15
金曜日はあっというまにやってきた。
柊はその日のことを、双子と旅行に出かける日ではなく、週刊スキャンダルの発売日として認識していた。どちらも忌々しいことに変わりはないが、悔しさの分だけ仕事に軍配が上がったのに違いない。
苛立ちは朝から最高潮である。日ごろは買わないライバル誌を自腹で買い求め、自分たちがぶち抜くはずだった写真をじっくりと眺める。悔しさを網膜に焼き付け、散々っぱらいらいらしたあと勢いよくゴミ箱に叩き込み、北居に悪態をつく。日向野にいたっては、煙草を吸ってくると云って出ていったきり、午前中いっぱい戻ってこなかった。
柊は珍しく外出もせずにデスクで取材メモをまとめながら、資料を取りに行かせたり、コーヒーを入れさせたりと北居をこき使っていた。健気な後輩はそのつど書類をぶちまけたり、コーヒー豆をばらまいたりしながら右へ左へと走りまわってくれた。
八つ当たりだという自覚はあるが、北居には今日のうちぐらいは耐えてもらうことにしよう。いままとめているこのネタが繋がれば、我慢の甲斐もあるかもしれないんだから――。
いうまでもなく、犬飼の件である。
市原から紹介された塩穴の秘書、大倉卓明との面会は、つい昨日の夜に叶ったばかりだった。
大倉は、自らが仕える塩穴雅憲に日々精気を吸い取られ、代わりに彼の傲慢を分け与えられているのだろう、とよけいな想像を掻きたてる、貧相で横柄な印象の男だった。
二十分後には事務所に戻らなければならない、と待ち合わせ場所の喫茶店に現れるなりそう云った大倉は、せかせかと、しかも偉そうにカフェオレを注文し、柊に向かってごく不機嫌そうな視線を寄越した。
よくて害虫、ときに腐ったゴミを見るような目つきを向けられることには慣れている。柊は相手の先入観を壊さないための厭味な笑いを浮かべ、では単刀直入にお訊きします、と口上を述べた。
醜聞誌記者に、それじゃ遠慮なく質問しますよ、と云われて警戒しない者などいない。もちろん大倉とて例外ではなかった。
ガードの硬い相手を突き崩すことは、柊にとって難しくない。むしろ、守ろうとするべき点――すなわち弱点――が見えやすくなるぶん、有利にことを運びやすい。防御のために殻にこもった人間は、自ら築いた殻に邪魔されて視野が狭くなる。自然体でいられるよりも、ずっと切り込みやすいのだ。
「犬飼さんのことか」
先手を打ってきた。大倉は思った以上に攻撃的な性格をしているらしい、と柊は思った。
「それは市原が?」
「ええ、まあ……」
そこでカフェオレが運ばれてきたために、ふたりは一時口を噤んだ。
「では、わたしがお訊きしたいことも……?」
「市原から聞いてる」
「大倉さんは、市原とはどういうお知り合いなんですか?」
「友人、かな。市原がどう思ってるかは知らないが」
大倉の言葉の意味がわからず、柊は首を傾げる。
「大学で同じ研究科だったんだ。在学中は飲みに行くとかメシ食いに行くとか、そういうのはなかったが、まあ、なんていうか……」
たまたま取ったゼミが同じだったせいもあり、同じ教室にいることが多かった。顔を合わせれば雑談くらいはする仲だったけれど、バイトに明け暮れていた市原と時間を持て余していた大倉とに、それ以上の接点はなかった。連絡を取りあうようになったのは就職してから、それも、市原がウィークリーゴシップに転職してからのことだ。
「俺はもういまの仕事に就いていたから、あいつにしてみりゃ、態のいい情報源のひとつくらいに思ってるだけなのかもしれないけどな」
大倉はつまらなさそうにそう云った。
「利用されている自覚があるんですか?」
対する柊は少しばかりおもしろがるような口調になる。
「この歳になると、仕事にかかわりのない人間関係を作るのはほとんど不可能になる。それに利用というならお互いさまだし、いい刺激にもなってるからな」
