2
母の散骨を終えて島へと戻る船上を、君香は別世界のように思った。
父を送った焼き場がそうであっように、全ては義務的に、淡々と進み、そして終わるはずだった。
十年も前に死んだ人間の骨灰を撒くだけのことだ。
他ならぬ父の願いでなければ、こんな事は思い付きもしなかっただろう。
何の感慨も湧かないと思っていた。
母を愛していたのは、世界で父だけだと思っていた。
一隻に収まりきらなかった人々、結局二つの船に分乗することとなり、それでも狭い船の上で母の死を悼む人々は肩を寄せ合っている。
良い思い出などひとつもない。母は母らしいことなど何一つしなかった。
それでも母を偲ぶ人々に囲まれ、ざわつく心を必死にたしなめる。紛れもなく君香は母を疎んでいた。骨肉の愛なというものが存在しない親子関係が、この世にはある。どんな親でも親は親だと言う者があれば、君香はそれを軽蔑しただろう。
軽蔑したはずなのだ。
お前にはわからない。恵まれたけの人間が知った口を利くな。全ての人間がわかりあうことなどできるはずもないわたしの気持ちに寄り添うことさえできないお前が何よりの証拠だ。
情け容赦ない罵倒の言葉を吐けたはずだ。
今は違う。浮かぶのは疑問だけだ。
どうして母は自分を愛さなかっのだろう。母にも我が子を慈しみ愛そうとした瞬間があったのではないか。何が幸せを阻んだのか。
心が、別の心に塗り潰されていく。
自分が自分でなくなるようだった。
そしてそれが良いことなのか、悪いことなのかさえ君香にはわからない。
――あの子もこれで溺れ谷へ還る。
皴の寄った頬に涙をこぼしながら一心に拝む年寄りの言葉が耳から離れない。
この島には物語がある。美しい物語だ。
母は物語から出てきた美しい人で。
だからわたしは物語に帰ることができる。
この島にいると、そう信じていられるような気がしてくる。
「それでこのあとはどうするの?」
三々五々帰路に就く参列者たちにそれぞれ頭を下げ、最後に船長――新谷さんに改めて感謝を伝えた後、そう聞かれて初めて君香は我に返った。
何の予定もない。
答えあぐねているうちに、申し訳なさそうな声に先回りされてしまった。
「そっか、そうだね。ひとりになったばかりで、先のことなんかわかんないよね。ごめん」
申し訳ないのはこちらのほうだった。
ここまで良くしてもらっておいて、謝られては立つ瀬がないというものだろう。
自分がこれからどうするか。
それはどうあっても自分が考えなければならないことだ。
住んでいた家はすでに引き払い、帰る場所はない。しばらくこの島に留まるとしても、いつまでも客でいられるわけではない。
ひどく暗澹とした重圧が首をもたげて、肩に圧し掛かる。島の空気に当てられて忘れていた現実が戻ってきたように思う。
出し抜けに大きな音がした。
脅された野良猫のように顔を上げると、目の前にはありありと紅葉の浮き出た顔。さっきのは平手の音だと気付いたが、驚きが先立って上手く呑み込めない。
「よし。お姉さんが良いもの食べさせたげる」
新谷さんは胸のすくような笑顔を作ってそう言うと、ポケットから何かを放ってよこす。かろうじて受け止めると、それは使い込まれたジッポライターだった。
「アレにその辺の流木集めて、火ぃ付けといて」
言いながら示した先には短く切り詰めたドラム缶と、裏返したビール箱の座席がある。そのまま自分の船に向かいながらどこかに電話をかけていたかと思うと、船底に頭を突っ込んで抱えるほどの大きさの魚を引きずり出した。
まだ生きて動いている魚をこちらに見せびらかすと、次はそれを包丁とまな板で手際良く捌き始める。
その様子を呆然と眺めていると、嬉しそうな声が飛んできた。
