テセウスの孤島
狂フラフープ
1
穏やかな青い海に解けていく。
ばらばらになった目玉が、指が、うなじが、背骨が、心臓が。
ゆっくりと海の底へ沈んでいく。
わたしは知っている。
これが幸せのかたちだ。
あなたがわたしの中に入ってくる。
わたしがあなたの中に入っていく。
ここがどこより素晴らしい楽園であることを、わたしは知っている。
これが幸せだと、わたしの魂が覚えている。
――――
空が広い。
顔を覆ったタオルがずれた拍子に目が覚めて、春井君香はようやくそのことに気が付いた。雲もなく、山もビルもない空がとてつもなく広い。
夢を見ていた。
幸福な気分で目覚めたはずなのに、思い出そうとするとそれはひどく恐ろしく、おぞましい光景だったように思える。
幸せな気分だけを覚えていたかった。
けれど確信にも似た予感がある。わたしの内側に潜む、わたしの知らないおぞましいもの。
母と同じように、わたしもいつか狂う。
夢の記憶と引き換えに、眠る前のことをはっきりと思い出した。
船首側の座席。港を出てすぐ船酔いに襲われ、エンジンの揺れから逃げて来た。
身体を起こすと、海が広くて大きいという意味がはじめて身に染みた。あれは世界地図に広がる大洋でなく、自分の周りのたった数キロ四方で事足りる話なのだ。人生で一番広く世界を見渡しているのに、その世界の全てが自分の乗る船と海になってしまうのだから。
「目が覚めた? ちょうどいいタイミングだよ」
操舵席から声が聞こえた。女だてらに舵をぶん回す船長がよく日に焼けた顔を窓から突きだして白い歯を見せて笑う。
「ほら、もう見える」
指し示されて振り向いた。
島だ。
君香の背後、船からすれば進行方向のはるか先。世界を覆う青海を貫いて、ぽつねんと小さく、けれどはっきり顔を出す緑はまさに子供が絵に描いた島のシルエットに見える。
近づくにつれて、足元に張り付く民家がせり上がって見えてくる。
遠くからはひとつの木のようにも見えた島の山頂が、近づいて見上げるとそうではないことがよくわかる。とんでもない大きさの巨木に見えるのは、何本も何本も立ち絡み、目に痛いほど青い空へ吸い込まれるように上へ上へと手を伸べる木々の群れだ。
嘘のように美しい島だと思った。
だからきっとこの島は、いくつもの嘘でできている。波打つ海面が細切れに跳ね返す陽光を眺めながらそう思う。嘘の一部になりたいと君香は思う。
嘘はあるいは、物語と言っても良い。
人が吐くことのできる嘘は、きっとあらかじめ決まっている。
物語の剥げた現実から逃げて来た。
父を亡くして、父のいないあの町に、自分の居場所などないと気付いてしまった。
だから町を出ようと決めた。二十時間前のチケット売り場 、夜行バスの発券機のボタンを押すために必要だった途方もない勇気のことを思い出す。時刻は夜更け、母の遺骨を捨ててしまおうとさえ思った。
誰もいないバスターミナルは不気味なほど静かで、暗がりから目を逸らして、ぼんやりと照らされた足元ばかり見ていた。
怖かったのは、自分にはもうすがるものが何もないという現実だ。
「どう? なかなか良いところでしょ?」
島を見据えて舵を取る船長が、にこやかに笑って言った。
目を合わせずに返事ができる状況で良かったと思う。鏡を見るような距離で誰かが笑うとき、自分は鏡のような笑みは返せないから。
「まるで、お伽噺に出てくる島ですね」
「古くさいとこだからね。そういうのもたくさん残ってるよ。でも、私からすれば立ち並ぶビルこそお伽噺だね」
