一瀬の家の土蔵には、島の歴史が眠っている。先祖代々受け継いできた品々や書物など、そこには様々なものが収められているそうだ。

 その中に、人魚の伝承も含まれている。

 古くから島民のまとめ役を務めていたというだけあって、一瀬邸は周囲を囲む石垣からして見事なものだった。


 花緒に連れられて行った屋敷は、まさに島の中心といった趣で、広い庭と立派な門構えをしているのだが、植生が微妙に違うせいで君香の想像していた土豪や武家の屋敷というより、なんだか手抜きの植物園のように見える。

「あーっ! 来た! いらっしゃーい!」

 玄関先の人物が、小型犬のように跳ね回って二人を出迎えた。

 島に来た日に君香を誘拐したあの奏は、正確にはその名を一瀬奏という。

「……あー、やっぱり一瀬のおばあがいるんだ」

「どういうこと?」

 何かを察して一瞬足の止まった花緒を振り返る。花緒は少し言葉を探して、

「ん-、えっとね。奏ってさ、今から行くって電話したら絶対道中で鉢合わせる子だから。ああやって自分ちで待ってるってことは、誰かが首輪付けて紐引いてるってことなの」

 苦手じゃないけど緊張するんだよね、と頭を掻く。

 その間に寄ってきた奏が庭の踏み石をぴょいと飛んで、目の前に着地した。 

「一瀬のおばあ、いるの? なんで?」

 訊かれた奏が、良く知らないけど、と前置きする。

「なんか島裏の方で今度誰か子供産みたいんだって」

「あー、そういうことか」

 二人の間で交わされた会話で花緒は納得がいったようだが、こちらにはまるでわからない。

 そんな様子に気付いた奏が口を開く。

「ほら。子供産むか決めるのはうちのおばあだから」

 そうなのか。

 そういう昔ながらの島のしきたりだとしても、子供の出生、つまり島の人口の管理を個人が担うというのは、結構な権威に聞える。なんにせよ君香の常識では測りかねる話だ。

「ここのおばあさんって、そんなに偉いの?」

 尋ねた君香の言葉に、花緒と奏が顔を見合わせて笑った。

「そういうんじゃないよ。でもまあ、奏ちゃんが借りてきた猫みたいになるくらいには――」

 軽口はそこで途絶えた。というのも、件の人物がゆっくりとした足取りでこちらへ向かってきていたからだ。

「あら、構わず話を続けてくれていいのよ?」

 背筋の伸びたひどく品の良い老婆だった。老婆はこちらを一瞥すると鷹揚な笑みを浮かべて会釈を寄こす。

「噂の子ね。奏の祖母です。うちの孫が迷惑を掛けてなければいいのだけれど」

「は、春井君香です」

 慌てて礼と名乗りを返しながら、想像と違った穏やかな物腰にかえって面食らいまじまじと見つめてしまった。

「なにか珍しいかしら?」

「あ、いえ。奏さんのおばあちゃんって言うから、もっとこう、騒がしい人を想像してて……」

 途中まで口に出して、失礼な言い草ではなかったかと口ごもる。恐る恐る目を向けた一瀬のおばあは、笑みを崩さず奏のほうへ顔を向ける。

「そうねえ。それならきっと想像とはずいぶん違うわね。この子はさぞ騒がしいおばあちゃんになるでしょうから。お目にかかるのが老後の楽しみだわ」

 そう言って一瀬のおばあは目元に皴を寄せる。

 あまりにさらりと口に出すので、それが冗談だと一瞬気付かなかった。

「それで、知りたいのは人魚の伝承でいいのね? その辺りは昔調べ事をした子がまとめてくれたから、手を貸してくれればすぐに用意できると思うわ」

 おばあの先導に従って、敷地をぐるりと回って土蔵へ向かう。

 蔵を妙に怖がる奏を置いて花緒とふたりで力仕事をこなす。荷の下から掘り出してもののついでと虫干しも兼ねて縁側に並べた古い資料を、三人で眺めた。

「あ、これ。人魚の嫁入り。これがあたしたちの知ってる昔話だよ」

 奏が指差す一冊を、後ろから覗き込む。

 めくられる和綴りの冊子には、今ハ昔、と多少古めかしくも良く知る昔話の語り口で、この島でかつて起きたとされる出来事が、味のある挿絵と共につづられている。


 弥助は島の貧しい漁師であった。

 あるとき弥助が網を上げると、好奇に駆られ島の近くにまで迷い込んだ一匹の美しい人魚が掛かっていた。     

 人魚は曰く、見逃してくれるならばあなたの漁を手伝って差し上げましょう。

 弥助が言葉に従い人魚を海へと返すと、はたして網を上げるそのたびにこぼれんばかりに魚が獲れた。