「ほら! 火! 早く!」
慌てて立ち上がって辺りの流木をどたばたと集める。
着火剤代わりになるものを探して見渡していると、まな板を両手に新谷さんが寄ってくる。ん、と身振りで示されたポケットからはみ出すほぐしたロープを受け取って、すぐに火を付けドラム缶の中に放り込んだ。しばらくの間の後、勢いよく炎が上がり、たちまちドラム缶を満たしていく。
新谷さんは冊にした魚の背身をそのままバーベキュー用の鉄串にぶっ刺して、無造作にドラム缶の上に橋渡した。
皮付きのまま直火に炙られて、縮む皮に引かれて肉が小さく躍る。
火の勢いがあまりに強いので燃えてしまわないかと冷や冷やしたが、香ばしい匂いと滴る脂を見て心配は涎に変わった。
「あの、焦げてますよ」
そわそわした心持ちが上ずった声に現れているのが自分でもわかる。きっと今鏡を覗けば待てを命じられた犬が映るだろう。
「もうちょっと焦がした方がおいしい」
ドラム缶の中の焚火に脂が落ちて火の粉が爆ぜる。
どうしてまだ食べてはいけないのかわからない。もう食べた方が絶対良い。これ以上いったい何が足りないというのか。
疑問の答えは道路の向こうから歩いてきた。
「お、米が来たぜよ」
振り向くと、タッパーに炊き立てご飯を詰めた花緒が、嬉しそうにつっかけをカポカポさせながら寄ってきていた。
「おー、カツオ?」
「カツオ。塩しかないけどいいでしょ?」
「ネギは? 刻みネギないの?!」
新谷さんは火から降ろしたカツオの鉄串を抜くと、10ミリほどの厚みでまな板に切り重ねていく。抱えるほど大きかったカツオの塊肉は、表面が軽く炭化しても芯は鮮やかな赤みを残している。
たたき料理だ。あまり馴染みはないが、白米と共に紙皿に雑によそわれたその匂いを嗅いで、不味いはずがないと脳みそが言っている。
三人で手を合わせた。
箸を取るなり思い切り頬張るふたりを見て、君香も同じように倣った。
火の通った表面はほろほろと崩れ、水気の飛んだ芯の赤身は噛んだ端から濃厚な旨味がこぼれる。擦り込まれた粗塩も相まってとにかく白米が進む。
おかわりまで二分と持たなかったと思う。
新しい冊に鉄串を通して火に掛けて、待つ間に新谷さんは一杯やり始めてしまった。もっとも、包丁の扱いに関しては花緒のほうも手慣れたもので、問題といえば濃い味付けに先に白米の方が底をついてしまったことだろう。
「ごちそうさまでした」
隣で花緒が立ち上がった。
「ほら、気分の良い間に逃げないと、酔っ払いに絡まれちゃうよ」
冗談めかした言葉に促されて、食事の後片付けを急ぐ。使い終わった紙皿と割り箸を焚火に放り、包丁と鉄串を飲み水で流して船の方へ持って行く。残ったたたきも酒の肴に消えるだろう。
けらけら笑って手を振る新谷さんを浜辺に残して、ふたりで腹ごなしの散歩に出かけた。
「私さあ。物心ついたころにはもう居なかったから、自分の母親のことは他人の記憶でしか知らないんだ」
しばらくの間、耳に入る音は砂利を踏む二人分の足音だけだったせいもある。花緒がポロリとこぼした言葉にうまく相槌が打てなかった。
前を行く背中からは、花緒がどんな表情でその言葉を口にしたのかは窺えない。返す言葉を探して身構えたが、次はなかなか来なかった。
「……ごめん。私今、君香ちゃんのお母さんのことなんとなく気軽に聞こうとした」
振り返った顔にはいつもの花緒の笑顔が浮かんでいる。
「親のいる子にはこんなこと聞けないからって思ったけど、私って君香ちゃんから見ると親のいる子なんだよね」
「そんなこと思ってないよ」
少し迷って、結局当たり障りのない言葉を返した。
そのまま会話は途切れて、再び歩き出す。