拒む理由はあまりない、と大倉は云い、それに、と付け加える。
「ほかが小さくしか扱わなかったネタを醜聞専門誌がどう膨らませるつもりなのか、気にならないと云ったら嘘になるだろう」
そう云って苦く笑った大倉は、ああ、先に断っておくが、とカフェオレに砂糖を足しながら釘を刺した。
「俺は犬飼さんのことをよく知っているわけじゃない。面識がないわけじゃないが、俺とはちょうど入れ替わるような形だったから」
塩穴の秘書の職のことを云っているのだろう。
「大倉さんが犬飼さんの仕事を引き継いだ、というわけですか」
まあ、そうなる、と大倉は頷いた。
「彼のことは、先生や
山咲とは、長年塩穴の第一秘書を務めている男である。塩穴の義父が寄越したという、目付役も兼ねたような存在だと、柊は聞いたことがあった。
「山咲さんと違って、犬飼さんは最初から政治を志していた野心のある人だったらしい。おとなしい印象や少し弱腰な雰囲気がなくはないが、実際は芯が強くてびっくりするくらい頑固でな。几帳面で真面目で、そういう意味では非の打ち所がないくらいだったけど、融通が利かないといえば、まあ、そういう面もあったとか」
政治家の秘書を務める者がみな政治家を志すわけではない。長く政治の世界に身を置いている山咲も、自身が表舞台に立つよりは番頭役にあってこそ真価を発揮できるタイプなのだろう。仕事のできる男ではあるらしいが、独立を考えているわけではないようだ。
「大倉さんはどうなんです?」
おまえに野心はないのかと水を向けてみたが、大倉は反応しなかった。薄く笑っただけで、口を開く気配はない。
「犬飼さんが亡くなる直前にかけたという、先生あての電話を受けたのは俺だ。スケジュールが詰まっていると云って、取次ぎはしなかった」
「なにか変わった様子は?」
わからない、と大倉は端的に答えた。
「さっきも云ったように、俺は犬飼さんとはほとんど口をきいたことがない。なにが彼の普通なのか、判断はできない」
なるほど、大倉はこれを云いにきたのだな、と柊はようやく納得した。市原を友人と呼び、友情に免じて柊に会いにやってきたようなことを云ったこの男は、やはり政治家の秘書だった。市原が大倉を利用しているように、大倉もまた市原を利用している。
「では、質問を変えましょう」
大倉は油断なく双眸を眇めた。
「犬飼さんは電話口でどんな様子でしたか?」
「どんな、とは?」
「落ち着いている、焦っている、浮かれている、落ち込んでいる、いろいろあるでしょう。たとえ知らない相手でも、声を聞けばわかることもあるはずです」
たとえば、いま、あなたが苛立ちはじめたことをわたしが感づいているように、と柊は意地悪く考えた。
さあ、とくになにも思わなかったな、と大倉は云った。
「嘘ですね」
柊はここぞとばかりに毒のある笑みを浮かべてみせた。誰が見ても厭だと思うような笑みを即座に浮かべてみせるすべを体得したのは、いまのこの仕事に就いてからのことだ。
「なんだと?」
「あなたに、いえ、正確には塩穴先生に電話をかけた直後、犬飼さんは亡くなっているんです。それも不慮の事故などではない。自ら選んでの死です」
これから死のうとしている、そんな人間が普通の声なんか出せると思いますか、と柊は首を傾げた。
「なにか感じたはずですよ。そうでなければおかしい」
大倉は黙ったままでいる。
「ああ、でも、感じないこともあるかもしれませんね」
あえてのわかりやすい挑発は、もちろん大倉にも正しく伝わった。
「たとえば、犬飼さんがこれから亡くなることを事前に知っていたとしたら。たとえば、彼がなぜ死ななければならなかったのか、その理由を……」
知っていたとしたら、と柊は最後まで云うことができなかった。
「ふざけるな!」
押し殺してはいたが、激しい怒りを含んだ声で大倉が云ったからだ。
