12

 いつのまに眠り込んでしまっていたのだろう。スマートフォンが知らせる着信に気づいたのは、真夜中すぎのことだった。


 頭と身体の痛みに呻きながら薄目を開けてみれば、つけっぱなしの蛍光灯がひどく眩しい。手つかずの弁当がそのままになったテーブルとその状況を作り出した自分とにうんざりしながら、柊はどこかで低く唸り続けるスマートフォンを探す。

 床に這い蹲るようにして鞄を漁り、相手も確かめないまま着信に応じた。


「あ、やっと出た。なにやってたんだよ、シュウ」


 鈍い頭痛に重みが加わった。


「安曇……」

「真璃だよ。わかる?」


 すぐ傍に由璃もいるけどね、と真璃は云った。


「なんの用?」


 双子にこの番号を教えたのがいつだったか、柊は咄嗟には思い出せなかった。だが、ふたりと知り合ってからは月日も経っているし、電話番号なぞどこからでも聞き出すことはできる。

 仕事柄、柊は、自分の知らないところで自分の情報がやりとりされることには慣れていた。会ったこともない相手が名指しで電話をかけて寄越したり、こちらが名前すら知らない相手が名刺を頼りに編集部を訪ねてくることくらい、日常茶飯事なのだ。


「なんの用、じゃないよ。昼間渡したやつ、読んだんだよね?」

「読んだ」

「で?」


 でって、と柊は軽く首を横に振った。転寝うたたねというにはいささか深い眠りだったようだ。まだ目が覚めきっていないような気がする。


「でって、って、あのさあ、ちょっとしっかりしてよ、シュウ」


 真璃が鼻から息を吐き出したのだろう、耳障りな音がした。


「どうだった。なんかわかったことあった?」

「そんなこと云われても……」


 素人のわたしにわかることなんか、と続ければ、今度は小さく舌打ちの音が聞こえた。己の不甲斐なさは十分に承知していても、これにはさすがに腹が立つ。


「あのね、それなりに読みごたえのある資料をいきなり押しつけられて、数時間でなにかわかったことはないかって云われたって、あるわけないでしょ。こっちは仕事だってあるのに」

「あのさあ、本当に犯人捜す気あんの、シュウ」

「なにそれ」

「だから!」

「シュウ」


 電話口の声の調子がいきなり変わる。由璃へ代わったのか、と柊は思った。


「そう怒るな、シュウ。いまのは真璃なりの激励だ。本気で云ってるわけじゃない。わかるだろ」


 本気だよ、おれは、と由璃の声に被せるように真璃の声が響く。騒々しさに顔を顰めていると、由璃が苦笑混じりに続けた。


「いまから出てこられるか。話がある」


 はあ? と柊は高い声を出した。手繰り寄せたタブレットで時間を確認すれば、とうに日付が変わっている。


「こんな時間になに云ってんの。だいたいどこへ……」

「いま、シュウの家のすぐ近くにいる。すぐに済む話だから」


 ちょっとまってよ、と柊は思った。いくら個人情報ダダ漏れであっても気にしない性質とはいえ、それが自宅の所在となるとちょっとばかりぞっとしない。


「変な誤解するな。最寄駅のすぐ傍にいるだけだ。家は駅からすぐだと云ってただろう」


 由璃の告げた駅名は、たしかに目と鼻の先の最寄駅のものだ。変な誤解って、そりゃその云い方じゃ誤解もするよ、と遠くで真璃の笑う声が聞こえる。いきなりこんな電話かかってきたら、おれなら通報するかもね。

 してやろうか、通報、と柊は思う。さっきの真璃の言葉には本気で苛立った。


「話なら電話で……」

「顔を合わせたほうが早い。検案書、忘れずに持って出てこいよ」

「ちょっと、安曇、少しは……」


 少しは人の話を聞けよ、こら、と云い終わる前に電話は切れた。柊は寝起きのぼんやりした頭と混乱した思考を抱え、しばし動きを止めた。

 なんなんだ、いったい。わけがわからない。


 柊は軽く首を振り、それでも双子の云うことに従うことにした。由璃の云うとおり、検案書を返すのにちょうどいい機会だと思ったからだ。

 軽く身支度を整え、財布と書類を小ぶりのトートバッグに入れて最後に施錠する。スマートフォンを片手に持ったまま、近所へ煙草でも買いに出かける態でアパートから出ると、駅までの道の途中に、深い艶を帯びた黒のセダンが停車していた。