「……話したいことだけ話していい?」
自分の口からどうしてそんな言葉が漏れたのか、自分にもわからなかった。
花緒が、驚いたようにこちらを見る。
「うん。聞かせて」
「母さんが死んだのはね、わたしが小学校低学年ぐらいのとき」
声が震えた。ここから先は誰にも話したことの無い話だ。
こういうとき、漫画やドラマなら雨が降り出すのかなと考える。空には雲一つない。
「ぼかしてるんじゃなくて、正確な時期は本当にわからない。顔もさっぱり覚えてない」
花緒の声に出さない困惑が、伝わってくる。そのくらいの年頃であれば、いくらか覚えているものではないかと、わたしも思う。
「時間が経って、思い出せなくなったんじゃないの。ずっと、目も合わせないようにして生活してたから」
「……そっか」
花緒はそれ以上何も言わず、黙って聞いてくれた。
「記憶にあるのは怖いという感情と、わたしを見る視線だけ。でも母さんがわたしのこと、どう考えたっておかしいくらい嫌いだったことは子供でもわかってた。だからね。この島の人たちが母さんの話をするときの顔とか、母さんの死を悲しむ姿を見て、驚いた。あの人、普通の人だったのかなって思ったの」
そして、おかしかったのはやはり自分の方なのだ、とも。
「これって誰から聞いたかな。父さんと母さんって、駆け落ちで島を出たんだってね。どうして島を出なきゃいけなかったのかな。島を出なければ、母さんは島にいた頃のままでいられたのかな」
――島にいた頃のままならば、母さんはわたしを愛してくれたのかな。
話したいことだけ話すなんて言ったくせに。また一番言いたいことを声に出さないままだ。
花緒はきっと困った顔をしているだろう。こんなことを聞かれても答えようがないのだ。
それでも花緒はしばらく沈黙した後で、小さく呟いた。
「……死んでしまった人のことはわからないけどさ」
花緒の言葉に耳を傾ける。
「この島ではね、島で生まれた人はみんな家族なの。だから、君香ちゃんが望むなら、いくらでも頼ってくれていいし、私たちはいつでも力になるよ」
その言葉を昨日聞いたとしたら、きっと自分は受け入れなかっただろう。怒りさえ覚えて、けれどそれを口に出さず、ただ逃げ出したはずだ。
花緒がこちらに向ける笑顔を、暖かいと思えた。
「さて、そろそろ浜辺に戻っていい? 私の家族が悪酔いして助けを求めてるころだと思うから」
きっと防潮のためであろう見慣れない並木を抜けたところで、ゾンビのようにうろつく新谷さんを見つけた。
まだ浜辺にはいくらか距離があるが、あの様でここまで来たのだろうか。
小走りで駆け寄る。介抱しようとする手を払い除け、震える手が海を指差した。
波間に白い飛沫と、同じくらい白い何かがもがいているのが見えた。
犬だ。沖で犬が溺れている。
「朔太郎だ!」
叫ぶなり、花緒が波打ち際へ駆け出した。
地面に転がり込んだ新谷さんをどうしようかと迷ったが、行ってくれと目で訴えられ、慌てて駆け出す。
足からつっかけを振り飛ばし、迷いなく海に飛び込んだ花緒を追い、靴と上着を放り出したところで、君香は後に続くことを躊躇した。
人前で肌を晒してはいけないという父の言いつけを守って生きてきた。
だから君香は海で遊んだこともなければ、プールの授業を受けたこともない。
ためらったのは、泳げないからではない。
初めて泳いだのはいじめっ子に川岸から突き落とされたときで、それまで水面に顔を浸けたこともなかった身体は、けれどごく自然と対岸まで泳いで逃げることを選んだ。
一度だけこっそり誰もいないプールを泳いだことがある。
水中でいつまでも息が続いた。陸の上より自由に動ける気さえした。戯れに測ったタイムは県記録を軽く越えていた。
