05

 データ管理室に配属されて二か月、そろそろ辞めるタイミングを考えなくてはならないだろうかと思いはじめたころの、ある日のことだ。


 柊は珍しく、一本の内線電話に応答した。


 あたかも置物であるかのように沈黙を守り続けていた電話機が呼び出し音を鳴り響かせたとき、部屋にいたほとんどの人間が飛び上がった。柊もそのひとりだったが、いつまでもビビっているわけにはいかない。内線電話に応じるのは、彼女に与えられた数少ない役割のひとつだったからだ。

 内線は、代表電話の交換台からだった。小鳥遊さんに拓植さんからお電話です。交換手は不愛想に告げ、電話はすぐに切り替わった。

 お電話替わりました、と告げた声が震えなかったのは、かけてきた相手があまりにも意外だったからだろう。電話の相手は、薔子の母親だった。


 忙しいところ申し訳ないのだけれど、と薔子の母親――彼女の名は芙美ふみという――は沈んだ、しかし落ち着いた声音でそう話を切り出した。少しでかまわないから、時間をもらうことはできないかしら、シュウちゃん。勝手を云っているのはわかっているの。でも、あなたに渡したいものがあって。よかったら受け取ってもらえないかと、そう思って。

 もちろんです、と柊は即答した。すぐに伺います。

 そんなに慌てなくてもいいのよ。シュウちゃんも忙しいでしょう、と苦笑いを滲ませた芙美に向かって、いいえ、いいえ、と柊は首を横に振りながら答えた。すぐに行きます。いますぐにでも。


 とは云ったものの、いくらなんでも今日すぐには、という芙美の意見を容れ、翌日の夕方、社の近くで待ち合わせることとなった。

 約束の時間、約束の場所に現れた芙美は、柊が見知っていたころの彼女とはすっかり面変わりしてしまっていた。ふっくらとしていた頬は削げ、目許は落ち窪み、肌や唇には荒れたところが目立った。やわらかだった身体の線は痛々しいほどに尖り、どこか怯えたような表情や媚びるような目つきが哀れに感じられた。

 薔子の死は、彼女の両親をもすっかり変えてしまったのだ、と柊はいまさらのように気づかされた。捜査がなかなか進展せず、犯人が捕まらないばかりか、日夜、心ない誹謗中傷に晒される、その心労は察するにあまりある。

 事実、第一線の商社マンとして、世界各地を華々しく飛び回っていた薔子の父親は、勤め先から子会社への出向を命じられ、人と接する機会のない倉庫での勤務に甘んじているという。母親は、大幅に減らされた夫の収入を補うべくパート勤めに出ようとしたが、雇ってくれるところがなかなか見つからず、人目につきにくいビルの夜間清掃係をしているのだそうだ。


 拓植の家の現状を聞かされ、柊の心はひどく揺さぶられた。


 彼らは被害者のはずだった。大切な一人娘を殺された、気の毒な被害者のはずだった。

 なのになぜ、人目を忍ぶように暮らさなくてはならないのだろう。

 娘がラブホテルで死んだからか。幾人もの男と身体を重ねたからか。売春をしていたかもしれないからか。


 ――違う。


 殺されたからだ。

 娘が殺されたから、彼らは、薔子の両親は、まるでそのことを恥じるように、身を隠して生きなくてはならないのだ。


 いったいどうして?


 悪くないのに。

 薔子はなにも悪くないのに。

 拓植のパパもママもなにも悪くないのに。


 たとえ――決して認めたくはないが、百歩譲るとして――、たとえ、薔子が一晩のうちに数多の男と寝るような、ふしだらな娘であったとしても。

 あまつさえ、本当に――ありえない、ありえてはならないことだが、千歩も万歩も譲るとして――売春するような娘だったとしても。

 それが殺される理由になっていいはずがない。

 薔子の両親が、こんなふうに俯いて生きる理由になっていいはずがない。


 身体を強張らせ、奥歯を噛みしめて、なにも云うことができないでいる柊に、芙美は、そればかりは昔と変わらない笑みを向けて、いいのよ、と云った。


 私たちはあの子のことをなにも知らなかった。おとなしくて、聞き分けがよくて、手がかからなくて。お勉強のことも、お友だちのことも、ボーイフレンドのことだって、なにもかも順調だと、信じきっていたの。あの子に辛いことなんかなにもないって。苦しいことなんか、悲しいことなんかなにも知らないって。