 柊がその車に近づいていくと、静かに扉が開く。姿を見せたのは安曇真璃だった。


「乗って」


 夜中だというのに早朝の高原のごとき爽やかな笑みを見せ、真璃は云う。柊は無駄と知りつつもささやかな抵抗をみせた。


「ファミレスにでも入らない?」

「誰にも聞かれたくない話なんだ」

「もったいぶって、なに?」


 話は車に乗ってからね、と真璃は云い、柊の手首を掴んだ。


「時間も時間だし、近所の人に話し声聞かれないほうがいいんじゃない?」


 近所はおろか、アパートの隣の部屋にどんな人物が住んでいるのかさえ、ろくに知らない柊である。自分にとって明らかに危険な双子とともに密室同然の車に乗り込むより、話し声が迷惑だと怒鳴られるほうが数倍マシだ。

 だが、これからしようとしている話は、たしかに誰にでも聞かせていいような内容ではない。柊は眉間に深い皺を刻んだまま、しぶしぶ頷いて車体に身を寄せた。


「突然悪かったな」


 セダンの後部座席は思ったよりも広く取られていた。奥に座る由璃が身を乗り出すようにして差し伸べてくる手に戸惑っていると、背後に控えている真璃が柊の腰を支えるようにして、ぐいぐいと身体を押し込んでくる。


「押さないでってば!」


 なかばつんのめるようにして座席に転がり込めば、すぐさま由璃が腕を掴んで体勢を整えてくれた。


「あ、ありがと」


 礼を述べていると、背中にぶつかってくるものがある。なにかと思い振り返れば、にこにことやたらに機嫌のよさそうな顔をした真璃がいた。


「え?」


 柊は腰を浮かせた中途半端な姿勢で真璃と由璃を見比べる。


「危ないからちゃんと座って」


 幼いこどもにでも注意するような口調で真璃に云われた柊は、いや、狭いから、と首を横に振る。


「ひとりくらい前に座らないの?」

「危ないよ、シュウ」


 真璃が云うや否や、車が静かに動き出した。まさかいきなり発進するとは思っていなかった柊は見事にバランスを崩し、フロントシートの背に手をついて身体を支える羽目になる。


「ほら、云わんこっちゃない」


 真璃はなおも楽しげに云って柊の腕を掴むと、由璃と自分のあいだに、その細い身体を押し込むようにして座らせた。


「う……、え?」


 運転席を確認し、そこに見たこともない男の姿を見つけて目を瞬かせる柊に、由璃が苦笑しながら、運転手だ、と教えてくれる。柊は首を傾げ、はあ、と返事とも溜息ともつかぬ声を漏らした。こんな夜更けに外出するのに運転手つきとは、このふたりは本当にお坊ちゃまなんだわ。


「普段は自分たちで運転するよ。彼は兄さん付きの運転手。今夜は無理云って車出してもらったんだ」

「兄さん?」


 柊が首を傾げると、由璃は、ああ、と眉を上げた。


「シュウにはまだ云ってなかったな。おれたちには兄がひとりいるんだ。希璃きりといって、アヅミ製薬の常務を務めている。ゆくゆくは親父の跡を継いで、持株会社のトップに立つ予定だ」

「年齢が八歳離れてるし、向こうはもう結婚してるからね。おんなじ家に住んでてもいつもはあんまり話とかもしないんだけど。おれたちにも一応、遠慮はあるし。でも、リビングで由璃と話し込んでて、出かけたいってことになったら、車使えって。食事のときちょっと飲んじゃってたから」


 それで、こういうことに、と肩を竦める真璃と、照れたような苦いような笑いを浮かべる由璃とを見比べているうちに、柊にはなんとなく彼らの家庭事情を察することができた。

 裕福な家庭に生まれ、両親と歳の離れた兄に可愛がられ、我儘いっぱいに育ったのだろう。一人娘として両親から十分に愛されてきた自覚のある柊に云えることではないかもしれないが、好意を他人に拒まれたことのない者にありがちな傲慢さは、そうした育ちにも原因があるように思える。


「それで?」


 柊は左右に目を配りながら、あえてきつい声を出した。


「こんな時間に呼び出して、話ってなんなの?」


 わたしはこのふたりの身内ではないのだ、と柊は思う。我儘を受け止めなければならない義理はない。迷惑だ、というアピールは忘れないようにしなければ。

 ああ、と由璃は我に返ったような声を上げ、例の記録はちゃんと持ってきたか、と尋ねてきた。

 もちろん、と答えながらトートバッグから書類を出すと、反対側から真璃の手がそれを取り上げる。


「あのね、シュウ。さっき、由璃と話してて気づいたことがあるんだ」


 ここ、と節の目立つ長い指で検案書の一頁めを示す。さきほど柊もじっくりと眺めたそこには、執刀や介助、記録を務めた医師たちの名が記されている。


「これまで、彼らに話を聞いたことはある?」

「彼ら?」

「拓植薔子の解剖を実際に行った松島さんと秋山さん、ふたりのことだ」


 薔子の遺体の解剖を執刀した松島紀彦は現在、北陸地方にある国立大学で法医学教室の准教授を務めている。異動したのは、薔子の事件の直後だったと聞いている。

 介助と記録を務めたのは秋山斗貴子。彼女は松島の異動とほとんど同時に教室を辞し、法医学の世界からも引退してしまった。いまどこでどうしているか、柊の知るところではない。


「……ないけど」


 そんなこと、考えたこともなかった、と柊は正直に云った。解剖に立ち会った担当刑事には十分に話を聞いたつもりだったし、守秘義務のある医師に取材をしても時間と労力の無駄であると考えていたからだ。


「先生たちが異動したり辞めたりしたことも、少し経ってから知ったくらいだもの」


 だろうね、と由璃は頷いた。


「どうかしたの?」


 双子の表情になにか含みがあるように感じた柊は、先んじてそう尋ねた。由璃と真璃は柊の頭越しに視線を交わし、やがて由璃が口を開いた。


「事件当時のこと、少し思い出してみたんだ」

「思い出してみた?」


 そう、と由璃は頷く。


「拓植薔子が殺害された当時、真璃とおれは、臨床を終えて博士課程に進んで半年、法医学教室に入ったばかりだった。あの夜、おれたちはふたりとも束原先生のお供で学会のあった関西に行っていて、こっちにはいなかった。だから、当日の詳しいことはほとんど知らない」


 正直に云えば、と真璃が気まずそうに云い足す。


「公衆衛生教室にいた拓植のことは、瀬尾とのこともあったから顔と名前くらいは知ってたけど、ろくに話をしたこともなかったんだよね。殺されたって聞いて、事件のことは衝撃的ではあったけど、その、まあ、ね……」