 弥助は礼と称し、水で満たした小舟を曳いて人魚を連れて島中を見せて回った。

 これを大層喜んだ人魚は、そのまた返礼と称して弥助と夫婦めおととなる。

 人魚を花嫁として迎えた須摩島は豊漁に恵まれ、永く繁栄したという――


 生々しい性の話や血生臭い残酷さを取り除かれ、消毒された後世の昔ばなしという印象を受けた。

 知りたいのは過去に起きた出来事や実在の動物を下敷きにした、現代の倫理に配慮の無い、生の物語だ。

 多くの人魚伝説はジュゴンやマナティといった水棲哺乳類の見間違えであるとされている。だが、この島の場合は違う。この島には常人と異なる形質をもった特異な人々がいる。それはつまり、過去のどこかに明確に人間とは異なり、それでいて人間と交配して子孫を残せる何かが、現実として存在していたということを意味しているのではないか。

 そしてそれは、昔ばなしの人畜無害な人魚のお嫁さんではない。君香にはそう思えてならない――


「こうして若い子らが額を突き合わせているのを見ると、幸俊くんを思い出すわね」

 思考に沈む君香の頭に割って入ったのは一瀬のおばあの声だった。

「お父さん?」

 おばあの言葉にぴょこりと反応した花緒が顔を上げる。膝立ちでおばあの方へにじり寄って尋ねる。

「もしかして、昔人魚の調べ事をしたのって、うちのお父さんなの?」

「ええ。茜ちゃんとふたりでよくここに通ったものよ」

 一瀬のおばあは、あれはいつ頃のことだったかしらと指折り数えると、年も取るわけだわと愚痴のように呟いた。

「あなたといい幸俊君といい、島の歴史に興味を持つのは外から来た人ばかりだわ。島の他の若い子たちにも見習ってほしいけれど、奏が付き添ってるだけでも喜ぶべきかしら。さあ、そっちの箱に幸俊君のノートがあるわ。興味があるなら読んでごらんなさい」

 示されたのは一冊の大学ノートだ。

 すかさず飛びついた花緒の背に、君香は若き日の宮司と顔も知らない花緒の母親を幻視する。

 肩越しに見たノートには関連する資料の引き写しと、それに関する考察が端正な字で書き連ねられている。


 曰く、この島の伝承には島外の人間に対して見せるための表向きのものと、実際の島民たちが知る内容との二種類が存在するという。

 ひとつは人魚が漁師に嫁入りするパターン。もうひとつは島の少女が浜に打ち上げられた人魚の肉を口にするというものである。

 その先には細に入った疑問点が箇条書きで連なり、続く整然とした考察は、しかし途中で打ち切られていた。

 文面から感じる溢れんばかりの知的好奇心からは、まったくもって奇妙な記述の途切れ方だった。まるで考察が、ここに書き記すことがはばかられる内容に突き当たったとでも言うように。


 物音が消えた。違う。小さな耳鳴りの向こうで今まで聞こえていた物音は続いている。わたしが世界から剝がれ、世界が遠くなったのだ。

 寄り添うふたりの声が雑音として、セミの鳴き声と一緒に脳の表面を上滑りしていく。

 島の先祖は人魚の肉を喰らい人魚と化した。

 きっと幾許か真実に近づいた伝承を、花緒と奏は驚きと共に受け入れ、少し興奮気味に何がしかを語り合っている。


 過去はまだ何かを隠している。

 宮司は間違いなくそれを追った。追ったはずだ。

 彼は島の外から来た。九洲の神社と春井の家はすぐ近所で、子供である自分と花緒は同い年だ。

 境遇の近い二組の夫婦に関りがなかったとは思えない。

 宮司は伝承を追い、そう遠くない時系列で花緒の母は死に、父と母は島を出た。

 父と母は、なぜ島を出なければならなかったのか。

 呪いの始まりがきっとここにある。


 突然変異か、あるいは先祖返りした人間か。

 嫁入りの話を正とするなら、かつて島民は何かと混血し、現在の形質を得た。

 だが納得がいかない。

 太古の人類が水棲だったという仮説は有名だが、それにしたって鱗が生えていたという話は聞いたこともない。

 クジラのように、身体のどこかに酸素を蓄えているというのとも違う。陸上で息を止めているときの息苦しさを、水中では感じないのだ。全身の細胞が、まるで水中であれば肺を使わず呼吸できるかのようなあの感覚を、どんな突然変異も先祖返りも説明できる気がしないのだ。


 遥か昔にこの島で起きたことは、もっと異質で、理解しがたい奇妙な出来事だ。

 人魚の肉を口にしたという言い伝えは、何を表している?

