04

 薔子が亡くなったのは、柊が大学を卒業して三年半が過ぎた、冬のはじめのことだった。


 帝都通信社に就職し、地方支局へ配属となった柊は、そのころ実家を離れて暮らしていた。記者としての勤めは多忙で、地元へ戻る機会も滅多になかった。

 帝都大学医学部を卒業したのち大学院へ進学し、公衆衛生学教室に所属していた薔子とは、以前のように日常的に顔を合わせることも難しくなり、年に一、二回食事をともにするのがやっとという状態になっていた。

 メールのやり取りは頻繁だったけれど、なかなか休みを取れないうえに帰京もままならない柊と、研究のため海外を含めた現場に出ることも多い薔子とでは、そうなっても仕方がない。互いに親友と認めあう相手であっても、会う機会はなかなか作れなかった。


 薔子の死を柊に伝えたのは瀬尾である。

 登録はしてあってもかかってくることなどなかった瀬尾の番号がスマートフォンの画面に点滅するのを見て、厭な予感を覚えなかったと云えば嘘になる。薔子になにかあったのかもしれないと思って、そのときの柊は電車のなかにいたにもかかわらず、迷わずに画面をタップして応答した。


 薔子が亡くなった、と瀬尾はとても端的な言葉で事実を伝えてきた。一昨日の夜、発見された。犯人はまだ見つかっていない。

 なにを云ってるんですか、先輩、と柊は答えたように思う。あまりはっきりとした記憶は残っていない。厭な冗談、やめてください。

 誰がこんな冗談云うんだよ、と常日頃の冷静さをかなぐり捨てた瀬尾が電話口で怒鳴った。死んだんだ、薔子は! 死んだんだよ!


 気がつけば、唇も、指先も、腕も、がたがたと震えていた。まっすぐに立っていられなくなり、電車の床にずるずると座り込んだ。驚いた周りの乗客たちが、大丈夫か、とか、座りますか、とか声をかけてくれるのに応えることもできず、スマートフォンを耳から離すこともできず、柊は座りこんだまま震え続けた。

 着いた駅で誰かに抱えられるようにして電車から降ろされ、ホームのベンチに蹲るようにして座り、駅員に付き添われながら、瀬尾の声を聞いていた。


 大きな繁華街の駅裏に広がるホテル街、そのうちの一軒のラブホテルで、薔子は発見された。首を絞められて殺され、身に着ける衣類のひとつもない、哀れとしか云いようのない姿で。

 自宅にも研究室にも警察が踏み込み、なにもかも持って行った。薔子は被害者なのに、まるで加害者であるかのように、配慮もなにもなかったんだ。薔子がなにをしたっていうんだよ、なあ、小鳥遊。


 柊はひとことも返せないまま、一向に治まらない震えを必死になって鎮めようと歯を食い縛っていた。動いて。動いて、わたしの脚。動いて、そして調べるのよ。薔子が死んだ理由。殺された理由。わたしにはできる。そうでしょ、柊。いいえ、――シュウ。


 薔子だけが呼んだ愛称で己を叱咤し、柊は立ち上がった。繋がったままのスマートフォンを片手に握ったまま駅員に挨拶をし、タクシーで支局へと戻った。

 社内ネットワークにアクセスし、配信前の最新情報をチェックする。薔子の事件に関する情報はすぐに見つかった。――女子大学院生、ラブホテルで殺害。

 センセーショナルな見出しに傷ついている場合ではなかった。

 警察発表がほぼそのまま文字になった情報を、貪るように読み込んだ。

 被害者は、帝都大学大学院生、拓植薔子。二十五歳、女性。

 死体発見現場は、大学から少し離れた繁華街にあるラブホテルの一室。

 死因は扼死で他殺の疑いが濃厚。

 死亡推定時刻は遺体が発見される約三時間前、二十一時前後と推測される。

 ホテルの部屋には被害者の衣服、所持品は荒らされており、金品を目的とした殺人である可能性もある。ただし、部屋には殺害される直前のものと思われる性交渉の痕跡があったことから、現在のところは痴情の縺れが原因の殺人である可能性が高いとみて、捜査が進められている。残留する指紋や体液から、被害者は殺害現場となった部屋で複数の男性と交渉に及んでいたのではないかと考えられている。指紋やDNA等の鑑定結果については、現時点では未発表である。