「犬飼さんが死ぬことを、俺が知っていた、だと? それがどういう意味か……」
「もちろんわかっています。そのうえでお訊きしている」
「先生を、本気で、疑っているのか」
柊は身動ぎもせず、表情も変えなかった。
大倉は耐えがたい怒りを含む眼差しで柊を見据えていたが、やがて深い溜息をついて視線を逸らした。脅しに屈するような相手ではないことを厄介に思ったのだろう。
あのな、と大倉はふたたび吐息とともに云った。それはなにかを諦めたようにも、どこか呆れているようにも聞こえた。
「莫迦げた妄想にも限度がある。先生をいったいなんだと思ってるんだ」
「人ひとりの命をどうこうしようという方だとは思いませんけれど……」
わざと含みを持たせるように云えば、大倉は不愉快そうに、けれど、と言葉尻を復唱する。
「塩穴先生は政治家です。政治家が秘書を使い潰すのは世の常ではないのですか?」
大倉はうんともすんとも云わなかった。
「犬飼要平という人は、真面目で堅物で気が小さかった。彼に汚職の疑惑があることは、もちろんご存知ですよね?」
知らないとは云わせない、という柊の無言の圧力をきちんと読みとったのだろう、大倉はとくに反論はしなかった。
「ざっくりまとめると官製談合の指揮を執ったということらしいですが、大倉さんは彼にそんなことができると思いますか?」
「できたんじゃないのか」
やってたのなら、と大倉は苦みを含んだ声で云う。
「どんなに真面目で堅物で気が小さくとも、犬飼さんだって国会議員の秘書だった人だ。しかも自身も政治家になりたかった。野心は人一倍だろう。なにかを勘違いして迂闊な真似をすることだってあったかもしれない」
「彼自身の意志で?」
大倉はきつく眉根を寄せた。みなまで云わずとも云いたいことは伝わったようだった。
「あのな」
大倉はテーブルの上に片肘をついて、ぐっと身を乗り出してきた。
「あんた、小鳥遊さん、うちの先生が談合を指示したと、本気で思ってるのか」
ええ、と柊ははっきりと頷いた。大倉は、呆れたな、と溜息をつく。
「市原から聞いたときは阿呆じゃないかと思ったもんだが、本当に本気でそんなことを考えてるのか」
「犬飼さんがなにもかもひとりでやったというよりは、ずっとありそうな気がするんですが……」
「ないだろう」
大倉は柊の言葉を最後まで聞かず、ひとことで断じた。
「それに、犬飼さんがひとりでそんなことをするわけがないと、なんであんたにそんなことが云える?」
大倉は言葉遣いを荒くし、ほとんど捲し立てるように云い募る。
「俺は犬飼さんのことはほとんど知らない。けど、それはあんただって同じはずだ。直接話をしたこともない相手を、なんでそんなふうに断じられるんだ」
そう云われてしまうと弱かった。柊が、犬飼がひとりではなにもできないと――それはつまり、塩穴に自殺教唆と談合指示の疑いをかけたのと同じことだ――考えた根拠はないに等しく、なかば云い掛かりのようなものである。
「小鳥遊さん、あんたは先生のこともろくに知らないよな」
今度は柊が目を眇める番だった。
「もとは帝都通信にいたそうだな。地方に出て、中央には戻らずに退職したそうだが、新聞記者時代は社会部にいたとか。警察の記者クラブに顔が利くのもそのせいか」
政治は畑違いだな、と大倉は呟くように云った。
「市原さんから聞いたんですか」
まあ聞くには聞いたが、と大倉は首を横に振った。
「こっちでも調べた。市原の話ばかりじゃ都合のいい情報しか教えてもらえないだろうからな。あんた、ずいぶん有名みたいだな。会員でも準会員でもないくせに定例会見に顔が出せるのは、あちこちの記者連中の弱みをずいぶんと握ってるからだそうじゃないか」
つまりはそれが大倉の仕事なのか、と柊は思った。そのときどきで必要な情報を過不足なく塩穴に伝えること。ヒトとカネの第一秘書、情報の第二秘書。なるほど山咲と大倉は、塩穴雅憲が全力で駆る車の両輪なのだ。
