09

 まるで雲を踏んで歩いているみたいに、足元が覚束なかった。鞄のなかにしまい込んである書類のことを考えると、ぐらぐらと頭の芯が揺れた。

 まさかこんなものを手にすることになるとは思わなかった、と柊は地下鉄の改札を通り抜けながら、奥歯をきつく噛みしめた。


 ラブホテルで発見された薔子の遺体は、自身の所属する帝都大学医学部の法医学教室で解剖された。執刀にあたったのは、教室の准教授だった松島まつしま紀彦のりひこ――現在の彼は、他大学の法医学教室で准教授を務めている――である。教授である束原つかはらが学会で出張中だったため、留守を預かっていた松島が執刀医となったのだ。助手に就いたのは、講師を務めていた秋山あきやま斗貴子ときこという女性で、彼女はすでに法医学の世界から引退している。


 事件当時、すでに教室助手の立場にあった瀬尾は、このときばかりは解剖に立ち会うことを許されなかった、と柊は聞いている。

 所属教室が異なるとはいえ同じ大学に通う身、瀬尾と薔子の関係は教室中が承知していた。被害者に特別な感情を抱く者に、冷静な解剖など行えるはずがない、と松島が判断したということらしい。


 また、松島ら以外には、警察から担当刑事がひとり立ち会ったとされている。遺体発見が深夜であったことや、現場に遺留品が多く、その確認にも時間がかかったことなどから、本来であれば複数名の立ち合いがあるはずのところ、本件ではひとりの名前しか記録されていなかったようである。


 そうした事実を柊が知ったのは、すべてが終わったあとのことだった。

 支局から本社へと呼び戻され、ペンを握ることもできないまま、とにかく事実確認に走りまわるうちに、いつのまにか把握していたことだ。誰から聞かされたか、なにを読んだかなど、定かではない。

 気づけば薔子は解剖され、ふたたび縫い合わされ、棺に納められ、灰になるまで焼かれ、冷たい石の下に埋められてしまっていた。最期の顔を見ることすら叶わなかった。

 瀬尾と話をすることもなかった。あのころ、柊がそうであったように、瀬尾もまた薔子の死を受け止めきれておらず、とても落ち着いて話などできる状態ではなかったのだ。


 だから柊は、実のところ、薔子の最期の様子について詳しく知っているわけではなかった。首を絞めて殺害されたのだと、そう読んだり聞いたりして、知った気になっていただけだ。


 あれから一年以上も経って、こんなふうに薔子の死の詳細に触れることになるとは思いもしなかった。肩にかけた鞄のストラップを強く握り、柊はまたもや奥歯を噛みしめた。


 知りたかったことだ。

 そして、心のどこかで、知りたくないと思っていたことだ。

 だから、読みたい。だから、読むのが怖い。

 けれど、どちらにしても、――読まなくてはならない。

 これは本当なら、もっと早く確かめなくてはならなかったことだ。


 方法はいくらでもあった。

 警察に取材することも、瀬尾に尋ねることもできたはずだ。記録を見せろとまでは云わずとも、たとえば、もっと詳しいことが知りたいと、そう伝えれば、誰かしら協力してくれる者はいただろう。瀬尾でなくとも。


 けれど、柊はそうしなかった。真実を知りたいと願いながら、肝心のところには手を突っ込もうとしなかった。


 それではだめなのだと、薔子が叱ってくれているのだろうか、と柊は思った。いつのまにか俯けてしまっていた顔を上げる。ホームに滑り込んでくる地下鉄とともに吹きつけてくる風が、眉を隠すほどに下ろしてある前髪を強く煽った。

 わたしが自分で決めたことだ、なにを怯えることがある。薔子を殺したのは誰なのか、薔子はなぜ殺されなくてはならなかったのか、その真実を探し出すと、そう、決めたのは自分じゃないか。



 編集部に戻ると、日向野も市原も不在にしていた。所在なさそうな背中を晒す北居だけが、自分のデスクでパソコンのモニタに向かっている。進行と誌面割付管理も任されている彼なので、大方編集班から上がってきたゲラのチェックでもしているのだろう。