 そんなはず、ないのにね――。


 芙美はそう云って、ごく落ち着いた喫茶店の照明すら避けるように、そっと俯いた。


 私たちが薔子のことをなにもわかっていなかったって、薔子はよくよくわかっていたんでしょう。あの子は私たちにはなにも云わなかった。なにも話さなかった。厭なことだけじゃなく、いいこともね。嬉しかったことや楽しかったこと、なんにも教えてくれなかった。

 薔子はいつも笑っていたのよ、シュウちゃん。こんなふうに笑っていれば楽しいはずだと、幸せなはずだと、そう思っていた私たちを、いいえ、幸せに決まっていると、あの子の笑顔を疑うことすらしなかった私たちへの、きっとこれは罰なのよ。だからいいの、シュウちゃん。


 いいわけがあるか、と柊は喉の奥で唸った。


 かろうじて言葉に換えなかったのは、窶れ、弱り、傷ついて、それでも最後の矜持にしがみつく、目の前の女性の自尊心を踏み躙りたくなかったからだ。


 いいわけがあるか。あることないこと書かれて、穏やかな暮らしを奪われて、娘の死を悼むことすら人目を忍んで。それで、――いいわけがあるか。

 悪いのは薔子じゃない。薔子を殺したやつだ。

 罰を受けるべきは薔子の家族じゃない。薔子を殺したやつだ。

 誰だ、と柊は掌に爪が食い込むほどに拳を握りしめた。

 誰だ。誰が薔子を殺したんだ。



 ああ、ごめんね、シュウちゃん。こんな話をするために来てもらったんじゃなかったわ、と薔子の母親は、ふと気配の変わった柊に怯えるかのように言葉を継いだ。これをね、もし邪魔でなかったら貰ってもらいたいと思って。


 そう云いながら差し出されたのは、封筒に納められた幾枚のもの写真と薔薇の花を模ったペンダント、それから古びた一冊の手帳だった。


 柊はまず写真を手に取った。パラパラと流し見てみれば、そこには薔子と自分の楽しげな姿がいくつもいくつも焼き付けられている。

 娘たちが仲良くなったことをきっかけに、拓植の家と小鳥遊の家は家族ぐるみの付き合いをするようになった。夏にはバーベキュー、冬にはスキー。互いの家族には共通する思い出も多い。

 うちにあった写真なの。シュウちゃんにも持っていてもらいたいと思って、と芙美は云った。

 薔子の死後、近所の冷たい目に耐えきれなくなり、逃げるように引越しをせざるをえなくなった拓植家だったが、思い出の写真だけは捨てることができずにすべて持ってきたらしい。だが、新しい家は前の家に比べてとても狭く、すべてを保管しておくことは難しくなってしまったようだった。

 でも、捨てるくらいなら、シュウちゃんに持っていてもらいたくて。ごめんなさいね、と詫びようとする言葉を遮り、柊は、ありがとうございます、と両手で包むように写真を受け取った。大事にします。


 もちろんこれも、と指先で触れたペンダントは薔子がいつも身に着けていたものだ。薔薇をイメージしたというそれは、彼女の祖父母という人たちが、孫の生まれた記念にと特別に作らせたものであるらしい。トップには透明度の高い輝石がいくつも埋め込まれ、チェーンにまで細かい細工の施された美しいデザインは、可愛らしい薔子の雰囲気によく似合っていた。


 ありがとう、と芙美は小さく頭を下げた。


 でも、これは、と柊は古びた手帳を取り上げる。これも薔子のものなんですか。

 見たことのない手帳だった。中学生のころから学生時代のほとんどをともに過ごした柊にも見覚えのない代物だ。つるりとした薄い紫色の革表紙にくるまれた、さほど厚みのないそれは、やさしげな色味を除けば飾り気も愛想もなく、およそ薔子の好みからはかけ離れている。

 そうなの、と芙美は頷いた。薔子のものよ。

 なかを見ても、と柊は慎重に尋ねた。薔子の死以来、長く閉ざされていた感覚が急に開いたような気がした。


 なにか――、そう、なにかひどく厭な予感がした。


 もちろん、と頷いた芙美も、なぜかその手帳から目を逸らすようにしている。縁起の悪い呪いの品を押しつけようとしてでもいるかのようなうしろめたさが、その表情には滲んでいた。

 柊はできるだけ何気ないふうを装って頁をめくった。芙美がこの手帳の内容に目を通していないはずはない。そのうえでこうも忌まわしいものに触れるかのように扱うからには、きっとちゃんとした理由がある。


