13
双子から連絡が来たのは、それから二日後のことだった。
編集部内の自席でスケジュール調整をしていた柊は、躊躇うことなく電話に応じた。二十四時間三百六十五日、常に仕事に向き合う記者という人種には、仕事と私生活の垣根が存在しない。仕事の電話に私用が混じろうがその逆だろうが、本人も周囲もまるで気にしない。
元気、とか、電話の声も可愛いね、などと意味不明のことを勝手にしゃべったのち、松島さん、この先しばらくは、講義やら学内会議やらで大学に詰めてるらしいよ、と真璃は云った。
「そう」
大学の教員は教育者であると同時に研究者でもあるため、補講の手当てさえつけば、学会や研究会で研究室を不在にすることも多い。海外出張になど行かれてしまえば、北陸への旅が無駄足になる可能性もあった。
「ついでにさ、秋山さんの現住所が北関東だってこともわかったよ。帰りにでも寄ってこようよ」
食事もお酒もきっと美味しいよ、と真璃は柊の素気なさにもまるでめげることなく、旅行の計画を持ちかけるかのように楽しげな物云いをする。
わかった、と柊は努めて事務的に返事をした。
「新幹線と泊まるところ押さえるからちょっと待ってて。また、連絡する」
「なに云ってんの、シュウ」
真璃の声が抗議の色を帯びた。
「新幹線もホテルも、もう由璃が手配したよ。すぐにでも、って話だったから、出発は金曜の夜。うまくいけば、週末だけで戻ってこられる」
仕事があるから、という云い訳を封じる完璧な手配に、柊はぐうの音も出ない。
「新幹線は最終を取ったから、間に合う時間に会社まで迎えに行くよ。必要な荷物はまとめといてね」
待ってよ、と柊は云った。
「なんで、すっかりあんたたちと一緒に行くことになってんのよ」
なんでって、と真璃は笑いを含んだ声で答えた。
「行くよね、って、うん、って、シュウ、そう云ったでしょ」
「云ったけど、……そんなの、えっと……、せめて、現地集合でよくない?」
あのさあ、と真璃は不愉快そうに云った。
「そんなのでおれたちが納得しないことくらい、わかってるよね。シュウだってこどもじゃないんだから」
こどもじゃないから厭なのだ。
「シュウにはもう逃げ道はないの。こんなやりとり、時間の無駄だよ。こう見えておれたちも忙しいの。わかったらもう切るよ」
「いや、あの……」
「これから解剖、立て続けに三件。終わるのは夜。当分連絡つかないから、よろしく」
絶対わざとだ、と柊は歯噛みする。真璃はわざとこのタイミングで連絡を寄越したのに違いない。夜まで時間をおけば、わたしが冷静になって損得を計算し、結果、双子と北陸へ向かうことを了承すると、そこまで読んでの行動だ。
「そういうことで」
ちょっと待って、ともう一度云う間もなく電話は切られた。
柊は溜息をつく。薔子の遺体検案書を受け取ってしまった時点で、こうなることは決まっていたのかもしれないと思うと、己の軽率がつくづく悔やまれる。
双子の弁には説得力がある。
松島には会いにいかねばならない。秋山にも会っておいたほうがいい。
そのとおりだと柊も思う。
瀬尾が薔子の解剖に立ち会ったのか、立ち会ったのだとしたら、なぜそのことを隠そうとしたのか、本当のところを知るのは松島だけだ。瀬尾に訊けない以上、彼に尋ねるしかない。
あるいは束原もかかわっていたのかもしれないが、彼は松島の判断を事後承認したにすぎない。事実を知るには、やはり松島の言葉が必要だった。
だけど、とは、口にしても詮ない愚痴である。松島に会うのに、なにも双子と連れ立って行く必要はない。彼らは薔子の事件にも、柊と瀬尾の約束にも、なんのかかわりもないのだから。
たしかに、双子とともに行けば、柊がひとりで松島を訪ねるよりは、スムーズにことが運ぶかもしれない。下種の極みを行く三流週刊誌の記者に電撃訪問されるよりも、かつて所属していた教室の学生と面会するほうが、松島にとっての心理的ハードルが低くなることは間違いない。
けれど、柊だって伊達に何年も記者をやっているわけではない。口の重たい人間に喋らせることも、警戒心を抱く相手に話をさせることもできる。誰かの心を揺さぶる方法は、人よりも多く知っている。
別についてこなくていいのに、と柊は沈黙したスマートフォンを見つめながら溜息をついた。こうなるともう、厄介なことになる未来しか想像できない。
「小鳥遊」
