その日は給食にチーズタルトが出たことを覚えている。

 タルトは父の大好物で、だから君香はそれをこっそり持ち帰ることにした。

 近頃塞ぎがちの父が久しぶりに喜んでくれる顔を頭に浮かべながら、君香はいつもの道を走って帰り、そして母が息を引き取ったことを知った。


 なぜ父が泣くのかわからなかった。

 愛しているからだ、と父は言った。

 わからなかった。

 末期の母は君香はおろか父にすら呪いの言葉を吐きつけ、この世の全てを憎み、猜疑し、ベッドに縛りつけられてなお暴れ続け、枯れ木のように干乾びて死んだ。

 学校では四六時中誰かが恋の話をささやいている。そしてその好意が容易く敵意に反転するところを見てきた。胸焼けするような惚気を垂れ流した同じ口で同じ相手を口汚くののしり、恨み骨髄に相手を貶める。

 きっと恋とはそういうものなのだろう。それが果てまで行きついたところが母なのだ。

 けれど父は手酷く裏切られ傷付けられながら、それでも母を見捨てはしなかった。恨み言のひとつさえこぼすことなく、ただひたすらに母を支え続けた。

 なぜ父さんは平気なの。

 尋ねる君香に父は聞かせた。

 平気なものか。

 父さんだって辛くて苦しくて、けれど母さんはもっと辛かったのだ。だからどうしようもなかったのだ。

 お前が言いつけを破って酷い虫歯を患ったとき、お前は怪我をしていない腕を泣きながら何度も何度も、腫れ上がるまでそこらじゅうに叩きつけた。お前だってそんなことをすれば手が痛いことも、平気ではないのも知らなかったわけではないだろう。それでも奥歯のほうがずっと痛いから、どうしようもなかった。

 それと同じだ。

 ひと繋がりの苦しみが愛を伝って父さんの心を引き裂いてしまうから。だからどうしようもなかったのだ。

 恋と愛は違う。

 恋は誰かを、自分のものにしたいと焦がれることだ。

 愛は誰かが、すでに自分の一部なのだと気付くことだ。

 そう言って君香を抱きしめる大きな手から、父の痛みと悲しみが伝わってくるようだった。


 タルトは母と共に燃えた。

 父があれほど嬉しそうに食べるチーズタルトが、父でなく母の好物だったことを、君香はそのときはじめて知った。


 ――――


 島自体の山体が電波を遮らない本土側でだけ、須摩島は辛うじてネットが通じる。

 ならば家では無理でも堤防の端ではどうかと試したところ、アンテナ一本分のかすかな電波が届いていることが判明した。

 さっそく端末に調べ事を突っ込んで、電波まみれの街中に慣れた身では歯噛みするような速度で帰ってくる検索結果に目を通す。

 テセウスの船。

 ギリシャの古い伝説に謳われるテセウス王の船は、遥か後の時代まで受け継がれていた。だがその船体を形作る木材は朽ちる度に取り替えられ、今や伝説の時代の部品などひとつとして残っていない。

 それを見た賢人が問いを立てる。

 古い船の部品が船の名前は同じまま、全て入れ替わったとして。その船は以前と同じ船と呼べるのか。


 同じ船だと、君香は思う。

 この問いが問題としているのは、個々の部品で構成される船体そのものではない。物理的な船体ではなく、船体を見て人々が思い浮かべる船という物語だ。

 人間だって変わらない。

 人間が実際には数多の細胞の総称だったとしても、人は人をひとつの個だと認識する。

 全身の細胞は常に入れ替わり続け、数年も経てば元の細胞はほとんど残されてはいない。それでも数年ぶりに会う知人が以前会った人間と同じ人間であることに疑いを抱く者はいない。

 全ての部品が入れ替わった船は、同じ船のままだ。

 大半の細胞が入れ替わった人間は、同じ人間のままだ。

 では、全ての住民が入れ替わった島ならば?