地図には須摩島と記されるこの島を、行き方を尋ねた近隣の人々たちは人魚島と呼んでいた。
この人はこの島で生まれ、育ち、暮らしている。
この世には空想のような場所があって、そんな場所にも暮らしている人がいる。
幸福も、すべての美しいものも、自分には縁遠いものだと生きてきた。
父と母の物語と、地続きの場所が海の向こうにあるのだと知った。
海の向こうに、母が生まれ、育った場所がある。
自分の生まれた島がある。
改めてそれを知ったとき、もう残された行先はそこ以外になかった。
防波堤で手を振る誰かが見える。
それ以外にも港には数人の人影があり、その誰もが何をするでもなく、こちらを待ち構えているのがわかった。
船に積まれた荷物を振り返る。気軽に買い物にも出かけられないのであれば、島の人々があれほど待ち侘びるのもうなずけた。離島の暮らしとはそういうものなのだろう。顔さえ見えない距離でもわかる嬉しげな動きを見れば、不便がそのまま不幸になるなど言えない。
「みんな、何を待ってるんですか?」
「何ってそりゃあ、君でしょ」
船長の言葉が耳と脳みその隙間で横滑りしてまず一息。君って誰だ、ともう一息。その言葉が自分の問い掛けへの答えだと納得するのに最後の一息。三つ分ほど呼吸を忘れて間抜け面を晒したと思う。
「いえ、でも、だって、そもそも島に知り合いなんていなくって……」
混乱した脳みそが絞った答えを、船長はこともなげに否定する。
「島の大人は皆、君が生まれた日のことを覚えてるよ」
「でもわたし、島に連絡してないし、」
「そこはまあ、私が船出す前に電話したからさ」
それにしたって。
納得できずにいるこちらに、船長がけらけらと笑って港に向けて指を指す。
「ほら、日用品買って帰ってきただけの人間に、あんなの広げやしないって」
防波堤の人影が、小脇に抱えていた何かを周囲の人間に手伝わせ洗濯物みたいな広げ方で空中に放り出していた。広がったのは白い布切れだが、洗濯物ではないだろう。
なぜってその布切れには、ひらがな七つがでかでかと描かれている。
お、か、え、り、な、さ、い。
開いた口が塞がらない。
「……………………どうして、」
「さあ? ああいうことを考えるのは奏ちゃんかな」
船はすでに陸へずいぶん近い。船長が指差した一番よく動く人物が、自分と同じ年頃の女の子だと見て取れた。
「さ、捕まって。あんなに待たせてちんたら寄せてちゃみんなに恨まれちゃうからね、少し荒く行くよ」
そう言うと船長は手慣れた様子で舵を切り、防波堤に横付けされた船が古タイヤにぶつかって動きを止めた。
船長は陸のひとりにもやいをぶん投げながら君香を追い払うと、自分は荷降ろしに取り掛かってしまう。手すり付きのタラップなどと贅沢は言わないが、船から防波堤に乗り移るにあたって、せめて板切れぐらいは用意してもらえないものか。
波に揺られる
肚を決めた。
渾身の力で踏み切ったつもりが、引き波に蹴り足をすかされて思った以上に飛距離が伸びない。防波堤の縁ぎりぎりに着地を決めて、捕まれた腕を引かれてなんとか海に落ちずに済んだ。
大きく安堵の息を吐く。問題がその後だとは思わなかった。
そこから気の抜けた君香の隙をついて行われたのはほとんど拉致という他ない所業で、まくし立てられたのは横断幕の子の歳と名前と住んでいる場所だろう。女の子の名前が奏というのは理解したが、知りたいのはそれよりなにより、一度掴んだ手を離してくれない理由と、有無を言わさず引っ張られていく行き先である。
土台島に着いた後のことなど何も考えていなかったが、ひどく安直に、とにかく着いてから考えようと思っていた。