泳げ過ぎるからこそ、泳いではいけないのだと、そのとき君香は理解した。
波を掻き分けて全力で前に進む。
すぐに縮まると思っていた差は、それどころか開いていった。花緒は自分より、泳ぎづらい格好をしていたはずだ。
自分より泳ぐのが速い。
だがそれを疑問に思う頃にはすでに前方に犬が見え、そちらに注意を持っていかれた。後足に漁網らしきものが絡まっている。先に着いた花緒がそれを外そうとしているが、犬がパニックで暴れるせいで上手くいかない。
遅れて到着した君香は、犬を抱き締めて動きを押さえ込んだ。
想像を遥かに越える力強さでもがく犬になんとかしがみつき、息が出来るよう持ち上げてやる。
花緒の方を見る余裕はなかったが、何度目かの挑戦で網を外すことに成功したらしい。
拳を突き出す花緒に応えてから、海面から顔を出して笑い合った。疲れきった犬を水面に押し上げながら、陸の方へと泳いでいく。
足が着いたとたんに大急ぎで地面へ駆けていく犬の背中に、花緒がもう溺れるなよと笑いながら声を掛ける。
波を蹴立てて、服と髪から海水を蛇口のように垂らしながら、花緒が心底楽しそうに大きく息を吐く。
「あの子、朔太郎って言うんだけどね。飼い主が四人ぐらい居てさ。昨日ミニバンに乗ってたでしょ? あれがね、」
顔を見合わせ、目と目を合わせたところから、花緒の視線が下へと流れた。
「あ、服……」
君香を見て、呟きを漏らす。
その目に浮かぶ感情に見覚えがある。
視線を追って自分の胸元に目を落として、そこに向けられた目の意味を知った。初めは単なる気付き、その後に続くショックを受けた目だ。
きっと暴れる犬の爪が当たったのだろう。服が大きく裂け、胸元が露出していた。
体表、胸元に大きく広がる、黒ずんだ鱗が。
見られた。
思わず目を逸らし、しゃがみこんで視線を地面に落とす。まるでそうすれば自分も見られずに済むとでも思っているかのように。
今さら胸元を覆い隠したって、もう遅いのだ。
「えっと、ごめん。ちょっと待ってて」
言葉を無くした花緒が、ようやく取り繕うような一声を掛けて、走り去っていく。追いかけようとした足があまりに重く、遠ざかる背に伸ばした手は届くはずもなかった。
いつだって、こうして失くしてきた。
大切なものはここから漏れていく。
――わたしが化け物だから。
もう、慣れたと思っていた。
ずっとこの感覚を忘れていた。
心を開かなければ、二度とこんなつらい思いをすることはない。だから二度と、大切なものなど作るまい。そう誓った。
誓ったはずなのに、自分は、また失くしたのだ。
諦めきれずにのろのろと前に進む足に、心に負った致命傷がようやく届いて、もう一歩も動けなくなった。
砂浜に膝を落として座り込み、声にならない叫びをあげて、胸元を掻きむしる。
嗚咽と涙が波に浚われていく。
涙はすぐに涸れてしまった。きっと涙は、絶望と戦うためのものなのだ。
だから自分に、子どものように泣くことはできない。ただ脱け殻となることしかできない。
微動だにせず、ただ時が過ぎ去るのを待ち続けた。
いつかはきっと、また動けるようになる。心を捨てれば、人は悲しみのなかでも生きていける。自分はそうやって生きていけばいい。
けれど今はもう少し、時間が欲しい。
全ての思考を頭から追い出して、辛い時間が過去になるのを待っていたら、ふと肩に何かが被せられた。
目の前に誰かがいる。
視界に映る足先をたどって、目線を上に向ける。
「ごめん。お待たせ」
手が君香に延びている。
さっきまでと同じ笑顔で、花緒が手を差し延べている。
差し出された手をじっと見つめて、震える指をのばした。