 過去の島民は一体何を口にした?

 人魚の肉とは具体的に何を示す言葉なのだ?

 そもそも、食べたという説話が本当に過去の食事を指しているのか。

 この場所で起きたことは何なのか。


 思わず座ったまま後退り、二人から距離を取った君香の視界に白髪頭が映る。

「納得できない?」

 知らぬ間に触れるほどの距離にいた一瀬のおばあがささやくような声で言った。

「……教えてください。人魚って何ですか。ここで何があったんですか」

 君香は声を絞り出す。

「どうしても知りたいというなら幸俊君のところに行くと良いわ。おすすめはしないけれど、大祭も近いもの。どうしたって知ることになるのなら、覚悟の上でのほうがマシというものよ」

 おばあは笑みを崩さない。慈しみすら感じられるほどに優しい響きの声で、けれど肝心の答えを教えてくれることはない。

 一瀬のおばあが立ち上がり、君香の隣を去る。縁側のふたりに歩み寄って手を叩いた。

「これからお菓子を焼こうと思うのだけど、手伝ってくれる子はいるかしら?」

 お菓子という言葉の響きに弾かれたように奏と花緒はおばあに寄っていく。

 ひとり残された君香をおばあが振り返る。

「あなたは?」

 縁側に差す光の中から、三人分の優しい視線に射すくめられて、君香は思わず動きを止める。

「わたしは……」

 口ごもったのは何故か。一秒に満たない躊躇の後、君香はゆっくりと首を振る。

「先に、失礼します」

 敷居をまたいで部屋を出る間際、一瀬のおばあはもう一度だけ君香を呼び止めた。

「甘いお菓子に未練はない?」

 首を横に振る。

 引き留める奏と花緒の声を背に受けて君香は一瀬邸を後にした。


 未練がないと嘘を吐いた。

 あれは自分が何よりも求めたはずのものだ。

 早足で歩く。握りしめた拳を自覚して、まるで自分が意地を張っているようだと他人事に思った。

 わたしは何を知りたがっているのだろう。

 父と母がどんな理由で島を出たのであれ、わたしは今ここにいられる。わたしがここにいることを責めるものは誰もいない。それでいいではないかと言うわたしの他に、頑ななわたしが頭のどこかにいる。

