その慰めをくれたのが、花緒だったなら、受け入れることができただろうか。

 ただひとり同じ苦しみで通じ合う宮司から、誰よりも優しくしてくれた花緒に与えられた言葉だったら。


「ううん、違うよ」

 それを知る機会は永遠にない。

 花緒はなんでもないことのように首を振る。

 見知らぬ誰かの思い出を語る目の前の彼女が、本当に花緒であること。今の君香にはそれさえも信じ切れなかった。

 染み渡った愛が毒へと裏返る。

 信頼の底が抜けた。

 その先には何もない。

 誰かへ繋がる懸け橋は切り落とされた。

 意味で紡がれた物語に、ひびが入ってもう戻らない。


 目の前で誰かが喋っている。


 でもそれって、

 心の中で生き続けている証拠でしょ?

 名前も思い出せないの。

 覚えてる。

 受け継いだ思い出に、

 感じた温かさを。

 大切な気持ち。

 大切な。

 君香。

 私。

 言葉は細切れになり、頭の中で焦点を結ぶことができない。

 もう、言葉など問題ではない。


――二人の記憶をお前が思い出して口走るとき、僕は気が狂いそうになる。

 宮司の言葉を聞いたとき、その苦悩を本当の意味で自分が知ることはないのだろうと思った。

 そうか。こういう気持ちか。

 愛の言葉は、誰が口にしたかにしか意味がない。

 少なくともその言葉を人間が受け取る限りにおいては。


 お前は違う。

 きっと、花緒さえ違った。


 わからないのだ。

 お前にとっては初めから違いなどありもしないから。

 そもそもなにひとつ、わたしの気持ちなど理解できるはずもないのだ。

 絆などなかった。

 誰でも大切で、誰にでも優しくて。

 他の誰でも良かったのだ。わたしの代わりにこの場所に誰が立っていても、お前は何一つ気にも留めはしないのだろう。


 わたしだけに優しくあってほしかった。

 わたしだけを受け入れてほしかった。

 自分という存在がここまでも醜いものだと、想像さえしなかった。


 言葉など何でも良かった。

 君香が聞き入れることのできる誰かが、言ってくれなければならなかった。

 そんな者はこの世のどこにも居ないのだと知った。


 おまえはだれだ。

 孤独が牙を剥く。

 どれほど言葉を尽くしても、受け入れることなどできない。

 絆だけが、最後の希望だと思った。

 希望などどこにもなかった。

 繋いだ手を振り払って、寄り添う肩を突き飛ばした。

 花緒は、花緒だったはずの少女は驚きに目を見開いて動きを止めた。


「何も! わたしの気持ちなんて! あんたには何も、わからないんだ……!」

 泣き叫ぶように吐き出すと、その先はもう君香を押し留めるものは何もない。

「あんたたちは! 自分が誰かなんてどうだってよくて! わたしが誰でもどうだってよくて! わたしがいなくなったって、次の誰かに平気な顔で優しくするんだ!」

「……君香ちゃん?」

 何を言っているのかわからないと、まるでそう顔に書いているようだった。

 ぶつけた言葉に返ってくるのは反論でも否定でもない。視線の先の困惑こそ、どうあがいてもわかり合うことの出来ない証拠だった。

「わからないくせに! どうして優しくなんてした! わたしの気持ちになんか寄り添えないくせに! 何にもわかってないくせに!」


「……ごめんね」

 花緒は寂しそうな顔をする。

 それはきっと本心からの謝罪の言葉なのだろう。だからこそそれはより一層残酷なのだ。

 どれほど人間に似ていても、人魚はしょせん、人間の心に寄り添えない。どうやっても越えられない溝があるのなら、最初からそうとわかるようにしてくれればよかった。

 自分が何を責めているのかさえ、もうはっきりとはわからなかった。

 自らの口を突いて出るのが理不尽な糾弾であることくらいわかっている。けれど痛みに裂かれて叫ぶ心にとって、それは当然の権利で、当然の帰結だった。

「――ねえ、」

 鏡を見るような泣きそうな顔が、言葉を探して絞り出す。救いを求めているのはどちらだろう。どうでも良かった。結局のところ、自分と相手とは、同じ気持ちになどなれないのだから。