 ここにはきっと、ろくでもないことが書かれているのだ。


 はじめは空白が続いた。指先で数頁を繰った先に現れたのは、ひそやかなひらがなだった。


 あなたがすき。


 柊は思わず眉をひそめる。上目で窺うように芙美を見れば、彼女は小さく頷いて、先をめくるように促してきた。柊は首を傾げながら頁を繰る。

 言葉は数頁おきに現れた。どれも、とても短いひらがなで綴られていた。


 とてもすき。

 もういや。

 きらいになりたい。

 でもすき。

 すき。

 だいすき。


 使われている筆記具はまちまちだった。まるで、そのときどきに急いで書き留めたかのように。

 なんで、どうして、と誰かを詰るような言葉もあった。


 なんですか、これは、と柊は顔を上げて芙美を見つめた。わからないの、と彼女は答えた。薔子の鞄のなかから見つかったの。いつも肌身離さず持ち歩いていたみたいで。でも、あの子がこの手帳を開いたところを見たことがある、と云う人はひとりもいないのよ。その様子じゃ、シュウちゃんも同じみたいね。

 はい、と柊は頷いて、ふたたび手帳に目を落とした。

 筆跡は間違いなく薔子のものだった。強い筆圧で刻み込むように綴られる端正な文字は、しかし習字の手本とするには右上がりの癖が強く、やや読みづらいところもある。


 いったい誰のことを云っているのだろう、と柊は思った。――この、あなた、というのは。


 薔子がいつごろからこの手帳を持っていたのか、それがわかれば相手もわかるのかもしれないが、なにしろ所持していたことすら誰も知らなかったのだ。わかるはずがない、と柊は軽く唇を噛んだ。

 この、あなた、に心あたりはあるんですか、と問えば、案の定、いいえ、と芙美は答える。警察にもさんざん訊かれたの。でも、まったくわからないの。瀬尾さんだけじゃなくってね、高校生のころにお付き合いしていた子たちのことまで話したけれど、警察は彼らのところにまで事情を聴きに行ったらしいけど、でも誰も、この手帳のことも、あなたと呼ばれている人のことも知らなかったみたい。

 普通に考えれば、先輩のことのように思えるけど、と柊は考えた。もしも中学や高校のころに薔子がこんなものを持っていれば、わたしが気づかないはずがない。大学に入り、違う道に進み、そのあとのことであるならば、気がつかなかったとしても不思議はない。

 それに、瀬尾がこの手帳のことを知らなかったとしても、それもまたあたりまえだ。人あたりがよく柔和な薔子だが、あけっぴろげな性格をしているかと云えば、それは違う。ここに書かれていた気持ちが瀬尾に対するものだったとしても、それは、そのときにはなにか理由があって、本人には伝えられなかったものなのだろう。明かせぬ気持ちを書き綴った手帳を、まさか云えぬ相手の目に晒すはずもない。


 あの、と柊は手帳を閉じて、問いかけた。これを、なぜ、わたしに。

 シュウちゃんしかいないから、と芙美は云った。

 わたししか、と柊は問い返した。そう、シュウちゃんしか、と芙美は繰り返した。薔子が話してくれるお友だちは、いつもシュウちゃんだった。シュウちゃんだけだったのよ、あの子が名前を挙げて話してくれる、お友だちはね。だから、シュウちゃんなら、この、あなた、が誰なのかわかるかもしれないと、そう思って。


