どうやって帰ったかあまり記憶がない。

 恐らくは宮司が花緒に約束した言葉通り送り届けたのだろう。

 気付けば家の壁際で膝を抱えたまま陽が昇っていて、義務的に訪れた洗い場の鏡に笑えるほど酷い面付きをした自分を見つけた。


 顔を洗う。

 冷たい水が少しだけ意識を覚醒させてくれた。

 思考に掛かった靄が取れて、君香はまた同じ袋小路に迷い込む。

 同じ名前と役割を持つ船を同じ船だと、確かにそう思った。

 けれど違う。

 人は違う。

 同じ名前と役割を持っていても、人だけは違う。

――それはどうして?

 閉じた蛇口から水が滴り、頭の片隅の別の自分が疑問を投げる。わからない。そこに議論の余地はなくて、代わりに言葉にできない確信がたしかにある。

 だからこそ怖かった。

 大祭の日取りを報せる宮司に、衣替えでも忘れていたかのように返す花緒の気軽さが怖かった。

 産み直し。

 それは島の住民が、宮司一人を除いて皆死ぬのとどう違うのか。

 宮司の苦悩がよくわかる。

 だからこそ島に流れる何ひとつ変わらない穏やかな日常が理解できない。


 膝から崩れ落ちて頭を抱え込む。

 誰とも会いたくない。全て夢であってほしかった。

 けれど滴る水音が、時計の針が残酷に進む時間という現実を突き付けてくる。

 残された時間は少ない。

 大祭は二日後の夜と宮司は言った。日を跨いだので明日の夜だ。

 歯を食いしばって立ち上がる。

 あとたったの二日でこの暖かな島が無くなってしまう。別の誰かに上書きされて、それが何でもないことのように忘れられていく。

 許されるはずがなかった。

 なんとかしなければならなかった。

 島を守らなければならないと信じた。


 表に出ると、強烈な陽射しに目が眩む。

 通りへと踏み出した足取りは覚束ず、神社が遠目に視界に入ったときには自分でもわかるほど心が折れた。

 胸の内に言い訳を巡らせて神社に背を向け、出来ることがあるはずだと見知らぬ方向へ足を進める。どこへ向かえばいいかもわからないまま、ふらつく君香を太陽は容赦なく照らし続けた。

「あら、こんにちは。どちらにおでかけ?」

 庭先から呼び掛ける声に覚えがあまりない。振り返った縁側で涼む中年女性がこちらを見て微笑んでいる。

 言葉を返そうとして舌がもつれた。

「あら、すごい汗。急ぎでないなら少し休んでいかない?」

 女性に手を引かれて、断るより早く、朝食はおろか夕食さえ食べていないことを思い出した腹の虫が返事をした。換気扇から香る焦げた醤油の匂いのせいだ。

 あらあらと笑って、女性は君香を縁側へ引きずり込む。

 少し待ってねと口にして台所へ向かった女性が、火から下ろした焼き飯を手に戻ってくる。自覚した空腹が差し出された香ばしさに抗えなかった。

 憔悴し疲弊していても、目の前の焼き飯と麦茶をまだ美味しそうだと感じられる。そのことが救いに思えた。

 出されたもの全てを両手でがっつくように呑み込んで、大きく息を吐く。

 深々と頭を下げて礼を言った。

 食べたものが力になった気がする。口元を拭って女性に向き直る。躊躇いを越えて腹の内の言葉を表に出すことができた。

「大祭が明日の夜だと聞きました」

「ええ」

「恐ろしくはないんですか?」

 数秒、目を合わせたまま時が過ぎる。その時間で、女性は君香の言葉の意味するところを正確に汲んでくれたようだった。

「とても楽しみよ」

 女性は屈託の無い笑みで君香の質問に応えた。

「今度ね。孫が産まれるの」

 ふと目を逸らす女性の視線に釣られて見た奥の部屋には、ベビーベッドが置かれている。新品というには少し日に焼けて、くたびれているようにも見えた。

「大祭は生命の終わりじゃないわ。あたしたちはこういう風にしか子どもを産めないから、あなたもあたしも大祭で生まれてきたの。海が新しい生命を授けてくれる。それってとても素晴らしいことだと思わない?」