「ともだちでいようって、約束したよね」

 離れた距離を再び歩み寄ろうと、手が伸ばされる。

 今度は明確な拒絶の意志を持って、その手を払いのけた。

「わたしは花と約束したんだ! 他の誰でもない! 花と! もう会えないくせに! 二度と帰ってこないくせに!!」

 悲痛な顔が小さく左右に揺れる。確かに胸の内にある気持ちが、どうすれば伝わるのか、わからないと泣きながら、それでも届かない手を伸ばそうとする。噛み合わない心で寄り添おうとする。

「何も変わらないよ。また会えるんだ」

 

 けれど違う。

 違うのだ。

 決して埋まることのない深い溝が、その心から一切の熱を奪う。

 わたしたちは同じではない。

 寄り添おうとするその一歩が、最後の一線を越えた。

「近寄らないでよ! 化け物!」

 それはいつか遠い日に、自分の心をぼろ布のように引き裂いた言葉だった。

 あれほど憎んだ言葉が、自分だけは決して口にするまいと誓ったはずの言葉が呪いのように口からはいずり出た。


 手指が小石を探り当て、無茶苦茶に振るう腕がそれを撒き散らす。

 逃げ出してほしかった。

 嫌われても憎まれてもそれでよかった。

 けれど目の前の少女は避けも庇いもしない。幾筋も流れる血を拭いもせず、君香には到底耐えられなかった仕打ちを受けて、彼女はまだこちらをまっすぐに見据えている。悲痛な顔にそれでも優しく笑みを浮かべている。

 言われた通り、ただの一歩さえ近付くことなくただ手だけを伸べている。


 彼女は異質な生き物で、異質な心を持っていて。この島の人々の誰もがそうで、ただひとり自分だけが、異質な生き物のくせにまるで人間のような心を持っているから。

 ここではわたしが石を投げる。

 けれど。


 ここではわたしが化け物なのだ。

 ここでもわたしが化け物なのだ。


 喉が引き攣った叫びを上げて、君香はひとたまりもなくその場を逃げ出した。

 涙は出ない。化け物は涙など流さない。


 優しい人たちがいる。

 優しい世界がある。

 わたしはそこに行けない。

 わたしはそこで生きていけない。 ――――



 逃げ延びた先に安住の地はない。

 目を閉じ耳を塞ぎ、暗闇にうずくまって、いったい何が変わるというのだろう。

 それでも他に他に何ができる?


 真夜中の誰も居ない浜辺の岩陰で、小さく震えて世界の全てから目を逸らした。

 誰に祈ればいいのだろう。

 何を祈ればいいのだろう。

 島は君香を愛し、赦し、受け入れる。

 自分は何を望んでいるのだろう。彼らを愛し、赦し、受け入れたいとでも祈るというのか。化け物と罵る彼らと同じになること。混ざり合い、区別もない同一の存在になること。それが恐ろしくて、おぞましくて、こうして震えているというのに。