 焚火に飛び込む羽虫のように、自分が何かに誘われているのを感じる。止まない思考の鬱陶しさに耐えきれず、君香は走り出した。

 息苦しさで頭の中を満たし続ければ、何も考えずにいられると思った。

 足を動かす。無心に足を動かす。

 脇腹が悲鳴を上げても走り続ける。

 破れそうな肺に顔をしかめ、それでも悩みに苛まれるより良いと感じた。

 風が吹く。熱気と湿気を含んだ潮風の匂いが鼻腔をくすぐる。

 辺りが開けて視界一杯に海が広がると同時に、むせ返るような潮の香りの壁にぶつかった。

 絶え絶えの足取りで車道を横切って、海岸沿いの胸壁に突っ伏した。

 テトラポットにぶつかって砕ける波の音がする。肺が必死に酸素を求めて、引きつった呼吸を繰り返している。

 水平線から押し寄せる無数の波と海風に、海の中で感じた心地良さが帰ってくる。

 潮風が、肺と共に心を満たしてゆく。


 わたしは何だ。

 この気持ちは何だ。


 ――――


 神社へ続く石段は相変わらず急で、散々走って消耗した身体には少々酷だった。

 一度休憩を挟んで登り切った先、宮司は脚立に腰掛けて庭木、あるいは鎮守の森に枝切り鋏を振るっているところだった。

「おかえ――いや、花緒は一緒じゃないのかい?」


 鳥居と玉砂利。

 まただ。

 本殿脇の社務所は住居も兼ねている。 

 強烈な既視感。

 植木鉢。ふたつあったうちのもう片方はわたしが割って池に沈めた。

 覚えている。

 まるで生まれたときからこの場所を知っていたかのような、覚えていて当たり前の感覚。思い出すまで意識もしないのに、記憶は順繰りにいくらでも湧いてくる。

 こんなことはあり得ない。

 鳥居は裏から見るとひび割れを継いでいるのを知っている。

 知らない。

 早く取り換えろと言い続けていた玄関の電灯はやっと新しくしたのだ。 

 そんなことは知らない。

 旅立つ前の祖父が植え、まだ実の成らなかった柿の木は、今は甘い実を付けるのだろうか。

 それはわたしが知るはずのないことなのに。

「どうかしたのかい」

 幸俊。

 ずいぶん歳を取った。けれど目元は変わらない。黒縁の、四辺全てを囲む太いフレーム。野暮ったさをからかわれても、この人は昔からこのタイプのフレームの眼鏡しか掛けなかった。

 この人は変わらない。変わるはずがない。

 また会えると約束したのだから。


――


 おかしくなりそうだった。

 違う。

「おかしなことを、聞いて良いですか」

 おかしくなったから、こんなことを口走るのだ。

「それが、初めてで。ここで誰かが怪我をして、慌てて家から救急箱を持ってきて、けれどわたしも転んじゃって――」

 話すことに夢中になっていた君香がふいに視線を向けたとき、宮司の時間は完全に凍り付いていた。

 人間はこんな顔ができるものなのかというほどの、あまりに多くの感情の混ざった顔をしていた。

「あの、」


「――見るな」

 底冷えのする声がこちらの問い掛けを遮った。

 誰かが思う。この人はこんな声も出せるのだ。あの人がこんな声を出せるようになったのだ。

「その目で僕を見るな。鳥居の話もするな。他に用があって来たんだろう。用件は何だ」

 その言葉で何とか自分を取り戻せた。忘れてしまった呼吸のやり方をなんとか思い出しながら、君香は途切れ途切れに説明する。

「わたし、一瀬の家の土蔵で、あなたのノートを見ました。花はまだ一瀬の家にいます。わたしは、ノートの続きを、知りたくて」

 目を合わせないまま、宮司の指が社務所を指差す。

 中で待てという意味だろう。一礼して指示に従った。

 玄関で靴を脱ぎ、廊下を進もうとして立ち止まる。どこで待つべきか少し迷って、自分が居間で待つべき人間だと気が付く。居間がどこかなどとは、考えるまでもない。

 少し記憶と違うところはあるけれど、ここは自分が良く知る家だ。

――記憶と違う? 初めて来たはずのこの家が?

 だがそうなのだ。

 どうやっても否定できないほどに、君香はここを知っている。

 テーブルの四辺のうち、箪笥の側は父の定位置だったので、自分がその向かいに座る習慣だったことを、その場所に座ってから思い出した。


 あまりの違和感の無さが言いようのない恐ろしさに繋がって、君香は別の場所に移ろうと反射的に立ち上がる。

 その拍子、身体を背後の棚に強かにぶつけた。一冊の本がゆっくりと棚から落ちて、ページを大きく広げる。

 落ちたのはアルバムだ。

 棚に並ぶ知らないアルバムのうちのひとつだ。

 他所様のアルバムなど、勝手に見るべきではない。頭ではそう思っても、どうしても目が離せない。


 景色は疑いようもなくこの島で、日付は今からほんの数年前を示している。けれど知っている顔がひとつもない。見た覚えのある場所と、まるで知らない顔がいくつも並ぶ。

 全ての島民の顔が頭に入っているわけでもない。

 だがこれほど多くの写真が収められたアルバムに、見知った顔がひとつもないということがあるだろうか。

 この家のアルバムに、花緒の写真がひとつもないということが、ありえるだろうか。

 恐怖に駆られて次から次へとページをめくる。

 知らない。ページをめくる。知らない。めくる。知らない知らない知らない。

 さほど多くの人間が住んでいるわけでもないこの島の、見覚えのある近所の風景が収められたアルバムに、記憶にある顔がひとつもない。

 半ば程までページを進めて、ようやく知った顔に行き当たった。

 半端な和装と黒縁の眼鏡。宮司だ。宮司と知らない女の子のツーショットだ。

 救われたような気持ちでページをめくる指を止めて、写真に添えられた題名に目が留まった。

『花緒、十二才の春。お父さんと』 

 知らない顔だった。

 こんな子は知らない。

 この子が花緒であるはずがなかった。ふと見た印象も顔の造りからしてまるで違う。合っているのは性別と撮影日時から逆算した年の頃だけというほどに、似ても似つかない女の子だ。

