに、だなんて、そんなことわかりきっている。薔子の死の真相に決まっている。

 それならば躊躇などせずに踏み込んでいけ、いや、それまだできない、と自問自答を繰り返し、しかしいつも臆病が勝る。こんなことではいけない、顔を上げろ、目を開けていろと、これまでに何度も思ったことを繰り返し自分に云い聞かせるが、今度の自分はどうにもこうにも強情だった。


 さっぱり云うことを聞かない己に苛立ちながらも、仕事はこなさなければならない。自動書記のごとくいつのまにか書き上げていた原稿をタブレットから送信し、次の取材先へ向かおうと腰を上げたそのときだった。テーブルの上に置いてあったスマートフォンに着信があった。

 はい、小鳥遊、と相手も確かめずに応じると、回線の向こうには声を硬くした日向野がいた。


「いま、話せるか?」

「ええ、大丈夫ですよ」


 心持ち声を落とし、もとのとおりに腰を下ろす。昼を過ぎたコーヒーショップはさほど混みあっておらず、通話を迷惑がる視線も感じられなかった。


「先生が動いた」


 先生、と呼ばれる人間は数多いれども、いまの日向野と柊のあいだでそう呼ばれるのは塩穴雅憲をおいてほかにはいない。

 動いた、と柊は思わず言葉を途切れさせ、咄嗟にあたりを窺った。およそ穏やかでない話のようである。無関心とはいえ、複数の耳のあるところではまずいだろう。慌てて席を立ち、鞄を掴みながら、ちょっと待ってください、と柊は云った。


「場所を変えます」


 協力はしない、とは云ったものの、日向野も市原も、掴んだネタはこうしてすぐに流してくれるのだから親切なことだ、と柊は無意識のうちに表情を緩めていた。わたしは恵まれている、とそう思うべきなのかもしれない。


「Sにいる知り合いから聞いた。代理人の弁護士名で、編集部宛てに申入書が届いたそうだ。公人ではない息子の顔写真を断りもなく誌面に掲載したことは、重大なプライバシーの侵害に該当する、謝罪と本誌の回収を求める、応じなければ告訴するという、ごくごくもっともな内容だったらしい」


 なにがもっともな内容だ、と柊はコーヒーショップの狭い階段を急いで下りながらひとり唇を噛む。どうぞ撮ってください、とばかりに自ら姿を晒したくせに、訴えるもヘチマもあるか。


「Sにとっちゃ厄介ごとだろう。けど、これではっきりしたな」


 日向野が云うのへ、ようやくのことで店を出た柊は、ええ、と低い声で応じた。


「慶太郎のネタはやっぱり噛ませだった、ということですね?」

「そうだ。理由はわからんが、先生はわざと息子の写真を撮らせたんだ。でなけりゃ、あんな絶妙な画が撮れるわけがない」


 ええ、と柊は相槌を打つ。週刊スキャンダルに掲載されたその写真のことはよく憶えていた。穴が開くほど眺めたのだから当然のことだ。


 塩穴雅憲と彼の息子である慶太郎の写真は、それが隠し撮りであるとは思えないほどよく撮れていた。アパートの門灯や街灯など、いくつもの光源に邪魔されるなか、塩穴の顔は、誰が見てもそうとわかるほどはっきりと映っていた。それに対し、慶太郎の姿は曖昧だ。塩穴の巨体の陰に、若い男が隠れていることがかろうじてわかる程度だ。

 もちろんSのカメラマンの腕がよかったという見方もできる。

 だが、時間帯は夜、カメラマンは暗がりに止めた車内に潜み、感度を上げた望遠レンズで被写体を狙っていたはずだ。慶太郎の住まいであるアパートの前で車から降り、古びたブロック塀の向こうに姿を消すまでのわずか数歩、時間にすれば数秒にも満たないほどのあいだに、どれだけシャッターを切ったところで、塩穴の顔だけがはっきりわかるような都合のいい写真を撮ることは、とてもむずかしいはずだ。

 しかもあの絶妙な角度だ、とまるでそこにはないなにかを探すかのように、柊は片目を眇めた。

 父と息子の写真は、はじめからその予定であったかのように父の側から撮られていた。Sのカメラマンが車を停めていた場所からの視点だ。

 反対側には北居がいたからね、と柊は思い起こす。

 もしも北居が差し入れられた食い物やら飲み物やらを貪るような真似をせず、肝心のタイミングでトイレに籠っているようなことをしでかさなかったなら、うちは慶太郎の側から画を押さえることができたはずだ。すなわち、よりはっきりと隠し子の顔を捉えることが可能だった。もちろん、慶太郎の人相や住所がわからないよう、それなりの処理を施しての掲載にはなっただろうが、記事のインパクトはSのそれよりも大きなものとなったに違いない。


