06

 瀬尾がしつこい性格なのは知ってる、と由璃はどこかからかうような口調で云った。


「でも、シュウまでそうだなんて、知らなかったな」


 知らなかったって、と柊は呆れたような口調で云った。


「そんな云い方されるほど、あんたたちとわたしは親しいわけじゃないでしょ」

「でも、ぜんぜん知らない仲ってわけでもないよね。むしろ、ほかの人が知らないことたくさん知ってると思うけど」


 真璃は不満そうに云って、ねえ、そうでしょ、と柊の顔をなおも覗き込んだ。柊は閉じた手帳を盾にするようにしてそれ以上の言葉を遮ろうとしたが、あまりうまくはいかなかった。


「瀬尾とは別に付き合ってるわけじゃないんでしょ」

「なのに、いつまで経っても忘れられないってのは、なんでなんだろうな」

「どうしてあんな冷たい男がいいのかな。信じられないよ」

「好きになっちゃったんだもの。なんで、も、どうして、もないの。仕方ないじゃない」

「仕方ない、ねえ……」


 じゃあ、おれたちのことも仕方ない、そう思ってよ、と真璃は云う。


「おれたちもシュウが好きなの。これは仕方ないことなの。ね」

「知らない、そんなこと」


 柊は手帳を鞄にしまいながら、首を横に振った。


「知らない、はひどいな」


 いつのまにか、由璃もすぐ近くまで歩み寄ってきていて、柊は入口近くの壁際に追い込まれてしまった。一歩、半歩と双子から距離を置こうとした結果だ。


「知らなくなんかないだろう、シュウ。おれたちは自分の気持ちを隠したことはないんだから」


 それはそうかもしれないけれど、と柊は双子のどちらもから目を逸らす。由璃と真璃と自分のほかに人気のない研究室には、助けを求める先などありはしなかった。


「あの瀬尾だって、シュウのこと、邪険にしたりしないよね」

「シュウも、おれたちにもう少し、やさしくしてくれてもいいんじゃないのか」

「瀬尾の知ってることは、おれたちだって大抵は知ってる。あんなやつに訊かないでさ、おれたちに云えばいいのに」


 柊はぶんぶんと首を横に振った。


「そんなに厭がらなくてもいいだろうが」


 由璃の言葉に合わせるように、真璃はわざとらしく悲しげな顔をすると、おれたちだって傷つくんだけどなあ、と云った。


「瀬尾だって、本当は迷惑がってるかも、とは思わないのか」


 瀬尾と柊が交わした約束は、ふたりだけの秘密だ。双子が知らないのは当然だが、由璃の見当違いの非難には思わず苦笑してしまう。

 鼻先で笑った柊をおもしろく思わなかったのだろう、双子の眼差しがきつく尖った。


「なにがおかしいの、シュウ」


 真璃が苛立ちのこもった声を上げれば、由璃は冷たく笑いながら、そんなに瀬尾がいいか、と吐き捨てる。


「あいつだっておれたちと同じ男だぞ、シュウ」

「そんなことわかってる。あんたたちに云われるまでもない」


 そうか、と由璃は語尾を上げる。


「とても、そうは思えないがな。なあ、真璃」


 うん、と真璃は意地の悪い顔で頷いた。


「シュウは瀬尾を美化しすぎ。ホントはシュウのこと迷惑がってるかもしれないし、もしかしたらいつかエロいことしてやろうって考えてるのかもしれないでしょ」

「ないよ」


 柊はきっぱりと断言した。そもそも自身が持ちかけてきた取引を瀬尾が迷惑がるなんてことはありえないし、いまだに薔子を想っているに違いない彼に、わたしに対する下心などあるはずもない。


「なんでそんなふうに云える?」


 由璃は本気で苛立っているような声を上げた。

 柊は壁にぴったりと張りつき、小さく首を横に振った。――近い、近い、近すぎる。


「あの、……ちょっと離れて」


 双子は柊の抗議になどお構いなしに顔を寄せてくると、わかる、シュウ、おれたちはおれたちに頼ってほしいの、瀬尾なんかあてにしないで、っていうか、なんで瀬尾なの、望みなんかないだろ、と畳みかけてくる。どっちがなにを云ったか、そんなことすらどうでもよくなって、柊は右手と左手で、それぞれ真璃と由璃の肩を強く押しやって、窮地を脱しようと試みた。


