02

 国会議員、塩穴雅憲には隠し子がいる。


 柊がそのネタを手にしたのは、在香港日本国領事館に勤務する外務省職員の不祥事を取材するために出張した香港でのことである。

 一昨年の真夏、彼の地においてある事件が起きた。

 黒道ヘイタオが絡む、大がかりな児童誘拐事件である。現地警察と領事館が一丸となって事件解決に全力を挙げるなか、ひとりの領事館職員が自身の醜聞スキャンダルを隠蔽するため、同僚であるキャリア外務官僚の身柄を黒道に引き渡すという不祥事があった。

 事件は比較的早い段階で無事に解決した。人質となっていた児童たちも、件のキャリア官僚も無事に保護された。不祥事を起こした領事館職員は拘束され、身柄を日本に送られたのちに逮捕起訴された。懲戒免職となった彼の公判はいまだに係属している。一審で有罪を云い渡された被告人が、判決を不服として控訴したためである。


 柊がこの事件を追うようになったのは、事態のすべてが収束してから三か月ほどが経過した秋ごろのことだった。ウィークリーゴシップに転職してきて、まだそれほど日が経っていないころである。

 経過を追ううちに、柊は、この事件が、表層からは想像もつかないほどの複雑さを孕んでいることに気づかされた。

 誘拐事件はひとつではなく、かかわっていた黒道組織もひとつではない。黒道組織の手から無事に戻ったとされていたキャリア官僚は、じつは事件の最中に銃弾を受けて大怪我をしていた。現在の彼女はすでに退職し、外交官の地位を離れている。

 外務省は内部不祥事と黒道とが絡むこの事件について、ほとんど完全に沈黙し、ほんのわずかなことすら語ろうとはしなかった。とくに元職員が起訴されてからは、公判中であることを理由に一切の取材を拒否する姿勢を貫いた。世間も、遠い異国の地で起きた非日常などすぐに忘れ去っていく。


 だが、柊はこの事件を追い続けたいと思った。輻輳したいくつもの事件、絡みあう人間関係の中心には、かならずや醜聞の種が落ちていると、まだ浅い経験なりによく知っていたからだ。彼女は、起訴された元職員の公判に通いながら事件を整理し、少しでも真相に近づくべく取材を続けた。

 インターナショナルスクールの児童が誘拐された事件。その裏でひそやかにかどわかされ、救出された華人の少年。彼らが誘拐された目的はなんだったのか。

 上海の領事館から黒道に連れ出された女性外交官がツージャアジャオツェンで銃弾を受けた事件。黒道はなぜ、彼女に目をつけたのか。


 追えば追うほど、謎は深まるばかりだった。


 その年の冬、柊は日向野を説得し、単身香港へと乗り込んだ。

 だが、異国の、しかもろくに存在価値を認められていないような媒体の記者である柊に、香港は冷たかった。黒幕である黒道や同業者であるジャーナリストたち、秘密主義の領事館だけではなく、市民の味方であるはずの警察までも。

 日本国領事館と黒道にかかわる例の事件を追っている、あるいは興味があるのだと匂わせるだけで、警察からは捜査の邪魔をするなと追い出され、領事館からは云わずもがな門前払いされた。警察とマフィア、ともに厄介なふたつの組織を敵に回したくない現地ジャーナリストたちからは煙たがられ、すべてを知るはずの黒道には近づくことすらできなかった。


 それでも柊は諦めなかった。

 新聞や、それに準ずる大手媒体ならばともかく、予算と競争の厳しい三流誌の記者が香港くんだりまでやってきて、話せることはなにもない、はいそうですかごめんなさい、と手ぶらで帰国するわけにはいかない。

 取材に許された時間は、全部で五日ほどしかなかった。

 なにか手がかりはないかと事件資料を端から読み直し、インターナショナルスクールを出発点に女性外交官が辿ったという道のりを追い、移動時間を惜しみながら上海シャンハイにまで足を運んだ。それでもたいした収穫は得られなかった。


 そうして、なかば諦めかけていた帰国直前の夜のことである。

 逮捕された元領事館職員が黒道とのかかわりを持つきっかけとなった、香港随一の繁華街、銅鑼コーズウェイベイのクラブへと出かけた柊は、なかば自棄酒の意味を込め、ウォッカを呷っていた。ちょうど週末のことで、店は大いに賑わっていた。

 柊はそれはそれは酒に強い。蒸留酒だろうが醸造酒だろうが関係なしに、顔色ひとつ変えることなく何リットルでも飲み続けられる。下戸の市原にはスペックの無駄遣いだと罵られ、肝臓に不具合をきたしかけている日向野にはなかば本気で移植手術を持ちかけられている彼女だが、じつはそれほど酒が好きではなかった。

 飲んでも酔えるわけではなく、高いばかりで美味くもない。とはいえ、夜も更けたクラブのカウンターで、コーヒーやらココアやらを頼むわけにもいかない。そのため、しかたなしにもっとも癖がないと思しきスピリッツを口にしていたのである。

 ここで酒を愉しんだ元領事館職員は、そのあとありがちな手口の美人局つつもたせに引っかかって人生を棒に振った。今夜はここで何人が破滅への扉を開くんだろう、と柊はふとそんなことを思い、感傷的な自分を嘲笑うように唇を歪めた。

 ――くだらない。


「あんた、日本人?」


 ふいに話しかけてきた英語におざなりに頷けば、ひとり、と尋ねられた。


「そうだけど?」


 声のするほうへと顔を向け、英語上手いのね、と笑いかけてみた。

 粗雑な暮らしと多忙な仕事にすっかり草臥れ、自分が女であることも忘れかけている柊だが、もとの造作はそう悪くない。すぐに嘲笑に歪む口許とどこか暗い色を湛える瞳を気にさえしなければ、一晩の酒を酌み交わす相手としては悪くなかった。男もそう思ったのだろう、ぎこちないながらも笑顔を返してきた。


「こんなところで、ひとりでなにしてるの?」


 男は一見、ごく凡庸な若者にみえた。バイバーイと手を振ったあと、数歩も離れればそれきり顔も背格好も思い出すことは難しい、そんなありきたりな風貌をしていた。


「待ち合わせ?」


 それとも、男に声かけられるの待ってたの、と男は云った。


「ん、そうかもって云ったらどうする?」


 柊は笑みを深くしてグラスに口をつけた。


「あなたが相手してくれる?」


 男はわずかも表情を変えなかった。柊の脳裏に警告信号が灯る。――ひとつ。


「あんた、何日か前もそこにいたよね」


 男がそう云ったことで、信号はふたつに増えた。柊は笑みを消し、だからどうしたの、と冷たい声で答えた。


「どうもしないよ。ただ、変わってるなあって。待ち合わせでもなければ、ナンパ待ちでもない。こういうところに出入りするには歳食ってそうだし、だけど、警察とか軍人とか、そういうんじゃなさそう。ねえ、あんた、何者?」


 若者の多い銅鑼湾でよく見かける雰囲気の服装と人あたりのよさそうなやわい笑みは、この男の擬態にすぎないのだと、そのときになってようやく柊は気がついた。


「……あなたこそ、何者」


 急な緊張に喉がひりひりと痛む。普段はまるで効かない酒が脳を痺れさせてでもいるかのように、フロアの音楽がやけに遠くに聞こえた。


「オレはね、悪い人」


 彼はきっと嘘偽りのない悪人なのだろう、と柊は思った。記者として働くようになってから、この手の勘を外したことはない。


「その悪い人が、わたしになんの用?」

「あんた、どうしたらここを出てってくれる?」


 なぜ出て行かなくてはならないのだ、と柊は視線だけで問うた。男は目許にほんのわずかな笑みを足して、邪魔だから、と答えた。


「マスコミは面倒くさいんだよね。とくに、あんたみたいな外国人はさ」


 柊はウォッカのグラスをそっとカウンターに戻した。指先が震えていることを男に気取られたくなかったからだ。けれど同時に、だけど、きっとこいつにはなにもかも見通されているんだろう、とも思った。


「これからここでなにが起きるの?」

「その質問には答えられない」

「厭だと云ったら? ここに残ると云ったら?」


 オレは別にかまわないよ、と男は云った。


「でも、そうなるとあんたは国にも帰れないし、親にも友だちにも恋人にも会えなくなる。もちろん仕事を続けることもできない」


 何者か、などと、わたしのことなど最初から全部知っていて、いけしゃあしゃあと尋ねてくるなんて、なんと性質が悪い。柊はカウンターに置いたグラスをそのまま滑らせ、帰る、と呟いた。