おい、小鳥遊、と頭の上から同僚の声が降ってきた。ぼんやりと顔を上げれば、すでに何度か呼ばわった後だったのか、すこぶる不機嫌そうな市原嘉幸の渋面がある。
「ぼさっとしてんじゃねえよ」
スポーツ関係に強い市原は、柊より十ばかりも歳上で、ウィークリーゴシップでのキャリアも十年を超えるベテランである。そもそもはどこかのスポーツ雑誌の記者だったらしく、本人はいまも元の世界に戻りたがっている。けれどそれが叶わないのは、彼が古巣に復帰することを望まない声がどこかにあるからだと、柊は聞いたことがあった。
「例の犬飼のな、死んだ日の足取り、少しわかったことがある」
「なんですか、いきなり」
ゴシップ誌の記者が協力して取材にあたることは珍しい。同じ編集部、同じ班に属していたとしても、互いに互いをライバル視して、熾烈なスクープ競争を繰り広げていることが常だからだ。
それでも日向野班はデスクの方針もあって記者同士の連帯があるほうだと云えるが、この件については協力を期待するな、と日向野本人に云われたばかりである。
「デスクから聞いてないんですか?」
犬飼の取材はわたしひとりで進めることになったんです、と柊が云うと、市原は、ああ、と頷いた。
「もちろん聞いてる」
けど、と市原はやや云い澱んだ。
「そうは云ったって、これまでに掴んだことをオレひとりが握ってても仕方ないだろうが」
「あ、ええ、……はい、そうですよね。すみません、なんか」
共闘に慣れない者たちの会話はひどくぎこちない。市原はわざとらしい咳払いをしてから続けた。
「あのな、あの日、自殺した日ってことだが、犬飼は塩穴に面会を申し込んで断られていたみたいなんだ」
「断られる?」
「夜がだめなら昼でもいい、十分でも五分でもいいと食い下がったが、今日は無理だとずいぶんすげなくされたらしい」
「それで?」
「面会の申込みは電話で、議員会館にある塩穴の事務所にかかってきた。最初に受けたのは事務員で、そのあと第二秘書がやり取りした。塩穴本人は犬飼とは話をしていない」
ずいぶんと詳しい市原の話に、しかし、柊は、それを誰から訊いたのか、とは尋ねなかった。
市原には市原のコネクションがあり、柊がそれを知ることは許されない。記者の命そのものと云えるネタ元に繋がる紐を簡単に引っ張るわけにはいかないし、引っ張らせるわけにもいかない。それがこの業界の不文律である。
「犬飼はそのあとホテルに向かい、首を吊って自殺した、ってことですか?」
「時間的にみてそうなるだろうな。犬飼から電話がかかってきたのは午前十時五十分ごろ、通話時間は十分足らずで、二度はかかってこなかった」
そうだったんですか、と柊は低く唸るような声で返事をした。
死の間際にかけた電話。犬飼はかつての主人になにを伝えたかったのだろう。面会を断られ、なにを思ったのだろう。
「その電話がかかってきたとき、塩穴は?」
「国会で委員会に出席していた」
柊は訊いた自分を莫迦だと思った。
いまは臨時国会の最中である。おまけに塩穴が所属している委員会では、重要法案の審議が山場を迎えている。彼の一日の大半の時間が議事堂と議員会館の往復に費やされることは、云われなくともわかることだ。
夜は夜で政務絡みの宴席がいくつも設けられているだろうし、急な面会を受け入れる余地はない。いまの塩穴と急な約束を取り付けるには、それなりの立場か事情が必要なのだ。
犬飼にはそれがないとみなされ、――そして死んだ。
「犬飼は塩穴の元秘書だ。国会会期中の塩穴の多忙はよく理解していたはずだ。にもかかわらず、急な面会を申し込んだ。なぜだ?」
市原が眉を寄せ、険しい表情になった。精悍で男くさい容貌の彼は、たしかに昼日中に爽やかな汗を流すスポーツがよく似合う。間違っても夜の道端で下種な写真を狙う男には見えない。
実際、学生時代の市原はハンドボールだかバレーボールだかの選手で、それなりに活躍していたらしい。実業団チームからの誘いもあったが、その道へは進まなかったそうだ。
「よほどの理由があったとみるのが妥当だろ?」
問いかけに答えない柊に焦れたのか、市原が自分で答えた。彼の欠点はこの気の短さだ。
「それは、犬飼が死んだ理由でもあるってことですか?」
「さあな。ただ、電話をかけてきた犬飼の口調はいつもとあまり変わらなかったらしい。静かで、落ち着いていて、だからこそ、云っていることの無茶が際立ったそうだ」