「マスコミのなかでもエリート中のエリートだったあんたが、なぜ醜聞専門の三流誌の記者になったのか、そんなことに興味はないが、疑問はある」
「わたしは人の話を聞くことが仕事です。話すのは専門外ですよ」
「そういう意味じゃない」
あんたに興味はないと云っただろ、と大倉は云う。
「俺が云っているのは、帝都通信で取材のイロハを叩き込まれたはずのあんたが、なんでこんな甘い仕事をするのかっていう疑問だよ」
柊は自分の頬がカッと熱を帯びるのを感じた。恥ずかしさと悔しさと、いたたまれなさの入り混じった自己嫌悪。
「あんたが云ってるのはどえらいことだ。それは自分でもわかってるんだろう?」
日向野や市原が云ったのと同じことを大倉も云った。
「現役の国会議員に殺人、あるいは自殺教唆の疑いをかける。それがどういうことか、真剣に考えたことはあるか」
柊は押し黙ったままだ。言葉が見つからない。ざらり、となにやら厭な予感がした。
「まあ、あるのかもしれない。だが、ひとつだけ云えることがある。あんたはその疑問を口にするべきじゃなかった。少なくとも、もっと十分に取材を重ねてから云うべきだった」
もっとも、と大倉はいまやはっきりと憐れみのこもった目で柊を見つめる。
「ちゃんと取材をしていれば、そんな疑いを抱くことはなかったはずだけどな」
「どういう意味ですか?」
ようやくのことで口にした言葉には力がこもらず、どこか弱々しくさえある。
「取材を続けていれば、いずれはわかったことだからはっきり云うがな。先生はもうずいぶんと前に、犬飼さんを切り捨てていたんだよ」
「切り捨てる?」
そうだ、と大倉はもう何度めになるかわからない溜息をついた。溜息の数だけ幸せは逃げると云うが、だとすれば大倉は向こう三年ほども幸せになれないに違いない、と柊は同情する。自分のせいだということは、もちろん棚に上げておいた。
「前回の市議選は一年半前。その少しあとから、先生は犬飼さんといっさい接触を持っていない。会うのはもちろん、電話も繋いでいない。何人かと一緒に顔を合わせることがあっても、個人的な話はしていない」
「なぜですか?」
大倉はわずかな躊躇いを覗かせた。
「もしかして、談合の噂のせいですか?」
柊が問うと、大倉は小さく頷き、噂じゃない、と低い声で云った。
「公取は犬飼さんの聴取をすでにはじめていた」
柊は驚きに目を瞠る。大倉は苦い顔になった。
「犬飼さんがどうもまずいことに手を出しているらしい、と最初に気づいたのは先生だ」
柊は目を見開いた。大倉は柊から視線を逸らし、ぽつりぽつりと言葉を繋ぐ。
「先生は犬飼さんを買っていた。世間では犬飼さんが一方的に先生を頼りにしていたと思われているようだが、先生もご自分にはないものを持っている犬飼さんをあてにしているようなところもあった」
山咲さんはもっと辛辣に、実直が度を超えて愚直になり、さらに莫迦がつくほどになれば誠実という美点になるんですよ、とか云うけどな。そう云って肩を竦めた大倉は、なぜか少し寂しげに見えた。
「だからこそ、犬飼さんの不正をまるで裏切りのように感じて、切り捨てたんだ」
犬飼が死んだ日、塩穴に宛てた彼の電話を取り次がなかったのは、だからその日に限ったことではなかったのだ、と大倉は説明した。
「どんな理由があっても、犬飼からの連絡には応じるな、と厳命を下されていた。だからたとえ、彼になにか変わったところがあったとしても、俺はそれを斟酌することはしなかった」
「質問してもいいですか?」
柊の問いに、大倉は、ああ、と頷いた。
「塩穴先生はなぜ、どうやって犬飼さんが談合に関わっていることに気づいたんですか?」
大倉は答えを躊躇っているようだった。だが柊は辛抱強く待つ。焦ることはない。大倉は言葉を選んでいるだけで、沈黙してしまったわけではない。