「いいから、少し離れて」

「厭だね」


 完璧にハモった双子は、それぞれが柊の片手を掴み、壁にぐいと押しつける。両手を取られ磔にされた柊は両足をジタバタさせて暴れ、ふざけるな、放せ、離れろ、せめてひとりずつが礼儀だろ、変態双子、と暴言を吐いた。


「やっとわかってくれたの、シュウ」


 天使もかくやというやわらかな笑みを浮かべた真璃が、右側から柊の耳元に生ぬるい息を吐きかけるように囁いてくる。


「おれたちのこと」


 左側の由璃はもっと無遠慮に、柊の頬に唇を押し当ててきた。ぎゃ、と柊は首を逸らし、右足で遠慮なく由璃の足を蹴りつける。


「そんなことしたら、由璃が痛いでしょ」


 今度は真璃が、右側の首筋にちろりと舌を這わせる。柊は声もなく、左足で真璃を蹴った。もう、右でも左でもどっちでもいい。ことあるごとにややこしいセクハラを仕掛けてくるのはやめてくれ、と柊は思う。


「放せ、莫迦! やめろってば!」


 身をよじり、もがき、蹴っ飛ばし、ときには頭突きまでして暴れても、双子はさしたる苦労もなく柊を押さえつける。

 あたりまえだ。男女の体格差に加え、敵はふたり。圧倒的に不利な状況で、いまだくちづけさえ許していないのは、なかなかの健闘ぶりだと思うのだが、どうなのだろう。


「ふたりがかりなんて、卑怯だとは思わないの、ちょ……!」


 頬や耳朶、目蓋や首筋を、好き放題愛撫されながら、柊は抵抗を続ける。このまま抗うことをやめたら最後、天国だか地獄だかもわからないような場所へ連れて行かれることはわかりきっている。柊は変態の森でキノコ狩りをするような悪趣味を持ち合わせてはいないのだ。必死の抵抗も当然だった。


「ふたりがかり、好きでしょ?」

「たくさん気持ちよくしてやったのに、忘れたのか」


 柊は頬を真っ赤に染め、双子を代わる代わる睨みつけた。


「いっぱい可愛がってやったのに」

「おれたちがここの人間だってわかった途端に掌返すんだから」

「シュウは残酷だ」


 柊は視線を落として深く俯いた。――厄介だ。


 そう、柊と由璃と真璃の双子のあいだには秘密がある。瀬尾とのそれとはまったく異なるが、しかし同じように誰も知らない、誰にも知られてはならない秘密が。



 柊が帝都通信を退職し、ウィークリーゴシップに転職する直前の真夏のことだった。

 その夜、柊は珍しく自主的にバーに入った。

 酒は飲めるがさほど好まない彼女にとって、この手の店は誰かとの待ち合わせでもない限り近寄らない場所でもある。このときも柊は待ち合わせをしていた。

 社内に後輩と呼べる存在を持たないままにそのときまで来ていた柊だったが、そのころになってようやくできた歳下の同僚と酒を飲む約束をしていたのだ。

 同僚と云っても所属も仕事も違う。閑職にある身だから、というわけではなく、そもそもカメラマンとして帝都通信に就職した彼女と記者だった柊とでは、接点からして限られている。


 データ管理室に異動してから知り合った小野寺おのでらという後輩は、社内にもまだ珍しい女性カメラマンだった。そのせいかどうかわからないが、入社して数年経っていたはずのあのころも、小野寺は部署内で使い走りのようなことをやらされていた。彼女が、柊のいたデータ管理室に、デジタル化されていない資料の納品に来たり、あるいは過去データの検索にまごまごしたりしているところを何回か助けてやるうちに、いくらか親しくなったのである。

 退職を決めてからの柊はなにかと忙しなくしていて、誰かとゆっくり飲みに行く時間も取れなかったが、転職先もようやく決まり、別れの挨拶代わりにと飲みに誘ったところ、ストレスの溜まっていたらしい小野寺は食いつくようにして乗ってきた。柊と違い、ほとんどまったくと云っていいほど酒が飲めないくせに、酒席を苦手としない変わった女なのだ。


 ちょっと遅くなっちゃうかもしれませんけど、絶対行きますから。絶対帰らないでくださいね。絶対ですよ。


 連絡もないまますでに四十分以上待たされていようとも、くどいほどに絶対絶対と念を押された以上、帰るわけにはいかない。誘ったのはこっちだしね、と柊は腹を括り、ビールと唐揚げで時間を潰しながら小野寺を待っていた。


