14
「オレの母親は自殺したんだ」
柊は驚いて息を飲んだ。
「重度の鬱病が原因だった。ずっと入退院を繰り返してて、家にいるときも薬を飲んで寝てるか、起きててもぼーっとしたままか、とにかく、親らしいことをしてもらった記憶はあまりない」
「いつごろから……?」
オレが小学生のころから、と市原はこともなげに肩を竦める。柊は相槌も打てない。
「そんなだから親父はおふくろにかかりきりだったし、金の苦労もした。でも、オレはおふくろを嫌いにはなれない。隠そうと思ったこともない」
市原にとって心の病はごく身近なものだった。身体が病めば、腹が痛かったり血を吐いたりすることもある。同じように、心を病めば、死にたくなったり幻聴が聞こえたり、そういうこともあるのだろうと、彼はそんな考え方をするようになっていた。
だからオレは、球団や選手に腹が立って仕方がなかった、と市原は云った。
「鬱病が原因の自殺なら、そう公表すればいい。嘘の病名をでっち上げて、真実を隠そうとするなんて最低だ。だいたい失礼だろう、どっちの病気を患ってる人たちにも」
柊は、かもしれませんね、と曖昧に頷いた。
「だからオレは書いたんだよ」
書いたって、まさか選手の奥さんの病気のことをですか、と柊は喉の奥を詰まらせる。
「そうだ」
市原の肯定は、柊の心に重たい衝撃を与えた。
「球団が選手の奥さんの死因について嘘の公表をしたとき、オレは、ふざけるな、って思った。本当のことを云え、嘘をつくなって。そういうことするやつらのせいで、同じ病気を抱えた連中がますます苦しむことになるんだって」
もちろん、と市原は云った。
「書くなって云われてることを書けば、選手にも球団にも恨まれるし、会社にもいられなくなるかもしれない。それくらいのことは考えた。だけどそれ以上に、自分たち家族の痛みを、同じ病気に苦しむほかの家族にこれ以上押しつけたくないって、そう思った」
世間がすぐに変わることはない。けれど、自分が書いた記事をきっかけに、ひとりでも多くの人が病に対する認識をあらためてくれたら。それは、病に苦しむ人々にとって、わずかながらの光明となるのではないか。
「おまえも記者ならわかるだろ。人の健康状態ってのは、もっとも重要な個人情報のひとつだ。公表された内容がたとえ嘘であっても、そしてそのことを知っていたとしても、本人の意思の及ばぬところで本当のことを明らかにすべきじゃない。オレはその禁を破った」
どんな理由があろうとも、それだけでオレのしたことは最低だ、と市原は自らを断じる。
記事を書いた当時の市原は、自分で自分のしでかしたことの重大さを本当の意味では理解できていなかった。己の過ちに気づいたのは、記事の掲載に許可を出した上司たちが相応の処分を受け、さらに自身が事実上解雇されるにいたってからのことだ。
「会社の判断はまっとうだった。悪いのはオレで、ほかの誰でもない」
「選手は、そのあとどうなったんですか?」
「どうもならない」
球団も選手も、市原の記事を肯定も否定もしなかった。なかったものとして黙殺し、その後、いっさい市原とのかかわりを絶っただけだ。
「まずいことだってわかってて、なんでそんな……」
そうだな、と市原は瞳を眇めた。
「云ってみりゃ私怨かな。恨み節だったんだろうな、いま思えば」
おふくろの病気のことで親父は苦労した、と市原は云った。看病のことだけじゃなくて、周りからの偏見にも耐えなきゃならなかった。
「親父もそのときは必死だった。オレもだけど。そういうのって、そのときはなんとかなるんだよ。云い方悪いけど、頑張ってる自分に酔ってるっていうか、そうでもしなきゃやってられないっていうか」
けど、本当はずっと不満だったのかもしれないな、と市原はそこで少しだけ遠い目をした。なにかを悔やんでいるようにも見えたが、本当にそうなのかどうかはわからない。