 柊は思わず手のなかにあった手帳を握りしめてしまった。――そうか、そうだったのか。

 薔子はわたしの友だちだった。そして、わたしは薔子の友だちだった。

 わたしだけが薔子を大切に思っていたんじゃない。薔子もまた、わたしのことを大切に思ってくれていたんだ。

 なのに。

 なのに、わたしは薔子のためになにをした。

 なにもしていないじゃないか。

 なにもできなかったじゃないか。

 なにもできないまま、ただあの子を傷つけて。

 亡くなったあと、その魂まで穢すような辱めに晒して。

 守れなかった。


 だけど、まだ遅すぎるということはない。


 薔子にはもう届かないかもしれないけれど、もしかしたらただの自己満足かもしれないけれど、わたしにはまだできることがある。

 真実を探し出すことだ。まだ誰も辿り着いていない真相を探り出すことだ。

 薔子を殺したのは誰なのか。

 薔子はなぜ失われなくてはならなかったのか。


 ママ、と柊は薔子の母親を、かつてそうしていたように呼んだ。この手帳、わたしに預けてもらえませんか。

 芙美はすぐに頷いた。はじめからそのつもりだったのだろう、そこに迷いは感じられなかった。

 ありがとうございます、と柊は答えた。まっすぐに誰かの目を見つめたのは、とてもひさしぶりのことだった。

 芙美とはそれからすぐに別れた。以来、一度も会っていない。



 薔子の死の真相を探ろう、と強く決意したあの日から、一年と半年ばかりの月日が流れた。

 芙美から薔子の遺品を受け取って数か月後、柊は帝都通信社を退職し、ウィークリーゴシップの記者となった。

 あれからずっと薔子のペンダントは柊の胸を飾り、手帳は鞄の底に忍ばせてある。

 誓いの証のようなものだ。

 落ち込んだとき。打ちのめされたとき。草臥れ果てたとき。

 柊はいつも形見のペンダントを握りしめ、薔子の残した文字を読み返すことにしている。繊細な輝石、綴られている言葉の儚さは、いつも彼女を励ましてくれた。

 負けるものか、と思う。

 真実を闇に葬ろうとする卑怯な殺人者。いつかその首を締め上げ、必ず問い詰めてやるのだ。

 ――なぜ、薔子を殺したのか、と。


 出なきゃいけない講義がある、と云い置いて、瀬尾は研究室を出て行った。彼から聞き出した情報をメモに書きつけながら、柊はその背中を見送っている。

 ねえねえ、と不意に横から手元を覗き込まれ、柊は反射的にメモを閉じた。


「昨夜死んだのってさ、たしか政治家じゃなかったっけ? どっかの市議会議員、いや、県議会議員だったかな」


 ねえ、と真璃が云う。


「なんだっけ、ねえ、名前」

犬飼いぬかい要平ようへい。当選二期めの市議会議員。衆議院議員塩穴雅憲の元秘書だな」


 書かれてあることを読み上げるような口調で答えたのは、真璃の隣に立つ由璃だった。


「なんだよ、由璃に訊いてるんじゃないんだってば」


 おれはね、シュウにね、とくどくど云い立てる真璃を無視して、柊は由璃へときつい視線を向けた。


「なんで知ってるの?」


 あのな、シュウ、と由璃は呆れたように肩を竦めた。


「昨夜の解剖は、この教室の仁科にしな准教授が執刀したんだ。それくらいのこと、知ってて当然だろうが」


 それはそうだけど、と柊は口ごもる。


「でも、なんで塩穴の元秘書だなんてことまで……」

「犬飼はかつて塩穴の公設秘書だった。何人いるかも定かじゃない私設ならともかく、公設秘書は公職だ。知らないほうがおかしい」

「そんな建前論、誰が信じると思ってんの?」


 ふん、と柊が鼻を鳴らすと、由璃は可笑しそうに肩を揺らした。隣でむくれている真璃の肩を叩き、可愛いな、シュウは、と同意を求めた。


「おまえばっかりいいとこ攫ってさ、ずるいでしょ、それは」


 たしかにシュウは可愛いけどさ、と真璃はすっかりおかんむりである。


「そんなことどうでもいい。それよりなんで……」

「どうでもよくないよ、シュウ」


 真璃は云うなり、ぐっと柊に顔を寄せてくる。


「そうだ」


 どうでもよくない、と由璃まで同調し、反対側から迫ってくる。

 その秀でた容姿以外に似通ったところなどほとんどないくせに、こと柊に関してだけは異様にシンクロ率の高い双子である。


「シュウは可愛い。そこんとこ自覚しておいてもらわないと」

「簡単に危ない目に遭いそうなんだもん。気をつけないとね」

「やめてッ!」


 柊の頬は真っ赤に染まった。いい歳をして、可愛い可愛いと連発されて、恥ずかしくてたまらない。由璃と真璃がこの教室の関係者でなかったら、いますぐ口のなかに蒸しパンでも詰め込んで窓から放り投げてしまいたいところである。


「可愛いな、シュウは」

「可愛い。可愛いけど、ムカつくよね」


 ね、と真璃は由璃に同意を求めるように首を傾げた。年齢に見合わぬ仕種も、どこか少年じみた印象の彼ならば許されるような気がするから不思議だ。


「そうだな」


 同意を求められた由璃は不敵な笑顔で頷いた。そっくり同じといっても差し支えない容貌を持ちながら、こちらはやけに大人びて見える。隙を見せれば頭からバリバリと食われてしまいそうだ、と柊は思った。