 宮司はあの話に続けて、何を語ろうとしていたのだろう。

 この島の住民は、君香自身さえ含めて、人間ではない。知らない記憶。アルバムの見知らぬ顔。懐かしい誰かの写真。

 わたしは何だ。

 溢れかえるほどの情報を得たはずなのに、疑問に答えは少しも得られていない。


 君香は大きくため息をつく。

 ふと近付いてくるエンジン音があることに気が付いて、端末から顔を上げた。

「こんなところでなにしてるの? 暇ならお姉さんとドライブしない?」

 エンジン音の出所は海の上だ。日焼けした肩を晒した格好の新谷さんが船の操縦席から顔を除かせる。

「この島だと、船ってそういう扱いなんですか?」

 エンジンを吹かし、船を埠頭へと寄せてきた新谷さんはにこりと笑って、

「まあそうね。車より船の方がずっと多いもの。気分が沈んだ時は、思いっきりかっ飛ばして風に当たるのが一番」

「行き先は?」

「まだ決めてない」

 そう何度も船に飛び乗ったわけでもないが、ずいぶんと慣れてきた気がする。

 多少の危なげはあったが、ためらいはもうなくなった。船の舳先に乗せられて、船は一気に加速する。波はうねり、弾ける飛沫が気持ちいい。

「新谷さんは、わたしの母のことも知っているんですよね」

 船の後部と声を張り上げて会話をする。

「そりゃあもちろん知ってるよ」

「新谷さんから見た母は、どんな人でしたか?」

 しばらく返事は帰ってこなかった。


「わからない。香波さんのこと、私は全然わからないんだ」

 新谷さんが母の名を口にする。どこか遠くの国の人の名前の響きのように聞こえた。

「これは島を出るようになってなんとなくわかったことなんだけどさ、どうも私らは猛烈に惚れっぽいらしいんだよね。遺伝的に遠い相手を探す本能的なやつなのかな。島の外の人間のこと、すぐ好きになっちゃうみたいなの。島の結婚は、生まれたときから知ってる家族同然の相手と、改めて家族になるだけ。だから、愛する人に連れられて島を出た香波さんを、羨ましいと思った」

 違う。

 そんなのは違う。胸の内で否定する感情が暴れて、頭は必死に理由を探した。

「……母は父を愛していなかったと思います」

 こんなことを聞かせるべきじゃないと思いつつも、叫びを我慢できなかった。

「母は結局、恋しかできなかった。母の最期は、ひどい死に様でした。……恋は。あんなものは、憧れたり、羨んだりするものじゃない。そんなものより、誰もが誰もを大切に思うこの島の方が、ずっときれいで、素晴らしくて……」

 息苦しさで言葉に詰まる。

 一度動きを止めると、湧き出てくる言葉が本当に自分の本心かわからない。自分がわからない。


「私もそう思う」

 新谷さんが言葉を引き継いで、少し呼吸が楽になった。

「外の男を好きになったときは、私も香波さんみたいに島を出て、駆け落ちしてでも相手と添い遂げるつもりでいた。でも結局島を選んだ。島が私なの。私はこの島なの。この場所以外で生きていくことなんて、考えられない」

 重苦しい言葉を場違いに明るい声に改めて、新谷さんは話を続ける。

 きっと心からの言葉だと思えた。

「香波さんはね。私からすれば歳が離れた優しいお姉さん。私の気持ちをなんでもわかってくれた。私も香波さんの気持ちなら、なんでもわかってるつもりだった。だから香波さんが島から居なくなったとき、ショックだったよ。私は今でもあの人の気持ちも、あの人がどんな人だったかも、わからないまま。居なくなった人が何を考えてたかはわからない。――ごめんね、役に立たない話しかできなくて」

 心からの言葉だと思えたのだ。

 嘘や誤魔化しの潜む隙のない、心のこもった言葉だ。島で生きて、島を愛して、この島に人生の全てがあるから出せる言葉だと君香は信じた。

 数年前にはこの島には見知らぬ人々が暮らし、目の前のこの人が影も形もなかったなど、ありえない話だった。


 電話の呼び出し音が響いて止まる。会話はエンジンと波音に遮られて届かない。

「人が増えるけど、良い?」

 話を振られて、断る立場でもないと君香は頷く。

「あと、行き先も決まった」


 新谷さんと二人揃って呆れ返ったのは、何も迎えに行った先にいた人物が花緒と奏という見飽きた組み合わせだったからではない。その二人が知性基準で言って、夏休み初日の中学生くらいの見た目をしていたからだ。