触れた花緒の手が、しっかりと掴み返してくる。そのまま引き上げられて、君香の体が砂地に立つ。
引き上げる手の力強さが、繋いだ手を通して染み渡るようだった。
肩に掛けられたタオルで破れた胸元を隠す間も、花緒は手を繋いだままだった。
「あの、手。もう離しても……」
「そう? ひんやりして、気持ちよかったから」
そう言われて、繋いだ手の暖かさに今更ながらに気付いた。手を離すのが名残惜しくなった君香の未練がましい目を、花緒は自分の持ってきた鞄に向けたものだと思ったらしい。
海に入る前に脱ぎ捨てた靴と上着の他に、花緒はバッグ一つ分の荷物を抱えている。
「ああこれ? 着替えを一応二人分持ってきてさ。多分サイズは合うと思うんだけど――あ、田舎者の服は嫌?」
とんでもない。慌てて首を横に振ったせいで少し水が飛んだかもしれなかった。
「じゃ、行こっか」
「行くってどこに?」
「ここで着替えるわけにもいかないでしょ? だからお風呂」
伸び放題の草木に覆われて、ちょっと気付かないような細い階段を登っていく。階段はつづらに折れながらずいぶんと続いていて、まだ終わらないのかという文句を堪える我慢の限界の少し手前で、ようやく視界が開けて階段が終わった。
階段が合流した砂利道を挟んだその先に、古びた木造の建物がある。
精々が少し変わった民家という造りで、浴場であるとは言われなければわからないだろう。
引戸を開けて入った建物の中には番台も暖簾もなく、ただ両側に大きな下駄箱があるだけだ。その向こうには何の変哲もない二枚の硝子戸に辛うじて『男』『女』と掛札がある。
すり硝子の向こうが、直接脱衣所になっていた。
脱衣所に入るとそのまま、下手をすると硝子越しに身体のラインが見えるような場所で服を脱ぎ出す花緒にどぎまぎするが、すぐにそれよりも目を奪うものがが視界に入った。
花緒の背中一面に広がる鱗。
色こそ柔らかな乳白色をしているが、それが自分の胸元にある鱗と同じものであることは、すぐにわかった。
「私だけじゃないよ。島の人は、みんなどこかしらに鱗が生えてる。ちゃんと手入れしなきゃ黴菌が入ったり、血が溜まって膿んだりするから、定期的に掃除しなきゃいけないの」
自分の胸元を鏡に映す。
他人はもちろん、自分の目からすら隠してきた鱗は、黒ずみ、ひび割れ、肌との境目は爛れて腫れ上がっている。
「この位置だと、手が届かないでしょ? うちお父さんしかいないからさ、しょっちゅうここ来て誰かに磨いてもらうんだ。ほら、君香ちゃんも脱いで」
たとえ同性であっても、当然に肌を晒すことは避けてきた。
おずおずと服に手を掛ける君香を、花緒はじっと待っていてくれた。お互いに下着姿で向き合って長椅子に座る。
花緒がバッグをひっくり返すと、当たり前の入浴道具の他に、何の変哲もない雑貨がいくつか転げ出てくる。
歯ブラシ。ガーゼ。うがい薬。ポケットティッシュ。
花緒は君香の胸元の鱗と肌の境目にうがい薬を塗り込んで、最後に薬を染み込ませたガーゼを貼り付ける。
「どう? 染みる?」
「……少し」
「なら良し。このまましばらくじっとしてること」
待ち時間で花緒はたらふく海水を吸った服をたらいを借りて湯に浸し、軽く洗って物干し台に掛けた。
言われた通りにじっとしていると、自然と頭の中に思考が渦巻いてくる。
「質問していい?」
「答えられることなら」
「この鱗は何?」
「なんて答えていいかわかんない。その質問は私にとっては腕って何とか、足って何って聞かれるようなものだから」
「この島の人は、みんな泳ぐのが得意なの?」
「うん。私より速い人は、たくさんいる」
「人魚島って呼ばれているのは、そのせい?」
