03

 昼を過ぎ、編集部を出た柊は母校である帝都大学へと向かった。

 行先は誰にも告げていない。たとえ同僚に対しても、自身の持つ情報源は明かさないというのが記者の鉄則である。

 転職してきたばかりのころは、日向野や市原に恩を売るため人脈の切り売りもしたが、いまではそういったことはすっかりなくなっていたし、その当時ですら、帝大との繋がりは明らかにしなかった。


 大学の敷地内を、目的の場所に向かってまっすぐに進む。仕事用の鞄を肩に颯爽と歩く柊の足取りからは、午前中の気落ちなどまったく感じられない。

 重厚感とも洒落気とも無縁な、ただ古ぼけているだけの白っぽい建物の二階へと上がり、狭い廊下を奥へ奥へと向かっていく。やがて辿り着いた扉をおざなりにノックして、柊は室内へと足を踏み入れた。階段からもっとも離れたところにあるその一室には、やや薄れた文字で法医学教室と書かれたプレートが掲げられていた。


「先輩、います?」


 扉の陰から覗き込むように、室内へと目を走らせる。扉に嵌められているすり硝子ガラスがガタガタとうるさい音を立てた。


「あっ、醜聞記者」


 ざっくりと自尊心を抉る蔑称で呼ばれ、柊の表情が険悪なものに変わった。あんたたちに用はないのよ、と口の中でもごもご云うも、当の本人たちにはまるで伝わらない。そのまま左右から長身の男ふたりに囲まれて、柊は身体をビクつかせた。


「どうしたの、シュウ? ここで会うの、ひさしぶりじゃん」

「ひ、ひさしぶりってほどでも……」

「この前来たのは十日前だ。シュウにしては時間が空いてる。どうしてた?」


 柊のプライベートゾーンを左右から圧迫する男たちの容貌は、互いが互いを真似たかのようにとてもよく似ている。


「どうしてたって、いや、校了とか取材とか、わたしもいろいろ忙しい……」

「取材ならいつもここでしてるじゃん」

「云ってやるな、真璃まり。取材なんて、いつもの誰かに会うための云い訳なんだから」

「えーっ、おれたちにじゃないの?」


 柊の言葉をまるで聞く気がないとしか思えない双子の声は、顔と同じようにそっくりである。いっそあざといほどに異なる口調がなければ、区別することはできないだろう。


「あのね、安曇あづみくんたち」

「なあに、シュウ?」

「なんだ、シュウ?」

「シュウって呼ぶな」


 思わず云うべきことを放り投げ、云いたいことを云ってしまう。


「わたしの名前は柊。ヒ、イ、ラ、ギ。音読みするな」


 なんで、なぜだ、と安曇の双子が無邪気に騒ぎ立てる。これでわたしよりふたつは歳上だっていうんだから厭になる、と柊は思った。象牙の塔に籠っていると、歳などとらないものなのだろうか。


 どこか甘えた口調で話す安曇真璃と、それよりは大人びて偉そうな物云いの安曇由璃ゆりは、この法医学教室で学ぶ大学院生である。医学部を卒業後、二年の臨床を経てから現場を離れ、現在は博士課程後期を履修中の身の上だった。


「なんで、って?」

「死んだ友人を思い出すからだと、はっきり云ってやればいいだろう」


 不意に背後から低い声が響いた。


「先輩」


 柊の声が急に明るくなる。そのことに対する不満を隠そうともしない由璃の不機嫌な声が、扉の前に固まっていた三人を押しのけるようにして部屋に入ってきた男の名を呼んだ。


瀬尾せおさん」

「邪魔だ」


 長身に白衣、華奢なメタルフレームの眼鏡をかけた怜悧な印象のその男は、手にしていたファイルや書物を放り投げるように自席に置いてから、あらためて柊たちを見遣った。


「来てたのか、小鳥遊。今日はなんの用だ」


 男の名は瀬尾理人りひと。法医学教室の講師を務める、柊の既知である。


「話が早くて助かります」


 云いながら瀬尾に向かって歩を進めようとした柊の背中に、あしらわれてるだけなのに、シュウの莫迦、という真璃の声が投げつけられる。柊は気にすることなく、瀬尾に向かって話しかけた。