 その後も道行く人を捕まえ、あるいは家にあがりこんでは同じ質問を聞いて回った。

 誰も嫌な顔はしなかった。誰もが納得できる理屈をあげ、それぞれの言葉で同じ答えを返した。

 理屈ではなかった。

 死ぬのではなく皆の中で生き続ける。心とは胸の内でも頭の中でもなく、人と人の隙間にできるものだ。

 月並みな言葉をいくつ並べ立てようと、結論は変わらない。


 人とは代え難く、掛け替えのないものだ。

 誰かが覚えていても、どんなに絆があっても、失ったものは戻らない。

 島の人々は言う。消えるのではない。ただ解けて混ざるだけだ。 それは死ではなく生、終わりではなく、始まりだと。

 我々は戻ってくる。

 けれど違う。

 一度混ざったものはもう二度と戻らない。解けて二度と戻らないものこそ、君香にとっての大切なものだ。

 大祭を止めなければならないと思った。

 心のどこかで止められると思っていた。

 けれど藻掻けど足掻けど、寄り添っていると信じた人々は蜃気楼のように遠く、少しの手応えもありはしない。

 どれだけ家々を渡り歩いても、得られたものはなにひとつない。

 徒労が心を削り、泥のように足に纏わる。

 気が付けば日は暮れかけ、街灯が頼りなく道を照らしていた。

 ここは島のどのあたりだろうか。少し考えて、景色に見覚えがあることに気が付いた。

 そうだ。一瀬の屋敷の外周だ。屋敷の敷地を囲む生垣と、その中にひっそりと佇む古びた蔵がある。

 けれどそれが何だと言うのだ。

 帰り道がわかって良かったじゃないか。諦めて家に帰り、部屋の隅で大祭を待てばいい。自嘲気味に口角を上げる。

 そうして蔵の前を通り過ぎようとしたとき、視界の端に何かよぎった。視線を向けると、生垣越しに誰かと目が合った。

 一瀬のおばあだ。

 おばあは驚くそぶりも見せないまま、記憶通りの笑みで穏やかに囁く。

「ずいぶん酷い顔をしているわ」

――これで最後にしよう。

「……お話ししたいことがあります」

「あら、奇遇ね。ちょっとした確認だから、先にいい?」

 首を縦に振り、どうぞと促す。

「あなた、明日の大祭には参加するかしら」

 準備する衣装の数があるから、とおばあは言う。

 しない。

 できるはずがなかった。

 言葉を口にするまでもなく、おばあは君香の否定を見て取ったようだった。


「大祭が恐ろしいのね」

 図星を突かれて、君香はひるむ。宥めるように、伸びてきたおばあの手が君香を撫でた。痩せて骨ばった両手は、皴として刻まれた歳月を表すように優しく、気付かせもしないほど柔らかに君香の手を包み込む。

 庭の一角のガーデンテーブルに招かれた。


「わからないんです。どうして皆が平気でいられるのか。怖いんです」

「無理に参加することはないわ。断っても、誰も文句を言ったりはしないから」

 そうではない。

 君香は俯いたまま首を振る。

「自分が大祭に参加することを想像するだけで、怖気がします。でもそれだけじゃない。何も感じない皆がわからない。わからなくて怖いんです」

 大祭の話をするだけで、島の誰もが手の届かないところへ行ってしまったようで恐ろしい。


「そうね……」

 呟いて、おばあはしばし考え込み、やがてゆっくりと口を開く。

「――大祭は怖くなんてない。みんなそう言ったのでしょう? でもあなたは怖い。なら怖いのだわ。恐ろしいものは人それぞれある。だから聞かせて。どうして怖いの?」

 その問いは簡単で、だからこそ答えるのが難しい。

 恐ろしいのだ。

 怖いのだ。

 議論の余地なく明確に、理性とは別のところが恐怖を叫ぶ。

「……だって、産み直すのと、死ぬのと、わたしにはその違いが理解できない」

 目を合わせられずに俯く君香に、暖かな声が注ぐ。

「死ぬのが恐ろしくて、産み直しがそれと同じだから、大祭が怖いというのなら。あなたがこの島に生まれたことは福音だわ。島の誰しもと同じように、あなたもその恐怖を乗り越えることができる。今は無理でも、ゆっくり受け入れていけばいいわ」