 隣のテーブルに、互いに瓜ふたつの容姿をした男たちが腰を下ろしたことには早くから気づいていた。どんなときでもどんな場所でも周囲の人間を観察する癖は、記者でなくなってからも残っていたのだ。

 柊が三杯めのビールを半分ほどにまで減らしたときのことだ。男たちがチラチラとこちらの様子を窺っていることに気づいた。

 気づいてしまった、というべきか、柊が彼らの視線を意識したと同時に、男のひとりがごく親しげに――柊の感覚では、許しがたいほどに馴れ馴れしく――話しかけてきた。こちらが自分たちに関心を持った素振りを見せるタイミングを窺っていたのか、と気づいたが、もう手遅れだった。


 ひとりなの、それとも待ち合わせ。時間があるなら、おれたちと飲まない。

 飲まない、と柊は即答した。待ち合わせだとかそうではないとか、時間があるとかないとか、余計な情報を一切与えず一刀両断した。

 男たちは苦笑いしながら顔を見合わせた。ナンパは嫌い、と先と同じ男が言葉を繋ぐ。

 嫌い、と柊は頷いた。潮時か、と彼女は思った。もう一時間近く連絡もなしに待たされているし、ここで帰ったところで小野寺だって文句はないに違いない。いや、たとえあったとしても云わせるつもりはない。


 そこへ間の悪いメッセージが届く。スマートフォンの画面が明るくなり、小野寺からの謝罪が映し出された。――すみません、小鳥遊さん、取材先からいま戻りました。すぐに行くので、待っててくださいね。

 わかった、できるだけ早く来て、と柊は素直すぎるほど素直に返信をした。急がなくていいとか、慌てなくていいとか、気取っている場合ではない。こっちは図々しいナンパ野郎に辟易しているのだ。小野寺を拾ってすぐにでも場所を変えてしまいたい。


 そのあいだにも、ねえ、と男たちは声をかけてくる。おともだち、来られなくなっちゃったの? ちょうどいいじゃん、おれたちと飲もうよ。

 柊はメッセージ送信に集中しているふりをしながら、男たちの様子を窺った。見たところ清潔そうだし、貧乏でもなさそうだし、おまけに顔立ちも悪くない。バーでナンパなどせずとも相手には事欠かないような気もするが、思いもよらぬ極端な性癖があるのかもしれない。

 決まった相手がいるわけではないが、そんな男たちの餌食にはなりたくはない。

 もう連れが来る、と柊は云った。あなたたちと話はしない。


 まあ、そう云わずに、とそれまで黙っていたほうの男が口を開いた。おれたちに覚えはない、小鳥遊さん。


 柊は一瞬目を見開き、すぐに眉間に皺を寄せた。

 誰だ。知り合いか。違う。こんな双子に見覚えはない。

 では、これまでに取材したことのある相手だろうか。それも違う。すべてを明確に記憶している、とは云わないが、柊が取材相手の顔を見忘れることはまずない。しかも、これほどにインパクトのある相手ならばなおさら。

 いや、ふたりセットで考えるからいけない。ひとりずつになれば印象は変わるかもしれない。


 思い出せないみたいだね、と最初の男が肩を竦めた。

 悪いけど、と柊は眉間の皺を深くした。名前を呼ばれたことで警戒レベルが一気に上がり、もはや鞄を掴んで逃げ出す寸前だ。小野寺のことなど、もはやどうでもよくなりつつある。男たちが連携し、さりげなく通路を塞いでいることが気にかかって仕方がない。できれば暴力沙汰は起こしたくないのだが、はたして言葉の通じる相手かどうか。

 誰、と柊は慎重に尋ねた。

 さあね、と男たちは人の悪い笑みを浮かべた。思い出すまで飲んでいきなよ。

 相手になるな、と柊は自分に云い聞かせる。本当に悪いけど、思い出せない。もう行くから、そこを開けて。

 飲んでいきなよって云ってるんだよ、と男はショットグラスを差し出してきた。凶悪だな、と柊は顔を顰めた。満たされている酒がテキーラだと気づいたからだ。いくら彼女がザルとはいえ、こんなものを呷れば多少は酔いも回るだろうし、第一、どれだけ飲めるかもわからない相手に勧めるような酒ではない。