柊は内心驚いていた。どうやら市原のコネは塩穴の秘書のごく近くにあるものらしい。あるいは秘書本人か。いずれにしても、スポーツ分野だけが得意なのかと思っていただけに、意外なことだ。
「電話を切ったあと、ホテルまで移動し、首を吊る。時間的にはたしかに合うんだ」
犬飼の死亡時刻は午後十四時から十五時のあいだごろと推定されている。彼がどこから塩穴に宛てて電話をかけたかはわからないが、面会を断られたあと外出して死に場所を探したというのならば、たしかに辻褄は合う。
「犬飼は塩穴になにを伝えようとしていたんでしょうか?」
「オレが知るわけないだろうが」
素気ない言葉とは裏腹に、市原はわずかに気の毒そうな表情を浮かべ、首を横に振った。
「犬飼に対応した秘書も、代わりに用件を聞くことはできる、と云ったそうだ。だが、断られた。あくまでも先生本人に話さなければ意味がないと、そう云っていたらしい」
「意味がない……」
なんの意味だ、と柊は思う。
伝言ではなく、直接告げたかったこと。柊には、それが犬飼の遺言ではないかと思えて仕方がなかった。おまえのせいで自分は死を選ぶのだと、自分で手を下すことも、指図することさえなく、こうして人ひとりの命を奪ってさぞいい気分だろうと。
「なあ、小鳥遊」
市原が遠慮がちに呼びかけてくる。
「オレはいったんこの件から手を引く。その上で、ひとつだけいいか」
日ごろ、あまり先輩風を吹かせることのない市原の言葉に、柊は神妙に頷いた。
「塩穴の息子のネタをSに抜かれて、おまえがイライラしてるのはわかる。でも、それを取り返そうとして犬飼の件を焦ってるんだとしたら、それは違う。わかるだろ?」
「焦ってなんか……」
「焦ってるよ」
市原は険しい表情で押しつけるような声を出した。
「いまのおまえはいつにもまして焦ってる。余裕がない。そういうときの閃きはだいたい間違いだ」
「犬飼は完全に自分の意志で死んだと、そういうことですか?」
「オレにはそうとしか思えない」
柊は睨むように市原を見つめた。市原は気を悪くする様子もない。
「ここに来てたった一年のあいだに、おまえはすっかりウチのエースになった。もともとのできが違うっちゃ、それまでだけどな」
「市原さん?」
柊には市原の云いたいことが理解できない。
「誤報も捏造もなく、よくあれだけ書けるもんだとオレもデスクもじつは感心してる」
どっちもウチの十八番だからな、と市原は笑った。
「でもなあ、ウチみたいな下種雑誌にも、絶対踏めない地雷はある」
「地雷?」
犬飼の自殺の背景には、きっといろいろな事情があるんだろう、と市原は云った。
「汚職にまつわる経緯やその罪に耐えられなかった弱い心も含めてな。書こうと思えばいくらでも書ける。けどな、小鳥遊」
市原はそこで柊をじっと見据えた。
「人の命にかかわる嘘は書けない。たとえどんな悪人の命であっても、それを踏み躙ることはできないんだ」
「わたしは、別に……」
柊の声は、ほとんど掠れんばかりに小さくなった。彼女の気の強さが、かろうじて震えだすことを堪えさせている。
「おまえは塩穴が犬飼に死ねと云ったと、それを前提に事件を組み立てようとしている。いま手元にある事実を都合よく並べ替えれば、たしかにそう見えることもあるのかもしれない。だけど、違うぞ」
「……なにが?」
「違う。犬飼は自殺だ。誰かに殺されたんじゃない。死ねと云われたわけでもない。やつは自分ひとりで死ぬことを選び、自分ひとりで死んだんだ」
もう一度確認するように、市原はさきほどと同じことを口にした。柊は、そんなの、と反論する。
「まだわからないじゃないですか」
「おまえ、この一年、塩穴を見てきたんだろう。あの先生がどんな人間か、少しは見えるようになっててもおかしくないんじゃないのか」
「だから……」
「オレも」
鋭い市原の声が柊の言葉をきっぱりと封じる。
「オレも塩穴を見てきた。半年な。あの先生はたしかに金に汚い。女にも貪欲だし、博打もやめられない。吝嗇だから趣味にできてるようなもんだ。お世辞にも高潔な人柄だとは云えないし、敵も少なくない」
それでも、塩穴雅憲は誰かに向かって死ねと云えるような人間じゃないよ、と市原は云った。
「甘いととるか人間味があるととるか。愛人を作り、こどもまで設けて、それでも妻に離婚を切り出されず、舅にも見捨てられないのは、なにも彼らが政治を生業としている一族だからじゃない。根っこのところで塩穴を認めているからだ。オレはそう思う」
