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 犬飼の死の真相を探るにあたってデスクと市原の手を借りられないことを、柊はさほどの痛手だとは考えていなかった。事件に対する見解も取材方法も噛み合わない同僚など、むしろ仕事の邪魔にしかならない。きっとデスクもそう思って、あえて突き放すような云い方をしたんだろう、と彼女は納得していた。

 それに、これで日向野班のメンバーがこの件から完全に手を引くということにはならない。取材が進み、記事にするとなれば、日向野のチェックが必ず入るし、校正刷りには市原も北居も目を通すだろう。

 さらに、もしも犬飼の死の真相が柊の考えるとおりであり、記事にゴーサインが出たとしても、それを誌面に掲載するかどうかについては、最終的には編集長である谷本智弘の判断が必要になってくる。


 ぐずぐずしちゃいられない、と柊は自席に戻るなりすぐさまタブレットを開き、さきほど帝都大学法医学教室で仕入れてきたばかりである、犬飼の死に関する情報の整理にとりかかろうとした。


「大丈夫なんですか、小鳥遊さん」

「なにが?」


 上目遣いに様子を窺ってくる北居を、視線を向けることすらしないままにぴしゃりと撥ねつける。


「さっきのあれって、ひとりで動けってことですよね。その、デスクも市原さんも協力しないって」

「そうだね」

「大丈夫なんですか?」

「だから、なにが?」


 苛立ちを隠すことなく眼差しに乗せてぶつければ、え、なにがって、と北居は眉をひそめた。


「だって、小鳥遊さん、これから犬飼の周辺を探るってことですよね。それってつまり、塩穴の周辺を探るってことでもありますよね?」

「そうなるね」

「息子の写真を撮らせて、いまの先生に怖いものはなくなったってことですよね。次からは容赦なく自分を追う記者たちを駆逐できる。訴訟を起こすことはもちろん、警察やボディガードを動かすこともできるし、接近禁止命令を出させることだってできるかもしれない。隠したいことがあったからいままでは黙って逃げ回っていたけど、これからは違うじゃないですか」


 柊は少しばかり驚いて北居を見つめた。仕事のできないあんぽんたんだとばかり思っていたけれど、一応ものを考える頭はついているらしい。


「わかってるわよ、そんなこと。正面から近づくわけないじゃない。こっちは国会議員の先生さまに人殺しの疑いをかけようとしてんのよ」


 柊の剣幕に、北居は主人に冷たくされてしょぼくれた犬のような顔で、そうですよね、すみません、と云った。


「余計なこと云ってすみませんでした」


 いや、と柊は唇のなかでもごもごと返す。


「一応、気をつけるようにする。ありがと」


 視線はタブレットに釘付けのまま低い声で呟いただけの感謝の言葉は、それでも十分に北居を驚かせたようだった。


「なんかあったら云ってください。ぼく、手伝いますから」


 意気込む後輩に、うん、とだけ答えて、柊はそれ以上相手をしようとしなかった。照れ臭かったし、鬱陶しかったからだ。そして同時に少しばかり、悔しく思ってもいた。


 ――わたしはどうも、肝心なところでガードが甘いらしい。


 タブレット画面に犬飼の死因についてまとめたメモを呼び出し、パソコン上で取材用のテキストを起こしていく。さほど頭を使うこともない慣れた作業の傍ら、思考の隙間に浮かび上がってくるのは、自戒とも反省ともつかぬそんな思いだった。

 昼間の安曇の双子とのやりとりもそうだし、いまの北居との会話もそうだ。

 誰にも隙を見せたくないと思っているのに、肝心なところで踏み込まれる。きつい言葉も頑なな態度も、こういうときに限って通用しない。


 もともと人と適切な距離をとることが不得手な柊である。いい歳になっても人見知りが治らないし、誰かに心を開くことも苦手だ。仕事だと思えば、初対面の相手に図々しく踏み込んでいくこともできるが、そうでない場面では簡単な挨拶すら苦痛に感じることがある。