「それもあると思う。でも、もっと直接的な意味で、私たちは人魚なの。ありきたりな人魚伝説とは少し違うけど、明確に私たちは普通の人たちとは違う」
受け止めるのに、少し時間の掛かる話だった。
会話が途切れ、手を止め戻ってきた花緒は正面にもう一度座って、胸元のガーゼを剥がした。
「じゃ、お風呂行こっか」
浴室は想像より広かったが、洗い場は少し窮屈に感じる。窓が小さいからだろう。全面タイル張りの壁の高い位置に細い灯り取りが一列あるだけだ。
湯は天然だそうだが、観光資源ではなく生活の一部としての温泉なのだと感じた。
掛け湯を済ませ、洗い場に並んで腰掛けた。
「うがい薬のヨードが色移りしてるかもしれないけど、二、三日で落ちるから安心して。これ、鱗用の歯ブラシ。一番柔らかい奴。私の予備をいっこあげる。磨き方はこう」
花緒は君香の鱗に宛がったブラシを小さく動かして、一つ一つに丁寧に磨いていく。鱗を撫でる柔らかなブラシの感触も、胸元を覗き込んで鼻先を掠める髪の毛も、くすぐったさが心地良いと感じた。
「それからなんだっけ、大事なのはカルシウムとビタミン。魚食べて。あとときどきは陽の光に当てること」
「うん。やってみる」
「今日のところはこんなものかな。じゃ、練習だと思って私の背中の鱗、お手入れしてよ」
そう言って花緒がこちらに背を向ける。
鱗はまるで、素肌に爪が生えているように美しかった。見れば見るほどみじめになるほど美しかった。
恐る恐る、手渡されたブラシを鱗に添える。
「こう? これでいい……?」
「そう。動かして」
言葉に従い、少しずつ動かす範囲を広げながら鱗を磨き上げる。白くくすんで透き通った鱗がほんのりと桜色を帯びていくように思えた。
「もっと力を入れてもへいき。だいじょぶ。そのくらいじゃ傷付かないから」
濡れた鱗は光の当たり方によっては真珠のような光沢できらきらと輝いている。この鱗を花緒が、ここで花緒の鱗を磨いてあげる人々が大切にしているのが見るだけでわかる。
君香にとって忌むべき呪いの象徴だったものは、ここでは宝物なのだ。
だからこそ、聞くのが怖かった。
「ねえ」
手を止めた君香の呼びかけに、振り向こうとする花緒の肩を制して、額を首筋に預けた。
「わたしの鱗、気持ち悪くない?」
「だいじょぶ。ちゃんとお手入れすれば綺麗になる」
傷付く言葉が返ってくることなどないと、わかっていてもそれでも怖い。
「こんなふうに? こんなふうに綺麗になる?」
「うん。きっと」
怖いのだ。怖いから心の弱い部分を晒すことを止められない。
「わたし、化け物じゃない?」
「お揃いだよ」
こうも卑怯な真似を演じてまで、望む言葉を引き出してしまう。
「わたしはここに居ていいの?」
「居てくれたら、私は嬉しいな」
すがるべき嘘を探している。
「花って呼んでいい?」
「呼んでって言ってるじゃん」
語られる嘘に甘えている。
「約束してくれる?」
「いいよ。なにを?」
けれど。
「わたしと、ともだちでいてくれる?」
「うん。やくそく」
人はそれを幸せと呼ぶのかもしれない。
――――
頭の先まで沈めた風呂の熱が、骨まで響く。
息を止めてしあわせを噛みしめる。息を止めている間は、時間さえ止まっているように思えた。
ただ、君香は頭の奥底にある一染みの疑問を自覚している。
化け物だからと、今までそう自分を納得させてきた。
島の誰しもに鱗があるというのなら、君香の母もまた鱗を持っていたに違いない。
鱗があったからではない。
ならばどうして、母は自分をああも疎んだのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます