16

 そのあとは、話らしい話を聞くことはできなかった。

 時間切れだと席を立った大倉を引き留めようにも膠着状態はいかんともしようがなく、柊としても、その場は引いてくるしかできなかったのである。


 近いうちに、なんとしても大倉にもう一度会わなければならない。彼はまだ喋る。記者としての勘がそう叫んでいる。


 それに、と柊はそこでふとディスプレイの隅に表示されている時計へと目をやった。望んでもいない迎えの時間がすぐそこに迫っていることに気づき、小さく舌打ちをする。仕事に集中したいのに、これを悪いタイミングと云わずなんと云おう。


 柊は目を閉じて、なかば無理矢理に思考を切り替える。これはチャンス、チャンスなんだと自分に云い聞かせる。

 もともと期待がないわけではない。薔子の遺体を執刀した当事者である松島と秋山からは、これまでとはまったく異なる角度から話を聞くことができるはずだ。どんな内容であっても、それは必ず真実へと繋がっているに違いない。

 その機会を作ってくれた由璃と真璃には感謝しなければならない。だが、彼らの思惑に乗って北へ向かわなくてはならない、この現状は忌々しくてならない。

 柊は自身でも整理しきれない複雑な思いに揺れ続けていて、だからこそ不機嫌だ。


 そこで、柊のスマートフォンが着信を告げた。表示されている安曇真璃の名前に、彼女は軽く眉をしかめる。しかし、電話が鳴りやむはずもない。

 なにかと気苦労の多い旅のはじまりだった。



 柊と安曇の双子は、東京駅を二十時過ぎに発車する最終の新幹線にぎりぎりで滑り込んだ。

 例によって運転手つきの車で登場した双子に遅れがあったわけではない。駅に着いてから、旅に備えて駅弁だのビールだの菓子だのをしこたま買い込もうとする双子と、寝るか仕事するかしたいからなにもいらないと主張する柊との、ごくつまらない小競り合いが長引いたせいだ。


「ね、シュウはどれ食べる?」

「どれでもいい」

「つまらないことを云うな。あなごか、鶏か、松花堂のほうがいいか」


 三人がけの座席の真んなかに座らされ、両側からやいのやいの云われ、柊はすでにぐったりしている。弁当などどれでもいい――もっと云えば、食べなくたっていい――から、静かにしていてほしかった。


「シュウが選ぶまでおれたちも選べないんだから、早く決めてよね」


 強制的に背面テーブルを開かされ、すでにビールがスタンバイしている。いらぬところばかりが素早い真璃の仕業だ。


「わたしはどれでもいいから」

「どれでもいいじゃ困る。シュウがどれを選んでもいいように、いろいろ取り揃えてきたんだから、ちゃんと決めて」


 柊は双子の買物狂騒曲に同行はしたものの、自分ではなにひとつ選ばなかった。由璃と真璃がなにかを買おうとするたびに、いらないでしょ、と横槍を入れるので露骨に厭な顔をされ、にもかかわらずけっしてめげない双子といちいち云い争うことに疲れて、最後は改札の前でぼんやり待っていることを選んだほどだ。だから彼らがなにを買い込んできたのか、見当もつかない。


「お腹すいてない」

「そんなはずないだろう。こんな時間に空腹を感じないのだとしたら、それは自律神経が……」


 わかったわかった、と柊はいつまでも捲し立てそうな由璃を黙らせる。


「これをもらう」


 見た目からしてもっともボリュームの少なそうなあなご弁当を受け取り、さっさと開封する。


「……美味しそう」


 駅弁なんてしばらく手に取っていなかったせいか、妙に新鮮に感じられる。ちまちまと彩りよく詰め込まれた小さな箱は思いがけず食欲をそそった。


「よかった」


 柊の様子を見た由璃が、安堵したように薄く笑った。


「早く食べよ」


 缶ビールを持ち上げてささやかに乾杯し、弁当を空にする。

 他愛のない話をしながらの電車の旅は、思っていたよりも快適だった。


 こういう時間はいつ以来だろう、とふと柊はそんなことを考えた。

 数少ない友人たちは、仕事にかまけてばかりいる柊をおいてほとんど結婚してしまったし、恋人と呼べる相手もいない。両親もまた、早期退職を選んだ父親の意志により、ふたり揃って故郷に戻っているため、家族団欒の機会は年に数日もない。

 仕事柄、宴席に出る機会は多いが、そこで場をともにするのは気の抜けない相手ばかりである。間違っても腹の底から笑うことなどありえない。職場での飲み会も似たようなものだ。利害のない相手、害されることを案じないですむ相手との時間は、こんなにも穏やかなものだったのか。


 ゴミを捨てるついでにデッキに出て、闇に沈んだ車窓を眺める。窓に映る顔が自分でもわかるほど楽しげに見えたことを少し恥ずかしく思いながら、柊はスマートフォンを操作してメールを確認した。

 そういえば、と柊はふと思い出した。由璃と真璃とともに北陸へ行くことを先輩に話していなかった。なにか新しい手がかりが得られるかもしれない。メールの一本くらいは打っておいたほうがいいだろうか、と彼女はしばし思案する。


 だが、ほどなくして、とくにその必要はない、と思い直した。薔子のことにかこつけて瀬尾に連絡をしようとするなんて、と彼への未練を断ち切れない自分を恥ずかしくも思った。

 先輩とわたしとは薔子を通して繋がっているだけ。ただそれだけ。なにかわかったことがあったら、そのときその事実だけを伝えればいいのであって、それ以上のなにかを求めるなど浅ましいにもほどがある。


 こと瀬尾に関して、柊が自身の感情に妙に手厳しいのには、それなりにわけがあった。


 柊はこれまで、ただの一度も本当に意味で人を好きになったことがない。

 恋人ができたことはあるが、彼を好きだったかと問われると、自分でも首を傾げてしまうほどだ。興味本位だったとは云わないが、正直なところ、恋人がいる状態を味わってみたいだけだったのかもしれないとは思う。


 地方で勤務していたころの柊には、一応恋人らしき相手がいた。社内以外に知り合いのない寂しい暮らしにするりと潜り込んできた、明るくてやさしい男だった。たしか府庁に勤めていて、支局の先輩に無理矢理連れて行かれた合コンで知り合った。

 いつかは本社に戻る、東京に帰るのだ、とそのころの柊は頑なに思い込んでいて、だから、その男との付き合いにもあまり深入りはしなかった。週末ごとにデートをし、誕生日やクリスマスにはプレゼントも贈りあった。恋人らしく、唇も身体も重ねたし、可愛らしい喧嘩もした。だが、ただそれだけだった。

 彼と別れたのは、薔子を亡くし、東京へ出張しているあいだのことだ。別れの言葉もなく、自然と連絡をとらなくなっていた。そのことを別段どうとも思わなかった。

 相手の身になってみればこれほど失礼な話もないが、きっと向こうも似たり寄ったりだったはずだ、と柊は考えていた。転勤の多い全国紙の記者とわかっていて口説いてくるような男だ。彼自身が公務員だったこともあり、身元のたしかな相手と安全に遊びたかっただけだろう。


 そんなことが免罪符になるなんて思ってやしないけど、と柊はスマートフォンの画面から視線を逸らし、暗い窓をじっと見つめた。

 柊自身、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。ろくな恋も知らないまま三十、四十と歳を重ねていくことになりそうだ、なんて。

 これまでに惹かれた相手がいないわけではない。だけど、瀬尾がそうであるように、彼らとの未来を柊が想像することはなかった。


 薔子がいたから。

 恋を恋と自覚する前に、彼らがみな、薔子に恋をしたから。



 中学、高校、大学と、学生時代のほとんどを薔子に依存して過ごしてきた柊にも、それなりに誰かをいいなと思ったことはある。ただ、どれもこれもプラトニックな片想いで終わった、というか、片想いの自覚さえおぼろげなままに気がつけばいつのまにか終わっていた。


 恋愛に関する柊の実感には、人にはない歪みがある。それは彼女自身にも自覚のあることで、しかしだからといって矯正できるものでもない。


 わたしが好きになった人は、みんな薔子を好きになる、というのがそれだ。


 柊が、それが恋であると自覚するよりも前の淡く甘やかな感情を自覚するのは、決まってその相手が薔子と親しくなってからのことだった。遠くから眺めていただけの爽やかな笑顔が、いつのまにか薔子の傍にあるようになってから柊は気づく。――わたしも彼のことが好きだったのかもしれない。


 柊の恋はいつも恋とは呼べないところで終わった。なにしろ相手はみんな薔子に好意を抱いているのだ。好きになったところで末路は知れている。

 好きだ、とはっきり自覚した相手は瀬尾がはじめてだったが、その瀬尾もまた薔子のことを好きになった。


 そうしたことで薔子を恨むような強い想いは抱いたことがなかったけれど、恋愛が苦手になったのにはたしかに親友の存在があった、といまならば思う。好きになったってどうせ叶わないのだから、と。


 由璃と真璃に対してはそれらしいことを云いはしたけれど、瀬尾に対する柊の想いはすでに――というよりは、薔子が生きていたころから――恋情と呼ぶにはあまりにも淡い。かつて好きだった男、親友の恋人だった男として、その他大勢とは十把一絡げにできないだけのことだ。

 だからこそ、ときどきこうして顔を出す彼に対する名前のない想いを、柊は恥ずかしく感じてしまうのかもしれない。


 ふたたび小さな液晶画面に目を落とし、ぼんやりと眺めながら苦笑いする。こんなことを思うなんて、わたし、まだ先輩に未練があったんだなあ。


「シュウ」


 ふいに手元に影が差し、柊は弾かれたように顔を上げた。


「なにやってる?」

「仕事。メール、してた」


 わずかに動揺しながら答えると、由璃の端正な顔に翳りが過ぎった。


「なかなか戻ってこないから心配した」

「心配って……」


 新幹線のなかでなにが起きるわけもない、と思わず笑えば、シュウは警戒心がなさすぎる、と由璃は顔を顰めた。


「航空機のなかでだって暴行未遂が起きる時代だ。どこでなにがあったっておかしくない」

「わたしは大丈夫だよ」


 その根拠は、とは由璃は云わなかった。ただ、ますます表情を険しくして、柊を見下ろしてくる。怖いほどに真摯な眼差しにおそれをなして、柊は小さく首を竦めた。


「も、もう席に戻るよ。それでいい?」


 由璃の機嫌はよくならなかった。事件記者などという物騒な職にありながら、柊はどうも危機感というものに欠けているような気がしてならない。不運な事故、不幸な事件をいくらでも知っているくせに、自分だけは安全だと云い張れる柊の神経が、彼にはどうしても理解できない。

 知らない身体じゃない。いっそのこと、真璃とふたりでもう一度襲ってみようか、と由璃は剣呑なことを考える。身に迫る危機が現実のものとなれば、柊も少しは自分を大事にすることを学んでくれるかもしれない。

 でも、そんなことをすれば、おれたちの想いはますます絶望的なものになるな、と柊の背中を見つめながら、由璃は知れず溜息をついた。はずみのようなはじめてのときはともかくも、意に反して身体を奪ったおれたちをシュウは決して許さないだろう。自身の無自覚と無防備を棚に上げて、おれたちのことだけを責めるのは目に見えている。

 おれたちにしたって、無暗にシュウを傷つけたいわけじゃない。ただ、心配でならないだけだ。強いばかりのつもりでいるらしい彼女が、本当はひどく脆い部分を持ち合わせていることを、おれたちはよく知っているから。


「あーっ! もう、シュウっ! どこ行ってたのっ!」


 車両中に響くような大声を上げた真璃に、柊は慌てて首を横に振ってみせる。


「ちょっとやめてよっ。静かにしてっ」


 恥ずかしい、と柊は隠れるようにして慌てて席に腰を下ろす。


「どこ行ってたの? ゴミ捨ててくるなんて云ってさ、ぜんぜん戻ってこないんだから」

「デッキでちょっとメールしてたの。仕事の。大きな声やめてよ、安曇……」

「真璃」


 はあ? と柊は自分こそが素頓狂な声を上げ、首を傾げる。


「安曇じゃない。真璃と由璃」


 由璃が真璃と自分とを交互に指差しながら云った。


「ただの安曇じゃ、どっち呼んでるか区別がつかないからな」


 真璃もまたもっともらしい顔をして、うんうんと頷いている。

 どっちだっておんなじよ、という正直な声をぐっと喉の奥に飲み込んだ柊である。双子の云うことは理に適っている、と気がついたからだ。これまではたしかにどっちがどっちでもよかったかもしれない。だが、今日から少なくとも丸二日は――不本意ながらも――行動をともにするのだ。由璃でも真璃でもどっちでもいいという乱暴な理屈は通用しそうになかった。

 わかった、と彼女はしぶしぶ答えた。


「由璃、真璃、ね」


 負けを認めるときのような押し殺した声で呼ばれた双子は、不満の残る顔つきでそれぞれに柊を見遣る。


「なあんでそんなに不満そうなの」

「これからずっとその仏頂面でいるつもりか」


 そんなことを云われてもここで笑顔になるのは無理だ、と柊はますます膨れた。この双子を相手にするとき、自分の思いどおりになったためしがない。苦手に思ってしまうのはあたりまえではないか。


「ああ、もう、うるさいっ」


 柊は首を振って目蓋を閉じ、寝るっ、と不貞腐れて座席の背に凭れかかる。両側でなにやら云い立てる双子の声はすべて聞こえないふりでやり過ごすことにした。



 あの忌まわしく呪わしい夜――柊にしてみれば、そう云うよりほかない――のあと、彼女が安曇の双子の正体を知ったのは、むろん帝大の法医学教室でのことだ。

 瀬尾を訪ねて始終出入りする教室は、柊にとって仕事先であると同時に憩いの場でもあった。象牙の塔とも揶揄される学問の世界は、殺伐とした醜聞を追いかけて暮らす彼女にしてみれば、ほとんど唯一といってもいい平穏の地だったのだ。

 だから双子がそこに在籍していることを知ったとき、柊は驚くよりもなによりも、まず落胆したことを覚えている。――ああ、唯一の癒しが失われてしまった。

 でも、なんで気づかなかったんだろう、と柊は思う。あれだけ目立つ双子だ。憶えていないなんてありえない。


 そもそも柊は、帝都大学法医学教室に在籍する者のほとんどと顔見知りだ。訪ねる相手こそ瀬尾ひとりだが、薔子の事件の真相を探り始めたばかりのころには、彼らからも話を聞く機会はあった。だが、そのときにも双子にはかかわらなかった。かかわったなら、憶えているはずだ。

 研究室で双子と鉢合わせたとき、柊はがっかりすると同時に、謎が解けたような増えたような複雑な気持ちになった。


 そして、腹を立てた。バーで隣り合わせたあのとき、双子が自分を知っているような物云いをしたのは、本当に知っていたからだったのだ。

 それならそれで、あのときにちゃんと云えばいいじゃない、性格悪いな、とは腹のなかでの悪口だ。実際は頬と目蓋を引き攣らせ、一目散に逃げ出していた。

 なんとかして双子と距離を取りたい柊に対し、彼らはごく積極的に彼女にかかわろうとした。理由はよくわからない。本当にわからない。

 三人でベッドをともにして、それが誰かに知られでもしたら人生詰むのは、柊だって双子だって同じはずだ。法的にも社会常識的にも、ひとりの女とふたりの男がパートナーになることは認められていない。万にひとつも過ちを犯してしまったとしても、できることならもう二度と言葉を交わすことなく、他人の顔をして過ごしていきたいと考えるのが普通だろう。

 双子は普通ではなかった。

 第三者のいる場でこそあの夜のことは黙っているが、三人になった途端、忘れたとは云わせない、とばかりにぐいぐい迫ってくる。恋人になってたくさん可愛がらせて、と鳥肌の立つようなことも堂々と口にする。

 以前に一度、なんでわたしにそんなに構うのか、と双子に訊いてみたことがある。だが、んー、わかんないの、わからないならいい、とそれこそわけのわからない答えしか返ってこなかったために、追究を諦めた。どうでもいい、とあのときは思ったからだ。


 でも、いまになってみれば、と柊はかつての自分を少しばかり残念に思う。面倒くさがったりせずにちゃんと確かめておけばよかった。そうすれば、いまになってこんなややこしいことにならなくてすんだかもしれないのに。

 これまで、事態はごく単純だった。わけもわからず迫ってくる由璃と真璃を、沈黙と冷笑で退けていればそれでよかったからだ。


 けれど、今回のことで状況は大きく変わってしまった。経緯はどうあれ、柊は彼らの親切を受け入れてしまったのだ。

 松島と秋山に会いに行くという大義名分があるとはいえ、泊まりがけで一緒に旅をするなんて、これまでどうにか守りきってきた砦の門を自ら開くようなものだ。面倒だったとか、流されたとか、そんな云い訳が彼らに通用しないことは厭というほどわかっている。


 だけど、もう取り返しはつかない。すべては自分で招いたことだ。

 なんでもかんでも面倒くさがるのは、シュウの悪いクセだよね、とは薔子にもよく云われていた。


 ふいに意識は過去へとさかのぼる。

 まっとうに洒落っ気の出るはずの年ごろになっても、髪型にも化粧にも服装にも気を使うことのなかった柊を捕まえ、薔子はよく、ファッション講座を開いたものだ。

 少ない小遣いをやりくりして、いかに自分を素敵に見せるか。比較的あっさりした容貌を自覚していた柊は、そんなことしたって素が素なんだし、とよく口答えした。飾ったところで誰が見るでもなし、いいよ、わたしは。

 あたしが見てるでしょ、と薔子は云った。あたしはシュウが綺麗にしてると嬉しいけどな。シュウは大人になったら、きっとかなりの美人になるよ。あたしにはわかる。


 あたしにはわかる。


 それは薔子の口癖だった。

 容姿に限らず、自分にあまり自信のなかった柊がなにかにつけて日和るたびに、できるよ、大丈夫、うまくいくから、と励まし、最後に必ず、あたしにはわかる、と云うのだった。