 祈りの言葉も知らぬまま、暗闇に怯えて自分自身を抱き留める。

 人々を化け物と呼び、彼らの言葉を、行いを否定し拒絶する。けれどなによりも苦しいのは、その彼らに心惹かれ、焦がれ、別れがたく想うことだ。

 彼らのようには彼らを、そして自分自身を愛せない。赦せない。受け入れられない。 

 待ち望む救いを、望みを阻むのは自分自身だ。

 ここでは誰もわたしを傷付けない。誰もわたしを虐げず、責めることも脅かすこともない。ただひとり、わたし自身を除いて。

 己を内から苛む己から、どうやって逃げるというのだろう。

 救いはなく、逃げ場もない。

 わたしがわたしからそれらを奪う。



 ゆっくりと近付いてくる砂利を踏む音に、身を強張らせた。

 ただそれだけのことに世界を呪う。

 敢えて音を立てているのだとわかるわざとらしい足音は、声だけが届く距離で、こちらに寄り添うことなく立ち止まった。


「そう怯えずともいい」

 ひどく投げやりな声だった。

 それが聞きたい声でも聞きたくない声でもない、宮司の声であったことに、この世で呼吸を許されたような安堵を覚える。

 姿も見せず、受け答えもせずにいられることが、どんな言葉より君香に居場所をくれた。

 宮司が口を開く。

 誰にも会いたくないときの隠れ場所には自分は島で一番詳しいのだと、薄ら笑って、その後に続けようとした当たり障りのない話を、宮司はそのまま唐突に止め、別の話を流れも何もないまま切り出した。

「――君の両親のことをよく覚えている」

 心無い声だった。

 けれど絶望の滲んだその声が、どんな優しさよりも君香に馴染む。

 共感と配慮の無さを心地良くすら感じることに、自嘲も無ければ冷笑もない。その声を、声が馴染む事実を、君香はごく当たり前に受け入れることができる。

「僕の妻と君の母が親しい関係にあったのは当然として、同じく外の人間で、年の近かった僕と君の父にも自然、多くの交流があった」

 宮司の言葉は遠い昔を思い出すように、海の向こうに向けられている。海の向こうに消えていく。

「この島で妻を、茜を亡くして以来、もしあのとき、あのまま自分たちもこの島を捨てることができていたならと、有り得たかもしれない自分の別の可能性に、君たち家族を重ね合わせ眠れぬ夜が幾度もあった」

 気配があった。

「――聞かせてくれ。彼らは幸せだったか?」

 初めて、言葉が君香に向けられた気配だ。

 答えないならそれでいい。言いたいことだけ言って宮司は去るだろう。そう考えているであろうことがわかるからこそ、言葉を返す気になった。


「わからない」

 投げ掛けられた問いに、君香は闇の中から呟く。

「わたしにはわからない」

 幼い頃の自分にさえ感じ取れるほどに、歪な家庭だった。

 母は父を愛していた。父だけを愛していた。父はそれを埋め合わせるように我が子へ惜しみなく愛を注いだが、子を愛せない母をどこか疎んでいたようにも思う。

 あの子の中にはわたしがいない。

 そう呟く母が怖かった。そう呟くとき、自分に向けられる無機質な目が怖かった。視線に怯え、逃げ回りながら、けれど秘密を抱えて転々と居を移したがゆえに、君香にとってはあの家庭が世界の全てだった。


「初めの大祭に、茜と君の母親は参加しなかった。その年の大祭では二人の老人が溺れ谷へ帰り、三人の子供が生まれた」

 返した言葉は会話にはならず、ただしばらくの沈黙を挟んで、そのまま何事もなかったように話が続いた。

 赤子はそれぞれ奏と、花緒と、それから君香と名付けられただろう。

 その誕生を誰もが祝福し、健やかな成長を願い、末永い幸福を望んだはずだ。

 幸せそうに微笑む写真を思い出す。

 心の片隅に染みついた、幸せな気分を思い出す。


「島の人々は見知らぬ誰かへ変貌したが、それでも愛する家族と、同じ思いを共有する仲間がいた。我々は幸福で居られると信じていたよ。だがそれも、次の大祭までだ。人魚の群れの中で暮らす限り、人魚は大祭への衝動を抑えることは出来ない。おそらくは生物としての周期の、社会媒介的な同調の類がどうやら人魚にも存在することが、次の大祭が迫る頃にはわかってきた。だから僕たち四人は島から逃げ出すことを決めた」


 初めて聞いた話だった。島からの駆け落ちを図ったのは、父と母だけではない。

 話は続く。大祭の迫るある夜、船を走らせ、二組の夫婦が二人の子供を連れて島を抜け出したこと。本土に辿り着き、大祭から逃れて暮らせる場所を目指し、その矢先に交通事故に遭ったこと。

 子供の片方と、それを庇った二人の母親が、傷を負ったこと。

 三人の内の二人の傷は、致命的なものだったこと。


「脳死も心肺停止も人魚にとっては死ではない。人間が致命傷を負ったとして、その傷に破壊された細胞の数は全体から見れば些細な割合だ。あらゆる器官に取り換えの利く人魚は、特に大祭が間近に迫っていることもあって、どんな怪我でも取り返しがつくはずだった」

 含みのある言い回しに続く断りは、君香の頭にも容易に浮かんだ。

――島から離れない限りは。

 傷を負ったのが島民たちの助けを得ることのできる場所であったならば、宮司の妻が死ぬことはなかったのだ。

 彼が今もこの島に留まっているのは、あるいは贖罪のためなのかもしれなかった。


「僕と君の父は何も出来ない。自身も傷を負っていた君の母に、二人の命を繫ぐだけの余裕はなかった。だから死に掛けの茜が、死に掛けの君に身体の多くを譲り渡した」

 ほんのかすかな時間、息継ぎのためではない間があった。

「わかっているとは思うが、今更君を責めるつもりでこんな話をしているわけではない。妻と君が傷を負い、君だけが生き残った。それは単に、身体の小さな君なら確実に救うことができたという確率の問題だった。死に逝く茜を目の前にして、僕は彼女の口にする、また会えるという約束にすがるしかなかった」

 たとえ死の淵に立ったとしても、人魚であればそういう判断を当然に下すだろう。そのことが君香にも容易に想像がついた。そこに居合わせた人間が、同じ判断を下すことなど出来なかったであろうことも。

 まるで他人事のような宮司の語りは平坦で、その内心を窺い知ることはできない。

 あるいはそんなものは、既にありはしないのかもしれなかった。


 君香は、語られるその物語の結末を知っている。

 両親が島を去り、宮司が島に留まったことを。妻の亡骸と幼い娘を連れ、地獄にも等しい島へと戻る宮司のことを思う。

 九洲茜は溺れ谷へと還った。

 そしてその忘れ形見たる花緒もまた、溺れ谷へと消えたのだ。

「僕は君に答えをあげることはできない。それは僕がほしいものだから。僕は君が羨ましいとさえ思う」


 ようやく得心がいった。

 どうして人間である彼がこの場所にいられるのか、不思議だった。

 彼は自分がもう狂っているのだと言った。

 彼は妻を愛しているのだと言った。


 それは違うと、君香は思う。

 本当は、自らを愛していないから。

 彼は島の誰もを愛していないように、自分自身を愛していないから、この島にいることができる。

 彼は愛する者を殺した自分の愛を憎んでいる。

「あなたは、」

 言葉は自然に口から出た。

 問うことに迷いはなかった。

「わたしを、憎んでいますか」


「憎んでいる。おぞましく感じ、許しがたく思う。君を拒絶する僕がいて、同時に愛おしく思う僕がいる」

 身構えることも叶わないほどに自然体で返された答えが眩しかった。あれほど凄惨に渦巻いていたこの人の感情が、今はもう欠片も外に現れることはない。自分のためには涸れ果てた涙が溢れそうになった。