 柊はどくどくとうるさい音を立てる心臓を宥めながら、なにくわぬ顔をして北居の隣にある自席に戻る。空になっているマグカップを手にして給湯室へ向かい、誰かが淹れたまますっかり煮詰まっているコーヒーを注ぐと、その場で二口、三口と啜り込んだ。

 緊張に強張る指先が、かすかに震えている。


 これまで、柊は薔子の、否、ほかの誰のものであっても、解剖記録など見たことはなかった。医学部や法学部の学生ならば、あるいはそうした機会もあるのかもしれないが、あいにく、柊は経済学部の出身である。就職してからも、そこに書かれてあることと同じことを知る機会はあっても、記録そのものを目にすることはなかった。

 これは明らかな不法行為だ。研究や分析のため、個人情報を伏せた記録を扱うのとはわけが違う。個人の死に関する記録を、それも、情報を管理する責任者の許可を得ることなく、持ち出したのだ。誰かに見咎められればただでは済まない。柊も、もちろん、安曇の双子も。


 あれの内容を確かめるのは、家に戻ってからにしよう、と柊は考えた。検案書を社内の誰かに見られたらことだ。

 切り換えなくては、と柊は眉根に深い皺を寄せる。思考をいますぐ仕事に切り換えなくては――。

 ぐっ、と強く奥歯を噛みしめたところで、実に絶妙なタイミングで名を呼ぶ声に気づいた。


「小鳥遊さん」


 柊を探しながら廊下を歩いているのだろう、だんだん近づいてくる声の主は、さきほどまで自席でモニタを睨んでいたはずの北居大和だった。


「北居くん」


 ここよ、の意を込めて名を呼んでやれば、北居は、餌をもらう前の中型犬のごとき勢いですっ飛んでやってきた。小型犬ほど可愛らしくはなく、さりとて大型犬ほど逞しくなく、たいして珍しくもない雑種の子犬といった印象がこれほど似合う男を、柊はほかに知らない。


「どうしたの?」

「デスクが帰ってきました」


 だからなんだというのだ、などと云い返してはいけない。日向野が帰社して柊を探しているから呼びにきた、という隠された意図を読み取ってやるのは、先輩としての親切というものだろう。

 わかった、と柊は短い返事をした。

 うす、と北居は顎を前に突き出すような仕種で応じた。会釈のつもりらしい。

 返事ぐらいまともにできるようになりなさいよ、と柊は思ったが、口には出さなかった。マグカップの縁ぎりぎりまで注いでしまったコーヒーをこぼさないように自席まで運ぶことに集中しているふりをしながら、頼りない後輩の横顔をちらりと眺める。


 柊に北居を育てる気はない。もう少し使い物になればいいと思ってはいても、使い物になるようにしてやる義理はないと思っている。それでも、まだ若いというだけの理由で日向野や市原や自分に日々こき使われている彼を、少しばかり哀れに感じる気持ちはなくもない。


 日向野班にやってくる前、北居はグラビア班でアシスタントを務めていた。

 芸能事務所やプロダクション、落ち目のアイドルやAV女優の機嫌を取ることだけに腐心する上司に朝から晩まで怒鳴られまくり、ただのエロ写真にお芸術を持ち込みたがる勘違いカメラマンには気まぐれに蹴飛ばされたり殴られたりし、読者からは、もっと見せろよヌケねえよだの、水着じゃなくてメイド服のほうがエロいだの、わけがわからないというか頭がおかしいとしか思えないような文句を浴びせられ続け、それでも激務に耐えて、ようやく掴んだ記者のポストなのだ。

 北居自身はずっと記者希望だったというし、念願叶っての異動だったのだろう。日向野班に編入してきたときの歓迎会の席で、彼は、自分はグラビアでもう一生分のおっぱいを見た気がする、おっぱいはもう見たくない、と云っていた。まだ三十路になるやならずやという年頃の男にそう云わせる現実を思うと、寒気に襲われる柊である。


 だが、北居は記者に向いているとは云い難かった。堪え性がなく、飽きっぽい。押しが強いわけでもなく、かといって切替えが早いわけでもない。勘がいいとも云えないし、見込みのないネタを追い続け、最終的にはカスばかり掴む見本のような男だ。

 人が好くとも仕事の役には立たない、いったいどうしてこんなのを連れてきたのよ、と柊は思うが、ここは帝都通信社ではない。それなりに学歴のある若い男が働いてくれるというだけで、ありがたく思わなければならないのかもしれなかった。


「小鳥遊」


 自席に戻るなり、マグカップを置く間さえ与えられずに、日向野に呼ばれた。なかば予想していたことだったので、二口ほどコーヒーを啜ってから歩み寄る。


「なにか掴めましたか?」


 それは俺の台詞だろうが、と云いたそうな日向野に、柊は、犬飼は自殺で間違いないそうですよ、と先手を打った。


「間違いないのか?」


 はい、と柊は頷いた。


「ホテルの部屋で死んでいた理由はわからないし、遺書もまだ見つかっていませんが、死体の状況だけを見れば、自殺を疑う理由はどこにもないそうです」


 そうか、と日向野はしばし思案する表情を見せた。


「俺も市議会のほうから少し探ってみたが、ここのところの犬飼は委員会でも本会議でもどこかぼんやりと集中を欠いていたそうだ。なにか心配ごとでもあるのかと、同じ党の議員から心配される場面もあったりしたらしい」


 かつて塩穴雅憲の公設秘書を務めていた犬飼要平が、都下某市の市議会議員に初当選したのは五年前のことである。一度の改選を経て、いまは二期目の任期中だった。

 犬飼は塩穴と同じ党に所属し、市議会における党幹部も務めている。秘書の職を離れたとはいえ、塩穴とのパイプはいまもなおしっかりと繋がっており、犬飼の背後に塩穴を見る者は少なくない。


「議会に提出されている活動記録や収支報告を見る限りでは、犬飼に瑕疵はなさそうに思える。金の流れもじつに清廉、むしろ、資金集めには苦労していた節さえ見える。政治家にはあまり向いていなかったのかもしれないな」

「悪い噂は?」


 まあな、と日向野は言葉に躊躇いを含ませる。


「市議会議員とはいえ犬飼も政治家だ。悪評のひとつやふたつなくはないが、どれも死ぬほどのこととは思えない」

「たとえば、どんな?」

「まずは塩穴の走狗だという、云ってしまえば悪口のようなものか」


 それはまあそうでしょうね、と柊は苦笑いをした。


「出身が出身なわけですから、繋がりがないほうがおかしい。むしろ、彼はそれをこそ期待されていたとみるべきではないんですか」

「にしても、度を超えていたということらしいぞ。なにかというと先生、先生と塩穴の力を匂わせてな。際どいことをやろうとするときには、まるでそれが塩穴の意志であるかのような物云いをして、まるで脅迫の道具に使っていたようだという声もある」

「脅迫?」


 それはまた物騒ですね、と柊は肩を竦めた。


「塩穴がよくそんなこと許していましたね。あの先生、ただで威を貸すようにはとても見えない」

「塩穴にしても都合のいい面があったんだろう。吹けば飛ぶような小物かもしれないが、使いでがないわけではないだろうから」

「それから?」

「遊びを知らない堅物で扱いづらいほどだったとか、弱者に対する政策にまったく興味がなく冷たい面があったとかな」


 ある意味で不器用な男だったのだろう。浅く広い支持を集めるために必要な仮面すらかぶれなかったのかもしれない。


「どれもこれも使えない話ばかりだったが、ひとつだけ収穫があった」


 日向野はにやりと笑った。前振りはいらないから要点だけさっさと話せ、と柊は思ったが、黙っていた。上司のペースにつきあうのも給料のうちだ。


「ゴミ焼却場の建設をめぐる汚職疑惑」

「汚職……」


 煙草の箱の蓋を開けたり閉めたりしながら、日向野は、ああ、と頷いた。


「犬飼が議員を務めていた市は、ゴミ焼却施設の老朽化が進み、数年のうちに建て替えを計画していた。周辺住民にはすでに何回かの説明会が開催され、おおむねの了承も得られている。既存の施設を建て替える話だからか、目立った反対運動は起こっていない」


 ただ、と日向野はとうとう箱から煙草を取り出し、唇に挟んだ。ここで火をつけるなよ、とばかりにじっと睨みつければ、肩を竦めた日向野は名残惜しそうに指先で煙草を弄びはじめる。柊自身も煙草を吸うが、喫煙ルールは守ってもらわねば困る。そうでないと、ますます喫煙者の肩身が狭くなる。


「問題はこの施設の建築にかかわる入札の話だ。犬飼は議会の環境委員会の委員長を務めていてな。建設業者の選定はやつの権限ですることができる」


 もちろん入札が大前提だぞ、と日向野は唇を曲げた。柊は上司の顔色を読み、先を引き取ることにした。


「でも、犬飼はその原則をげようとした」


 そうだ、と日向野は頷く。


「それも、個人的な利益のためにな」

「個人的な利益、ですか」


 そうだ、と日向野はもう一度頷き、俺もコーヒーが欲しいな、と呟いた。気づけば柊のコーヒーも半分ほどにも減っている。手持無沙汰そうにしている北居にコーヒーのお代わりを云いつけ、柊は上司に向き直る。


「おまえ、結構わかりやすい性格してるな、小鳥遊」


 昨夜のことで腹立ってるのはわかるが、もう少しやさしい云い方してやっても罰はあたらないだろうよ、と日向野は苦笑いした。

 北居のポカのことなんて、いまのいままで忘れていたというのにうっかり思い出しちゃったじゃないか、と柊は思う。淹れてきたコーヒーが不味かったら、頭からぶっかけてやってもいいだろうか。


「やさしくするだけ無駄ですよ」

「そうカリカリするなって」

「デスクがそれを云いますか」


 朝っぱらからあれだけ怒鳴り散らし、手当たり次第に物を投げつけようとしたことを忘れたとは云わせない。日向野は分が悪くなって黙り込み、慣れない手つきでよろよろとコーヒーを運んできた北居を労いもしなかった。柊は気の毒な北居を顧みることなく、それで、と日向野に先を促した。


「それなりに規模の大きな工事だからな、入札はジョイントベンチャーが前提になる。犬飼は自分に都合のいい業者数社に声をかけて彼らを組ませ、さらに談合で入札を骨抜きにしようとした」


 むろん裏金をたっぷりと受け取ってだ、と日向野は云って、ずるずると音を立ててコーヒーを啜った。


「いまどきずいぶんと古典的な手口ですね」

「古典的だからこそ根強い人気があるんだよ」

「それはそうなのかもしれませんけれど」

「安いだけが価値のように云われる世の中だからな。公共事業入札だって例外じゃない。身を削るだけの競争が本当に正しいものかどうか、当事者にしかわからないところはたしかにあるかもしれない」


 もちろん談合は悪だ。脱税と並び、被害者の多い犯罪だ。それが大原則なのはわかる、と日向野は云う。


「談合は禁断の甘い蜜だ。一度許されれば、次もその次もと、やめられなくなるのは目に見えてる。適正を超えた過剰な利益を求めるようになり、結果、税金が無駄に使われることになる。みなの利益とするべきカネを独り占めしようとするのは、納税を怠るのと同じ種類の犯罪だ」


 そうだろう、と日向野が云うのへ、柊は頷いてみせる。


「だが、土木建設業の連中は、そこで食っていかなきゃならない。社員から下請、職人、下職、日雇いに至るまで、数えるのも面倒なくらいに大勢がぶら下がってる。切り詰めるにも限界があるだろ。それぞれが最低限の利益を確保するには、談合がもっとも効率的だと考えてもおかしくはない」


 この国はいつのまにか、人にカネを惜しむようになった。コストとして認められるのは原材料など目に見えるものに限られ、技術や手間といった目に見えにくいものはタダであたりまえだと、そう考えるようになってしまったのだ。


「誰がこんな国にしちまったんだろうな。競争が己の身を削ることと同義になる日がくるなんてな。なにが正しくてなにが悪いのか、たまにわからなくなるよ、俺は」


 理屈と膏薬はなににでもつく、とはよく云ったものだ、と柊は思った。盗人にも三分の理、つまり、どんな犯罪にもそれを正当化する理屈はある。

 世の中が悪い、時代が悪い、人の心が悪いと、責任の対象を広げれば広げるだけ、その重みは失われていく。理不尽な仕打ちを忘れるため、あるいは許すためにそうした理屈が必要なこともあるのかもしれないが、一方でそれを屁理屈と嗤う者も少なからずいる。柊もそのひとりだ。