「わかるだろ?」

「わかる、って?」

「おれたちはあまり親しくしていなかった」


 親しくないっていうかぶっちゃけ、あっちがおれたちのことを避けてたっていうか、と真璃がごくあけすけに云い直す。


「避けられてた理由もわかってるし、まあ、納得はできるんだけど、こっちも別に好かれたいとは思ってなかったから、関係改善は望めなかったと思う」


 柊には、薔子が双子を嫌っていた理由がなんとなくわかるような気がした。だが、ぐっと眉根を寄せて、あえて尋ねてみる。


「理由って?」


 柊の問いに、双子は苦笑する。――答えていいの、それ。


「教えて」

「おれたちは拓植に靡かなかったからねえ」

「拓植が亡くなったあと、いろんなところでずいぶんひどいことを書かれてただろう。あれが全部本当だとは云わないけど、なにもかもがすっかり捏造ってわけでもない」


 柊は顔を強張らせたまま俯いた。


「瀬尾と彼女が付き合っていることは研究室中が知ってたけど、同時に、彼女が男にだらしないこともみんなが知ってた。たぶん、瀬尾も」


 はっと顔を上げた柊に、真璃がやわらかく笑いかける。


「当然でしょ。狭い世界で、瀬尾だけが無垢でいられるはずがない」


 むしろ、瀬尾は拓植の一番近くにいたんだ、と由璃が云った。


「拓植の本当の姿を、一番よくわかっていたんじゃないかと思う」


 長い沈黙が降りた。

 柊が薔子と親しかったことを知っていてなお、双子は薔子のことを、男にだらしがなかった、と評した。あるいはそれは、本当なのかもしれない、と柊は考えた。

 双子の云うことだからといって、頭から信じるつもりはない。ただ、彼らは理由もなしに誰かの友人を貶めるようなことはしないと、そうも思える。


「でも、シュウ。そのことは、いまはあまり関係がない」


 由璃が気を取り直すように囁いたとき、車は大きな交差点を右折するところだった。傾いだ身体を受け止めた真璃が、そのまま言葉を継いだ。いまから話すことは、事件に直接関係のあることじゃない。でも、無視することはできないと思った。

 うん、と柊は頷いて、思考を切り替えるべく努力する。


「シュウに渡したのと同じこれを、おれたちも読んだ」


 云いながら由璃は、真璃に渡ったままの検案書を指先で叩いた。


「検案内容についての真偽は、もういまさら確かめようもない。遺体はもうどこにもない。埋めてあるだけならまだしも、骨と灰になっちまったんじゃ、なにをどうすることもできない」


 滑るように進む車の後部座席で、柊は身を硬くする。いまさらだとは思うが、こんな話を運転手に聞かせてもいいのだろうか。落ち着いた声音であるとはいえ、狭い車内のことだ。彼には当然すべてを聞かれているだろうに、由璃と真璃にはそれを気にする気配すらなかった。


「だからおれたちは違う方向から考えてみたんだ」

「違う方向?」

「解剖を執刀したのは、当時、教室の准教授だった松島さん。介助と記録は秋山さんってことになってる。これはあきらかにおかしい」


 おかしいって、と柊は忙しなく瞬きを繰り返した。


「おかしいことなんて……」

「おかしいんだよ。まず、ありえないことなんだ」


 今度は真璃が話を引き取り、先を続けた。


「解剖は最低でも三人以上で行うことになってる。執刀、介助、記録。それ以外に警察や、珍しいところでは検察が立ち会うこともある。もちろん学生も」


 遺体に触れるのは基本的に執刀と介助のふたりのみ、あとは基本的に見てるだけね、と真璃は云った。


「シュウはさ、解剖を見学したことないだろ?」

「……ないけど」

「だったらまあ、気づかなくても当然なんだけど。普通はさ、介助が記録を兼ねることなんかないんだよね。そんなこと、無理だから」


 執刀介助者の役割は多岐にわたる。開頭や開腹を助けたり、観察しやすいよう切開面を維持したり、執刀医が判断に迷うときには意見を述べたりもする。


「記録も、写真と書記とでふたり使うことが多い。秋山さんはそれなりにできる人だったけど、少なくともひとりで三役こなせるような、器用な感じじゃなかった」


 なあ、変だろう、変だと思わないか、と真璃が尋ねてくる。


「……うん」


 双子がなにを云いたいのか、柊にもようやくわかってきた。


「記録によれば、検案にかかった時間はごく標準的だ。もし本当に、秋山さんが介助と記録を兼ねていたのなら、もっと長い時間がかかるはずだ」

「つまり柘植薔子の解剖には、ほかにも誰かが立ち会ったってことにならないとおかしいんだよね」


 誰か、と柊は首を傾げた。左にいる真璃と右にいる由璃を交互に見つめ、それって記録に残せない誰かってこと、と尋ねた。


「残せない、残さないほうがいい誰か。そんなの、ひとりしかいないよね。わかるでしょ、シュウにも」

「え?」


 わかるはずがない、と柊は首を横に振る。


「瀬尾だよ。わからないのか」

「先輩が?」


 双子はそれぞれが視線を流すようにして柊を見下ろしてくる。


「なんでよ。なんで、先輩がいたらまずいのよ」


 訊きたいのはそんなことではなかった。なんでなの。なんで、先輩はわたしに嘘をついたの。薔子の解剖には立ち会うことができなかったと、そんな嘘を――。


「わからない。たしかに、解剖する遺体が身内だったり、それに近い相手だったりすれば、平常心ではいづらいだろうと思う。瀬尾をメンバーから外した、あるいは外そうとした松島さんは間違っていない」