考える時間が欲しい。
引きずり込まれたのは道の真ん中で口を開けて待ち構えていたミニバンで、思わず上げた疑問の声はどこかしらぶっ壊れているであろうエンジン音のでかさにかき消され、だのに港の人々は揃って笑顔で見送るばかりであった。手まで振っている。
とにかくドアが閉まらなければ時間は稼げると思い開けっ放しのスライドドアにしがみ付いたが、抵抗虚しくミニバンはドアを閉めもせず猛烈な加速で走り出す。
どうしてこんなことをするのか。
車が砂利道を跳ねる度にドアは滑り、恐ろしくなった君香は必死の思いでドアを閉め、鍵を掛け情けない声が漏れる。
安心している場合ではないし安心できる要素もない。
とにかく助けを求められる相手と船長の顔が思い浮かんで振り返るが、蛍光灯やら三角コーンやらが顔を出すミカン箱と釣竿と漁網とがぶちこまれたビールケースに遮られて後方の景色は電線しか見えず、そもそも船を止めた港自体がどうあがいても見えない位置まで車は走っていた。
隣でにこにこしている女の子は何を聞いても「なんだと思う?」と質問に質問で返すし前方に助けを求めたら助手席から妙にでかい雑種犬が振り返った。
なにもわからない。
なぜ車に乗せられたのかもわからなければ車がどこへ向かってどこを走っているのかもわからない。奏なる子が犬に食わせている干し肉が何の肉なのかもわからないし、なぜ自分が押し付けられた謎肉で犬を餌付けさせられているのかもわからない。
「あ、前。花ちゃんじゃない?」
「おう」
奏が呟いて、運転席からおじさんの声が応える。
君香が前方を向くか向かぬかの内に、ミニバンがブレーキをかけた。急停止にぶっとばされたのが自分ひとりで、他は犬さえ平気な顔なのがなんとも恥ずかしい。
座席と座席の隙間に挟まりながら、停まった車外を回り込んでくる気配を追って見上げた首を巡らせる。
とにかくデカいつばの、網を外した養蜂家みたいな帽子を被った女の子がほとんど開けっ放しのドアガラスからこちらを覗き込んでいた。
「ごめーん、開けて」
そういえばビビって鍵を掛けたことを思い出す。急いで鍵を開けながら、ドアガラスはほとんど下げられているのだからロックは自分で解除すればいいのではとも思う。その疑問はスライドドアを開ければ解決した。ドアの向こうの女の子は、一抱えもあるスイカを両手でぶら下げているのだ。
「こんなとこでなにしてんの?」
スイカの子がにへらと笑い、ミニバンに乗り込んでくる。
「私も港まで行こうと思ったけど、スイカ重いんだもん。途中で諦めちゃった」
大して広くもないミニバンの後部座席に三人がぴっちりと身を寄せて、しかも膝の上に巨大なスイカを乗せているので正直狭い。
肩と肩が重なるような慣れない距離感にどぎまぎしていると、スイカの子がしゃぶり尽くされた唾液まみれの君香の手を見て、ハンカチを貸してくれた。
おずおずと頭を下げる。
上手く言葉に出来ないが、少し安心した。
「……あの、この車、どこに向かってるんですか?」
尋ねると、スイカの子はこちらを向いて小首を傾げた。あまりに車内が狭すぎてデカい帽子のつばがほんの目の前を動いてちょっと怖い。
「どこに、って。あなたのお家。これから歓迎会だから」
「あっ! なんで言うの?! サプライズだったのに!!」
サプライズ。
混乱した頭が下手な思考を巡らせる。サプライズってなんだっけ。あれか。ドッキリ的な奴か。既に事態をまるで理解できていないのにこれから更にサプライズが始まるのか。いや、それ以前に、
――わたしの家?