柊はなにも云い返すことができなかった。小さく震える唇を開けたり閉めたりしながら、それでも言葉を見つけられずにただ市原を見上げている。
「これ」
市原がジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出した。
「塩穴の秘書に
「市原さん、なんで……」
ニュースソースは記者にとって命そのもの。なにものにも代えられない、唯一無二だ。それを、なぜ、わたしに明かす――。
机の上に滑らされる名刺を、柊は受け取ることができない。
「デスクもオレも、おまえには期待してる。こんなところに埋もれていてほしくないと思う一方で、この雑誌を、もし、ほんの少しばかり変えることができるやつがいるとしたら、それはおまえだと、そういう意味で期待してる」
柊は市原が寄越した名刺をじっと見つめる。やがて彼女は、なんでですか、と呟いた。
「なんで、ここまで……」
「デスクに云われて心配になった」
「だからなんで、わたしの心配なんか」
いままでそんな素振りぜんぜん見せなかったじゃないですか、と柊はなかば無理矢理に笑ってみせる。
柊と市原は、これまで本当にただの同僚だった。数多ある職のうち、たったひとつの場をともにしているのだ、縁がないわけではない。だが、遠くもなく近くもなく、あいだに仕事があるから同じ時間を過ごしているだけの、ただの同僚。間違ってもこんなふうに、余計な世話を焼いたり焼かれたりするような間柄ではなかったはずだ。
市原はつられたように苦く笑い、なにかを諦めたような溜息をついた。
「似てるからだよ。昔のオレに」
「市原さんに?」
スポーツ誌にいたころの、ですか、と様子を窺うような声を出せば、そうだ、と市原はすぐに肯定した。
「失敗は取り返せない。なにをどうやってもな。でも、いや、だからこそ、オレは、ほかの誰にもオレと同じ思いをしてほしくないんだよ」
学生時代をハンドボールにのめり込んで過ごした市原は、実業団からの誘いを断ってスポーツ雑誌の記者となった。堅実で冒険のできない性格ゆえか、あるいはゆとりのない家庭環境のせいか、マイナースポーツの選手として生きる覚悟がどうしても決められなかったからだ。
それでも市原は、スポーツの世界が好きだった。
就職先を選り好みする気はなかったが、運よく、本当に運よく記者となれたことを、彼はいまでも過ぎた幸運だったと思っている。
入社後、市原は野球を担当することになった。多くの人を惹きつけるメジャースポーツの世界は、マイナースポーツに親しんできた彼の目から見てもおもしろいところだった。
担当するチームの試合は欠かさず観るようにし、ルールや歴史はおろか、選手ひとりひとりの個性まで、寝る間も惜しんで頭に叩き込んだ。高校や大学の試合にも足を運び、いつのまにか担当球団からの信頼も得て、市原の記者人生は順風満帆だった。
仕事は多忙で、そのことにも気づかないほど夢中でもあった市原は、やがて同業者の女性と出会い、結婚する。不遇な時間の長かった彼は、三十路手前にして、ようやく人並みの幸福を掴むことができたのだ。
そうか、オレはこれからなんだ、と当時の市川はそんなふうに感じてさえいた。
けれど、落とし穴は思わぬところにあった。
記者人生十年まで、あとわずかとなったころのことだ。市原が懇意にしていたある選手の妻が亡くなった。市原には縁も所縁もなかったはずの、ひとりの女性の死が、彼のその後を大きく変えることとなった。
選手の妻は心を病んでいた。亡くなった理由は心の病を原因にした自殺。気の毒だとは思ったが、その報を受け取ったときの市原はなにかを深く考えることはなかった。上司から、選手の妻は単純な病死として扱う、本当のことには絶対に触れるな、と云われるまでは。
それが球団側からの公式発表だ、と上司は云った。選手本人やコーチ連中からなにを聞いていたとしても、記事にはするな。これは社の判断だからな。
どういうことだ、と市原は思った。同時に大切ななにかを穢されたような気がして、猛烈に腹が立った。なにに対してかはわからない。それが厄介だった。
わけのわからない怒りに駆られたまま、市原は、こんなことは正しくない、上は間違っている、どうにかしなければならない、と考えた。怒りの理由は考えなかった。彼にとってあまり考えたくないことだったからだ。
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