 殆ど狂乱するように、乱暴にページを進める。

 何かの間違いだ。

 これはどこかよく似た違う場所か、新しく見えるだけのずっと昔のアルバムで、宮司によく似た人が一人写っていただけだ。でなければこんな――、


 花緒がいた。 

 花緒だけではない。どの写真にも見覚えのある顔が並んでいた。

 花緒がいる。奏がいる。新谷さんも、一瀬のおばあも、お節介焼きの奥様方も、犬の朔太郎も当たり前のような笑顔で写真に収まっている。

 ページを遡っても君香はほとんどの顔を知っている。

 そしてとある日を境に、まるで島民が入れ替わりでもしたかのように写真は見知らぬ誰かたちのものに変わっていた。


 震える手で頭を抱えて目を覆う。

 わからない。

 こんなことは知るべきでなかった。

 こんなものは見るべきでなかった。

 忘れてしまうべきだ。

 忘れよう。

 忘れなければならないのだ。

 恐れに歯の根を鳴らせながら、重い身体に鞭を打つ。


 アルバムを棚に戻そうとして、その写真立ての存在に気がついた。

 何の変哲もない家族の写真。

「おかしいな……なんで……」

 自分の頬を伝う涙の意味がわからない。

 写真の中の宮司は、今よりもずっと若く、どこまでも優しい目をしている。

 その隣には、飽きるほどに見た、まるで知らない顔が寄り添っている。

 理屈でなしに直感する。

――わたしの中にこの人がいる。この人の中にわたしがいる。


「アルバムを見たのかい?」

 背後から掛けられた声がひどく落ち着き払って聞こえたのは、こちらがひどく動揺しているからなのかもしれない。

 麦茶を盆に載せ居間に入ってきた宮司が、テーブルに茶を置き向かいに腰を下ろす。

「しかし困ったね。人魚のノートにそのアルバム。君自身の話。話すべきことが多すぎて、どこから説明したものやら」

 顎に手を添え考え込む宮司が、少しの間の後、こちらに向き直る。

「ふむ、それじゃあ最初から話そうか。僕がこの島の外から来た人間だという話は聞いたかな」

 直接は聞いていないが、そんな気はしていたし、一瀬のおばあの口からもそういう話を聞いた。小さく頷き、宮司が話を続けるのを黙って聞く。

「だからつまり、僕は君と違って人魚ではない。両親ともに人間で、生まれも育ちも島の外。ここに来たのは、海洋生物の研究のためだった。というのも、ここに来る前僕はいわゆる生物工学というやつをやる人間の端くれでね。ベニクラゲ、という生き物を知っているかな?」

 初めて耳にする名前だった。首を振ると、宮司は片手をこめかみに、もう片方でそこにキーボードでもあるかのようにテーブルの天板をリズムよく指で叩き始める。

「ベニクラゲは特異な生態を持つ小さなクラゲでね。老いた不死鳥が燃え尽きてその灰の中からヒナが生まれるように、年老いたベニクラゲが肉塊となり、その中から同じDNAを持つクラゲの幼生が生まれる。彼らは人やその他の動物のようにテロメアが短くなるということがなく、細胞分裂に限りがない。歳を取るたびに赤ん坊に戻り、外敵から捕食されない限り、永遠に生きることができる。解釈にもよるが、不老不死の生き物というわけだ。そして、そのベニクラゲに似た能力を持つ未知の生物がこの海域に存在するというまことしやかな噂を聞きつけて、僕はこの島に来た」

「それが、言い伝えにある人魚ですか?」

 宮司がにこりと微笑む。普段の笑みとは少し違う印象を受けた。

「察しがいいね、その通りだ。とはいえ、ベニクラゲが僅か数ミリしかない生き物であるように、この島の人魚も、人魚と聞いて想像する生き物より、もっと原始的で小さな生き物ではあるのだけれども。そしてこの島の伝承は、島民がその人魚の肉を喰らい特異な体質を得たと伝えている」