「嘘はよくない、本当のことを云えと、そういう気持ちがはじまりだったことはたしかだ。だけど、よく考えてみれば、オレは自分と親父がさんざん味わわされてきた世間の無理解ってやつを、似たような境遇にあった選手にも味わわせたかったのかもしれない。世間に対しても、おまえたちはなにも知らないただの莫迦じゃねえかと、そう云いたかったのかもしれない」
そういう気持ちがぜんぜんなかったかって云われると、ちょっと自信がないな、と市原は苦笑いを浮かべた。柊は愛想笑いさえ返すことができない。
「会社を
嫁も逃げるしな、と市原はそこだけ少し寂しそうに云った。ま、逃げて正解だとも思うけど。あいつがいまのオレとの生活に耐えられるとは思えない。
「おまえはさあ、あのころのオレと同じ匂いがするんだよな。ここへ来たときからずっと」
市原はひどく厳しい眼差しで柊を睨み据えた。
「スクープにこだわるのはオレたちにとっちゃあたりまえのことだけど、おまえはとくにひどい。いかにも新聞記者でございますって感じの緻密な取材を重ねるくせに、ネタが見えてくるとやたらにがっつくよな。力がないわけじゃないのに、なにをそんなに焦ってるんだ?」
「焦ってなんて……」
焦ってる、と市原はきっぱりと云い切る。
「云ったろ。オレと同じ匂いがするって。同類はごまかせねえよ。そうだろ、小鳥遊」
柊はもう返事をしなかった。
わたしは市原さんとは違う、似ているが違う、と彼女は思っていた。市原さんは記者として破るべきでない倫理を破った。彼自身が云っていたように、彼がしたことは決して許されるべきではない。たとえそこにどんな嘘があったとしても、知る権利があるのと同じように、知られない権利もまたあるのだから。
でも、わたしは違う。薔子は事件の被害者だ。彼女は嘘もついていなければ、罪を犯してもいない。殺され、踏み躙られた、被害者だ。彼女の真実を明らかにすることは、市原さんが球団と選手の嘘を暴いたこととはまるで違う。
「おまえがどんな事情を抱えてるのか、オレは知らねえよ。正直、興味もない。けど、書くこと、報じることを自分のために使うな。どれだけ低俗な三流雑誌であっても、おまえの個人的ななにかに利用するべきじゃない。それをやったら、おまえは記者として終わりだ。わかるだろ」
柊は俯き、きつく拳を握りしめた。そして結局、市原が傍を離れていくまで顔を上げることができなかった。
市原が話して聞かせた彼の身の上話は、柊に大きな衝撃を与えた。
私怨だった、と彼は云った。恵まれなかった自分の恨みを、嘘を暴くという口実の下に晴らそうとしただけだと。
おまえも同じだ、と同じ口で彼は云った。おまえもまた、自分のために使うべきでない力を使おうとしている、と。
そうだ、そのとおりだ、と柊はどうにかして開き直ろうとした。よくないことだなんてわかってる。それでもいい、と決めたじゃないか。薔子のために、彼女の汚名を濯ぐのだとそう決めたじゃないか。
でも――。でも、本当にそうだろうか。
本当に薔子のためなんだろうか。
だって薔子はもういないのだ。彼女がなにを望んでいたか、本当のところなど、もうわかるはずがないのだ。
わたしは、本当は、自分自身のために、書く力を使おうとしているのではないか。
違う、そんなこととっくにわかってる、とっくに覚悟してる、と柊は小さく首を横に振った。
帝都通信を辞めたとき、わたしはわたし自身の目的のために記者であり続けることを選んだのだ。それがどんなに間違ったことであろうと、そのことでどんなに誰かを傷つけようと、それでも、薔子の事件の真相を暴くと、そう決めたのだ。
だけど、と柊はふいに、衝撃の底に潜むものの正体に気づいた。だけど、もし薔子の事件の真相にたどりついたとして、そのあともわたしは記者であり続けることができるだろうか――。