 薔子になにがわかるんだ、とは一度も思ったことがなかった。薔子ができると云ったことでできなかったことはないし、うまくいくと云ったことはうまくいった。必ず。

 自分で自分を信じることは難しかったけれど、薔子を信じることは簡単だった。

 違う。そうではない。信じないではいられなかったのだ。

 彼女はいつでも、柊のことを肯定してくれたから。

 シュウは自分を信じることすら面倒くさがるよね、とは、進学のことで揉めた高校時代、薔子から投げつけられた言葉だ。シュウにならできるのに。大丈夫なのに。なんでそうやって諦めちゃうの。


 就職するときも似たようなものだった。

 とうとう別々の道を行くことになるんだね、と少し寂しそうにしながらも、就職活動にあくせくする柊を、ずっと励まし続けてくれた。

 いまのわたしがあるのは、なにもかも薔子のおかげだ、と柊は本気で思っている。むごい運命によって失われてしまったあとも、彼女は柊のなかに生きていて、当時と同じように叱ってくれる。


 ――お願いだから、諦めないで。



 柊はゆっくりと目を開けた。


「目、覚めたのか」


 かすかな笑いを含んだ由璃の声に、少しのあいだ、眠ってしまっていたことを知る。珍しい、と柊は思った。こんなふうに転寝したときには必ず見る、あの厭な夢を見なかった。


「よく寝てたね」


 真璃の言葉ではっきりと目を覚ました柊は、慌てて身を起こした。窓側に座る真璃の肩に頭を預け、通路側に座る由璃に手を握られていたことにいまさら気がついたのだ。


「ご、ごめん……」


 姿勢を正し、右手を取り戻して、小さく身を竦めた。別にいいのに、と真璃が云い、可愛かった、と由璃が笑った。


 ありえない、と柊は小さく震える。


 電車のなかで居眠りするときですら、隣の人に触れようものなら即座に目を覚ます柊である。基本的に他人との接触が苦手で、満員電車ともなれば耐え難い苦痛を覚えるのだ。それを、暢気に寄りかかって、あまつさえ手まで握られて、ぐうぐう寝ていただと。

 ありえない、と今度は首を横に振り、柊はもう一度謝った。


「気にすることないのに。っていうか、役得、みたいな」


 真璃は笑ったが、由璃は妙に真面目な顔をしている。


「そうだな。余所では少し気をつけたほうがいい。あんまり無防備にされると、おれたちが心配だから」


 柊は曖昧に頷いた。突っ込みどころが多すぎて、いちいちあげつらう気にもならない。


「タイミングはよかったよ。もうじき到着だ」


 真璃はそう云ってスマートフォンを取り出し、ホテルの住所を確認している。

 数年前に北陸まで開通した新幹線は、トンネルが多く、いわゆる車窓というものは望めない。それでも、ちらほらと人工的な灯りが増えていくのを眺めていると、目的地に近づいたことが実感できる。


「松島さんと約束はしているの?」


 なんとか気を逸らそうとして柊がそう尋ねると双子は、していない、と否定した。


「ついでがあったから寄ったっていうには不自然だしね。かといって、過去の解剖のことでって予告しちゃったら、変に用心させるに決まってるしね」

「出勤する予定になっていることだけは確かめたから、あとはどうにかなるだろ。心配するな」


 アポイントメントなしに誰かに突撃することに慣れている柊は、そう、と軽く頷いた。


「なにもかもお任せにしちゃってごめん」

「おれたちの有用性が身に染みた?」

「なにそれ?」

「おれたちの傍にいれば、ずうっとこんなふうに甘やかしてあげるよってこと」


 いらんわ、と柊は笑いを含んだ声で軽く毒づいた。


「人間がだめになりそう」

「だめになればいい」


 それは厭だ、と柊は即座に答えた。

 誰かに依存して生きることの危険性を、柊は身をもって理解している。学生時代の自分がどれだけ薔子に依存し、そして彼女を失ってどれだけ苦しんだか――。

 いまだに夢に見るのだ。実際には知るはずもない――見てもいないし聞いてもいない――、薔子の殺される場面を。

 それがただの想像で、記憶ですらないということは理解している。それでも、あまりにも繰り返される悪夢は、もうすっかり柊のなかで事実として根付いてしまっていた。

 そんな思いをするのは、一度でたくさんだ。


 だめになるのもときには必要なのに、そうだよね、という双子の勝手な呟きは聞こえなかったことにして、柊は大きく伸びをして深い息をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る