19
秋山との顔合わせは、松島とのそれよりもずっとあっさりしたものとなった。
翌日の朝を待って乗った新幹線を途中で下車する。そこからさらに在来線に二時間ほども揺られた先、北関東のある街に、秋山斗貴子はひとりで暮らしていた。自宅アパートから徒歩圏内にある戸建住宅に、要介護状態にある両親が住んでいるという。
午後になってその街に到着した柊と双子は、旅行鞄もそのままに、秋山が現在勤めているというスーパーへと足を向けた。
青果売場で品出しをしていた男に秋山の所在を尋ねると、いったいどこの誰だとひどく胡乱な眼差しを向けられた。東京から来た昔の同僚だと云えば、名刺を寄越せと催促された。それが、見知らぬ人間に対する警戒心からくるものか、あるいは同僚のパートタイマーの過去に対する好奇心からくるものかは判断がつかない。
由璃と真璃は用意していた名刺を男に手渡し、休憩時間に少し話ができればそれでいい、と食い下がった。男は、秋山さんなら、ちょうどいま時分から休憩だよ、呼んできてやろう、と請け合った。
搬入口のあたりで待っているように、と云われたままに、台車を押した従業員や搬入トラックの行き交う裏口付近で様子を見ていると、やがてまっすぐな黒い髪をひとつに結った背の高い女が姿を見せる。私物を入れた透明トートバッグを持ち、濃い緑色のエプロンと三角巾をしたまま、溌剌としているとは到底云い難い足取りで通用口を抜けてきた。
羽織ったジャンパーの前を寒そうに掻き合わせ、首を竦めている秋山に向かい、柊たちは小さく会釈をした。彼女はいかにも煩わしそうに顔をしかめると、しぶしぶといった態で歩み寄ってくる。腕を掴んで引きずり寄せたくなるほど、ゆっくりとした進みだった。
「ご無沙汰しています、秋山先生」
由璃が口を開いた。
松島には主に真璃があたったように、秋山には由璃があたるのか、と柊は思った。役割分担の根拠はわからないが、意図ははっきりしている。ふたりで責め立てるよりも、ひとりが相手をするほうが、本音を聞き出しやすいのだろう。
「……なんの用?」
秋山の口調はこれ以上ないくらいにぶっきらぼうだった。突然の訪問を迷惑に思っている、ということが顔を見ずとも十分に理解できる。
「お仕事中、申し訳ありません」
慇懃ともいえる由璃の言葉に、秋山はエプロンの裾をいじるだけでなにも答えようとしなかった。仕事中であろうがなかろうが、訪ねてこられること自体が迷惑である、と云いたかったのかもしれない。
「昔のことで、ちょっと教えていただきたいことがあるんです」
秋山は視線だけを持ち上げた。由璃と真璃、それから柊を順に見遣り、なに、と短く云った。
ありがとうございます、と由璃は軽く頭を下げた。
「柘植薔子さんの解剖の日のことです」
由璃に据えられていた秋山の眼差しにきつい色が宿った。
「あの日のことを、詳しく教えていただきたいんです。秋山先生」
「……あの日?」
「先生の研究人生を大きく変えた夜のことです。忘れるはずが、ないですよね?」
秋山はなおいっそう不愉快な表情になり、それ、やめてくれる、と云った。
「その先生ってやつ。なんか、莫迦にされてるみたい」
そんなつもりはない、と由璃は云わなかった。相手の神経を逆撫でして感情を揺らすやり方は、悪辣ではあるが効果的なのだ。彼がそのことを知らないはずがない。
「秋山さん。もう一度云います。あの日にあったことを、正確に思い出してもらえませんか」
「正確に?」
秋山は獰猛な嘲笑をみせた。人々の平和な日常を支えるスーパー、そこで働くパートタイマーには、あまり似つかわしくない表情だ。
「あなたたち、松島先生のところへはもう行ったの?」
「行きました。昨日」
「彼はなんて?」
一年半前と同じことを、と由璃は答えた。
「あのとき話したことがすべてだと、そう云っていました」
ふうん、と秋山は腕を組んだ。なにかを思案するような顔になる。
「じゃあ、そうなんじゃないの?」
「嘘です」
由璃は間髪入れずにひとことで断じた。
「でも、あなたたちは彼の言葉をひっくり返すことができなかった。だから、わざわざこんなところまで来たのよね?」
秋山はいっそやさしげに微笑んでみせる。
「三人がかりでひとりを籠絡できないような無能たちに、私が話すことなんかなにもない。迷惑だからさっさと帰って」
由璃も真璃もおおいに気分を害したようだった。直裁にすぎる悪罵は、柊の胸ではなく、よりプライドの高い男の心に深く突き刺さったのかもしれない。暴力を振るわれないという前提――たとえば人目があるとか、相手が多分に理性的であるとか――があれば、このやり方は男の口を封じるのに有効である。
柊は秋山の身の処し方に感心さえする。医学系教室という、いっそ潔いまでの男社会で生き抜いてきた女の強かさには見習うべきところが多くある。
「あなたはそれでいいんですか」
不意に口を開いた柊を、秋山だけではなく由璃と真璃までもが訝しげに見つめてくる。
「松島さんとあなたは同じ過ちを犯した。にもかかわらず、いまの立場の違いはどうです?」
秋山の視線が、これ以上ないほど鋭く尖る。
「秋山さんがはじめからいまの暮らしを望まれていたのでしたら、それでいい。ですが、そうではないでしょう」
「あなたになにがわかるの?」
「なにもわかりません。けれど、松島さんとあなたのスキャンダルが明らかになったときの周囲の反応は想像がつく。火遊びがバレて地方に飛ばされる程度で済んだ彼に比べ、あなたはどう扱われました?」
まるで人殺しでもしたかのような罪人扱いをされたのではないですか、と柊は尋ねた。秋山は相変わらずきつい目つきをしていたが、わずかに心を動かされたようだった。
「日本のアカデミーは、というよりも日本の社会は男に甘い。雇用機会均等だのセクハラ対策だの、ともすれば女に甘いと云われかねない制度設計は、つまり、そうした歯止めがかからなければ、どこまでも女にとって不利な現状の裏返しでもある」
声高に平等を叫ばなければならない社会は、平等にはほど遠い、ということです、と柊は云った。秋山は価値を計るような声音で問いかける。
「あなた、誰?」
「こういう者です」
来るだろうと予測していた誰何に間髪入れずに応じる。柊が差し出した名刺に、秋山はひどく胡乱な視線をくれた。
「ウィークリーゴシップ……」
風評を気にする大手書店では取扱いを拒否されるような三流週刊誌の記者がなにをたいそうなことを、と云わんばかりの表情で秋山は柊を見つめた。柊は薄く笑んで、おっしゃりたいことはわかりますよ、と嘯いた。
「おまえなんかになにがわかる、ですよね。そのとおりです。わたしにはなにもわからない。秋山さんと松島さんのあいだになにがあったのか、秋山さんがいま彼のことをどう思っているか」
「なんとも思っちゃいないわ」
そうですか、と柊は頷いた。
「あなたはひとり大学を追われ、研究の道も閉ざされた。かたや、松島さんは帝大を離れたとはいえ、国立大学の准教授です。キャリアダウンには違いないのでしょうが、研究のことだけを云うならば、ある意味では恵まれているかもしれない。わたしは法医学については素人ですが、彼を見る限り、現状を失うことをよしとしているようには見えませんでしたね」
「私も同じよ」
「そうですか」
とてもそうは見えませんけれどね、とばかりに柊が人の悪い笑みを重ねると、秋山は深い溜息をついた。
「あなた、……ええと、小鳥遊さん、はたぶん、なにか誤解してるんだと思うわ」
「誤解?」
そう、誤解、と秋山はまた溜息をつく。
「大学を辞めて、地元に戻って、スーパーでパートしながら親の介護をしてる。これといって出会いがあるわけでもなく、誰かと付き合っているわけでもない」
「かつてのあなたとは大違い、というわけですね」
「そう思う?」
秋山は思いもかけない深い色の眼差しを柊に据えた。
「あなたもそう思うの?」
柊は慎重だった。ここで頷いてはいけないという咄嗟の勘を信じて黙っていた。
「私は私よ。どこにいても、なにをしてても」
秋山はそこだけちょっと早口に云うと、煙草いい、と尋ねた。どうぞ、と柊は応じる。自分も吸いたくなったが、そこはぐっと我慢した。紫煙にまみれた親睦を深めたいわけではない。
手馴れた仕草で一本取り出し、安いライターで火をつける。ありふれた銘柄のそれを美味そうにふかしながら、秋山が口を開いた。
「大学はおもしろいところだった。仕事も、こう云ってはなんだけど、刺激的で楽しかった。だけど、いま思うと、私の身の丈には合っていなかった」
結局は浮足立っていたのよ、と秋山は呟くように云う。だから、本当ならば、絶対に裏切ってはいけない存在を蔑ろにしてしまった。