 いったい誰のことを云っているんだろう、と柊は思った。ここに書かれているのは、本当に薔子のことなんだろうか。

 先輩はこのことを知っているんだろうか。

 知らないといい、と柊は唇を噛みしめた。こんなこと、ずっとずっと永久に知らないままでいるといい。


 情報端末のディスプレイと向き合ったまま、ほとんど微動だにしなくなってしまった柊を見咎めたのは、新卒当時、彼女の指導係を務めてくれたベテラン記者だった。柊が彼の指導を離れてしばらく経っていたが、同じ支局で机を並べる同僚として、彼は柊を気遣って声をかけてくれた。

 どうした、小鳥遊。そう訊いてきた彼に、柊は事情を話して聞かせた。――友だちが殺されたんです。

 ごく短く、そして拙い柊の説明を、彼は驚きとともに受け止めた。

 その話はすぐに彼からデスク、デスクから支局長へと伝わり、最終的には本社社会部部長の耳にまで届いた。柊はすぐに本社への出張を命じられた。薔子の死後、まだ数日しか経っていないときのことだった。


 ひさしぶりに顔を出した本社社会部には、ひりひりするような緊張感が漂っていた。研修でしか知らない社の中枢の雰囲気に飲まれそうになる柊を待ち構えていたのは、スクープを狙う記者たちの獰猛な眼差しだった。

 被害者の知り合いなんだって、おまえ、というある先輩記者の問いかけを皮切りに、ありとあらゆる質問が柊に投げつけられた。犯人に心あたりはないのか、男をとっかえひっかえだったっていうのは本当なのか、生家はずいぶんな資産家らしいが恨みでも買ってるんじゃないのか。

 知らない、なにも知らない、と柊は答えた。自分がなぜ本社に呼ばれたのか、その理由をよく考えもせずに。

 知らないじゃねえよ、と叱り飛ばされ、知ってることを全部話せ、と脅され、それでも柊はなにも云うことができなかった。

 本当に知らない、と彼女は思っていた。みんなが云うような薔子なんて、わたしは知らない。

 ラブホテルのベッドの上で誰かに絞め殺されるような薔子も、一晩のうちに何人もの男とセックスをするような薔子も、裕福でありながら親戚に恵まれない孤絶した家庭に育った薔子も――、まるで知らない。


 部長には直々に呼び出され、事件担当記者として警察に張りつくように命じられた。おまえにしか書けない記事を書け、と彼は云った。ほかの誰に書かれるより、おまえに書かれることを、死んだ友だちは願っているはずだ。

 そうかもしれない、とは柊も思った。どれだけ嘆こうが、悲しみに暮れようが、薔子はもう戻ってこない。ならば、真実を明らかにして彼女の霊に供えるのが、記者になったわたしにできる精一杯の弔いなのではないか。


 けれど、柊は書くことができなかった。どうしても書くことができなかった。

 捜査もまた、なかなか進展しなかった。

 痴情の縺れが原因、もしくは物盗り目的のごく単純な事件だと思われていたが、捜査を進めれば進めるほど曖昧な手がかりが増えていき、真実への道は遠のくばかりだったのだ。


 なかなか真相の明らかにならない現状に焦れたのか、やがて最前線で取材を進める記者たちの注目は、事件そのものではなく薔子本人に移っていった。

 ラブホテルで絞め殺された女が、帝大大学院に通う才媛であることが知れ、事件は下種な注目を集めることとなったのだ。将来を嘱望されるエリートが、場末のラブホテルで淫らな死体となって発見される。死ぬ間際まで複数の男と情交していたらしき痕跡があり、彼らの関係には金銭が絡んでいたかもしれない――。


 柊がなにも云えず、また書けずにいるあいだに、記者たちによる薔子の評判は地まで落ちていた。

 金銭を貢がせ、高価なプレゼントを強請り、その見返りに素晴らしい技で天国へと連れて行ってくれたらしい。一度にふたりと交わり、その姿を撮影させた動画が、某有名動画投稿サイトに残ったままになっているらしい。


 気がつけば、薔子は、気の毒な被害者から淫乱な毒婦へと、その姿を変えつつあった。

 薔子の可憐な容姿を捉えた写真を目にした同僚の記者たちが、下卑た笑みを浮かべるのを、柊は何度も目の当たりにした。

 さすがに柊の目の前でそうした噂を直接口にする同僚はいなかったが、記者クラブの席にいれば、他社の記者たちの囁く声は厭でも耳に入ってくる。なかには、柊と薔子の関係を知り、取材を申し込んでくる者までいたが、彼らが柊の知る薔子の話を聞いて満足することはなかった。