 普通、頭のどうかしていない人間はバーベキューセットを直で背負ったりしないし、バケツとスイカと釣り竿で両手の塞がった相方もいい勝負である。

「あれ?! 君香ちゃん乗ってる!?」

「なんで? どういうこと?」

「……説明しても良いけど、まずはその頭悪い恰好のこと聞いて良い? 私の船に乗せたくないんだけど」

 そう言われた二人は顔を見合わせる。

「いやー、あのね? 君香ちゃんが、すごい落ち込んでるみたいだったので、元気づけてあげようと思ってですね」

「お肉食べたら元気出るよねって。あとスイカ。あと魚」

 気持ちはすごく嬉しい。ただ絵面の酷さで素直になり切れず、君香は顔を背けて憎まれ口を叩く。そうでもしなければすぐにでも笑い出してしまいそうだった。

「ふたりはわたしのこと、ご飯食べさせとけば悩みが全部なんとかなる奴って思ってるってこと?」

「……………………ごめん」

 紐で縛っただけの荷物から手持ち花火がするりと落ちた。隣の新谷さんにげらげらと豪快に笑われて、もう我慢などできるはずもなかった。

 止まらない。息ができない。笑い過ぎでお腹が痛くて涙が出る。

 最後には当の花緒と奏までお互いを指差し笑って責任をなすりつけ合い始めた。

 こんなに笑ったのはいつぶりだろう。

 

 ようやく呼吸を整えて、二人を船に乗せたのだが、驚くべきことに花緒は服の下に水着まで着込んでいた。二人を合わせた夏のフルセットは、どう見ても夏を満喫しに来た観光客にしか見えない。須摩島に複合レジャー施設でもあるかのような夏の重装備である。