 もしかして、と柊は考えながら口を開いた。


「そこまでが織り込み済みってことはないですかね?」

「そこまで、ってのは?」

「申入書を送りつけられることまでが、ですよ」


 Sと塩穴が取引したってことか、と日向野が電話の向こうで驚きの声を上げた。


「だっておかしいと思いませんか? 北居のこと」


 そうだ、考えてみればはじめからおかしかったじゃないですか、と柊は日向野を説得するかのように、ひとつひとつ材料を上げていく。

 北居と面識などあるはずもないSの記者が、なぜ彼に差し入れなどしたのか。

 塩穴と慶太郎が帰宅するちょうどそのタイミングで、なぜ北居が便意を催したのか。

 ライバル誌の記者同士の繋がりというものは、薄いようで濃く、濃いようで薄い。現場がかぶることが多いから互いの顔も名前も当然知っている。ときには酒の席をともにすることもある。個人的な連絡先をあえて教えあったり、腹を割った話をしたりする機会は皆無に近いが、かといってまったく交流を持たずに仕事をすることは不可能だ。

 柊自身、週刊スキャンダルをはじめとするゴシップ誌の記者たちの大半と面識があるし、ときには情報交換をすることもある。だが、北居はまだ編集部に異動してきて数か月の新人だ。Sに限らず、他誌の記者たちに顔が売れているとは考えにくい。


「……最初から全部ってことか」


 苦々しげな日向野の口調に、いいえ、と柊は被せるように追い打ちをかけた。


「たぶん、単なる偶然だと思います」

「偶然?」

「Sが張り番を置いた場所が、先生にとって好都合だった。そう考えるほうが自然ですよ」


 だって考えてもみてください、と柊は云った。


「もしも最初から先生とSが通じていたのなら、わざわざ息子を表に出すことはなかったわけです。なんとなくそれっぽい写真を撮って、塩穴がSに渡せばそれでよかった。なんなら自分の顔すらぼかすこともできなくなかったのに、あの写真には先生の顔がはっきりと映っていました」


 ああ、と日向野は不機嫌そうに相槌を打つ。


「つまり、Sが撮影したあの角度から、自分と息子の写真を撮らせたのは苦肉の策です。せめて息子の顔がはっきり映らないよう自分の身体で庇い、でも、そうまでして先生はあの写真を撮らせなくてはならなかった」

「……ってえと、なにか?」


 日向野は口を挟み、話を整理しはじめた。


「先生はSとウチとが張り番を置いてることは把握してたよな?」

「はい」

「そのうえで、自分にとって都合のいい写真を撮らせるために北居を追い払ったってことか」

「追い払わせたんですよ。下剤だか利尿剤だかの入った食べ物を用意してね」


 他誌とネタをわけあうよりも独占したい、と考えるのがこの業界の常である。

 塩穴はそこを利用し、週刊スキャンダルの記者に取引を持ちかけたのだろう。――息子のネタはおまえたちに独占させてやる。その代わり、あそこにいる邪魔な記者を追い払え。


「そのときに訴訟のことまで含ませておいたわけか」

「あの写真では息子の顔を識別することはできません。訴訟の用意があることをしっかり世間に印象づけたあとでひっそりと和解案を受け入れ、なあなあにして片づけるつもりだと思いますね」

「Sがそれで納得するか?」

「先生の記事が載った先々週号、通常よりもだいぶ部数増やして刷ったみたいですからね。それでチャラなんじゃないですか」


 売れる記事を載せることこそが正義であると考える醜聞専門誌のツボを、塩穴は的確に突いたのだ、と柊は思った。一部でも多く雑誌が売れるのならば、ニュースにかこつけた悪質なコラージュ写真に誌面を割くことも厭わないのがわれわれ三流誌だ。


 合成ではない、本物のスクープ写真を独占させてやる。


 わたしだってそう囁かれれば、いかにも頼りがいのなさそうな新人記者のひとりやふたり、平気で陥れる。Sの記者も同じ心境だったはずだ。

 だけど、柊はなおも思考する。塩穴とSがタッグを組んでいたことはわかった。だけど、その動機はいったいなんなのだろう。


「先生はなにを隠そうとしてるんだろうな……」


 電話の向こうから、日向野が問いかけるのへ、そうですね、と柊は答えた。同僚同士、同じ思考を辿ることにはいまさら驚かない。


「おまえ、早まるんじゃないぞ」

「どういう意味です?」

「わかってるんだろ」


 日向野の声に苛立ちが混じる。


「犬飼の件だ。あれとこれとを結び付けて早まるんじゃねえぞって云ってんだ」


 でも、と柊は云いかけた言葉を飲み込んだ。

 日向野は、塩穴が犬飼に自殺を強要したという柊の主張を、頭から否定している。いまここでどれほど云い争ったところで、彼が意見を変えるとは到底思えない。

 ここは堪えるべきところだ。

 こんな人目のあるところで、誰かに――しかも、現役の国会議員に――人殺しの疑いをかけていることを大声で喧伝するわけにはいかない。

 スクープだと信じて追いかけてきたネタが、当の塩穴自身に利用されたことは悔しくてならない。けれど、これで確かになったことがひとつだけある。

 それは、塩穴にはなにか隠しておきたいことがある、ということだ。

 しかるべき時がくるまでは――あるいは、ずっと――ひた隠しにしたいと考えていたはずの息子の存在を明らかにしてまで守りたかった秘密が、先生にはある。問題はそれがなにか、ということだ。