もちろんだ。わたしにはこの仕事しかできない。続けられるとか続けられないとかじゃない。ほかにはなにもできないのだ。
でも、でも――。
ぶるり、と身体が芯から震えた。
怖かった。とても怖かった。
恐怖を振り払うために柊は勢いよく立ち上がる。隣にいる北居が驚いたように、小鳥遊さん、と呼びかけてきた。
「どうしました?」
「出かけてくる」
え、と北居は散歩をお預けにされた犬のような顔をして、いまからですか、とまぬけなことを訊いた。
「いけない?」
「だってこれから誌面会議ですよ。もうすぐデスクが部数会議から戻ってくるから」
ちっ、と柊は盛大に舌打ちをした。何週か先までの頁割について打ち合わせをする会議を欠席するわけにはいかない。
「煙草買ってくる」
とにかくもう、一瞬でもいいから席を外したい柊は財布だけを掴み、なんとかかんとかうるさく云いたがる北居を振り切って編集部を飛び出した。市原は柊のほうを見ようともしない。彼には柊の動揺がよくわかっている。
呼ボタンを殴りつけるようにしてエレベータを呼んだ。編集部を出ても動揺は治まらないどころか、ますますひどくなるような気がした。
指先が小刻みに震えていることに気づき、柊はシャツの胸元を強く握りしめた。――デスクだけじゃない。北居だけじゃない。市原にまでなんの心配をさせているんだ、わたしは。
のろのろと開いたエレベータの扉をこじ開けるようにして乗り込み、今度は扉を閉めるボタンを何度も押した。ゆっくりと閉ざされていく扉に隠れるようにして壁に凭れかかろうとしたところで、それを妨げるように大きな音がした。
合わさりゆく扉と扉の隙間に差し込まれた手によって、柊の安寧は破られた。びくりと身体を震わせた彼女は、手の主をぎろりと睨みつける。
「お、悪い悪い」
編集長の谷本智弘だった。
「編集長……」
いかにも軽い口調の谷本を、柊は内心で苦手に思っている。あからさまに迷惑そうな調子で、部数会議は終わられたんですか、と尋ねたのは、彼女にしては愛想よく振る舞ったほうかもしれない。
「お、ああ、終わった終わった。いやあ、上からこってりやられちゃったよ。どうして部数が伸びないのか、ねちねちねちねち、オレが知りてえっちゅうの、なあマジで」
はあ、と柊は相槌とも呼べないような相槌を打ち、一階でいいんですか、と階数ボタンを示してみせた。エレベータの扉はふたたびゆっくりと閉まっていく。谷本とふたりきりの密室に、柊の不快指数はうなぎのぼりだ。
また誰かが邪魔してくれないかな、という期待は見事に裏切られ、小さな箱はじつにのろのろと下降をはじめた。襤褸ビルだけあって、エレベータまでとろくさいな、と柊は胸の内で悪態をつく。
「なあ、なんかねえの? 新聞さん」
「なんか、とは?」
「ネタだよネタ。こうさ、世間がドーンと驚いて、部数がバーンと伸びて、金ががっぽがっぽ儲かるようなさ、すげえネタ」
柊のことを、新聞さん、と呼ぶときの谷本はとても機嫌が悪い。にやにやした表情や軽薄な口調に騙されてはいけない。
ありませんよ、と柊はできるだけ抑えた声で答えた。無視することは簡単だが、こんな男でも谷本はウィークリーゴシップ編集部内で最大の権力を誇る男である。些細なことであっても機嫌を損ねれば、のちのちいろいろと面倒なことになるのは目に見えている。
柊はあたかも財布に縋りつくようにして、苦行の時間ができるだけ早く過ぎ去ってくれるよう祈りながら、エレベータのステンレス壁とじっと向かい合っている。
「ありませんてなあ、こっちは高い金払って新聞さん雇ってんだ。ん、あるだろ、なんか」
もったいぶってねえで、ちょこっと教えてみ、な、と谷本は肩をぶつけてくる。さほど上背のない相手であっても、男と女だ。体格には歴然たる差があり、柊は耐えきれずによろめいた。