「そんな時間なんて!」

 思わず荒げた声は悲鳴にも似て、口に出せずにいた不安と恐怖が、涙と共に堰を切って溢れてきた。

「皆がいなくなる! もう二度と会えなくなる! なのにどうして!」

 どうして、平気な顔をしていられるのか。

 わからなかった。

 あんなに優しい人々が、愛おしく思っているのに、互いを失うことに何も感じないのか。


 おばあは黙って君香の言葉を聞いている。

 何も答えず、ただ優しい目をしている。


「誰かが死ぬのは悲しいことだわ」

 君香が落ち着くのを待って、おばあはゆっくりと口を開いた。

「別れは辛くて、失うことは痛みを伴う。それはこの島でだって同じ。あなたのお母さんが死んだと聞いて、たくさんの人が涙を流した。そうでしょう?」

「……はい」

 呟くように返事をした。

 けれど、ならばどうしてこうも嚙み合わないのか。

 不死の生物たる人魚の死生観は、人間のそれとは異なる。そう語った宮司の話を思い出す。その理屈は理解できても、それが具体的にどういうものか、君香には想像さえ叶わない。

「生命。心。魂。呼び方は何でもいい。あなたが大祭で失ってしまうと感じるものは何? それらはどこに宿り、どうすれば失われずに済むの?」

 答えられなかった。

 黙り込む君香に、一瀬のおばあは優しく静かに続ける。

「あなたを責めているんじゃないの。あなたにとって、何が悲しくて、何に怒っていて、何が許せないのかを知りたいの。ね? あなたが辛い思いをしているなら、それがどうしてなのか、どうすれば辛い思いをしないですむのか、知りたいわ。わからないなら、一緒に考えましょう?」

 答えたくないのではなかった。

 君香はその問いに対する、確たる答えを持っていない。


 おばあは人魚の言葉を滔々と語る。

 そこに淀みも、迷いもない。

 人魚は大祭で失われないものを心と呼ぶ。それは船の名であり、船の役割だ。

 日々入れ替わる部品ではなく、船が担う物語こそ、船そのものだ。

 人も同じ。生物の細胞は日々生まれ変わる。数年も経てば残るものはない。

 名と想いを受け継ぐからこそ誰かは誰かであり続ける。

 構成する部品がどれほど変わり果てようと、名と想いがある限り、人は続く。


 そうして次に水を向けられたとき、自らの内に語るべき言葉はなかった。

 たとえば誰かの脳だけを他人と取り替えたなら、身体と脳がその誰かを名乗るとき、脳の側を本物だと指差せる。だってそこには記憶があって、人格があって、それをその誰かの本質と認識している。

 では、記憶と人格を別々に抜き出したら。脳幹や小脳を取り替える分には問題はないのか。記憶を司る器官だけを取り替えたら。人格を司る器官なら。

 巡らせた思考が明確な答えを成すことはない。

 結局はひとつひとつの部品でなく、総体としての人間こそ大事だとしか言えない。

 そしてそれは、相手の言い分を認めることに他ならないとも思う。


 わからない。

 わからないことに、自分はあまりにも強くすがりすぎている。

 何が残れば満足なのか。

 何が欲しいのか説明もできずに要求して、望むものが返ってこないのを非難するというなら、それは幼子の駄々と言う他ない行為ではないか。

 幼い倫理が、初めて見るものへの恐怖に、泣き喚いているだけではないか。


「産み直しは、どうしても必要なことなの」

 小さな子供に言い聞かせるように、おばあは穏やかな声で語りかける。

「次の機会を待てるほど元気のない年寄りもいる。誰一人怪我も病気もしていないように見えたって、この島には医者なんていないし、たとえば島に癌を患っている人が居たって、手遅れになる前に気付くことなんてできないわ」

 目を閉じて、俯いて、君香はやっとのことで頭を振る。

「大怪我をした人が、生きるために他の誰かから臓器を譲り受けるのは許されないこと? 人魚はね、人と同じやり方で子供を産むことができないの。きっと人魚が人の形をして生きることは生き物本来の在り方から外れた、歪んだことなのよ」

 本当はわかっている。

 理解しているのだ。

「けれど大祭が、島に未来を繋いでくれる。老いて死にゆくしかない年寄りが新たな命を得て戻ってくる。島が生き続けるための、たったひとつの希望。けれどそれには、皆の力が必要なの。無理な産み直しは命の危険さえ伴う。都合良く制御することも、必要な分だけやることもできない」


 わからないのは、自分の心だった。

 自分が何を恐れているのか、何を求めてこうして人々を訪ね歩いているのか。それさえもうはっきりとした答えを形作れない。

 わからないのが怖い。いつしか恐怖は、自分自身の心にすら向いている。

 汗と涙が混ざって、頬を伝った。

「それでも、わたしは、皆にいなくなってほしくない……」

 絞り出した言葉が最後の抵抗だった。

 テーブルへ滴る雫から視線を外せないまま、おばあが小さく息をつく音を聞いた。

「ごめんなさいね。ひどいことを言うわ」

 唇を嚙んで嗚咽を堪える。

「自分が嫌だからという理由で、島の皆に死ねと言われても、それを受け入れることはできないわ。あなたが苦しんでいるのは、島の外でだって、誰もがいつかは乗り越えなければならない悲しみなのよ。いのちは生まれ変わり、また次の世代へと受け継がれる。そうやって生き続けて、世界は続いていく。それが生きるということなの」

 言葉と共に伸びてきた両手が、君香を痩せた胸に抱き寄せる。

「あなたの苦しみは、あなたが乗り越えるしかないものよ」


 抱き締める腕を振りほどいた。

 肩で荒く呼吸を繰り返しながら、声にならない声で叫ぶ。

 わかりたくなかった。納得などできない。

 倒れるように逃げ出した君香を何かが遮った。

「君香ちゃん……」

 鏡かとも思った悲痛な顔は、実際は少し離れて立ち竦んでいた奏の顔で、きっと自分はもっと酷い顔をしている。

「あの、あのね。大祭は、」

 意を決して伸ばされたであろう手を払い、耳を塞いだ。

「どうして、」

 途切れた君香のつぶやきに、消え入りそうな奏の声が答えを探す。

「ねえ、散骨に来てくれたおばあちゃん、少し前に転んで足を悪くして、次の大祭まで持たないかもしれない。今度産まれてくる赤ちゃんはね、本当なら四年前に産まれるはずだった子なの。だから、だからね――」

 何度も何度も拝むしわくちゃの手。新しく用意したはずなのに少し古びたベビーベッド。ひどい傷痕を化粧で覆って平気そうに笑う人も、子供たちの中にひとりだけ混ざれず座って見ている子がいることも、全部知っている。