 塩穴がどんな人間かなど、柊には知る由もない。だが、きっと息子のことはそれなりに大切に思っていたのだろう。これまで必死になってわたしたちから逃げまわっていたことがなによりの証拠だ。彼は息子を晒し者になどしたくはなかった。

 けれど、塩穴はSに写真を撮らせた。自らカメラに姿を晒し、身を削ってハイエナのような記者たちを追い払ったのだ。もうこれ以上、誰かに監視されるのはまっぴらだ、とばかりに。

 あの記事によって塩穴が負った傷は相当なものだっただろう。Sを黙らせ、雑誌を回収させたところで、その傷みがすぐに癒えるわけではない。ことにいまは、スキャンダルが命取りになりかねない大事な時期である。

 だが、自身にとってなによりも大事であるはずの政治生命に深傷を負ってまでも、塩穴はなにかを守りたかったのだ。


 政治生命。隠し子の存在。


 そのふたつよりも重たい秘密とはなにか。


「小鳥遊」

「わかってます、デスク」

「くれぐれも……」

「わかってる。そう云ってるじゃないですか」


 絶対に下手は打ちません、と柊は落ち着いた声を出した。実際、そこまで興奮しているわけではない。

 塩穴に対する疑惑は、柊にとってもまだなにも確信のない推測にすぎない。日向野に心配されなくとも、市原に気遣われなくとも、先走って無茶な取材を仕掛けるつもりは毛頭ないのだ。

 自分がとんでもないことを考えている、ということは、誰に云われるまでもなく自覚している。

 やきもきする日向野を宥めるように、柊は、デスク、という呼びかけののち、さきほど原稿を送りましたので確認しておいてください、と話を変えた。多少強引ではあったが、こうでもしないと延々説教されることになる。宿題を忘れた小学生じゃあるまいし、道端に立たされたままあれこれ云われたいわけもなかった。


 電話を切り、柊はしばし考えをめぐらせる。

 塩穴はもうこれ動くことはないだろう。彼は目的を果たしたのだ。

 それにしても現役の国会議員ともあろう男が、今回はずいぶんと危ない橋を渡ったものだ、と柊は思う。

 日向野に云ったように、塩穴が週刊スキャンダルの記者に取引を持ちかけたのは、おそらく偶然だ。もし場所取りが逆になっていれば、取引相手はわたしたちウィークリーゴシップになっていた可能性が高い。追い払われるのは北居ではなく、あちらだったかもしれないのだ。

 それこそがとんだ博打だ、と柊には思えてならない。

 週刊スキャンダルの記者は、この業界に慣れたベテランだった。だからこそ塩穴から持ちかけられた取引の意味を即座に理解し、応じることができた。

 だが、もしも取引を持ちかけられたのが北居であったらどうだったか。編集部に来て日も浅く、そもそも世慣れているとは到底云い難い彼のことだ。塩穴の言葉の意味を理解できず、取引は不成立に終わったに違いない。


 杜撰だ、と柊は眉をしかめる。あまりにも杜撰だ。

 守りたい秘密の大きさを考えれば、塩穴はもっと慎重に行動しなければならない。相手の見当もつけず、行き当たりばったりに交渉するなどありえない。

 もちろん塩穴とて、伸るか反るかのそんな賭けなどしたくなかったはずだ。議員生命、平穏な生活、それから隠しておきたい息子。一か八かの勝負に賭けるには、大きすぎる代償だ。

 ならばなぜ、塩穴はそんな真似をしたのだろう。

 それは、そうしなければならない理由があったからだ。相手も選ばぬ無謀な取引でも、そこに賭けなければならない理由があったからだ。

 その理由。それこそが、塩穴の秘密に繋がっているはずだ、と柊は思う。そしてその秘密とは、やはり犬飼の死ではないのだろうか――。


 デスクにはああ云ったけど、と柊は鞄を担ぎ直す。いまの段階で下書きだけでも進めておこうか。

 奇しくも今日は、これから大倉卓明に会う予定が入っている。一度面会したあと、さらなるアポイントを取り付けるべく連絡を取り、忙しいと渋るのをどうにか説得しての二回目の顔合わせが叶うのだ。

 大倉の切り崩し方はまだよくわからない。しかし、こういうときは考え過ぎるのもよくないと柊にはわかっている。相手が政治家の秘書である以上、そう簡単に迂闊なことを口にはするまいが、こちらはそうした相手の言質を取ることには長けているのだ。


 柊は顔を上げ、重たい雲の垂れ込める空を見上げた。いまにも雪が落ちてきそうで、ぶるりと身を震わせる。

 道端で話し込んでいたせいですっかり冷えてしまった。まだ少し時間はある。これまでのメモをもう少し見直して精査しておくことにしょう、と柊は次のコーヒーショップを目指して歩きはじめた。

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