 君香は一瀬邸で見た、ノートに綴られた端正な字を思い出す。

 かつて宮司が疑問を記すことを止めた先にある不都合な真実。

「けれど、あなたはそれに納得しなかった」

「そうだ。足の悪い人間が動物の足を食べても足の怪我は治らない。眼球を食べても目は良くならない。魚を食べても速く泳げるようにはならない」


 目が覚めるような思いだった。

 そうだ。人魚の肉を食べても、人は人魚になりはしない。

 当然の話だ。牛を食べても牛にならないのが当然であるように、鶏を食べても鶏にならないのが当然であるように、人魚を食べても当然に人は人魚になりはしない。

 おとぎ話と現実には埋めきれない隔たりがある。

 だとすると、そこにはなにがあるのか。

 宮司が続ける。

「ある程度進化した多細胞生物であれば、食事から他者の遺伝子を取り込むことは不可能なんだよ。性質そのものが変わるというのなら、遺伝子レベルでの変容が起きているはずだが、単なる摂食でそれが可能なら、アレルギー反応を起こす人間なんていない。人魚の肉を食べて不死身の人魚になる。そういうお話が成立したころの日本は中華思想の強い影響下にあったわけだし、中国の薬膳における同物同治の考え方なんかを思えば、昔はそれほどおかしな話ではなかったのだろうね。けれど、今の時代の科学的な知識に照らし合わせてみると、これはまったくもっておかしな話なんだ」


 君香は深く息を吐く。当たり前の話が連なるばかりで、反論すべき粗は思い付かなかった。けれど。

「だったら、この島の人々は、どうして人魚の形質を持っているんですか」

 宮司が目を細めてこちらに視線を合わせる。

 ひどく剣呑な空気に、思わず唾を飲んで背筋を正す。

「言っただろう? ある程度進化した多細胞生物であれば、食事から他者の遺伝子を取り込むことは不可能だ、と」

 何が言いたい。疑問は口に出せない。

 宮司の言わんとすることがわからない。

 捕食者に睨まれた獲物のように、次の言葉を待つしかない。

 宮司の口が動く。


「この島の人々が、人魚を食べたヒトではなく、ヒトを食べた人魚だからだよ」


「――わたしは、」

 人間だ、続けるはずだった言葉はついに形にならなかった。

 疑いを持ったことなどない。持つはずもない。

 だが、ひとたびその絶対の信仰にひびが入ったとき、人はそれをどうやって証すというのだろう。自分の腸を裂いて観察したことがあるか。それとも顕微鏡で覗いた遺伝子にそう書いてあったか。 

 追い打ちをかけるように、宮司は簡潔に、救いようがないほどに明確にまだ言葉にもできていない君香の反論を叩き潰した。

「単純な三段論法だ。君は人魚の形質を持っている。ヒトが人魚の形質を得ることはない。故に君はヒトではない」

 言葉は出ない。

 あるのは内臓全てが裏返りそうなほどの猛烈な吐き気だけだ。

「人魚と人は交配などできはしないよ。だから僕と花緒、君と君のお父さんとの間に血の繋がりはない。この島において親と子の関係は社会的に割り振られた役割に過ぎず、島の全員が遺伝的にほぼ同一な兄弟の関係にある」

 重苦しい沈黙が横たわる。言葉など忘れてしまったように、口に出すべき思考が形を得ない。

 お互いに何ひとつ口にしないまま時間が過ぎた。

「君はテセウスの船、という故事を知っているか?」

 ようやく出された声に返事を返す前に、家の外で騒がしい気配がした。

 勢いよく引戸が開かれる音が響く。足音が寄ってくる。

「ただいまお父さん。誰かお客さん来てるの? ――君香ちゃん? お父さんと何か話してたの?」

「いや、大した話ではないのだけどね……それよりその匂い、クッキーか」

 花緒は用事があると先に帰った友人が自分の家で父親といたことに困惑しているようだった。だが明らかなこちらの動揺を問いただすより先に、話題を逸らす宮司の言葉で手にした菓子のいきさつを語らされ始めた。

「ああうん、一瀬のおばあと、奏ちゃんと私とで焼いたんだ。後で君香ちゃん家にも持って行こうと思って少し多めに貰って来たんだけど――」

「ふむ、まあなんだ君香君。今日のところはここまでにしよう」

 宮司が立ち上がってクッキーを摘まむ。

 居間を後にする背中越しに、ぽつりと呟く。


「次の満月――数日のうちにこの島では大祭が行われる。それまでに、また続きの話をしよう」

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