「新谷さん、決まった行先ってどこですか?」

「島! 島の小屋だよ!」

 聞いてもいない奏に答えられて、君香はため息をつく。何ひとつわからない。

 須摩島からは離れているので、別の島ということだろう。だが須摩島の周囲に人の住む島はないと聞いている。ならば島の小屋とは何のことか。

「百聞は一見に如かず、ってね。ほらあれ、そろそろ見えてきた」

 新谷さんの言う通り、水平線の向こうに何かが見え始める。


 海面に掘っ立て小屋が建っていた。

 あまりに奇妙な光景に我が目を疑ってこすると、小屋が正しくは海面にではなく、海面すれすれの陸地に建てられているのがわかる。

 珊瑚礁だ。小屋は珊瑚礁の上に立っている。

 とはいえ。

 近付けば近付くほど、言いたくはないがひどい見てくれだった。周囲の景色が美しいからこそ余計際立つ蛇足感に、なぜこんな真似をするのだろうと本気で思った。

 船は小屋まで寄せられず、花緒と奏は靴が濡れるのも厭わず浅瀬に飛び降りる。少しためらって君香も続いた。


 足元に打ち寄せる波を蹴り分けて、二人の背を追った。

 小屋ひとつしかない島の浜に、奏がバーベキューセットをどかりと据え付け雑に炭を放り込む。

 服を脱いで水着姿になった花緒がこちらに布切れを差し出した。

「はいこれ。君香ちゃんの分の水着」

 怪訝な顔を向けると、花緒は小屋を指差す。中で着替えろという意味だろう。

「あ、うん」

 思わず受け取ってしまったものに視線が釘付けになる。生まれてこの方水着など着たことがない。

 小屋に送り込まれながら、やはり無理だと言うべきだったか後悔する。

 躊躇っている間に扉が閉まった。燦燦と降り注ぐ陽光から切り離されて、狭く薄暗い個室の中に閉じ込められる。

 目を閉じて深く呼吸をする。海の匂いがして、少し気持ちが楽になった。

 平気だ。ここでは誰もわたしに石を投げない。

 意を決して服に手を掛ける。小屋に鏡が無いのは良いことだったろうか。


「わ、可愛い」

 真っ先に届いた花緒の言葉が照れ臭くもあり、嬉しくもあった。

「おー、似合ってるじゃん」

「いいねえ。」

 完全に食い物の準備に没頭していた奏が顔を上げる。新谷さんに至っては、まず船から降りてもいない。あれ、と頭に疑問符が付いた。てっきり自分に続いて、水着に着替えるものと思っていたのだ。

「小屋、空いたんだけど、ええと」

「海に入るのは二人だけだよ。やることあるから。あ、靴は履いて。危ないから」

 急いで小屋に残した靴に手を伸ばし、言われた通りに履き直す。立ち上がる君香の手に、花緒の手が繋がれた。

「さ、行こう。こっちだよ」

 手を引かれるままに歩き出す。示された行先は海だ。そういうルートを通っているのか、思ったよりも海底が深くなるペースは速い。

 面食らっているうちに水は胸元まで上がってきている。

「息を全部吐いて」

 声に振り向く。すでにこちらを向いていた花緒と目が合った。

「肺の空気をきっちり抜けば、おもりが無くても海の底は歩けるから」

 本能的な恐怖が先に立って、けれど繋いだ手がそれを払ってくれる。

 口から海水が流れ込み、空気が泡となって逃げていく。ためらいさえ乗り越えれば、苦しくはない。

 水の抵抗を受けながらゆっくりと進む海底散歩はひどく奇妙で、それでいてとても落ち着いた。

 海底のいろんな地形をふたりで見て回る。

 生き物が山ほど住み着いた岩礁、垂直に近い岩の斜面、岩陰の潮だまり、急に落ち込んだ砂地、注意しなければならない毒のある魚やウツボの居そうな岩の隙間。

 海の上をきれいだと思った。

 とっておきの絵の具みたいな色の海と、同じ色をした空を美しいと感じ、その景色に無遠慮に居座る素人造りの無様な掘っ立て小屋に文句を言いたいと思った。

 今は思わない。

 この景色に通い詰めるために小屋を建て、それを地上に隠した誰かの気持ちがわかる。


 開けた場所で立ち止まった。

 少し先に何かの影が落ちていて、見上げるとちょうど頭上に船があった。新谷さんの船だ。船からはよく見ると針の無いおもりだけの釣り糸が垂らされている。

 その糸を花緒が二度引くと、船上からなにかが降り注いだ。

 撒き餌だった。

 ゆっくりと沈む撒き餌を見上げていると、隣の花緒にじっとしているように身振りで示された。

 指のすぐ先、触れそうな位置を小さな魚が通り過ぎていく。自分の耳と花緒の耳の間を、大きな魚が通り抜けて、水の流れに髪の毛が跳ねる。

 大小様々の色鮮やかな魚たちが、無尽蔵に思えるほど岩陰から湧いてくる。海面から梯子のように降り注ぐ陽の光は波に砕かれて揺らぎ、群がる魚たちの鱗に当たってキラキラと弾けた。


 世界は美しく、世界はやさしい。

 どこへ行っても悲しみと地続きの、これまで君香が生きてきたところと同じ世界のはずなのに、ここは全てが違って見える。

 心次第で全ては変わる。

 塩も胡椒も忘れたせいで、ただ焼いて海水で味付けした肉が今までで一番美味しく感じたことも、まるで陽も落ちないうちにやる花火がこんなに楽しいのも、何かの間違いでもなければ信じられなかった。