 飲まない。そもそもそんなに飲めない、と柊は首を横に振った。いい加減にしないと、人を呼ぶわよ。


 そこへ、先輩、と暢気な声が飛んできた。遅くなっちゃいましたぁ、すみませんでしたぁ。

 わざとらしく語尾を伸ばす口調は、柊が絡まれていることを知ってか知らずか。普段の彼女はもう少しはっきりとした話し方をする。

 小野寺めぐむは、もう、暑い暑い、ビールビール、と云いながら、男たちと柊のあいだにずかずかと割り込んできた。いまにも皿とグラスを投げつけあわんばかりの空気を瞬時に粉砕し、その破片すら踏み躙る無邪気ぶりである。

 額に浮いた汗をタオルハンカチで押さえ、先輩、もう聞いてくださいよぅ、といきなり話しはじめる。うちが懇意にしてる倉岡くらおかってガイドがいるんですけどね、そいつの態度が、もうぅ、ほんと頭くるんですよ。

 小野寺、小野寺、と柊が何度か制止するも、彼女のボルテージは上がるばかりだ。オーダーを通す前に河岸を変えようと提案するまもなく、やってきた店員に、あ、海鮮チヂミとビールちっちゃいやつね、と声をかけ、延々と倉岡なる存在の愚痴を垂れ流す。

 逃げ損ねた柊に人の悪い笑みを投げかけてくる男たちをせめても無視しつつ、柊は覚悟を決めた。ええ、ままよ。なるようになればいい。


 あのとき投げやりになった自分を、柊は後々ずっと悔み続けることになる。

 あのとき小野寺を無理やりにでも黙らせていれば。あのとき一度通ったオーダーをキャンセルする図々しさを持ち合わせていれば。あのとき、あのとき、あのとき――。


 だが、後悔はあとからするから後悔と書くのだ。

 結果として柊は男たちから逃げることができなかった。ごくごくさりげない態度で柊と小野寺の会話に入り込み、小野寺に酒を勧めて酔い潰れさせた――彼女は信じがたいほどアルコールに弱いので、これはとても容易いことだ――挙句、きわめて紳士的な態度でタクシーに乗せて追い払い、柊をホテルに連れ込んだ。


 合意じゃなければ完璧な犯罪よね、と柊は思い出す。あのふたりはわたしに声をかけてきたときから、その夜のうちにセックスに持ち込むつもりだったのだ。

 だが、合意じゃなければ、と自らただし書きをつけるとおり、裏を返せばつまり、あのときの柊は男たちとホテルへ行くことについて合意していたということになる。

 なぜ、自分がその気になったのか。

 なぜ、行きずりの男たち――男ではない、相手はふたりだ――とベッドに入ってもいいなどと思ったのか。

 いくら考えてもよくわからない。

 頭がおかしくなっていたとしか思えない。

 酔っていたのだと云えればよかった。けれど生憎、ビールの四、五杯と焼酎程度で酔ったためしなどない柊である。

 記憶はとても鮮明だ。それはもう、厭になるほど。



 幸いだったのは、はじめてではなかったことだ、と柊は思う。そんなときでもなければ、これまでの人生でたったひとりしかいない恋人を思い出しもしない自分はなにかが間違っているような気もするが、それはまた別の話だ。

 安曇の双子と、はずみとはいえ一夜をともにしてしまった事実は、柊にとって人生最大とも云える過ちであり、汚点である。できることなら、なかったことにしたいできごとなのだ。

 だが双子は、なにをどう思い違えたのか、あのときから柊に恋愛的な意味で執心していて、おまけにそのことを隠そうとしてはいなかった。


 柊は、彼らの正体を知った――瀬尾と同じ教室に所属する研究者――タイミングで、彼らとの縁をきれいさっぱり思い出さないことにしようとした。それがお互いのためだと思ったからだ。

 双子は諦めなかった。

 悪くなかったでしょ、と真璃は云った。こういうことって相性だし、許容範囲って人によってぜんぜん違うから。はずみでもなんでも、ふたり相手なんて絶対無理って人は、絶対無理なんだよ。

 その点、シュウは見事にクリアしてただろ、と由璃は重ねた。ちゃんとおれたちふたりをふたりとして、でもひとりずつ受け入れてくれた。


 憶えてない、なんにも憶えてない、と柊は断固として云い張った。すべてなかったことにして、二度と思い出さない。その防衛ラインを一歩たりとも譲る気のない構えだった。

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