 仕事は大事だ。ネタも惜しい。――だが、命には代えられない。


「素直だね」

「わたし、まだ死にたくないの」


 ふうん、と男はなにかをおもしろがるような表情になった。瞳の奥を探るようにじっと見つめてくる。そして、それまでと比べればはるかに潜めた声で、じゃあ、素直なあんたに、ひとつ、いいこと教えてあげよう、と囁いた。


「この前の夏、日本人のこどもが大勢誘拐された事件、あんたはあれを追ってる」


 眼差しだけで頷いた柊の様子を窺いながら、男は続けた。


「誘拐事件はひとつじゃなかった。そのことも知ってる」


 柊は頷きながら、この男は事件の関係者なのかもしれない、と思いあたる。事件関係者は警察や外交官、こどもの親たちばかりではない。誘拐事件の犯人であった黒道もまた関係者の一部なのだ。


小学校高学年アッパープライマリーのこどもたちとは別に誘拐された、もうひとりのこども。彼の名前はチン順慶シュンチン。いくつか飛び級したみたいでこの夏前には卒業したけど、それまではほかのこどもたちと同じ学校に通っていた。いまの彼は、日本領事館の現地職員として働きはじめたばかりの母親と西サイワンホーのアパートで暮らしてる。生活は苦しくないけど、日本の最高学府で経済を学ぶ費用を稼ぐために、自分も餐館レストランの厨房でパートタイムで働いてる」


 柊は目を見開き、息を詰めて男の口許をじっと見つめていた。やわらかい口調、やわらかい笑み、けれど――、彼が纏う気配には闇を含んだ凄味がある。


「母親思いで、成績も優秀。環境が変わっても友人に囲まれ、仕事先でもとても真面目で気遣いもできると評判がいい。きっと留学先でも上手くやっていける。すごくいい子だ。ちょっといまどき珍しいくらいに。ひとつ、父親を憎んでいること以外は」

「父親?」


 陳順慶。それはいったい誰の話だ、なぜわたしにそんな話をする、と柊は喉元まで出かかっている言葉を必死になって堪え、男の最後の言葉を復唱した。


「そう、父親」


 男は頷きながら、柊の腰にそっと手をまわした。酔った若者たちで混み合うフロアに誘い出し、ゆっくりと出口へと向かわせる。


「彼は父親をとても憎んでいる。媽媽ママを苦しめ、自分たちを顧みもしない、日本の代議士である父親のことをね」


 弾かれたような勢いで柊は男を振り仰いだ。フロアの真ん中で足を止めそうになった彼女の腰を掴んだ男は、それまでと変わらぬペースで柊の身体を引きずっていく。


「代議士って、誰?」


 誰、と云いながら足を突っ張り、どうにか男の力に対抗しようとしたが、すべては無駄な努力に終わった。柊はバックヤードを経て店の裏口まで連れて行かれ、路地に押し出された。放り投げられなかっただけマシだと感謝しなくてはならないような、じつに荒っぽい手つきだった。


「代議士って?」


 それでもなお食い下がる柊を、男は最後までやわらかなままの口調で突き放した。


「香港大好きな国会議員なんて、お国にそう何人もいないはずだ。自分で調べなよ、仕事だろう。このグオ一星イーシンに借りを作ると、きっと将来高くつく。でも、この名前は憶えておくといい」


 ペンとカメラとはったりを武器にして、一度食らいついた獲物は死んでも離さず、腐肉となってもなお骨まで食い荒らす猛禽のような醜聞専門誌記者にも、鬼門というものはある。やくざと宗教、それから政治家だ。

 黒道の男からもたらされた情報をまるっと鵜呑みにするわけにいかない柊は、それから帰国までの短い時間に、できる限りの調べを進めた。


 陳順慶の父親が塩穴雅憲であるらしいことはすぐにわかった。インターナショナルスクールの関係者をあたり、順慶の写真も手に入れることができた。慶太郎けいたろうという日本名も。

 領事館で働く彼の母親――塩穴の愛人――については、接触することこそできなかったものの、チン寿令ショウリンという名前だけは確認することができた。

 本格的に取材をはじめても差し支えのない段階である。

 だが、相手は政治家だ。しかもことは下半身ネタ。多少の枝葉は盛るにしても、事実無根はデスクが許さないだろう。


 帰国した柊は、通常業務の合間を縫って慎重に取材を続けた。追いかけにくい代議士が相手であるうえに、肝心の愛人も息子も異国の地に暮らすとあって、決定的な証拠を掴むことはなかなかできなかった。