「もったいぶるもなにも、記事にできそうなネタは全部デスクに上げてありますし」
デスクが編集長に報告していることがすべてです、と言外に伝えるも、谷本は、ああ、なんだって、とやくざ顔負けの柄の悪さで凄みを利かせてくる。
「なあ、オレは頭が悪くてよ、日向野が云ってたことあんま憶えてねえんだわ。悪いけどおまえ、あいつになに報告したか、いま教えてくんねえかな」
柊は俗物で鳴らす谷本のことを苦手にしつつも、内心どこかで莫迦にしている。だからこれまで彼のことを知ろうともしなかったし、その必要があるとも思っていなかった。
そのことが裏目に出た。もうとっくに理解しているべき谷本の狡賢さを、このときの彼女はまるで知らなかったのだ。
「ネタって……」
云い淀む柊を谷本はなおも睨み据える。その粘ついた視線に耐えきれず、柊はしぶしぶ口を開いた。
「目新しいことはないですよ。塩穴の件とあとは役所絡みのやつがいくつか。それくらいです」
ふん、と谷本はつまらなさそうに鼻を鳴らした。なんだ、と彼は短く吐き捨てた。
「新聞さんもたいしたこたねえんだな」
瞬間、柊の脳が沸騰する。もともと沸点の高いほうではないが、このときはさらに間が悪かった。北居のいらぬ気遣いや市原のお節介に動揺してさせられていたぶん、ガードが甘くなっていたのだ。わかりやすい挑発にわかりやすく反発してしまった。
「あとはまあ、犬飼の件くらいですかね」
荒れた生活に濁った谷本の目が底光りする。
「なんだ、そりゃあ?」
ハッとしたときには遅かった。出世と保身にしか興味がないくせに妙なところで嗅覚の鋭い谷本は、目を爛々とさせて部下に迫る。
「犬飼ってなああれだ、塩穴の秘書だったやつだな。国会議員の七光りで市議だか県議だかになって、つい最近死んだ」
まずいことになった、と柊は唇を噛んだ。口のなかに血の味が広がる。
「で、そいつのネタってのはなんだ? え?」
ちょうどそこでエレベータが一階へ到着する。のろのろと開く扉をなかばこじ開けるようにして、柊は慌てて箱からまろび出た。
「編集長、すみません、このあとわたし、誌面会議がありまして、あんまり時間が……」
なに、気にするなよ、と谷本はにやにやしながら云った。
「オレが日向野に話してやるさ」
「いやでも、あの……」
「もったいぶるなよ、新聞さん。おまえのネタは遅かれ早かれオレのもんだ。そうだろ?」
違う違う絶対違う、と柊は怒鳴りたくなった。ネタを掴んだのはわたしで、それを記事にするのもわたし。百歩譲って日向野班の連中にはその権利はあるかもしれないが、あんたなんかまるっきり関係ない。
しかし、谷本の云うことがすっかり間違っているというわけではない。どれだけのスクープであろうとも、編集長たる谷本のゴーサインなくしては記事が誌面に掲載されることはない。つまり、そういう意味において云えば、ウィークリーゴシップに載る記事はすべて彼のものなのである。
そんなこと、柊だって百も承知している。
だが、だからこそ犬飼のネタは伏せておくべきだった。少なくとも、いまはまだ。
デスクも市原も、柊の推論を間違いだと断じている。そのことに納得していなくとも、同じ事実を見て異なる意見があるうちは、不用意な相手に不用意なことを漏らすべきではなかった。そして、谷本はその不用意な相手として、まさにこれ以上ない人物なのだ。
エレベータを降りてすぐ、ビルのエントランス付近で、柊と谷本はしばし睨みあうこととなった。
「いつまでもこうしてても埒が明かねえだろ」
谷本はどこか宥めすかすような猫撫で声を出した。気味が悪い、と柊は思ったが、その勢いに任せてであっても場を立ち去ることはできなかった。他人の人生をすり潰してのし上がってきた谷本の威圧感は伊達ではないのだ。
「でも、まだこの件は……」