「瀬尾にはあんなに甘えて、いろいろねだるくせにさ。おれたちからはなんにももらいたくないなんて、ムカつくよ。ほんと」


 甘えてもねだってもいない、と柊は眉根をきつく寄せた。先輩とは約束を交わしているだけだ。わたしたちのほかに誰も知らない、秘密の約束を。


「ねだってるわけじゃないだろう、あれは」


 由璃は真璃に応じる態を装いながら、柊の表情を窺っている。口許に浮かべられた薄い笑みは、彼が柊の答えを求めているわけではないことを表していた。


「瀬尾はシュウを利用しようとしているだけだ」


 由璃はきっぱりと断じた。


「シュウがそんな瀬尾に気づいていないはずない。そうだろ、シュウ?」


 気づいてるだろ、と肩を竦められ、柊はいよいよ本気で由璃を睨み据えた。瀬尾の本心など、彼らに云われるまでもなくもちろん気づいているし、十分に理解している。だが、百も承知している事実とて、他人から突きつけられればおもしろくない。


「気づいてても諦めきれないってところだろ。……いまはまだ」


 由璃の言葉に、真璃は目を丸くして柊を見つめてくる。そうなの、とでも訊きたげな表情だが、さすがに悪いと思ってでもいるのか、薄い唇は結ばれたままだった。


「だから心配なんかいらないさ、真璃。おれたちにも望みはある」

「望み?」

「叶わない片想いをいつまでも続けていられるほど、殊勝な性格でもないだろ、シュウは。な?」


 失礼にも同意を求める由璃に、そうでもないかもしれない、と柊は負けん気を覗かせる。


「わたしは先輩のことがずっと好きだった。学生のころからずっと。いまも気持ちは変わってない。案外、諦めの悪い性格をしているのかも」


 薔子と瀬尾が恋人として付き合いはじめてからも、柊はずっと瀬尾のことが好きだった。ほかへ目を向けようとは思わなかった。さすがに気持ちを伝えたことはなかったが、瀬尾も薔子も柊の心なぞとうに承知していたように思う。それでも彼らはふたりとも、それぞれ自分の想いを変えることはなかった。

 どうにもならないことってあるんだわ、と柊は思っている。わたしが先輩を好きだったことも、先輩と薔子が想いあっていたことも、無理に変えることはできなかった。

 きっと、いまでも。先輩はいまだに薔子を想っている。

 そうでなければ、あんな約束を交わすはずがない。


 あんな約束。柊と瀬尾が交わした約束。


 リストラ候補者となって実家へ戻ってきた柊に、薔子の事件にまつわるその約束を持ちかけたのは、瀬尾のほうからだった。

 おまえは新聞記者だったよな、小鳥遊、と彼は云った。薔子の事件、追ってるんだろう。

 自分はもう記者ではなくなった、と柊は答えたが、瀬尾は諦めなかった。たとえ現場を離れても、帝都通信にいれば新しい情報くらい手に入るだろう。それを俺に教えてくれないか。ただで、とは云わない。支払いはする。俺がかかわった検案について、外には出ない情報をおまえだけに教えてやる。

 柊は断ろうとした。自身が社から情報を持ち出すこともおそろしかったが、瀬尾に犯罪まがいの真似――警察から委託される検案について、その内容を部外者に漏らすことは紛れもない不法行為だ――させることが厭だったのだ。

 瀬尾は譲らなかった。俺のことなら心配いらない。おまえに心配される筋合いもないしな。そして、重ねる言葉で柊の抱く罪悪感を刺激した。俺は本当のことが知りたい。どこかの誰かにすっかり歪められた薔子じゃなくて、本当のあいつのことが。

 薔子を滅茶苦茶にしてしまったのは、おまえたちマスコミだろう、という瀬尾の本音は云われなくとも察することができた。

 おまえがなにも書かなかったせいで、なにも云わなかったせいで、と云われないだけマシか、と柊はなかば諦めの境地で頷いた。わかりました、瀬尾さん。事件のことで、薔子のことで、なにかわかったことがあれば必ずお伝えします。


 あれから季節は幾度も変わった。だが、ふたりは律儀に約束を守り続けている。

 柊は、日々の取材の傍ら、薔子の事件の手がかりになるような情報を掴んだときには、それを瀬尾に提供する。

 瀬尾は、自身が手掛けた検案について、柊が望む情報を三つだけ教える。瀬尾のほうが圧倒的に分が悪いが、それもまた彼が云い出した条件だった。

 これまでのところで、柊が瀬尾に差し出すことのできた情報はとても少ない。それでも柊は法医学教室を訪ねることをやめなかったし、瀬尾もまた柊を拒否しなかった。


 ここを訪れるたび、柊はいつも思う。

 事件はまだ終わっていない。

 薔子はまだ生きている。わたしのなかで。先輩のなかで。

 諦めの悪い、わたしたちふたりのなかで。

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