「昨日の定例で自殺の公表があったので、こちらで担当されていたのではないかなあ、と、思いまして」

「そうか」


 苦い顔で呟いた瀬尾は、それでも柊を拒むことなく、コーヒー飲むか、と低い声を響かせた。


 定例、と柊が云ったのは、警視庁で行われる定例記者会見のことである。

 警視庁の広報課もしくは、そのときどきにふさわしいと考えられる役職者――ときに刑事局長であったり、警視総監であったりする――が、必要と考える情報を公表する場で、記者クラブが主催している。そこに出席できるのは、当然、警視庁記者クラブに所属する記者たちのみである。

 記者クラブは警視庁内部に部屋を持ち、会員となるメディアの自治によって運営されている。――という建前になっている。


 だが、その実態は、警視庁が自身に都合のよい記事を書かせるため、メディア自らに情報統制させるための検閲システムそのものであると云えた。

 情報統制とは、なにも事実の秘匿や隠蔽だけをいうのではない。どのようなメディアにどのようなタイミングでどの程度のことまで載せさせるかといった、情報公表のコントロールも含まれているのだ。

 警察に都合のよいように切り貼りされた情報をそのまま記事にすることを至上とする記者クラブのメンバーたちが、ときに御用記者などと陰口を叩かれるのは当然のことである。なにもクラブに入れなかった者たちの僻みゆえのことばかりではない。彼らはお上の云うことには決して逆らわない。

 記者クラブに所属することのできる媒体は限られており、その体質は多分に閉鎖的である。加盟条件は厳しい。たとえば、旬刊以上の発行間隔であること、庁内に記者を常駐させられる組織力があり、当番制である幹事役を滞りなく務められること、加盟会員二誌以上の推薦を得、なおかつその加盟に反対する会員がいないこと、などである。


 柊が籍を置くウィークリーゴシップは、この記者クラブには所属していない。週刊誌であるため発行間隔の条件は満たしているが、人のやりくりが厳しい、会員からの推薦を得ることができないなどの理由から、この先も加盟することはできないだろう。

 三流以下、とあからさまに揶揄される媒体に席を与えることをおそれるのは、警視庁ではなく、メディアの側である。ウィークリーゴシップが権力の機嫌を損ねるような真似をした場合、記者クラブも割を食って、取材活動そのものが行いづらくなるからだろう。御用記者だの伝書鳩だのとどれだけ非難されようが、情報を握る者に睨まれ、干されては、なにごとも立ち行かなくなるのが、いまのこの国におけるメディアの現実なのだ。

 だが、柊はこの定例会見に顔を出すことができる。かつての縁故コネを最大限に活かして――同業他社の顔見知りの弱味など叩き売りするほど掴んでいる――最後列の隅に席を確保しているのだ。


「で、なにが訊きたい?」


 瀬尾が、教室の住人達が共同出資して購入したコーヒーメーカーの前で、柊を振り返った。カップを手にした彼が目にしたのは、双子からなにごとかをやいやい云われて眉根を寄せて耳を塞いでいる後輩の姿である。瀬尾は眼鏡の奥の双眸を眇めた。自分の背中を追ってきているものとばかり思っていた柊が、厄介な男たちにいまだ足止めされていたことが予想外だったのかもしれない。


「小鳥遊」


 幾分かきつい口調で名を呼ばれ、柊は仕事を与えられた牧羊犬のごとき素早さで瀬尾のもとへすっ飛んでいく。彼女の背後からは、双子の剣呑な眼差しが仮想的と認定した男に向けられていた。


「今回はなにが訊きたい?」


 柊は肩がけにしていた鞄からメモ帳とペンを取り出し、顔を上げた。電子機器万能のこのご時世でも、タイプよりもフリックよりも手書きのほうが早い、と彼女は信じている。


「昨夜、管内にあるシティホテルの一室で、五十代の市議会議員が亡くなりました。性別は男性、死因は縊死。遺書は発見されていませんが、状況から見て自死であろうと、警察は公表しています」