「でももだってもねえんだよ!」
怒鳴るように谷本は云い、すぐに続けて、悪いことは云わねえよ、と笑ってみせた。
「オレにだって最低限の良識くらいはあるさ。日向野が上げてこない限り、そのネタは誌面にゃ載せねえし、誰にも話さねえ。思う存分裏取りしてから、新聞さんの納得のいく記事を書けばいいさ」
彼の云うことが話半分だとしても、と柊は思った。ここで谷本にネタを明かさず立ち去ることはすでに不可能だ。飢えた鼈のごとく、食らいついて離さないつもりだろう。
苦手な相手から逃れたい一心の柊は、その時点ですでに詰んでいた。谷本の俗物たる所以はその調子のよい二枚舌にこそあるというのに、彼の甘言にうかうかと乗ってしまったのだ。
くれぐれも編集長止まりでお願いしますよ、と念を押してから、柊は犬飼の死とそれに関する推測を可能な限り簡潔に――事態を曲解されない程度に――まとめて話した。なにがなんでも喋らせる気でいたくせに、いざ話がはじまると、仕方なく聞いてやっている、という態を装う谷本に苛立ちを覚えたが、そこはぐっとこらえる。
「お話できるのはここまでです。まだなんの裏も取れてないですし、デスクにも市原さんにもいい顔はされていないので……」
「わかったわかった」
谷本は片手を振りまわすようにして柊の言葉を遮った。見方によっては、彼女を追い払おうとしているようにも見えなくもない。
「日向野はウチには珍しい慎重派だからな。まあ、それも必要は必要だ。けどな、小鳥遊」
名前を呼ばれたことで谷本の機嫌が治ったとわかったが、その理由を考えたくない柊は、ただいま絶賛思考停止中である。ほとんど条件反射で、はい、と返事をした。
「慎重も過ぎればただの鈍間だ。この業界、それはつまり使えねえってのと同じ意味だろ。違うか」
柊は頷かなかった。谷本はほんの一瞬つまらなさそうな顔をしたが、すぐに先を続けた。
「おまえ、この先も裏取り続けるんだろ」
まさか諦めるなんてことはしねえよな、と言外に云われ、柊は小さく頷いた。日向野と市原の云うことを理解はしていても納得はしていない以上、己が納まるまで追究を続けなければ、事件記者の名が廃る。
「もしなにか掴めたら、やっぱり日向野に報告すんのか?」
「はい」
それがオープンになったネタを追うときの日向野班のルールなのだ。
「相変わらず行儀のいいことだな」
フリーあがりのやくざモンのくせに、と吐き捨てるように云う谷本の口調には、日向野を莫迦にする色が滲んでいる。
週刊誌、それも醜聞を専門に扱うような雑誌の編集部では、同じ班に所属していようとも記者たちは互いにライバル同士であることが普通だ。とっておきのネタを抜かれたり刺されたりしないよう、自分がいまなにを追っているのか、そう簡単には明らかにしない。
日向野はその秘密主義を嫌っていた。
谷本が云うように、日向野大祐は、もとはフリーライターである。都内の三流私立大学を卒業したあと、彼はそのままどこへ就職することもなく記者を名乗るようになった。
折しも時代はバブル経済期の末。広告研究会という、どこの大学にもひとつは存在するマスコミかぶれサークルの縁故を頼ることができたことと、人よりは多少読める文章を書く才能に恵まれていたことで、仕事に困ることはなかった。
やがて時代がシビアになり、日向野の仕事環境も悪化した。記事を書いても売れず、写真を撮っても売れず、金銭的困窮が具体的に身に迫るようになったころ、彼はウィークリーゴシップに就職した。前任のデスクと知り合いで、自分が退職する穴を埋めてくれないか、という話に乗ったせいもあって選り好みする余地はなかった、というのが日向野の弁だ。谷本みたいなやつが上にいるってわかってたら、たとえ泥水を啜ることになったって就職なんかしなかったってのに。