 事態が動いたのは、ひょんなきっかけからだった。陳順慶が日本の帝都大学に進学する予定であることを知ったのだ。

 帝大は柊の母校である。卒業してから数年が経過したいまも、柊は頻繁に母校に顔を出す。とは云っても、自身が学位を取得した経済学部ではなく、既知の在籍する医学部へ出向くことがほとんどだ。

 だがそのときは、たまたま学内でかつての指導教授に遭遇したのだった。

 最近はどうしていますか、と教授は尋ねてきた。記者として通信社に勤め、しかし、たったの数年でゆえあって仕事を変えた事実を彼に話していなかった柊は、苦い愛想笑いを浮かべて答えを濁した。教授はそれ以上追及してこなかった。

 そして、自身が手にしていた普通話講座と書かれたテキストを不思議そうに見つめる柊に対し、最近は留学生が多くてね、と親切な話題転換を図ってくれた。彼らはなべてみな熱心ですよ。学ぶことに対する意欲が違う。少しくらいは私も努力しないと、とそんな気にさせられます。


 普通話というと、と柊が話を継ぐと、ええ、と教授は穏やかに応じてくれた。北京や上海、香港からの留学生が毎年何人もやってきます。今年は香港から特に優秀な子が来るそうですよ。父親が日本人だとかで、日本語にも不自由はないそうですが、そういう子ばかりとは限りませんからね。

 日本人を父に持つ、香港出身の華人などさして珍しくもない。

 思わぬ偶然の一致に浮ついた思考を引き締めるべく、柊はそんなふうに自分自身に水を差した。優秀な学生が増えるのは喜ばしいことですね、とかなんとかお茶を濁し、急いで教授の前から立ち去った。


 順慶の顔はわかる。

 新入生の行動パターンも知っている。

 春になったら帝大に網を張り、順慶を探そう。教授の云っていた香港からの留学生が、もしも順慶であったなら、彼の行動を把握し、塩穴との接触を待てば、動かしがたい決定的証拠を掴むことができる。

 あまりにもよくできた偶然ではあるが、ときにネタは天が与えてくれるものだ、と柊は思った。あの銅鑼湾のクラブで黒道の男から情報をもたらされたのも、教授が知らせてくれた偶然の一致に勘が騒ぐのも、すべてはめぐりあわせ、天の采配に違いない――。



 そうやって日向野、市原とともに追ってきたネタが、噛ませだったというのか。

 柊はなかば呆然として日向野の顔を見つめた。

 北居のポカで他誌に抜かれただけならば、まぬけな新人をどやしつけ、足蹴にし、眠るひまも与えないほどこき使えば溜飲は下がる。だが、噛ませネタだったとすれば、それは、そのことに気づかなかった自分のミスだということになる。


「いや、そうじゃない、小鳥遊」


 日向野はとりなすように云って、落ち着け、と首を横に振った。


「塩穴が俺たちやSの取材を警戒していたのは間違いない。ある時期まではたしかに、あの先生は、隠し子の存在が世にバレることをおそれていた。あの人の前ではじめて陳寿令の名を出したときには、食い殺されそうな眼で睨まれたもんだ」


 そうだったな、市原、と日向野は云い、蘇った恐怖にぶるりと身を震わせた。


「先生は寿令のことも順慶のことも、できれば表に出したくなかったはずだ」


 塩穴は妻の父親、つまり彼にとっての舅の地盤を引き継いで代議士になった男である。政治家であった舅もその娘である妻も、愛人や隠し子のひとりやふたりでガタガタ騒ぐような繊細な神経は持ち合わせていないだろうが、それでもやはり外聞は悪い。隠し通せないならばはじめから秘密など持つなと、塩穴にきつくあたるだろうことは容易に想像がついた。


「ならどうして……?」

「別に新しく、なにか隠したいことができた」


 日向野の断言に、柊と市原は顔を見合わせた。――なんでそんなことがわかる?