「それで?」


 コーヒーを注いだ使い捨てカップを柊に差し出しながら、瀬尾は短く問うた。柊はメモとペンを片手に握りこみ、鞄を担ぎ直してからカップを受け取る。


「正確な死因、厳密な死亡推定時刻と発見時の詳細な状況。この三つです」


 瀬尾は軽く頷き、自席へと戻る。椅子に腰を落ち着けた瀬尾の傍らで、柊はペンを構えて彼の言葉を待った。


 法治国家である日本において、人の死が死と認められるためには、さまざまな手続が必要とされている。

 人が亡くなった場合、病院など主治医立会いのもとに死因が確認された場合を除き、すべての遺体は、その死に不審なところがないかを確認することが必要とされている。警察官は検視を、同時に医師が検案を行い、その死に犯罪性がないことが確認されたのち、死体検案書もしくは死亡診断書が作成され、死亡届を提出することになる。

 遺体に不審な点が認められた場合には司法解剖が、遺族の希望があった場合や承諾を得られた場合には行政解剖が行われ、詳細な死因を追究することになる。解剖の結果、その死に犯罪性があるとされれば、その死は事件となって、捜査が開始されることになる。

 帝都大学法医学教室は、この死因究明体制の最後の砦である司法解剖を警察から嘱託されている機関のひとつであった。


 司法解剖の結果は、捜査情報として警察に伝達される以外、容易に漏洩してよいようなものではない。徒に外部に漏らすようなことがあれば、教室全体の信用が揺らぎかねない重大なモラルハザードとして問題視されることは間違いなかった。

 柊も瀬尾も、そんなことは百も承知である。そのうえで、ふたりはふたりだけの秘密の約束に基づいて、情報を交換し合っているのだ。


「死因は縊死。幅二、三センチほどの索状物によって頸部が圧迫され、死亡した。死亡時刻は一昨日の十四時から十四時半のあいだ。ホテルの浴室に備え付けられているシャワー金具から吊り下がっていた」

「絞死ではないんですね?」


 忙しくメモを取っていた柊は、流れるような瀬尾の説明の合間に、まるで合の手のように質問を挟んだ。


「違う」

「自殺だと断定された理由は?」

「それは警察の領分だ」

「先輩」


 瀬尾が柊に対し、強く出ることはあまりない。溜息をつきながら、それはな、と彼が口を割るのに、そう長い時間は必要なかった。


「発見時、被害者の着衣に乱れはなかった。彼が身に着けていた下着、シャツ、スーツ、ネクタイ、靴下、そのすべては、当日自宅から着用して出かけたままだった。所持していた鞄も、中身を一切荒らされた様子なく室内で発見された。部屋は施錠されていて、争った形跡もない。事件性はない、自死に間違いないと警察が判断してもおかしくはない」

「圧迫痕は?」

「縊死だと判断するのにおかしな点はなかった。索痕が複数あるようなこともなかった」

「間違いないんですね?」


 探るような柊の眼差しを、瀬尾は浅い微笑でするりと躱した。


「誰に云っている?」


 それは、これ以上はなにも話さない、という合図でもある。柊はおとなしく引き下がり、ありがとうございました、と短く礼を云った。


「先輩?」


 いつもならば、話が終わればすぐに自身の仕事に戻る瀬尾は、なぜか今日に限って、柊をじっと見つめている。柊は首を傾げ、なにか、と疑問を口にした。――この人が、必要以上にわたしにかかわろうとするなんて、なにかあったんだろうか。


「おまえのほうは、相変わらずなのか」

「相変わらず?」

「相変わらず、なにもわからないままなのか、と訊いている」


 柊は目に見えて青褪めた。少し離れていたところから見守っていた安曇の双子、由璃と真璃が、血相を変えて近寄ってくるほど、その変化は著しかった。


「……すみません」


 まるっきり双子を無視して俯き、柊は力なく謝罪した。瀬尾はそんな柊を、眼鏡の奥から冷たい眼差しで見上げている。別にいい、と彼は云った。


「いまさらなにかを期待してるわけじゃないからな」



 柊が瀬尾理人と知り合ったのは、彼女が帝都大学経済学部に入学したころ、もう十年以上も前のことになる。

 当時、柊には、唯一無二と呼んでも差し支えのない親友がいた。――拓植つげ薔子しょうこ

 中学一年のときに知り合い、それからずっと親しくしてきた。

 小柄で可愛らしい容姿、温和で社交的な性格の薔子は、柊とはなにもかもが正反対だったくせに、とてもよく気が合った。ぶつかるときはぶつかり、激しい口論や喧嘩もしたけれど、互いに互いが傍にいないと半身が欠けたようで落ち着かず、数日も経たずに仲直りするのが常だった。