柊は黙ったまま目を眇めた。こういうもの云いはあまり好みではない。
「大学を辞めたことは、きっかけや周りの評価はどうあれ、私は納得してる。松島さんとの扱いの違いも、私の実力を考えれば、まあ、妥当だったのかもしれない。彼はこれからの研究に必要な人間で、私はそうではなかった」
どんな集団にも云えることだが、優秀な人間ばかりが必要とされているわけではない。むしろ許容範囲内における能力的優劣は、集団を集団としてまとめておくのに必要な要素ですらある。
「私がいまつらいと思うのは、離婚原因が自分にあるせいでこどもに会えなくなったことだけ。つまらないやつだと云われればたぶんそのとおりで、だから私はあなたたちの期待には応えられない」
「期待?」
「松島さんから聞いたことの裏を取りに来たんでしょ?」
裏というか、じつのところは、彼の話の嘘を暴くために来たのだ。薔子が亡くなった夜のことについて、松島は本当のことを話していない。そのことは彼の態度から明らかだ。だが、そこにある嘘の正体はいまだ見極められていない。
「全部、松島さんの云うとおりよ」
「全部?」
「柘植薔子が亡くなった夜、彼女の遺体を解剖したのは私と松島さん。解剖室に入った人はほかに誰もいない」
彼女も嘘をつくのか、と柊は強い怒りを覚えた。
誰もが薄い紙を一枚ずつ重ねるようにささやかな嘘をつき、薔子の死の真相を覆い隠してしまう。ひとつひとつの嘘は小さくとも、そのせいで薔子を殺めた犯人が逃げ延びているのだと思えば、到底見逃すことはできそうになかった。
保身に走る松島も、なけなしの意地を張ろうとする秋山も許せない。その思いから柊は口を開いた。
「そんなにプライドが大事ですか」
なんですって、とばかりに秋山は表情を尖らせた。言葉がなかったのは、柊が先を云い募ったからだ。
「松島さんの云うとおり。なにが云うとおりなんですか。全部嘘だって知ってるくせに。あなたはそれでいいかもしれない。どうでもいいかもしれない。でも、わたしにしてみれば、それこそあなたのことなんかどうでもいい」
人がひとり死んでるんです、と柊は押しつけるように云った。
「薔子の死の真相はいまだに解明されていない。あなたは鍵のひとつを握りながら、それを明らかにしようとしない。くだらないプライドだか意地だか知らないけど、そんなもののために、薔子は……」
「拓植さんを知ってるの?」
秋山の顔には純粋な驚きの色があった。彼女が在籍していた当時、柊はまだ法医学教室へ出入りすることもなく、したがって、ふたりに面識はない。薔子と柊の関係を、秋山が知らないとしても無理はなかった。
「友人です。とても、大事な」
秋山がきつく眉根を寄せ、柊をじっと見つめた。その瞳の色が急に深みを帯びたように見えるのは、彼女がなにかを思い出したからか、あるいはなにかを憂えているからか。
「秋山さん?」
そんな彼女の表情を訝しみ、由璃が口を挟んだ。
「どうか、されましたか?」
「いいえ」
不自然なほどに素早く、そして強く秋山が否定した。どうもしないわ、と云いながら吸殻の始末をする横顔は、どことなく強張っている。過去にさかのぼりたがる思考を、意図して押さえ込んでいるようにも見えた。
「秋山さん」
「そう。それは気の毒なことね。友だちだったとはね。でも、私に話せることはなにもない。どれだけ顔を突き合わせていても、気持ちが変わることはないわよ」
まるでなにかを試すような口調で秋山は云った。柊は険しい顔で彼女を睨み据える。
「どうすれば知っていることを喋ってもらえるんですか」
「どうすれば?」
「なにか条件があるなら……」
「云ったでしょ」
気持ちは変わらないの、と秋山は溜息とともに云う。
「大学へ進むためにこの街を出て、私はいろんなものを手にしたわ。医師の資格や教室でのポストや、夫やこども。でも、全部なくすか、意味のないものになった。さっきも云ったように未練はほとんどない」
そういえば、こどもに会えないことだけがつらい、とさっき云っていたっけ、と柊は苛立ちの狭間でそんなことを思う。
「だけど、この街での暮らしは失くしたくない。いまの仕事も、家も、立場も」
あなたたちにはなにひとつ価値のないもののように見えるかもしれないけど、と秋山は云う。