 けれどそれよりなによりも、こんなにはっきりとした手触りのあるやさしさが、暖かな愛が消えて無くなってしまうことが信じられない。

 どんな真実が待ち構えていようと、平気だと思えた。



 日が傾き始めた頃に小屋を離れ、須摩島へ戻る。

 新谷さんは奏を送っていくというので、花緒と一緒に船を降りた。

 意外だったのは、降りた堤防にこちらの帰りを待つ人間がいたところだ。


「やあ、おかえりなさい」

 そう言うと、宮司は眺めていた小さな蟹を海に逃がした。その姿を見てこの人がかつて海洋生物の研究をしていたという話を思い出す。

 記憶の糸につられて別の何かを思い出しそうになるのを、頭を振って振り払った。

「お父さん? 何かあったの?」

 減った荷物を抱えた花緒が訊ねる。どことなく嬉しそうな声音で、返答によっては荷物を半分ほど押し付けようとでも考えているのがわかった。

「何があったというほどでもないが。大祭の日取りが決まった。二日後の夜だ」

 花緒は小さく目を見開いて、

「忘れてた。もうそんな時期なんだ。でも、それだけ?」

 髪を掻いていまいち納得のいってない顔。だが宮司はそれだけだ、と頷く。

 だから宮司がその話を、自分に伝えに来たのだと理解した。

「ねえ花、」

 呼び掛ける。

「花のお父さんと、二人で話がしたい」

 聞きたいことはあるのだろうが、振り向いた花緒はすぐに返事をした。

「……わかった。お父さん、君香ちゃんよろしくね。あとこれ」

 バケツをひとつ受け取って、宮司はそろそろ水平線に接しそうな太陽に目を細める。

「うん。話している間に暗くなるだろうしなあ。大丈夫。家まで送っていくさ」

 神社へ向かう花緒の背中を見送って、それから堤防に腰掛ける宮司のふたつほど隣に自分も座った。


「君の母親の散骨に行った海域を覚えているね?」

 潮騒の音だけが聞こえている。

 宮司の横顔は彼方からの夕陽に隠されて、表情までは見えない。

「あの辺りは海流の関係で極端に栄養の少ない海域でね。ほとんど生き物が存在していない。直下には溺れ谷と呼ばれる海底渓がある。クジラが外敵のいない南の海で子育てをするように、この島の人魚は伝統的に、あの場所で繁殖活動を行う。溺れ谷はこの島の住民にとっての聖地だ」

 逆光の中の宮司は、相変わらず作り物めいた微笑みを浮かべている気がした。

「数年に一度、満月の夜、老いも若きも全ての人魚が海へと身を投じ、溺れ谷へ向かう。それが大祭だ。外敵のいない海域で数日を掛けて、ヒトの形に寄せ集った人魚たちが解け、混ざり合う。老いた者は若返る。病は癒され、傷は消える。そうやって人魚は死なず、永遠を生きる」

 島の人々はヒトではない。

 その言葉をまだうまく呑み込めてなどいなかった。そうすれば自分というものの実感さえ失くしてしまうだろうから。

「だから、わたしにはわたし以外の誰かの記憶があるんですか」

「概ねはそうだ」

 短く、力のある肯定に、君香は言葉を探す。浅はかな言葉を返せば言葉で絞め殺されそうとすら思う。

「大祭を終えれば島の皆は記憶を失って、誰かがそれを受け継ぐということですか」

「違う」


 底冷えするような否定の言葉に、身体が強張るのを感じる。だが同時にその言葉の強さがこちらを向いていないことも理解した。

「大祭の後に島の皆はいない。バラバラになった細胞が元の組み合わせに戻ることはない。島に戻るのは他人のパーツで構成された、同じ社会的役割を果たすじ名前の別の誰かだ。元の人物の断片的な記憶と、周囲から見たその人物の記憶で、今まで通りの生活を再開する」

 この人は何を言っているのだろう。

 まるで想像の付かない話だった。

 島の全員が、一部の記憶を継承しただけの、全くの他人に取って代わられる?