 誰に対しても穏やかで優しい薔子には、一方で、一度決めたことは頑として曲げない頑固なところがあり、そこが似ていたからかもしれない、と柊は思う。

 思ったことをなんでも口にしてしまうだけではなく、いちいち辛辣な言葉を選んでしまいがちな柊には友人が少なかった。悪意はなくとも誰かを傷つけてしまうことも多く、そのくせ人見知りがひどくて、誤解を招きやすかった。薔子は、そんな柊のことをよく理解してくれて、クラスメイトや部活の仲間たちとの仲介を買って出てさえくれていた。

 中学の三年間を、すっかり薔子に依存して過ごしていた柊は、高校進学を機に彼女と離ればなれになることをおそれ、成績のよかった親友と同じ学校に進学するべく、猛勉強を重ねた。おかげで、都内でも有数の進学校へとともに進み、そこでもまた、彼女とともに時を過ごすこととなった。


 やがて自身の進路を考えるときになり、柊はようやく己の人生と向かい合うようになる。このままでいいの、わたし、とそのときの彼女は考えた。このまま、薔子に依存して、彼女がいなければすっかりだめになってしまうような、そんな大人になっていいの、わたし。

 それまでの柊は、医学部を目指すという薔子にすっかり同調し、自分も同じ道へ進む気でいた。だが、成績を考えるに、どう考えても文系への進学が妥当だろう、という担任教師からのアドバイスを受け、文系学部への進学を志すことにしたのだった。


 あのときの喧嘩は深刻だった、と柊はそのころのことをいまでも思い出すことがある。

 医者を目指すのはやめる、と伝えたときの薔子の顔は、それまでに見たことがないほど怖いものだった。いつも柔和な笑みを浮かべているやわらかな頬は醜く引き攣り、黒目がちの大きな瞳は糸のように細められて、そのくせ鋭く突き刺すような光を浮かべていた。

 なんで、と薔子は云った。なんでそんなこと云うの。あたしと離ればなれになっちゃってもいいの、シュウ。

 違うよ、そうじゃないよ、と柊は必死に云い募ったけれど、その一方で、自分の進路のことで、どうしてこんなふうに薔子に責められなくてはならないのだろう、と不思議に思ってもいた。わたしの将来は、わたしの問題であるはずなのに。

 だけど、そんなことはとても云い出せなかった。

 柊がなにを云っても聞く耳を持たなくなってしまった薔子の機嫌は、そう容易には治らなかった。あまりにもべったりとふたりで過ごしていたせいで、彼女たちには互いのほかにはろくに友人もいなかった。だが、それまでふたりに無関心であった周囲ですら心配するほど、そのときの仲違いは長く続いた。


 進路選択の日は刻々と迫り、担任は柊に決断を促してくる。薔子の怒りに触れ、いまだ教師に希望を伝えていなかった柊は、とうとう彼に事情を話すことにした。

 おまえたちは仲がいいからなあ、と定年を控えたベテラン教師は穏やかに笑った。なあ、小鳥遊、と彼は続けた。おまえも帝大を目指してみたらいいんじゃないか。

 柊はひどく驚いた。当時の彼女の成績はまずまず優秀ではあったが、日本一の高偏差値を誇る帝都大学を目指すほどではないと思っていたからだ。

 柘植は帝大を狙う、と担任は云った。おまえも目指してみたらどうだ。


 いまになって考えてみれば、学年一の才女と誉れの高かった薔子の意気を、受験前の大事な時期に間違っても削いでしまうことのないように、との配慮が働いたのだろうということくらい理解できる。自分が期待されていたわけではない、ということも。

 けれどこのときの柊は、担任の言葉に薔子との仲を修復するきっかけをみつけた。――わたしたち、得意とするところは違うけれど、同じ大学を目指して一緒に勉強しよう。


 果たして柊と薔子は同じ年、帝大に合格することができた。柊にしてみれば、それは自分の人生における奇跡のようなものだった。これ以上の幸運はもう望めないかもしれない、などと真面目に思ったりもした。


 大学に入ってからの柊は、せっかく手にした幸運を逃すまいと、それまでよりも積極的に人生を楽しむようになった。同じ大学に通うとはいえ、学部も生活も違う薔子に、いつまでも頼りきりというわけにはいかないと思ったのだ。