「でも、談合は悪だと、そう書くほうが売れますよ」


 建設会社の役員や犬飼の年収も添えてやれば、なおいいかもしれませんね、と彼女は続けた。


「重要なのは雑談が売れること。そう云ったのはデスクじゃないですか」


 日向野はほんの一瞬、厭な顔をした。正義漢ぶりたいのなら醜聞誌のデスクなど辞めればいい、という柊の心中を正しく察したのに違いない。


「犬飼は談合に積極的にかかわっていた。企業側に入知恵し、会合の場を設け、市を牽制した。遣り口に無駄はない」


 コーヒーを飲み干した日向野は眉間に皺を寄せ、だけどそれは、と続ける。


「いかにも犬飼らしくない」

「らしくない?」

「さっきも云ったように、犬飼はこれといって目立つところのある議員じゃない。卒なく、失態なく、毒もなく。無害で無能を絵に描いたようなタイプだ」


 もともと国会議員の公設秘書であり、国政のなんたるかを知っていた犬飼が、どのようなスタンスで市政に臨んでいたのか、取材を進めていないこともあって、柊はまだほとんど把握していない。


「だが、犬飼のようなやつが長く政治家を務められるのは、この国が平和だからだ。いいことじゃねえか。切れ者の政治家が始終大鉈を振るわなきゃならねえような世の中なんて、俺は願い下げだね」


 日向野の云いたいことは、柊にもわからなくはない。

 この国に生きる人間の多くは、明日の食事や住居の心配とは無縁だ。今日あるものは明日もある、明日あるものは十日後もあると、何の疑いもなく構えていられる。

 不幸な例外や問題がないとは云わないが、医療も教育も行き渡り、清潔と安全を比較的容易く手に入れることができる。少なくとも、どこかの誰かが放ったミサイルが寝ているあいだに頭の上に落ちてくるのではないかとか、学校や職場へ通う途中で地雷を踏んでしまうのではないかといった心配はしなくてもいい。


「でも、だからって無能が許されるわけじゃありませんよね?」

「許されるんだよ。それだけ平和なんだ、この国は」


 いいことじゃねえか、と日向野は云った。柊は肩を竦めるにとどめておいた。これ以上この話を続けても、決着などつくわけがない。


「で、らしくない談合話を犬飼がまとめようとしていた裏に、なにがあるって云いたいんですか、デスクは」

「塩穴だよ」


 意外な名前を聞いて、柊は眉をひそめた。


「塩穴?」


 そうだ、と日向野は頷く。


「犬飼は無能だが、塩穴は違う。やつにとって政治家は天職だ。下町育ちの職人の息子が、嫁の父親の地盤をしっかり引き継いで、いまじゃ党三役のひとり。野党とはいえ、権力だけで云ったら、義父をも凌ぐというのがもっぱらの評判だな」


 塩穴雅憲の出身は東京の下町である。実家はメリヤス屋を営んでおり、父親は経営者であると同時に職人でもあった。塩穴がまだごく幼いころはずいぶんと羽振りもよかったらしいが、その後、時代の流れとともに繊維産業が廃れ、事業はどんどんと縮小していったと聞く。

 塩穴は経済的に恵まれないなかで高校を卒業し、すぐに就職した。中堅どころの印刷会社が最初の職場であったらしいが、その後いくつか職を変え、最後は飲料水の訪問販売業に落ち着いた。ちょうど高度成長期、公害問題が深刻化し、人々の関心が生き延びることから、より健康的に暮らすことへと切り替わったころのことで、塩穴の商売はおもしろいほどうまくいっていたようだ。

 豪快な見た目を裏切って繊細な気遣いもできる塩穴は、よく人に好かれた。学歴はないが愚かではなく、真面目で仕事熱心だった。

 やがて塩穴は、仕事を通じて現在の妻である絵津子えつこと出会う。どちらかと云えば絵津子が惚れ込むような形でふたりは夫婦となり、塩穴は妻の家の姓と地盤を引き継いで政治家となった。


「絵に描いたような逆玉の輿ってやつだな」


 でもわかるだろう、と日向野はにやりと笑った。


「順調すぎる経歴の裏には、必ず人には云えねえ、云いたくねえ弱みが隠れてる。塩穴も例外じゃないってことさ」

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