 この人は私の存在を恨み、赦せずにいて、そして、それを受け入れたのだ。

 凪いだ海のように、空っぽの心がありのままにわたしを見ている。


「君は茜と同じ目をしている。比喩でも、言葉の綾でもなく、文字通りに」


 この人のようになれないという確信があった。

 人間でないわたしはきっと、この人のようには誰かを愛せない。

「祭囃子が止んだね」

 呟いた声に、かすかに顔を上げる。遠くで響く風音だと思っていたものが笛の音だったと今更ながらに気が付いた。

「これから出発だ。僕は祭列の見送りに行くよ」

 言うなり、去っていこうとする足音に振り返る。

「……どうして。大祭は明日の夜のはずじゃ、」

「大祭は前夜から始まり数日続く。島を出発するのはその日の未明だ」

 立ち止まった足音はそれだけ言い残して、また離れていく。

 その気配を、ただ呆けたように見送った。


 祭囃の音色を、耳の奥で反芻する。

 ああ。

 そうか、とようやく理解した。

 大祭は明日の夜、行われる。

 船で向かった溺れ谷への、道程の長さを思い出した。

 島民全てを同時に乗せられるだけの船は島にない。ならば、溺れ谷へは恐らく、海底を歩いて行くのだ。年寄りも連れて、明日の夜には確実に溺れ谷に辿り着かねばならない。


 自覚のない焦りに追い詰められて、のろくさした動きで立ち上がった。

 何もかもどうでもいいと思っていたはずだ。

 自分の愚かしさなど、自分が一番知っていると思っていた。

 失うものの輪郭を、心の空隙でようやく知る。

 何もかも終わってしまうのを、膝を抱えて待っていたくせに、いざ終わりが見えると未練たらしく取り乱した。

 暗い浜を左右にふらつきながら手探りで進む。

 

 島全体がもぬけの殻だった。

 島中の明かりが落とされ、全ての住人が家を空け、辺りは静寂で覆われている。

 夜闇を照らすものはなく、見上げた月の高さに焦燥を煽られた。

 自分はどれだけ時間を無駄にしたのだろう。

 きっともう、日付はとっくに変わっている。

 自分は何を諦めきれずにいるのだろう。

 こうして必死に駆け付ければ、いったい何に間に合うと思っているのだろう。

 何も、何ひとつ変えられなどしなかったのに。

 それでも、足を止められない。

 ようやく見つけた小さな光は海面に浮かぶ古めかしい船の灯火だ。

 目を凝らす。

 まるで死に装束のような白い着物で、まるで葬列のような人の群れが、並んで海へと歩みを進めている。見て取れるはずのない距離の向こうに、波打ち際に佇む花緒の横顔を見た。