車はいつのまにか、花畑の真っただ中を走っていた。
小さく可憐な薄紫の花たちが、窓のすぐ向こうを風のように過ぎ去っていく。
養蜂帽越しに見える窓からの景色を小さな花弁が埋め尽くして、車の外が、世界の全てが花畑になったような錯覚さえ覚えた。
「スイカ、預けてもいい?」
声に意識を引き戻されて、車が速度を緩めたことに気付く。
車が止まり、両脇のふたりが降りるのを追いかけた。
挨拶もなしに爆音を響かせながらミニバンは去っていき、ただ一声犬が吠える。
自分と周囲とを隔てていた窓枠が去っても、世界は花畑に覆われて見えた。
少しだけ高くなった視点で見下ろす薄紫の海は山際まで斜面を登る。
絵画のようだと、掛け値なしに思う。
まるで悩みも苦しみもない平和な楽園のような景色の中へ、つい今の今まで肩を寄せ合った女の子が、ためらいもなく踏み込んでいく。
目に見える光景は、自分以外一点の曇りもなく思えた。
「どうしたの?」
立ち止まったままの君香を、養蜂帽が振り返る。
「……どうして、こんな花畑があるの?」
口を突いて出たのはばかみたいな質問で、けれど心の底からの疑問で、目の前の現実を受け止めきれない自分の、納得できない心の叫びだ。
それを、そっか、と辺りを一度見渡して。
なんでもないように答えが返ってくる。
「これね、らっきょう」
帽子が落とす影の中で笑っているはずなのに。
振り向く彼女は、夏の終わりの焼けるような陽光より眩しく見えた。
「夏が始まる前にみんなで収穫して、島の外に出荷して、種をまいて、これぐらいの時期に花が咲くんだ」
その言葉の意味が理解できた時、なにかが解けて胸の内にすとんと収まった気がした。
ここは夢ではなく日常だ。
日焼けした肌が、燦々と降り注ぐ陽光を日常として受け止めている証拠だ。彼女らもまたこの美しい光景の一部なのだ。
この花畑は町の人々にとっての通勤電車や渋滞する車列と同じもので、自分にとっての夢は島の人にとって生活の一部で、だから畑の畦道に足を踏み入れるのは当たり前のことで、島に帰ってきた人がいたらみんなで歓迎するのが当たり前で。
「ええと、春井の家の、君香ちゃんであってるよね? 私、花緒。花って呼んで」
夢はここでは夢ではない。
「友達にはなんて呼ばれてるの?」
その質問を聞いて、反射的に身をすくめたことを、知られたくて反応を取り繕う。返す言葉が浮かばずに、無言で首を振った。そんなものは居ないのだと口に出す勇気はない。
「そっか。じゃあ――」
その先に続く言葉が怖かった。
自分が異物であることを否応なく思い知らされてしまうから。
過去に同じ言葉を掛けられたことがある。友達と呼ばれて、大手を振って保証して、本当はそうではないことを、君香だけが知っている。隠し事を知られたとき、差し出された手が石を投げ、友達と呼んだ同じ口が化け物と叫ぶことを知っている。
友達と呼んでほしくなかった。
友達の証を、軽々しく押し付けてほしくなかった。
いつか逃げ出すのなら、始めから近寄りなどしないでほしかった。
滲み出す怯えを隠すことはきっとできないから、目を逸らして顔を伏せずにはいられなかった。
「――仲良くなったら、あだ名付けていい?」
ずっと先に行った奏が、大声でこちらを呼んでいる。
どこか遠くで、海鳥の輪唱が響いている。
花緒は、こちらの返事を待ってくれている。
考えておく、と口ごもるように返事をした。
こんな小さな呟きがちゃんと聞こえたのか、花緒はにへへと嬉しそうに笑う。
「知ってる? 花畑ってね。内側から見るのが一番きれいなんだよ」
差し出された遠慮のない手に引かれて、最初の一歩は気付かぬ内に踏み出し終えていた。
花畑をすり抜けて進む。
早足で花々の隙間を、彼女にとっての日常の、君香にとっての夢の只中を掻き分けていく。
立入禁止のロープで覆われた花畑を遠くから眺めるのが好きだった。
花畑に入ってはいけない。
夢に触れてはいけない。
花弁が舞い散る。
張り出た花柄がやさしく肌を叩く。
――――
朝起きたら朝食があって、顔を洗って戻るとおかずが増えていた。