 結局、彼らは、自分の思い描く想像を裏打ちしてほしいだけなのだ、と柊はやがて気がついた。記者たちが求めているのは、可愛らしく、やさしく、賢い薔子の話などではなく、男を食い物にする娼婦としての薔子の話なのだ。

 同業者たちばかりか、同僚たちの表情にすらそうした期待を読み取ってしまった柊は、周囲を信用することができなくなった。


 表情を崩さなくなり、挨拶を交わすことも拒み、そのくせろくな休みもとらずに出勤し続ける柊を見かね、彼女を本社へ呼び寄せた部長は、ある日、ひとつのアドバイスをくれた。書け。なんでもいいから書くんだ、小鳥遊。

 なにをですか、と柊は虚ろな眼差しで部長を見つめた。なにを書けばいいんですか。まだなにもわからないじゃないですか。犯人も、動機も。薔子がどうしてあんなところにいなきゃならなかったのか、その理由も。

 それでも書くんだよ、と部長は云った。わからないってことを書け。さもなきゃ、おまえの友だちは火炙りにされるぞ。魔女の火炙りだ。わかるだろう、オレの云っている意味は。


 いまはまだかろうじて、仲間内の噂や醜聞の域にとどまっている薔子の印象――幾人もの男に脚を開き、それを愉しむ淫婦――は、いつか事実となって世間に定着してしまう。なにも知らないやつら、なにも知ろうとしないやつらが、ただおもしろいというだけの理由で、そうなることを望んでいるからだ。食い止めることができるのはおまえだけだ。


 部長はそう云いたいのだった。

 そんなことは、云われるまでもなくわかっていた。

 いまの自分にできるのは書くことだけ。柊自身もそのとおりだと思うのに、それでも彼女は書くことができなかった。一行も、一文字も。


 そうしているうちに、部長の懸念は現実のものとなった。

 タブロイドやゴシップ誌が、薔子には売春疑惑がある、性風俗に従事していたことがある、と際どいことを書きはじめたのだ。そうした記事は、ホテルの部屋から複数の男の痕跡が採取されたことや、薔子が学生の一人暮らしにしては贅沢な部屋に住んでいたことを根拠にしていた。

 やがて、週刊誌やテレビ報道がそれに追随し、どちらかといえば薔子に同情的だったはずの新聞の論調まで変わってきた。ウェブでの評判は云うに及ばなかった。

 薔子は罪なき被害者から、殺されても仕方のない薄汚い存在へと貶められた。秀でた頭脳と可憐な容姿も、嫉妬の対象となりこそすれ、同情を集めることはできなかった。


 親友と呼ぶべき唯一の存在が、取り返しのつかないほどに歪められていっているそのあいだ、やっぱり柊はなにもできなかった。

 薔子はそんな子じゃない、売春なんかしない、殺されていい理由なんかないと、声を大にして叫びたかったけれど、それは許されなかった。否、柊は自分で、その機会を握り潰してしまっていた。

 もしもわたしがペンを握り、冷静な記事を書き続けていたら。わたしの知る薔子の為人を信じ、周囲にもそれを伝えることができていたら。

 世間の流れを変えることはできなくとも、あるいは、ほんのわずかでも薔子の名誉を守ることができていたかもしれない。

 柊がそんなふうに考えていたことを知れば、あまりにも烏滸がましいと人は云うだろう。

 けれど、薔子が背負わねばならなくなった世間の評判とやらも、最初はたった一行の文章、たったひとつの記事からはじまったのだ。

 薔子が売春をしていた、風俗で働いていた、などという証拠は、どこにもなかった。けれど、していなかった、という証拠もなかった。

 証拠などどうでもいい、高学歴の若い女が、じつは淫蕩きわまりないセックスジャンキーだった、というスキャンダラスな興味だけが独り歩きし、ウェブには性質の悪いコラージュ動画や写真が溢れ返った。


 柊は、本当に、なにもできなかった。


 はじめのうちこそ穏やかに、少しずつ厳しく、最後には怒鳴りつけてまで柊にペンを取らせようとした部長は、やがて匙を投げた。――おまえはもうだめだ、小鳥遊。支局に帰れ。


 事件から三か月後、柊は支局へと戻された。

 その三か月のあいだ、柊はほとんど家に帰ることはなかった。記者クラブに詰め、事件現場に通い、帝大の研究室や薔子が研究のために通っていた保健所や医療センターを訪ねて回った。座っているときはいつでも、常にメモ帳とペンを握りしめていた。