ネタ屋と違い、同じフリー稼業であってもライターにはモラルのある者が少なくない。日向野もそのひとりだった。剽窃や捏造に手を出さないのはもちろんのこと、自分の書いたものが徒に誰かを傷つけることのないよう可能な限りの注意を払う。世間の厳しい目に晒されている大手版元は読者の反応に非常に敏感で、彼らと仕事をするためには、そうした自己管理が必須なのだ。
むろん、日向野とて十分に注意深く行動してきた。だが、雑誌の編集部というのは、世の中が想像するよりもずっと閉鎖的で保守的だ。その上での秘密主義はたいそう性質が悪い。誰が云い出したかわからないような噂のせいで連載を打ち切られたり、読者からの云いがかりに近いクレームに対する責任をひとりで負わされたうえに謝罪記事を書かされたり、日向野はフリー時代に幾度も煮え湯を飲まされ、悔しい思いをしてきた。
だからだろうか。
いまの彼は、秘密主義をひどく嫌い、可能な限り排除したがっている。たとえ人の澱みにわけいるがごとき醜聞専門誌と云えど、明らかな過ちや悪意を間違っても誌面に載せてしまうことのないようにという建前で、自分がまとめる班のメンバーにはネタの共有を強制していた。
本来ならばありえない話である。
大手スポーツ誌出身の市原や新聞記者だった柊といった、どこか上品さの抜けない者たちが部下であるからこそ不満を唱える者がないだけで、日向野のやり方はこの世界では本来通用しない。
「それがデスクの方針ですから」
「でも、それでネタが潰されたら?」
おまえどう思う、と谷本は意地悪く云って柊の顔を覗き込むようにした。
「どう思うもなにも……」
云い澱む柊に谷本は追い打ちをかける。
「つまらねえだろ?」
柊はふたたび強く唇を噛みしめた。つまらない。それはたしかに、――そのとおりだ。
「だからな、小鳥遊」
谷本のよくまわる舌はまるで悪魔のそれだ。人を誘惑し、溺れさせ、破滅させる。
「犬飼のネタに関してだけは、オレにも報告するんだ。なにを掴み、なにを考えたか、日向野に上げるのと同じで構わねえからよ」
云ってることはわかるよな、と谷本は念を押してくる。柊の眉間に深い皺が刻まれ、軽薄な編集長に対する不審を露わにしていた。だが、相手はそんなことを気にするような男ではない。
「オレなら、日向野とは違う判断をしてやれるかもしれねえ。わかるよな」
たとえ日向野がボツにしたとしても、編集長権限で記事を載せてやる、と谷本は云っているのだ。ここで簡単に頷いてはいけない、と柊は思った。
「そんなことしたら……」
「大丈夫だよ、小鳥遊。おまえの席がなくなったりはしない。ウチのデスクは日向野だけじゃねえんだぜ」
日向野班の居心地が悪くなったからといって、じゃあ半井班に、というのはずいぶんとむしがよすぎやしないか、と柊は苦笑いした。
「そういう話じゃ……」
「そういう話だろ」
柊は黙ったまま、素早く自己保身的な計算をする。
この先、犬飼の死の真実が明らかになったとして、日向野がそれを記事にしないと決まっているわけではない。彼が柊の推論に納得しさえすれば、編集長に話を持ち込まずともペンを執ることはできるのだ。日向野を裏切るのは気が進まない。だからそうならないよう、真実をきちんと見極めればいいだけのことだ。
「わかりました」
柊の返事に、谷本は満足そうに頷いた。ほれ、と編集長は云った。
「時間ねえんじゃねえのか。会議なんだろ」
柊は腕時計に目を落とし、急いで踵を返す。乗り込んだエレベータの扉が閉じかけたところで、思い出したように谷本が云う。
「あ、そうそう、途中報告も忘れんなよ。オレの電話シカトこいたら、てめえのクビ、ギッチリ絞めるからそのつもりでな」
追いかけてきた声に、柊が舌打ちで答えたことは云うまでもない。
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