座卓に並べられた皿の多くは昨日の夜に見た覚えのある品だったが、後から増えた方は、ラップを外すとまだ湯気が上がっている。
目を離した隙に誰かが来て置いていったのだ。
玄関の靴は自分の物だけだったし、縁側から乗り出して見渡したが辺りに人の姿はなかった。
仕方がないので畳敷きにぺたりと座り込んで、ぼんやりと天井を見上げて昨夜のことを思い出す。
連れて来られた実家とでも言うべきこの家で、陽の高い内から始まった宴会に入れ替わり立ち替わり訪れる島の住民たちに引き合わされて、昨日一日でいえば、きっと赤べこや水飲み鳥より頭を下げた。
なんというか、ひどく疲れた。
長旅の疲れもそうだが、とにかく気疲れがすごい。
それにしても、ずいぶん遠いところまで来たものだ。
湯気を上げる吸い物に箸をつけた。
君香の知る味付けとはずいぶん違うが、美味しい、と思う。
料理の味のことを、久しぶりに考えた気がする。昨日はとにかく緊張で味など覚えていないし、思えば父を亡くす前からずっと、味などわからない日々が続いていた。
宴会の残り物の皿に箸を伸ばす。美味しかった。どれも美味しかった。どの料理も、誰かが自分のために作ってくれた料理だ。行儀悪く皿を手元に引き寄せ、がつがつと流し込むように味わった。
箸を止め、水を流し込み、仰向けに倒れ込む。しばらくそのままでいると、がらがらと玄関の引き戸が開く音がした。
「おじゃましまーす、と」
靴を脱ぐ気配の後、軽快な足音が寄ってきて、廊下から顔を覗かせる花緒と目が合った。
「ええと、朝ごはん持ってきたんだけど。……まだいる?」
座卓の上の空皿を見られて出てきた言葉に赤面して、いそいそと体を起こす。
「あの、ありがとう」
気が付けば驚くほど自然に感謝の言葉が口から出ていた。
花緒がその言葉を受けて自然に笑う。それだけのことがひどく心地よかった。
「お礼なら江波のおばさんに言って。私は運んできただけだから。ええとほら、仲良し三人の一番品の良い人」
聞くところによると君香が潰れた後も男衆が別の家で朝まで宴会を続けたそうで、持ってきた朝食はそっちでまとめて作ったものらしい。
軽く話して立ち去り際、花緒がサンダルにかかとを詰めながら振り返る。
「あ、そうだ。
その名前も昨日の夜に聞いた覚えがある。少し悩んで思い出した。島に連れて来てくれた船長の名前だ。
「そういうわけだから、食べ終わったらウチに来て。玄関から鳥居が見えるから、目印ね」
はいわかりましたと気軽に頷いて背中を見送ってから、そもそも船を出す、というのが何のことだったかと考える。
しばらく頭を捻ると、昨日のことを思い出した。
この家に連れてこられたとき、ここには既に近隣の奥様方らしき女性たちが集まって食事の準備をしていた。真っ先に聞かれたのは母の話だ。
母が嫌いだ。
それでも嬉しそうに母の話をする人々を見たとき、胸に浮かんだのは嫌悪ではなかったし、彼女らに母は十年ほど前に亡くなったと伝えるのは流石に堪えた。
予期せぬ訃報に、彼女らはざわつき、言葉を失っていた。当り前だろう。生きていればいくつになっていたかを考えれば、母はきっと彼女らの姉貴分か妹分くらいの立ち位置だったに違いない。狭い島の中で育った友人は、島の外で元気にやっているのだと、音沙汰がなくともそう信じていたはずだ。
大変だったねと息が詰まるほどに抱きすくめられて、君香は母がどんな最期だったかを聞かれる前に、こちらから話を変えた。
この世を呪って死んでいった人の話などしたくはなかった。
「父が言ったんです。母の遺骨を、生まれ故郷の海に還して欲しい、って」
その後何人かが涙ぐみ出してしまってそれ以上の話はしなかったが、島の皆で手配してくれる、ということになったはずだった。
船を出す。それもそうかと思う。十年も前のものを細かく砕いたといっても、結局は人間の死体であることに変わりはない。そんなものを普段の暮らしの場に撒くわけにもいくまい。いくらか遠出して、海流に乗せるのだろう。
食事を終えて皿を洗い、玄関から見渡すと、確かに鳥居が見えた。