 大祭は島の生命線で、希望で。この島の人たちは遥かな昔からそうやって生きながらえてきた。

 そんなことはもうとっくにわかっていた。

「どうしてわかってくれないの?!」

 金切るような自分の悲鳴を他人事のように聞きながら、思考は奇妙なほどに冷静だった。

 どうして心はわかってくれない。

 糸が切れたように暴れ回る自分の感情を、ただ見ていることしかできない。

「ごめん」

 奏が泣いた。

――わたしが泣かせた。

「わかんない。あたしバカだからわかんない」

 謝られる筋合いなどないのに、荒れ狂う心は詰り、怒り、嘆き、叫び続ける。

「奏だって! 死ぬのが怖いでしょう?!」

 困惑する胸の内を表すように、奏の両手は胸にすがる君香を扱いかねて宙を泳ぐ。

「死にたくないって言ってよ!!」

 自分の叫びは届くと信じていた。


……」

 聞き間違えを疑うような、噛み合わない答えが雷のように虚を打ち抜いて、君香は膝から崩れ落ちた。

 欠けていた何かを理解して、迸るように絶望が心を満たした。


 ああ。

 噛み合わないのだ。

 人魚は死を恐れない。

 死は悲しい。だが恐れてはいない。それは蛮勇でなく、虚勢でなく、ここには愛があるから。

 母が子を命懸けで庇うとき、愛ゆえに母の命は掛け替えのないものではない。

 掛け替えないものとは子の命だ。失われてはならないのは愛された命だ。子を愛する母は、子さえ無事ならそれでいいと、そう本気で思うことができる。


 島では誰もが誰もを愛している。

 誰もが誰のためであっても命を捨てることができる。

 完璧な愛の前において、命は等価で、自分という人格の消滅は既知で、死は恐れるものではない。

 島では誰もが誰もを平等に愛している。いまだ生まれてさえいない命に至るまで。

 だから見知らぬ未来の誰かのために、躊躇いなく命を捨てるのだ。

 人間の行う英雄的な、逸脱した自己犠牲ではない。ただ日常の営みとして、死は受け入れられ、祝福と共に別れが訪れる。

 そうして島は生きている。生き続けている。


 人間には理解できないだろう。

 この世界が、こんなにも美しく完成されていることを。


 家々に灯っていく光から逃れるように、人気の無い方へ走った。

 愛は救いではない。

 多くの恋が性欲や支配欲に塗れて薄汚くあるように、愛もまた常に神聖なものではありえない。

 それはただ、生きるために選び抜かれた生命の形に過ぎない。


 誰もが誰もを平等に愛し愛される。それはきっと完璧な愛の形だろう。

 けれど澄んだ水では生きていけない生き物がいるように、人間という生き物は歪み、淀み、欠けた愛の中でしか生きていけない。

 水や酸素にさえ致死量があるように、純粋な愛もまた人を殺す。

 突き詰めた愛は、人にとって劇毒に他ならない。


 今日まで自分が生きていた場所で、明日から自分でないものが自分の代わりに生きていく。それを許容すること。愛とはそういうことだ。

 親が子を真に愛しているというなら、親は子にただひとりぶんしかない生命の席を躊躇いなく譲り渡すことができる。それが愛だ。

 誰もが誰もを愛するならば、誰もが代替を許容される。

 ある日突然別の誰かにとって変わられることを島の人々は許容する。なぜなら彼らはまだ生まれてもいない知らない住民すら含め、島の住民全てを愛しているから。


 島の住人がお前を愛するように、お前も島の住人を愛することが、この島で、島の一員として生きていくための唯一の条件だ。

――けれどわたしは人魚の愛を知らない。わたしにわかるのは人の愛だけだ。

 人間の愛し方で人魚を愛するならば、人間は狂うほかない。

 島の皆をおぞましいとさえ思う。誰も愛せない。だから死ぬのが怖い。自分が解けて消えてしまうのが怖い。それを受け入れてしまう皆が怖い。


 島はわたしの全てを愛し、赦し、受け入れる。わたしは愛せない。わたしは赦せない。わたしは受け入れられない。

 わたしは。

 いっそ心の底から否定し、力の限り罵れればどれほど楽だったろう。

 迷子のように声を上げて泣きながら、暗闇の中を歩き続けた。

 優しい場所に帰りたい。けれど帰り方がわからない。


 大祭の夜が明けても、島は優しさに満ちているだろう。

 けれど、見知らぬ誰かが微笑み手を差し伸べたとして、その優しさが君香に届くことはきっとない。

 宮司と同じように、失ったものを求めて生きていく。


 世界は変わらず美しく、変わらず優しい。

 優しくないのはわたしだ。醜いのはわたしだ。