 親しい友人はごく少なく、恋人などいない時間のほうがずっと長い。人間関係は仕事に偏重しており、私生活はいっそ侘しいほどだ。多忙で派手にみられがちな職業のせいもあって、働きはじめてからは新しい友人を作るのも困難なありさまだった。例外は帝都大学法医学教室にいる、安曇の双子くらいである。


 柊自身、それで満足しているわけではなかったが、だからと云って自分を変えようとは思っていなかった。人付き合いが苦手なのは、こどものころからの性分のようなものだ。そう簡単に変えられるはずがない。


 それでも学生のころには努力もしていた。このままでは恋人のひとりもできないままだと、人並みに焦りもあったからだ。――いつまでも薔子にひっついていられるわけもないしね。

 そうした意に反して、恋人やら親友やらがそう簡単にできるわけもなかったけれど、あのころの自分は、いまよりはもうちょっと、なんというか、まともな人間だったような気がする。誰かのぬくもりを求め、誰かにぬくもりを与えたいと願う、そういうあたりまえの人間だったような。


 無愛想なくせに寂しがりや。そんな不器用な柊の傍にいてくれた薔子を失ってから、彼女はどんどん頑なになっていった。

 誰の助けもいらない。誰も助けない。

 誰にも頼らない。誰にも頼らせない。

 ――誰も、好きにならない。


 学生時代に好きだった瀬尾のことを、柊はいまも好きだ。否、好きだと思い込もうとしている。彼が薔子の恋人になったあとも好きで、ほかの人と付き合ってみたけどそれでもやっぱり好きで、ずっと諦められなかった、と。


 だけど本当は、その想いもとうに風化しているのだということは、本人もとっくに自覚していた。


 柊が、そこらにいるほかの人間の誰よりも、瀬尾のことを案じているのはたしかだ。好きになったことのあるたったひとりの男だし、友人の大切な恋人だったし、いまはともに薔子の死の真相を追う同士でもある。

 だけど、これはもう恋ではない。友情でもない。そういうやわらかな感情は、わたしのなかからはもうすっかり失われてしまったのだ。

 薔子が持っていってしまったから。

 わたしの恋は、いいえ、心は薔子が持っていってしまった。薔子がいなくなり、先輩への想いを失くしてしまっただけではなく、ほかの誰にも心を許せなくなってしまった。


 柊は頑なな自分をちゃんと知っている。誰かに助けを求める方法も、誰かに頼るすべも知らない、惨めな自分をちゃんと知っている。そして、誰かに手を差し伸べることも、誰かを寄りかからせてやることもできない、貧しい自分をも、また。

 このままでいいわけがない、と迷っていたのは、帝都通信社を辞めるまでのことだ。

 なにがなんでも薔子を殺した犯人を突き止めてやろうと心に決めてからは、そのほうがいいとまで思うようになっていた。

 多忙な仕事の傍ら、瀬尾とたったふたりで迷宮入りしかけている事件の謎を追うのだ。誰かに甘えている場合ではないし、甘えられている場合でもない。


 ウィークリーゴシップの編集部に移ってきてからの柊は、だから人の力をあてにはしなかった。塩穴のスキャンダルをひとりで追っていたのもそのせいだ。もちろん、記事にするためには日向野をはじめとする班のメンバーの協力が不可欠だが、ぎりぎりのところまでは誰の力も借りなかった。


 薔子の事件の調査についてはなおさらだった。事件の真相をいまだに追い続けていることは、今日、真璃と由璃に暴かれるまでは、瀬尾とふたりだけの秘密だったのだ。

 気を引き締めないと、と柊は思った。あの双子どころか、北居にまでこんなことを云わせるなんて、脇が甘いにもほどがある。



 その日、柊は二十一時を過ぎたところで早々に帰宅した。


 せっかくの校了明け、いつまでも会社にとどまっている理由はなかったし、人の目を気にしない場所で、双子から受け取った検案書にじっくりと目を通したかった。

 逸る心とは裏腹に、足取りは軽いものではなかった。おそろしくて目を逸らし続けきたものが、いま自分の手のなかにある。そう思うと、いつも持ち歩いている鞄がいつもの倍にも重たく感じられる。