ひとつ話せば、すべて話さずにはいられないのが人間というものだ、ということを彼女はよく知っている。秘密を漏らす人間は壊れた蛇口と同じ。どれほど躊躇ったとしても、途中で止めることはできない。
「金だ」
思っていたよりもずっと端的な答えが返ってきて、柊は思わず鸚鵡のように復唱してしまう。
「金……?」
そうだ、と大倉はいまさらその存在を思い出したかのようにカフェオレを口に含む。すっかり冷めてしまっているであろうそれを飲み下し、空になったカップを遠ざけた。
「うちの党が正念場を迎えていることは知っているだろう?」
次の選挙が勝負になるという意味ならば、と柊は頷いた。
「スキャンダルはどんなに些細なことであっても避けたいときだ」
そうでしょうね、と柊は唇を歪めた。そんなときに隠し子の写真を撮られた塩穴は、党のなかでどんな扱いを受けることになるのだろうか。まるっきりの他人事ながら、やがて党執行部が陥ることにあるであろう阿鼻叫喚を思うと、同情を禁じえない。
「犬飼さんは、自身の立場としては市議会議員だ。国政選挙に関わる立場じゃない。応援に駆り出されるほどの知名度もなかった。いい意味でも、悪い意味でもな」
柊は若干の退屈を押し殺しながら、それで、と話の先を促した。これは、長い前置きに耐えるだけの価値のある話だろうか。
「だが、あるとき、先生が俺に云った。犬飼の金の流れを調べろ、と。明らかにいい話じゃなかった」
柊は思わず目を細める。そのことに気づいた大倉は薄く笑う。
「なんで山咲さんじゃないのかっていう顔だな」
柊の顔色を読み取った政治家秘書は、山咲さんと犬飼さんはかつての同僚だ、犬飼さんを取り巻く金の流れに不審なところがあっても、山咲さんがその調査に手心を加えるとでも思ったのかもしれない、と付け加えた。俺なら、犬飼さんのことをほとんど知らないから、手加減などしようもない。
「そのあたり、先生は上手に人を使う」
そうでなければ政治家など務まるわけもないか、と柊は少し可笑しくなった。
「最近の犬飼はずいぶんと羽振りがいいようだ、とあのとき先生は云った。小学生のこどもを学費のかかる私立に通わせ、家を建て直し、新車を購入した。犬飼の妻はまじめで堅実な一般家庭の出だが、とくに資産家というわけでもない。本人も同じだ」
「なのに妙に金回りがいい、と?」
「それまで、ほとんど顔を見せなかったパーティなんかにも姿を現すようになってな。別にそれ自体は悪いことじゃないが……」
ああ、と柊は頷く。
「資金パーティは出席するだけで大金がかかりますからね」
「まっとうに市政に向き合うだけの議員に、急に金が転がり込むようになるわけもない。とくに犬飼さんは、そのあたりの要領がいいタイプじゃないと先生にはわかっていた」
「それで不正を疑った」
「官製談合の噂はすぐに掴むことができた。吃驚するほど簡単にな。遣り口が甘すぎたんだ。もともと悪事に向いてるような人じゃなかったんだよ、犬飼さんは」
「塩穴先生はそれで犬飼さんと距離を?」
「別に俺の調査を鵜呑みにしたわけじゃない。懇意にしている探偵に調べさせたり、山咲さんに記録を洗わせたりして、不正を確信したらしい」
繰り返すが、いまは大事な時期だ、と大倉は云う。
「たとえ、自身のことではなくともスキャンダルは避けたい。ことに金の絡んだそれは最悪だ。万が一を考えて犬飼さんを切り捨てた先生は正しかったと、俺はそう思う」
だけど犬飼はそうは思わなかった、と柊は考える。人生最大のピンチを迎えた局面で、恩人であり、頼りにしていた相手に切り捨てられた男の絶望はいかばかりであったのか――。
「犬飼さんは、先生に縁を切られた理由を自分でわかっていたはずだ。個人的な会話はおろか、公的な面会すら断られるようになれば、誰に云われずともわかるだろう」