畑を挟んだ向かい側、海沿いの岩山を上っていく階段の先に、赤く塗られた鳥居はあるのだが、切り立った岩山の上にも麓にも神社とその社務所らしき建物以外があるようには見えない。
とはいえ、あれが目印というのならあの鳥居まで行く他はないだろう。
岩山から直接削り出されたであろう階段は、幅も高さもまちまちで、登るのにひどく苦労した。
奇妙なのは、登り終えた後だ。荒げた息さえ思わず止まるほど、鳥居の向こうに見える景色に、何故だか強い既視感を覚えた。
何かを思い出しそうになる。
はじめて訪れた場所とは、どうしても思えない。
「おや、いらっしゃい」
意識の外から声を掛けられて、思わず小さく跳び跳ねてしまった。
声を掛けてきたのは竹箒を手にした中途半端な和装の中年男性だ。目鏡越しに見える目に、どこか島の陽気な風土とそぐわない陰を感じた。
この人は島の物語の外側にいる人だと、理屈でなしにそう思う。
探るようなこちらの目線をどう感じたのかはわからない。意外な程にまっすぐ見つめ返されて、君香は思わず目を逸らした。
「あの、花緒、さんの家を探してるんですけど」
自分でも少し挙動不審気味だなと感じる声で尋ねると、ああそれなら、と目の前の男は少しおどけて自分を示した。
「九洲花緒の父で、ここ九洲神社の管理人をやっております。どうぞよろしく」
驚いた。
ならば。ということは。花緒は神社の娘で、花緒の家とはこの神社のことになるのか。言葉が上手くまとまらず、神社と相手と視線を行き来させ、終いには小さく指差してしまった。
「それじゃ、神社の宮司さん、」
我がことながら失礼な振舞いと思ったが、宮司は人の良さそうな笑みを浮かべて答えた。
「見えないだろう? まあ、建前としてはそういうことになるんだが、僕は入り婿で、神職の勉強をしたわけでもなし。なんというか、少々大きな門前の小僧ぐらいのものだね」
おかしな笑みではない。だが、記憶の中で娘の笑顔と見比べると、父親の笑みはまるで違う印象を受ける。まるで鏡を見た時のような。
お世辞にも自然と言えない相槌を打った。
「実のところ島の人からしても、この神社は飾りのようなものでね。例えば海神を祀る神社であれば、神様に祈る場所、という以外にも果たす役割がある。海の天気の変化を見張れるだとか、帰ってきた船をいち早く見つけられる場所に建っているはずだ。それを踏まえるとこの場所も立地としておかしくはないが、少しそぐわない。ここがとってつけた神社だからさ」
黙っていると、話は止まることなく滔々と続く。ただの蘊蓄ではない。宮司の話は切実な何かを持って繰り広げられているように聞こえた。
「島には島の、古くからの信仰がある。我々島民は港のある側を島裏と呼ぶのだが、つまりこの辺り、島の表と呼ばれる地域は、そう呼び始めた人たちにとって、本土よりずっと重要なものに面していたということなんだ」
語りは次第に熱を帯びる。宮司の指が海を差す。
「沖合に溺れ谷と呼ばれる海域があってね、」
「――お父さん?」
けれど語りは、それを非難する声音で遮られた。
いつの間にやら宮司との間に割り込んできた花緒が、後ろ手に君香の手を取っている。
「ごめんね。うちのお父さん、話が小難しい上に長くって。いつもこうなの」
「なんだ花緒、まるで嫌がる相手に無理矢理聞かせていたみたいに」
言い争う父と娘は、まるで普通の仲睦まじい親子に見える。
けれど君香はそれを尻目に、凍り付いたように指ひとつ動かせない。
目だ。一瞬だけ垣間見えた宮司の娘を見る目が、君香の心を鷲掴みにして離さない。
あれは、母が私を見ていた目と同じだった。
恐ろしく空虚で、どんな暖かな感情も交えない空っぽの視線。
君香の孤独の始まりの目だ。
自らが怪物であるという自覚を、何よりも強く刻み込んだ目。
病床に伏せる母が君香に向けた目線が脳裏に蘇る。
あの頃すでに、母は狂っていたのだと君香は思う。
あの子の中に私がいない。私の中にあの子がいない。
呪いのように繰り返されたうわごとに、おぞましいものを見る視線に、事実君香は呪われている。
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