 わたしはちゃんとすべてを読むことができるだろうか、と柊は思う。

 記者として必要な範囲でならば、これまでにも遺体の詳細なデータと向き合ったことはある。新聞にも雑誌にもとうてい掲載できないような、生々しい写真を目にしたこともある。

 はじめのうちこそ、気分が悪くなるようなこともあったけれど、そのうち慣れた。犯罪者が己の手柄を誇るかのようにして記録した静止画や動画を目にすることがあっても、もうなんとも思わない。加害者の心根に寒気を覚えることはあっても、気の毒な被害者たちの姿に胸を痛めることはない。

 これもまた、ある種の無関心だ、と柊は知っている。自分の心を守るための本能とはいえ、わたしは人の痛みに鈍感であることを選択したのだ。


 だけど、いまから読む記録は違う。

 ここには、薔子の最期が記してある。この国で最高レベルの法医学教室が、なにを語ることもなくなった遺体から拾い上げた、最期の声がここにある。

 痛みに鈍感でいられるはずがない。

 薔子が死んだと聞かされたときの、否、それ以上の痛みをきっと知ることになる。

 だからこそ、知りたい。知らなくてはならない。――けれど、知りたくない。


 最寄駅から自宅アパートまでの短い道のりの途中で、コンビニに寄って弁当とビールを買った。

 柊はいっさい料理をしない。洗濯と掃除はやってくれる手がないので仕方なくやるが、外で調達できる食事には手間をかけない。

 さぞピッキングも容易かろうというちゃちな鍵を開け、狭い室内へと足を踏み入れる。勤務先までわずか数駅ずつの乗換えで行き着くことが可能な、ほぼ都心にあると云ってもいい最寄駅から徒歩数分。たいそう便利な場所にありながら、家賃がそこそこに抑えられているのは、やはりこの安普請と住環境の悪さが原因に違いない。

 本来であれば、女性がひとり暮らしをするような場所ではないのかもしれないが、食べること同様、柊は自身の安全にもあまり関心がなかった。

 変質者に目をつけられるような可憐な容姿をしているでもなし、小柄で痩せ気味ではあっても、いかにも儚げな雰囲気を持っているでもない。だいたい狙われてしまえば、住む場所についてどれほど用心したところであまり意味はない。仕事上の経験からそのことを知っている柊は、だから、せいぜい一般的な防犯意識程度の危機感しか抱いていなかった。

 どこにいるのか、否、いるかいないかすら定かでない変態よりも、仕事場からタクシーで帰宅しても財布に対する痛手が少ないことや、朝はできる限り長く寝ていられることのほうが大切だ。いまのところ危ない目には遭っていないし、この住まいを彼女は気に入っている。


 狭いうえに仕事の資料で溢れた部屋は、お世辞にも片付いているとは云えない。校了明け、スーツも着替えずに倒れ込んだ昨夜とは違い、弁当の蓋を開ける前にシャワーを浴びた柊は、部屋の乱雑さにわずかに顔を顰めた。


 全部片づいたら、全部片づけよう、といつもと同じことを考え、ふと、この場合の全部とはなんだろう、と思った。

 犬飼の事件か。塩穴のスキャンダルか。

 それとも、薔子の死の真相か。


 そこまで思ってぞっとした。


 わたしは、薔子のことを片づけてしまいたいと、そう思っているのだろうか。

 いきなり空腹を感じなくなった。あたためたばかりの弁当に対する興味が急速に薄れていく。苦いばかりのビールとともに己の薄情を飲み下してしまおうとしたが、うまくいかなかった。