 暗闇の中、弾かれたように駆け出し数歩も行かぬ内に転倒した。

 砂に足を取られ、波に足を取られ、その度に君香は転び、起き上がってまた走る。

 もう間に合わない。

 暗闇の中、隔てられた距離があまりに遠い。

 もう二度と会えない。

 まるで小さな子供がそうするように、走りながら両手を無茶苦茶に振り回して、けれど無限にも思える距離は少しも縮まらない。 


 化け物と呼んだ同じその口で、行くなと叫ぶ。

 石を投げたその手を、繋いでくれと差し伸べる。

 寄り添う勇気がないくせに、自分に寄り添えと薄汚く喚き散らす己自身が憎い。

 どうしてこれほどの醜悪さに、気付かずにいられたのだろう。

 か細い叫びは風と波に連れ去られてどこにも届かない。

 沖へ去り行く誰とも知れない背中が一瞬だけ立ち止まり、けれど振り向くことなく波濤へ消えた。


 この島には人魚が住んでいる。彼らは老いず、死なず、病に臥せることもない。ただ、人の愛だけが人魚を殺す。


 取り残された潮溜まりの暗い水面に、一匹の人魚が映っている。

 人として育てられた人魚が、魂を抜かれた死人のような顔で揺れている。

 まるで喉から声を奪われたように、言葉ひとつ発することもできはしなかった。


 母がお前を愛してくれたなら、お前は人として幸せになれたかもしれない。

 けれどそうはならなかった。

 お前は母の愛に呪われているから。

 父がお前を愛さなかったなら、お前はこの島で幸せになれたかもしれない。

 けれどそうはならなかった。

 お前は父の愛に呪われているから。


 人の愛が人魚を泡に変えるというなら。

 きっとお前は、生まれたときから泡と消える運命だったのだ。

 そうなるしかなかったのだ。



 ――――



 背後でざぱりと水音がして、けれどそれは花緒の距離感ではない。

 口を利かないその気配に、水鏡を見つめたまま問いかける。

「どうして父さんと母さんはわたしを選んだの」

 この島において、親子関係というものは割り振られた役割に過ぎない。

「他の誰でも良かったのに、どうしてわたしじゃなきゃいけなかったの」

 ほんの少し何かの因果が掛け違えられていたならば、自分にはまるで違う人生があったのではないかと恨みを抱いた。

 そんなものは、何の意味もないとわかっている。

「どうしてあなたはわたしを選んでくれなかった」

 触れるような近さで水面の自分を睨みつけながら、呪いの言葉を死んだような自分に吐き掛ける。

「あの人の子供になんてなりたくなかった! この島に生まれ育ちたかった!」

 年寄りのように溺れ谷に還れたら。

 何も知らない赤ん坊として産まれ直せたら。

 けれどそれは叶わない。死ぬのが怖い。人魚の心に寄り添おうとするときのように、心の底から湧き上がる怖気が踏み出そうとする足を止める。愛がわたしを呪っている。


「あなたの愛する人を奪ったのはわたしだ」

 ゆっくりと頭を上げる。わたしは救われることなど決してできない。

「わたしの目を抉り出して」

 だからきっとそうすることでしか、この痛みは終わらない。

「わたしを殺してよ」

 振り向いた先で、同じ高さに跪く顔と目が合った。

 手を伸ばせば触れられる距離に初めて寄り添って、意外なほどに角ばった男らしい手がためらいもなく君香の喉を締め上げる。

 宮司は言葉ひとつなく、いつか見た写真のように優しい目をしている。

 

 もうなにひとつ愛することのない彼がもう一度だけ、父と同じ目で、同じ愛でわたしを殺してくれる。

 視界がぼやけ、音が消える。心臓の鼓動だけが意識を満たす。苦しみさえも次第に遠ざかり、ただ本能だけがそれを拒んだ。

 指が腕を血塗れに掻きむしり、けれど腕は少しも揺るがない。

 死にたくないと、人間の愛が叫ぶ。

 意識は解け、暗い底へと沈んでいく。



 ――――



「ちょっと父さん、片付かないんだから早くご飯食べてよ」

 朝の空気は少し冷えていて、窓から差す朝日が今を照らしていた。

 父はいつものように見もしないテレビをつけて、朝食の最後のひと口を皿に残して楊枝を噛んでいる。

 聞いているんだかいないんだかの生返事をぼーっと返したかと思うと、こちらの服装に目を止めて、父は箸を持ったままちょっと驚いたような顔で訪ねてくる。

「花緒、どこか出かけるのか?」

「約束があるって言ってたでしょ? 夕方までには帰るから」

「……あぁ、そうか。気を付けてな」

 それだけ言うと再び食事に戻る。


 大祭からこの方、父は少し気が抜けているように見える。

 寝ぐせも髭もシャツの裾もしょっちゅうひどい。どうせ今日もと全身を見回して気付いた。

 腕の絆創膏が剥がれている。

 化粧台の引き出しを開けて救急箱に手を伸ばしたとき、何かが頭をよぎった気がした。

 なんだろう。

 糸が切れたように動きを止めて、じっと考える。

「あのね父さん。上手く思い出せないんだけど、わたしね――」

 頭の上に優しく何かが触れて、鏡越しに父と目が合った。

 優しい目をしていた。

「無理に思い出すことはないさ」

 父の手が頭を撫でる。

 鏡に映る自分のことが、ほんの少しだけ好きではない。

 けれどそれより、ずっとそれより、好きなものに囲まれている。

 島が好きだ。

 君香がいて、奏がいる。


 手を離そうとする父の腕を掴んで、もう一度自分の頭に戻す。

 鏡の中の父が呆れたように笑う。

「急いでたんじゃないのか」

「だって父さんの手、好きなんだもん」

 観念した父は溜息をつく。

「でもね。一番好きなのは父さんの目。わたしちっとも似てないよね」

 目さえ父さんと同じなら、少し濁った胸の鱗も、首をひと回りする黒い痣も、自分の気にくわないところは全部許せる気がするのに。

 構うことはない、と父が鷹揚に笑う。


「お前の目は母さんの目だ」


 優しい目をして頭を撫でる父に、わたしは目を閉じて身を委ねる。


 南の島には人魚が住んでいる。

 老いず、死なず、何者もわたしたちを害さない。

 愛と幸福と、変わることのない日常だけがこの島を満たしている。


 これが幸せだと、わたしの魂が覚えている。

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テセウスの孤島 狂フラフープ @berserkhoop

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