「うちとSが自分の愛人と隠し子について、相当程度の証拠を掴んでいることは、先生にだってわかっていたはずだ。自宅、事務所、それから順慶の住むアパートまで、どこへ行っても小蝿がまとわりついてくるんだからな。下手すりゃ、息子がその日どこでなにを食ったかまでわかる勢いだ。こうなればただで隠し通すことはできない。どこかから圧力をかける必要がある。だが、少なくとも俺は、谷本さんからそんな話を聞いたことはない」


 ウィークリーゴシップ編集長である谷本智弘ともひろは、鍛え抜かれた嗅覚とバランス感覚のみを武器に、いまの地位を手に入れた男である。ジャーナリズムを金に換える天賦の才に恵まれた彼は、雑誌の売上げと周囲とのパワーゲームにしか興味がない。これ以上、醜聞専門誌にふさわしい人物もいなかろうと囁かれる、俗物中の俗物だった。

 部下の血と汗と涙の沁み込んだ原稿も、どこぞからの圧力に屈するほうが得策と思えば簡単にお蔵入りにするし、どう考えてもガセとしか思えないフリー記者の売込みも、金になると思えば平気で使う。ウィークリーゴシップが標榜する低俗は、編集長である谷本が体現していると云っても過言ではなかった。

 そんな谷本が、政治家、それも現役野党大物議員からの圧力に屈せずにいられるわけがない。もしも圧力がかかっているのなら、日向野班の取材をすぐに中止させ、金輪際、塩穴には触るな、と厳命を下すはずだった。あるいはこれまでに掴んだネタをすべて奪い取り、今後の諸々に備えて自分の手元に温存するか。

 そのいずれの事実もない、と日向野は云っている。


「ついこのあいだの総選挙、これからの党内人事を控えたいまの塩穴にとって、愛人や隠し子の存在はかなりの痛手だ。役員の座から滑り落ちることだって十分考えられる。昔と違っていまはいろいろうるさいからな。男の甲斐性だとかなんだとか云って世間が許してくれる時代じゃない」


 それでも選挙に立候補すれば当選はするのだから、やはり世の中は云うほど綺麗ではないのだ、と柊は思う。そんなことにいちいち目くじらを立てる気になどならないが、男や世間に過剰な期待をするほど初心でもないつもりだった。


「つまり、党内におけるいまの立場と引き換えにしても隠したいなにかがあると、そういうことか……」


 市原の声に柊は意識を戻し、カネでしょうか、と声を上げた。


「この前の選挙、塩穴の所属する野党は、選挙前の倍ほども議席数を伸ばしました。与党人気に陰りが出てきていたこともありますが、野党の選挙対策が功を奏したのだと云われています。つまり、莫大なカネが動いたと」


 人気のある議員を各地に派遣し応援演説をさせたり、積極的に後援会を動かしたり、組織票を取りまとめる団体と会合を持ったり、選挙に金はいくらあっても足りない。法によって規制され、国民の目も厳しくなってはいるが、それでも政治家が金を融通するには百も千もの手立てがある。


「不正なカネが動いたと、そういうことか」

「むろんほかの可能性もないわけではありませんが、時期的に見て、その線が妥当ではないかと思うんですが……」


 柊が話しながら日向野と市原の顔色を伺っていたように、彼らもまた自分以外のふたりの表情を読み取ろうと探るような眼差しをぶつけ合う。話の輪に入れない気の毒な北居が、ぽつんと離れたところで飼主の指示を待つ犬のような目をして三人を見つめていた。


「探って、みるか」


 市原は渋い顔で柊を見る。柊はしばし考え込み、アテはあるんですか、と日向野に視線を返した。

 まあな、と日向野はひとつ頷く。


「探られて痛い腹のひとつやふたつ持ってなくて、誰が先生なんて呼ばれるか。塩穴のネタだって、まあ、ないわけじゃない」


 政治が動けば金が動くのは世の道理である。それはつまり政治家の行くところ、必ず金が動くと、そういうことでもある。金には綺麗も汚いもないが、金を掴む手には綺麗なものとそうでないものとがある。そして、政治家には、己の手は綺麗であると、常にそう証明し続ける義務が課せられているのだ。

 それだけに金の絡んだ醜聞は、いまの政治家にとって命取りである。下半身の行儀の悪さなど、いくら引き換えにしても惜しくはないだろう。

 気の毒なのはなんの関係もない順慶だが、彼とて政治家の息子であれば、己の価値を見極める――父にとっては、隠し子である自分の存在よりも金の問題のほうが重たいのだ――ことくらいできるはずだ。


「そうですね」


 柊は市原と視線を交わしながら、日向野の言葉に頷いた。


「息子のネタはもう使えない。少し、探りを入れてみましょうか」

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