 でもね、と真璃が引き取って続けた。


「瀬尾はもう学生じゃなかった。臨床に行かずに教室に残ったわけだから、あの時点でもう助手だよ。そういう意味ではプロだよね。学会で人が出払ってて手が足りない、私情を挟むなと云えば、それでよかったはず。なのに、松島さんはそうはしなかった」

「正確には、しなかったことにしたんだ」


 なにそれ、と柊は云った。


「どういうこと?」

「瀬尾はたぶん、記録のために解剖室に入った。それを秋山さんの名前で誤魔化した。そうした理由はわからない。束原教授がそれを見逃した理由も」

「見逃した?」


 あたりまえだろう、と由璃は云う。


「教授は部下の性格や性質をよく見ている。松島さんを信頼してはいただろうけど、嘘をつかれたことに気づかないほど盲信していたわけでもない」


 つまり、こういうこと、と柊は混乱しかけた思考をまとめようとした。


「先輩は薔子の解剖に立ち会った。けど、松島先生と束原先生がそのことを隠した……」

「そういうことだ」


 由璃が頷く。


「その理由はわからないの?」

「わからないね」


 真璃も頷いた。


「亡くなった女性を、その恋人に解剖させたことを、教室として隠しておきたかったのか、それともほかに理由があるのか。そんなこと、いくら考えたってわかるはずがない」


 だから、松島さんに会いに行かないか、と由璃は云った。


「松島先生に?」


 いままで考えたこともなかった、と柊は思う。死因を究明した側の事情など、事件にはなんの関係もないと思っていた。


「関係あるかどうかはわからないよ」


 真璃は云いながら、背中を伸ばすようにシートに凭れかかった。


「いまとなっちゃ、それくらいしかできることがないってこと。少なくともおれたちにはね」

「シュウも行くだろう?」


 うん、と柊はやや躊躇いがちに頷いた。もちろんだ、と張り切った返事ができなかったのは、胸のなかにもやもやと蟠るものの正体を見極めかねていたからだ。


 もしも、と柊は考えた。

 もしも、先輩が薔子の解剖に立ち会っていたとしたら。

 もしも、そのことを故意にわたしに隠していたのだとしたら。


 そこには、いったいどんな理由があるんだろうか。


 厭な予感しかしないではないか。まだ言葉にはできない、したくない――、けれど。

 でも、でも、だけど、と柊は必死になって疑念を否定する。

 たとえ、瀬尾が薔子の解剖に立ち会っていたとして、だ。だからといって、彼になにができるわけでもない。執刀したのは上司である松島、同席したのは教室の先輩である秋山である。一番の下っ端、遺体に手を触れることすら許されていなかった瀬尾は、その場に居合わせることしかできなかったのだ。云い換えればそれは、彼の潔白を証だてることにさえなるではないか。


 そうだ、そうだった、と柊は思う。瀬尾は目の前で行われる解剖を見守ることしかできなかった。それはつまり、後日解剖記録を読むしかできなかったこととなんら変わりはない。

 解剖室に入ろうと入るまいと、瀬尾にできることはなにもなかったのだ。――悲しむべきことに。


「行くよね、シュウ」

「もちろん」


 柊は今度こそはっきりと返事をした。


「そうとなれば、早い方がいいな。おれたちのほうで松島さんの予定を把握するから、少し待っててくれ」

「また、連絡するよ」


 話は終わり、とばかりに双子が笑顔で締めくくったところで、車は静かにもといた場所へと停止した。

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