 けれど、とうとう最後まで白紙の頁に文字が綴られることはなかった。


 言葉同様、柊は涙ひとつこぼすことができなかった。まるで、世間から隠れるようにしてひっそりと執り行われた薔子の葬儀にも、参列することはできなかった。

 薔子の母親に、ごめんなさいね、と云われてしまったからだった。シュウちゃんのこと、信じていないわけじゃないの。でも、シュウちゃん、お仕事のことがあるでしょう。うちの人がどうしても来てくれるなって。本当にごめんなさいね。

 自分がなんと答えたか、柊ははっきりと記憶していない。いいんです。パパもママも悪くない。悪いのはわたしです。ごめんなさい。そんなふうに答えたような気がするが、なにがよかったのか、なにに謝りたかったのかはまるでわからない。


 ともかく、薔子はすっかり失われ、損なわれてしまった。


 まるでそれが自分のせいであるかのように感じはじめたのは、ちょうど支局に戻されたころからだったように思う。

 本社にまで呼ばれたくせに、周囲の期待に応えることも、友人の名誉を守ることも、彼女の死を悼むことすらできなかった。書くことができないのなら、せめて薔子の死を見送ることくらいはしたかったのに。

 支局に戻った柊は、それからどんな記事も書くことができなくなってしまった。

 取材に行っても、なにを訊けばいいのか、なにを書けばいいのか、まるでわからない。

 人と人とを繋ぐ仕事、なにかを伝えることで誰かの役に立つ仕事がしたくて記者になったくせに、柊は、自分自身がなにかと、誰かと繋がることをおそれるようになってしまっていた。

 だって、もしもこれが、誰かにとって知らなくてもいい事実だったらどうしよう。知りたくない現実だったら、知られたくない真実だったらどうしよう。

誰かを傷つけてしまったら、――どうしよう。


 怖かった。

 ペンを持つこと、カメラを構えること、マイクを向けること。

 そのすべてが、怖くて怖くてたまらなかった。


 支局の同僚たちには、すぐにそのことを見抜かれてしまった。取材に出ることはできなくなり、配信記事の管理や、電子版のためのデータ整理をして日中を過ごすようになった。

 退社後や休日は、自宅にこもってずっと眠っていた。テレビもウェブも見なかった。新聞も雑誌も読まなかった。なにかを見たり読んだりすれば、薔子の記事を探してしまう。すっかり歪められ、汚されてしまった大事な友だちの姿を、もうこれ以上知りたくなかった。


 事件から五か月後、まるっきりの役立たずとなった柊は本社へと異動になった。むろん、記者としてではない。データ管理室という名のリストラ部屋行きを命じられたのだ。

 当然のことだ、と柊はその辞令を受け入れた。書けなくなったわたしが、記者など続けていけるはずがない。


 新しい職場はとても静かな場所だった。訪ねてくる人はほとんどいないし、電話も滅多に鳴らない。メールも来ない。こちらからどこかへ出向くことも、連絡を取ることも必要なかった。

 するべき業務もほとんどない。ネットワークに日々アップされてくる記事データを、時系列に整理し直してフォルダに格納するだけが仕事だ。


 データ管理室に配属された人間は、大抵が半年以内に辞めていく。自分もまた、自主的に退職することを望まれているのだ、と柊にはそのことがよくわかった。使えない人間は切り捨てられる。自分だけが例外だ、などと思ったことはない。

 いずれ辞めることになるのだ。すぐに辞めたってかまわなかった。

 ただ、そのときの柊には退職する気力さえなかった。


 机を並べる同僚たちは、いずれ劣らぬ無気力人間ばかりだった。時間どおりに出社し、誰とも口をきかず、誰とも目を合わせず、時間がくれば退社する。タイムカードの打刻は、朝も夕も必ず定時二分以内。

 どんなに若くとも四十後半を過ぎてからやってくるのがあたりまえの掃き溜めへ、二十代もなかばで送られてきた柊に、同じ部署の連中はやや同情的だった。社会部部長に、おまえはもうだめだ、と切り捨てられた経緯はみなが知っていて、おまえと同じ立場になれば誰だってそうなるさ、仕方ないよ、と慰めてくれる声さえあった。

 柊ははじめ、そうした言葉さえぼんやりと受け流していた。そうか、仕方ないのか。大切な友だちが死んで、彼女のためになんにもできなくって、なんにもできなくなって。それでも仕方ないのか。


 回復には時間がかかった。それでも、――人は回復する。

 どんなに深い悲しみからも。強い憤りからも。

 あるいは、それが表面的なものであったとしても。


 それは、柊も同じだった。

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