ましてや彼は不正を働いていたわけで、自分のことは自分が一番わかってるだろうしな、と大倉は云った。
それはたしかにそうかもしれない、と柊も思う。だが、だとすれば、死に向かう犬飼が塩穴に電話などかけて寄越したのはなぜなのだろう。
「そこがおかしいと、わたしは思うんですよ」
「おかしいとは?」
「塩穴先生に切り捨てられたことを、犬飼さんはよくよく理解していたわけですよね。先生から犬飼さんに連絡することがなかったのは当然として、その逆、つまり、犬飼さんから先生に連絡を寄越すこともほとんどなくなっていた。」
そうだ、と大倉は頷く。
「だから、なんだ」
「なのになぜ、亡くなる直前になって電話なんかかけてきたんでしょう?」
これから死ぬ、とでも云って脅したのならばともかく、取り次いでもらえないとわかっている電話をあえてかける。これから死のうという人間が、わざわざそんな無駄なことをするだろうか。
大倉は探るような目を向けてきた。
「最後の最後だ。可能性に賭けたんじゃないのか」
「最後の、最後?」
「犬飼さんが公取の聴取を受けていた話はしただろう。もちろん特捜部も動いていた。捜査は大詰めを迎えていて、彼はその日のうちにも逮捕される予定だった」
議員秘書の情報力を侮ってはいけないということか、と柊は思った。大倉の目と耳は、公正取引委員会や東京地方検察庁の内部情報にさえも通じているのだ。
「でも、そうだとしても、犬飼さんは先生の元秘書ですよね。かつて仕えた相手の性格は知り尽くしている」
塩穴がいったん切り捨てた相手に情けをかけることなどないと、犬飼は知っていたはずだ。柊がそう云いきると、大倉は、なるほどね、と皮肉げに笑った。
「あんたは俺が嘘をついていると、そう云いたいのか」
犬飼からの電話を取り次がなかった、というのは偽りで、塩穴と犬飼のあいだには最後の会話が交わされていたのではないか。
それが柊の推論だった。
談合を指示した事実がなくとも、元秘書のスキャンダルは塩穴にも党にも大いなる痛手となる。犬飼の不正を知った塩穴は、元秘書に非常な命令を下した。――すべての罪を背負い、黙ったまま、この世から消えろ。
犬飼は塩穴の命令に従い、自殺した。
「これが最後だと知っていれば、たとえ縁を切っていたとしても言葉くらいは拾ってやろうと、そういう心境になってもおかしくはないでしょう?」
大倉は深い溜息をついた。
「……そういうことか」
塩穴が犬飼を殺したとは云わない。だが、犬飼が死を選ぶよう仕向けたのは塩穴ではないかと、柊は思う。
「残念だが、あんたの妄想を否定するだけの証拠を俺は持っていない。俺は俺の知る事実をありのままに話しているが、あんたが信じないんじゃ、それはないのと同じだからな」
いちいち通話を録音しているわけでもあるまいし、と大倉は首を横に振る。
「市原が云ってた、厄介の意味がようやくわかったよ」
市原さんがそんなことを、と柊は眉をひそめた。
「小鳥遊ってのはじつに賢いんだ、とあいつは云ってた。なのに頭が悪い。人の話を聞こうとしないから、自分の考えに執着して、結果、とんでもないことを云い出したりする」
悪いことに変に頭のまわるぶん、その考えってやつは一見筋道が通ってる。簡単には否定できない。市原の憂いを、大倉はそのまま言葉にしてみせた。
「先生が犬飼さんを使って金を集め、その事実が露見しそうになったために彼を死に追いやった」
まあ、ありそうな筋書きではある、と大倉は肩を竦める。
「世間が大騒ぎしそうな、そして、ありがちだと誰もが納得して、やがて忘れられるような、な」
これ以上なにを話しても平行線のままだと大倉は思ったのだろう、すっかり呆れたような表情になると、ぴたりと口を閉ざしてしまった。
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