「過去にはもうかかわりたくないの。それがなんであれ。研究も恋愛も結婚も、全部遠い昔のことになった。誰にも掘り起こされたくないし、触られたくない。もちろん自分で触るのも厭なのよ」
「でも……」
「それがなんであれ、って云ったでしょ。誰が死んだとか、どんな事件だったとか、そんなことは関係ないの。思い出したくないし、喋りたくもない」
「そんな勝手なことって……!」
まるで掴みかかろうとするかのように、柊は秋山に向かって手を伸ばす。それはまずい、と由璃と真璃が両側から押さえ込まなければ、苛立つ記者は罪のないパートタイマーの横っ面を思いきり引っ叩いていたかもしれなかった。
「あなたがなにを思おうと、なにを知ろうと、私にとっての事実はひとつ。拓植薔子は不幸な亡くなりかたをして、私たちが解剖をした。彼女は荼毘に付されて、この世から消えた」
「だから、わたしはその真相を……」
「それはどうでもいいことなの」
「どうでもいいって……!」
激昂のあまり、いまや柊はほとんど泣き喚いているような状態だった。双子が支えてやらなければ、自分の足で立っていることもできなかったかもしれない。
「あなたにとって私の暮らしがどうでもいいことであるように、私にとって拓植さんの死はどうでもいいこと。気の毒だとは思うけれど、それ以上でもそれ以下でもない」
どうでもいいことのために大事なものを失いたくはないわね、と秋山はすべてを悟っているかのように微笑んだ。
秋山さん、と由璃が低い声を出す。
「あなたと松島さんがついている嘘は、そんなに大きな嘘ですか? 明らかになれば罪に問われるほどの」
引きつけるように大きな呼吸を繰り返し、自分の声以外聞こえないようなありさまの柊を支えながら、真璃もまた由璃に倣うように秋山を強く見据える。
「さあね。云いたくないわ。だけど、私はどんなリスクも犯したくないの」
拳を握り震える柊と苛立ちに唇を噛む由璃と真璃を静かに見つめ、私は一度全部失くしたの、だからもうなにも失くしたくないのよ、と秋山は寂しそうに呟いた。
「もう、いいかしら?」
これ以上引き留めても無駄だろう、と双子が頷くと、秋山はすぐさま踵を返した。過去に未練はない、大切なのはいまだけだと云い放つにふさわしい、まっすぐな背中だった。
羨ましい、と柊は思った。
それがどんな理由であれ、秋山はすでに過去を過去のものとしていまを歩いている。わたしは違う。わたしはいまだに過去を彷徨っている。薔子が殺されたあのときから、わたしの時間は少しも前へ進んでいない。
わたしだって前へ進みたい。だけど、そのためにどうしても必要なことがある。
薔子の死の真相を知ることだ。大切な友人を殺した犯人を突き止めることだ。泥に濁った沼の底に沈む真実を掬い上げ、陽の光に晒すことだ。
たった、それだけ。
なのに、それだけのことが、どうしてもできない。
お願いです、と柊は祈るような思いで縋る。秋山は振り返らない。
「薔子はわたしの未練なんです。お願いです、本当のことを……」
「シュウ」
あまりに痛ましい声を聴いていられない、といったように由璃と真璃が柊を抱きしめた。両側からきつく、息もできないほどに。
未練という言葉に刹那足を止めたかに見えた秋山は、しかし、やはり振り返ることなく三人の前を去っていった。
柊はぐったりと項垂れる。気づかぬうちに目蓋まで落とし、双子に抱きすくめられていることを自覚できないほど、消耗していた。
真実の沈む沼とは、こうもひどく濁っているものか。さまざまな人のさまざまな思いが渦巻く水の深くは、まるで見通すことができない。いつかその底に辿り着き、光を当てることはできるのだろうか、と柊は泥濘のような絶望に囚われそうになった。
「シュウ」
ふいに聞こえた双子の声が、息苦しいほどのぬくもりが、柊をゆっくりと泥のなかから掬い上げた。
そうだ、と柊はのろのろと顔を上げる。目を閉じていてはいけない。
明らかにならぬ真実はない。どれほど暗く澱んだ水底も、いつか眩い光に照らされて、すべてを白日の下へと晒すだろう。深く深く飲み込んでいた、なにもかもを。そのすべてを。
そのときのために、わたしは目を閉じていてはいけないのだ。
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