 社交的な彼女に頼りがちだった人づきあいにも勇気を振り絞った。サークルに参加し、ゼミに登録し、新しい友人を少しずつ増やしていった。


 淡いながらに恋もした。


 高校まで共学の公立校に通っていたにもかかわらず、柊にはそれまで、好きな男のひとりすらいなかった。それは、常に薔子とともにいたからということだけが理由ではなく、自身のメンタリティによるところも大きかったのだろう。人見知りで警戒心が強く、そのくせ気のきつい彼女は、誰かに恋をすることを、まるで負けを認めるかのように思っていたのかもしれない。

 だが、そんな柊も仄かな想いを寄せる相手とめぐり会う。薔子を訪ねて足を踏み入れた、ほぼ医学部専用となっている学生食堂の片隅で。


 彼は、瀬尾理人は柊よりも四つ歳上で、これから前期実習に入るという医学部の五年生だった。法医学を専攻したいと考えていた彼と、新入生である薔子がどのようにして知り合ったのか、柊はいまだに知らない。だが、気づけば友人と穏やかに話をするようになっていた瀬尾に、柊ははじめのうちから好印象を抱いていた。

 薔子にはすぐに気づかれた。柊って、ホント面食いよね。

 そんなことないよ、と柊は云わなかった。地味ではあるが端正な瀬尾の容貌が好みだったのは間違いなかったからだ。

 好きなの、と薔子は訊いた。まだよくわからない、と柊は答えた。そう、と薔子は笑い、話はそのまま柊が新しく始めたアルバイトのことへと流れていった。


 季節は瞬く間に移り変わっていった。

 春が過ぎ、夏を越えて、秋も深まるころ、薔子は瀬尾と恋仲になった。

 淡い想いを寄せてはいたけれど、顔を合わせる機会もそう多くはなく、新しい友人たちとの付き合いやアルバイト、はじめての試験で忙しくしていた柊は、その事実を知らされたとき、なにを云われているのか、咄嗟によく理解できなかった。


 理人さん、ああ、えっと、瀬尾さんと付き合うことにしたの、と薔子は云った。あんなあっさりした顔してすごく熱心に口説いてくるの。絆されちゃった。


 ああ、そう、とか、へえ、そう、とか、返事にもならない返事をした記憶がある。さほどショックではなかった。どこか裏切られたような気がするにはしたけれど、そんな気持ちを抱く自分のほうがおかしいのだと、そんなふうに思った。

 だって、仕方がないことじゃない。先輩が薔子を好きになったんだから。薔子が先輩を好きになったわけじゃないんだから。


 薔子と瀬尾は似合いのふたりだった。

 可愛らしい雰囲気の小柄な彼女が、穏やかな気配を纏う長身の男に寄り添うさまは見事なまでに絵になって、他学部の学生たちの注目さえ集め、羨望の溜息をつかせたものだ。


 柊は、そんなふたりをいつもごく間近で眺めることとなった。実習や講義で多忙な瀬尾との逢瀬を待つ薔子に、よく付き合わされたからだ。

 不愉快ではなかった。薔子は大事な友だち。男の人のことくらいで、どうにかなるような安い友情じゃないんだから。


 一方で柊は、己の心の片隅に、寒さに震える自分がいることにも気づいていた。

 寂しい、とそいつは云った。悔しい、悲しい。わたしのほうが先に先輩を好きになったのに、と。

 恋にあとも先もないでしょ、と柊は醜い自分をそっと宥めようとした。薔子は可愛くて、やさしくて、やわらかそうで、先輩が心惹かれるのも無理ないじゃない。それに、薔子の傍にいれば、あんただって先輩に会えるんだよ。


 自分に自信のなかった柊は、親友に男を横取りされても、彼女の傍を離れられない自分を情けなく思ったりはしなかった。薔子を、恋などというつまらないことで失いたくないと、そんなふうに思ってさえいた。

 だから、いいの。いいの、これで。

 薔子の隣で幸せそうにしている先輩を見て心が痛んでも、手を繋ぐふたりの姿に胸が軋んでも、それでもいいの。ふたりを失くさずにすむのだから、これでいいの。



 罰があたったのかもしれない、と柊はときどき思うことがある。

 友人を失くしたくないと、片恋を失いたくないと、自分の心を誤魔化し続けた罪の対価こそが、ほかでもない薔子を失うことだったのかもしれない、と。

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