 弁当と並べて目の前に広げた検案書の文字が、ひどく歪んで見えた。


 片づけてしまいたいなんて、これまでの人生でたったひとりとさえ云える大事な友だちの死を、片づけてしまいたいなんて。

 ――そんな莫迦な。


 だけど、言葉に出して自覚したことがなかっただけで、わたしのしてきたことはそういうことだ。


 薔子を殺めた者を暴き、法の下に裁いてもらう。

 それはつまり、事件を解決し、過去のものとし、わたし自身は先へと進むということだ。薔子のいない、未来を歩むということだ。


 まだ箸をつけていない弁当に蓋をかぶせ、柊は膝を抱える。缶ビールを持ち、なかば機械的に喉に流し込みながら、テーブルの上の検案書をぼんやりと眺めた。


 双子は云った。――シュウの役に立つものをあげる。


 彼らはここに書かれていることを熟知しているはずだ、と柊は思う。そのうえで、わたしの役に立つ、と云った。ということはつまり、ここにはわたしがこれまでに知ることのなかった事実が記されている可能性が高い。

 これまでに知ることのなかった事実。それはすなわち、先輩がわたしに知らせなかった事実、と同じ意味を持っている。


 知らせる必要がなかった事実。

 知らせていないことを忘れていた事実。

 あるいは、――知らせたくなかった真実。


 柊はふたたび寒気を覚えた。

 知らせたくなかった。そんなことがあるだろうか。


 薔子の死の真相を探ろう、と先に持ちかけてきたのはほかならぬ瀬尾だ。なかなか進まぬ捜査に焦燥を覚え、踏みつけにされていく恋人の姿に悲嘆し、彼が警察や世間を信用できなくなったのは無理からぬことと柊も思う。


 瀬尾は追い詰められていた。

 自分を裏切っていたかもしれない恋人、それでも、彼は薔子を愛していた。誰かに殺されただけでも哀れだというのに、世間から云われなき中傷を浴びたことでさらに深く傷つけられ、しかし、犯人が捕まらない現状ではその名誉を回復することもままならない。事件の真相を知るのは、犯人ただひとりであるからだ。


 先輩は薔子を殺した犯人を心底憎んでいるはずだ、と柊は思う。

 だからこそ、わたしたちの約束は真摯なものだった。

 わたしと先輩のあいだに嘘はない。嘘は、真実へと辿り着くのに邪魔になることはあっても助けになることはないと、ふたりともよく知っている。


 考えすぎだ、と柊はビールの最後のひと口を飲み干した。

 先輩は薔子の死の状況を、余すところなくわたしに伝えてくれている。双子はそのことを知らない。

 そうだ、なにを怯えることがある。ここに書かれていることは、すべてとうに承知していることかもしれないのだ。


 柊はビールの缶を軽く潰し、テーブルの上に乗せた。戻す手で検案書を掴み、表紙をめくる。吐き出したビール臭い息がかすかに震えていたことには気づかないふりをした。


 表紙のすぐ次の頁には、柊が一度だけ目にしたことのある検案概要が綴られている。警察で事件を担当していた荻野おぎのという刑事に頼み込み、見せてもらったものと同じだった。遺族でもない柊にそれを見せるだけでもまずいのだと、コピーはおろか、メモさえとらせてもらえなかったことを思い出す。


 書かれていることにざっと目を通す。氏名、年齢、性別。死因、死亡時刻、死亡場所。執刀医、介助者、記録者、立会人。とうに承知していることばかりだ。

 頁をめくると、そこから先は写真とともに詳細な記録が続く。

 外景所見は、頭部、顔面から胸腹部、背部、陰部にいたるまで、内景所見は、脳、胸腔臓器、腹腔臓器について詳細に記されている。

 ごく淡々と事務的に並ぶ文字はもちろんのこと、夥しい枚数の写真を見ても、顔が写っていないものがほとんどであるせいか、薔子についての記録だとはとても思えない。

 検案書には客観的事実のほかに、執刀医による詳細な説明も添えられている。それを読めば、鑑定主文にある――そして、公表されている――死因、つまり絞死は間違いないように思える。


 最後まで読み終えて、柊は深い溜息をついた。

 たしかに知らなかったことがたくさん書かれていた。けれど、事件の真相に繋がるような新たな事実が判明したかといえば、それはよくわからない。

 双子はこの検案書をわたしに見せることで、いったいなにを知らせたかったのだろう、と柊は思った。

 検案書の内容そのものであったとは考えにくい。

 では、検案書を渡したこと、それ自体によってなにかを教えたかったのだろうか。


 教室で行われた解剖の記録は、遺族と警察に伝えられたあとも、研究のため蓄積されることになっている。データとしてだけではなく紙ベースでも保管されていて、どちらも閲覧するには教室の責任者である束原教授か仁科准教授の許可が必要だ。