 穏やかな波の音と、潮の匂いが近付いてくる。砂に足を取られて膝をついた。

 涙も尽き果てた。暗闇にうずくまって、ただ潮騒を聞いた。

 その中に、遠く、微かに届く音がある。


 名前だ。

 夜風に乗って流れてくるのは自分の名を呼ぶ声だ。

 その声は一番聞きたかった声だ。今、一番会いたくない相手の声だ。

 顔を上げる。風が雲を浚い、空の月が顔を見せた。

「花緒」

 月明かりに照らされて立つ少女は肩で息をしながら、振り向いた君香を認めると一目散に駆け寄った。

 会いたかった。

 会いたくなかった。

 倒れ込むようにして抱き留める花緒の、柔らかな唇が紡ぐ言葉が今は何よりも怖い。

「――ごめんね」

 頬に触れる手の温かさが、今の君香には怯えを催す。

「私、知ってた。君香ちゃんが苦しんでること、悩んでること、気づいてたのに。私には何も出来ないって、逃げてたんだ」

 言葉は出せず、代わりに首を振る。

 花緒は君香の手を取って隣に腰を下ろした。

 そのまま寄り添って過ごす沈黙こそきっと今の自分に一番必要なものだったはずだ。


「あのね、」

 だから不意に呟かれた言葉が、呪い染みて君香の身体を強張らせる。

 続く言葉を遮ろうと口を開いても、喉は意味のないうめきを零しただけだった。


「小さい頃に親の言いつけを破って、夜更かしをしたことがあるの」


 島の皆と違うのが怖い。

 言葉を交わせばわかり合えると思った。

 何かが変わると期待して、多くの理屈を、感情を、道理をぶつけた。


「真夜中にこっそり布団を抜け出して、見慣れた島がまるで知らない場所に思えて、歩けば歩くだけ、走り回れば走り回るだけ、知らない世界が広がっていく。すごく楽しかった。でも、遊び疲れて月をふと見上げると思うの。空ってこんなに広かったっけ、って」


 違う。

 そうではない。

 必要なのはどんな言葉でも理屈でもない。

 ただ寄り添ってくれればそれでよかった。


「自分ひとりを残して、世界に誰も居なくなってしまったんじゃないか、って。そう思うと通りに誰もいないのが、見渡す家に明かりひとつないのが、波の音しか聞こえないのが、急に不気味に感じ出して、急いで家まで逃げ帰ったの。家にはもちろん親が居て、抜け出すときと同じように寝息を立てていて」


 理解では決して越えることのできない絶望的な溝を、ただ繋いだ手が埋めてくれるかもしれなかった。沈黙だけが味方だった。

 空を見上げて語る横顔が、手を伸ばせば触れられる筈の距離が遠い。

 強張る君香の手を、花緒が同じ力で握り返す。

 

「抜け出したのが知られれば、怒られるのはわかりきっていたから、布団に戻って目をつぶって。けれどなんだか目が冴えて眠れなくて、そうしたら不安が山のように押し寄せてくる。眠るって、なんだろう。死ぬってどういうことなんだろう。自分がいなくなってしまうのって、どんな気持ちだろう。しまいには泣きながら親を揺すり起こして、私、泣きついちゃったの」


 わたしとあなたは同じ気持ちにはなれない。

 言葉などいらない。欲しいのは理解でも共感でもない。

 違いも恐れも何もかも忘れて、それでもいいと思える何かだった。


「そうしたら私を抱きしめて、言ってくれたんだ。へいきだよ。大祭と同じだよ、って。眠ることも、死ぬことも、大祭も、全て同じなんだ。今日わたしが居なくなっても、明日のわたしが、次のわたしが、島の誰かが、わたしの大切なものを受け取ってくれる。だから怖くない。君香だって、怖がらなくていいんだよ」


 どんな言葉も君香を救わない。

 理解も、共感も、深い闇の底へと消える。人と人魚の隔たりを越えては届かない。


「ひとつだけ教えて」


 聞くべきではないことはわかりきっていた。

 暖かな優しさに包まれて、全てを忘れ赤子のように全てを委ねればよかった。


……?!」


 それでも言葉は口から零れた。

 母のいない花緒が親というとき、それは宮司でしかありえない。

 人魚の言葉を口にするはずのない宮司でしか。


 それは誰の言葉だ。 

 宮司の言葉だと言ってくれ。

 それは誰の記憶だ。

 私の記憶だと言ってくれ。

 内心は祈りにも似て、どんな嘘にでもすがれるはずだった。


 花緒が首を横に振る。

 穏やかな笑顔で、優しい声色で。

 絶望を覗き込む君香を、見知らぬ誰かが背中を押す。


 闇の底から心が囁く。


――おまえはだれだ。

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