 まるでそれでは、

「――皆が、死ぬってことじゃ、」

 呟きの続きは潮騒に呑まれて消えた。

 自分の声を聞いて、初めて自分が震えていることに気付く。

「島の者は産み直しと呼ぶ。死ぬとは考えていない」

 必死で宮司の腕にすがりついた。宮司の腕は微動だにしなかった。宮司の声が少しも震えてもいないことに気が付いた。

「だとして、それは、死ぬのと、何が違うんですか」

「僕に聞かないでくれ。僕は人間だ。いずれ死ぬ人間と、死ぬことのない生き物とで、同じ死生観を共有しているはずもない。彼らの死生観を人間が理解できると思うのが間違っている」


 この人は。

 この人は何故、平気な顔をしてこの島で生きていけるのだ。

 目を見てわかる。この人は娘を愛していない。愛せるはずもない。数年毎に別人に入れ替わる血の繋がらない相手を、どうやって愛せというのだろう。

「あなたは」

 喉は引きつって、上手く言葉を形作れない。この感情をなんといっただろう。恐怖。ほとんどそうで、少しだけ違う。

「なぜ島を去らず、ここに残っているんですか……」


 逆光の中で、宮司がゆっくりとこちらを向いた。

「テセウスの船の問いは、解体された部品がそれぞれ異なる船に組み込まれたとして、その船はまだこの世に存在しているか、という問いに読み替えることもきる」

 宮司の何かが、こちらを向いた。

「居間で写真を見ていただろう」

 思い出す。

 わたしの中の誰か。君香が自分だと確信した人。


「九洲茜という。僕の妻。君と花緒が生まれてすぐに、この世を去った。――わかるか。この世を去り、解けて、島の誰かに組み込まれたんだ。わかるか。この意味が。この気持ちが」

 怒りと憤りと、悲しみと、少しの喜びがぐちゃぐちゃに滲んだ声が、押し込められてきた人間らしさが、今ようやく暴れるように堰を切る。

「茜を愛している。茜は死んだ。だが茜のあの優しい目が、指が、まだ島の誰かの中で生きている。なのに、茜はどこにもいない。僕は僕と茜の二人だけの記を、娘の友人が思い出して口走るとき、気が狂いそうになる」

 行き場のないままとぐろを巻くありったけの感情が、鎌首をもたげてこちらを向けられているのを感じる。恐ろしかった。悲しかった。

「君の事だ春井君香君」

 なぜだかわからないけれど、ほんの少しだけ嬉しかった。


 この人はこれほどに惨い話をどこか楽しそうに饒舌に語ってしまう。この人はこの気持ちを誰にも語らなかった。この人は島でただひとりの人間として生きてきた。

 この人はそれほどまでに九洲茜を愛している、そのことが春井君香はたまらなく嬉しくて、悲しくて辛い。

「僕はね、無性に、ときどき無性に、島の連中を皆バラバラにして、彼らの死体の中から妻の姿を探し出してやりたくなるのさ」

 宮司の顔が、凶悪な笑みを形作る。目だけが心を失って空虚に浮かんでいる。

「気が狂いそうになる? 違うな。僕はきっと、もう狂っている。狂ったんだ。人間のやり方で人魚を愛そうとした」


 ようやくわかった気がした。

 島の外で、人間として生きようとした母のことを。

 母は愛さなかったのではない。母は人魚のやり方で、娘を愛そうとした。だから狂った。

 人魚として生きることの叶わない島の外で、けれど母は人魚の愛しか知らなかった。


 太陽はいつの間にか沈んでいた。


 父の言葉を思い出す。

 母の遺体の隣に座り込んで、父は壊れたように何度も君香に言って聞かせた。

 愛は自己犠牲ではない。

 愛とは、自らを言い表す言葉だ。

 愛は他者の痛みを自分の痛みのように感じることではない。

 愛は他者を自分のように感じることだ。

 自己愛。親子愛。友愛。隣人愛。愛とは自己という存在が、どこまで続いているかを示す概念だ。


 人魚は島を愛している。

 島の誰しもが家族で、島の誰もが誰もを愛している。

 皆の中に私がいるから。私の中に皆がいるから。

 人々は、自分というものを周囲の皆と共有しているのだ。


 人間とはまるで異なる死生観を持つ人魚は、人間とはまるで異なる自己認識を持っている。

 人間にはそれが理解できない。


 人間として育てられた君香は、それが理解できない。

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