 とはいえ日常的に形式的な許可が求められているかといえば話は別で、大学院生以上の教室メンバーには、暗黙のうちに閲覧が許されている。むろん、滅多なことでは外部への持ち出しは許されていない。


 柊の手元にあるコピーをよく見ると、プリントアウトする際に自動的に付されるナンバーが振られていた。データにアクセスし、プリントアウトした記録は教室のサーバに残されていて、いざなにかが起きたときには、その記録があらためられる仕組みになっているのだろう。

 いま手元にあるこの記録の場合、由璃か真璃のいずれかの名前が紐付けされていて、万が一にも外部に漏れたことが明らかになれば、データ漏洩の犯人としてすぐに突き止められてしまう。

 それだけ信用しているんだよ、と彼らはそう云いたかったのか。あるいは、自分たちの想いがそれほどのものだと、アピールしたかったのか。


 だとすれば、それはとても気の毒なことだ、と柊は思う。

 由璃と真璃の気持ちを軽んじているつもりはない。けれど、素直に受け入れることはできない。

 ふたり同時にだとか、わたしのことをろくに知りもしないくせにだとか、彼らの戯言を撥ねつける要素ははっきりしすぎるほどはっきりしているが、別にそれだけが理由ではない。


 わたしはもう、誰のことも好きになれないような気がする。


 それが、本当の理由だ。

 もともと人と親密な関係を築くのが苦手なうえ、親しい友人を殺されて、いまの柊は誰も信じることができない。恋い慕っていたはずの瀬尾への想いもいつのまにか消え失せて、しかし、では次の誰かを、とはどうしても思えないのだった。

 そんな自分を惨めだと思うし、貧しいとも思うし、情けないとも思う。

 けれど、どうにかしたいとは思わないし、どうにかできるとも思えなかった。

 薔子の死の真相を知ることができたら、この頑なな気持ちもいつかは解れるのかもしれないが、いまの彼女は、少なくとも自覚的には、誰かに心を預けようとは思っていない。

 たとえ、どんなに求められても無理だ。

 おれたちを同時に受け入れて、という双子の言葉が本気であるとしても、否、本気であればなおさら、彼らの気持ちに応えることはできない。

 由璃と真璃にしても、ふたりでひとりの女に迫るという自分たちの異常性ははっきりと認識しているはずで、それを口にすることには非常な勇気を伴うはずで、だからこそ――、曖昧な気持ちで一緒にいてはいけない。

 流されただとか、絆されただとか、そんな理由で彼らの手を取るべきではない。いつか絶対に苦しくなって、逃げ出したくなるに決まっている。ひとりとさえまともに付き合うことができなかったというのに、ふたりを同時に相手にするなんて荷が重すぎる。

 たとえ薔子の事件がすべて解決し、心を縛るものがなにもなくなったとしても、そこだけは変わらないような気がした。


 これはあのふたりに返したほうがいいんだろうな、と柊は検案書の頁を繰りながらそんなことを考えた。ほかの誰にも見せることもできないし、かといってわたしが持っていたところで、双子の身を危険に晒すだけ。百害あって一利なしというのは、まさにこのことだ。

 柊は書類を腹の上に乗せたまま、ベッドに背中を預け、目蓋を閉じた。

 一度も目にしたことのなかった検案書を渡されて、もしかしたら事件解決の糸口が見つかるかもしれない、と期待が大きかっただけに少々がっかりはしたけれど、よく考えてみれば、専門家でもないわたしが解剖記録から新たな事実を掴みとるなんて、土台不可能な話だったのだ。

 なんだか莫迦みたい。自分に期待しすぎだ、わたし。こんなんじゃ、いつまでたっても事件の真相を掴むどころか、犯人を知ることもできない。

 薔子の冥福を祈ることさえ、――許されない。

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