後編

「婚約だけして、何年もほっぽって、研究室にこもって……作り上げたのが結局これ?」

 自分で言葉にすると、ばかばかしさが際立つ。人生最後の成果が、遺影だなんて。

 しゃっくりにも似た笑い声をまき散らしながら、天井を見上げる。目尻を通り過ぎた涙が耳に届くのがわかった。

「コイツはな、お前と婚約したときから、自分が長くないことを知ってた。いや、むしろ、長くないから婚約したんや」

 だから、何だというのだろう。

 イトコはさらにヤクモをにらみつける。ヤクモは少し視線を落としながら弁明した。

「いずれ、お前を一人にしてしまう。せやから、いつまでも一緒にいられるように、研究に没頭したんや」

 考えてみればおかしな話だ。死んだ後も自分に縛りつけておくために、生きている間はほとんど会わず、ひたすら遺影を作っていたのだから。

「あやまっとけば何をしてもいいわけ? 振り回して、押しつけて、勝手にいなくなってエエちゅうことですか!?」

 アメリカに行ってしまったヤクモと会えるのは、年に五回もなかった。インターネットを通して話すのはよくあったが、それも、相手の嫌がらせか、当時付き合っている女が画面の端に映り込んでくることがよくあった。

 それでも、待った。待ち続けた。

「ホンマ、アホやな……。私」

 目から鼻に抜けた涙が、ツンと心の糸を突いた。

 すると、ヤクモが声を改めた。

「ほな言うけど、オレかて知ってるねんぞ。あの晩、オレの後輩とおったやろ」

 指が、勝手にピクッと跳ね上がった。

「不謹慎とちゃうか」

「なんで、それ……」

「ちがうか?」

 ヤクモにぐっと見すえられ、すうぅっと、寒気が背を上る。それを振り払うために、イトコはざっと辺りを見回した。だが、カメラらしきものは見あたらない。イトコはベッドの上に立ち上がると、シーリングライトの上をのぞいた。ふたも開き、丸いライトの周辺をくまなくにらむ。しかし、あるのはふんわりと光る蛍光灯だけである。

「ひょっとして、コンセント?」

 そういうところに盗聴器なんかがしかけてある、とよくテレビでやっている。が、ないぞ、とヤクモが答えた。

 元のように座り込むと、喉がやけに大きく鳴る。ヤクモは視線を落とし、ゆらゆらとカップをゆらしている。指先がふらふらと落ち着かない。上る寒気と指先を押さえ込むため、イトコは両手を合わせ、膝の上でぎゅっと握りしめた。

「なんで、知ってるの?」

 ヤクモは答えず、カップに視線を落としている。

 コツコツと秒針の音だけが部屋に響きわたり、ごおっと風がうなり、また窓に枝が叩きつけられる。思わず耳をふさいだイトコは、追い立てられるように口を開いた。

「お葬式終わるまであんまり寝てなくて、ふらっとしたら抱えてくれて、そのまま……」

 ヤクモはただ、カップをゆらしている。

「あれだけやったし、あのあとは会ってないし……」

「――うそつけ」

 ヤクモが、上目遣いにイトコをにらみつけた。

「その前もあったやろ」

 さっと背中に冷たいものが走るのと同時に、手のひらにはじわりと汗が噴き出していた。

「昏睡に入ったオレの目の前でいちゃつくのは、さすがにどうかと思うぞ」

 喉が変な音を立てる。低く短く、鋭く言葉を投げつけると、ヤクモはまたうつむき、ゆらす琥珀の波をじっと見つめ始める。

 かぁっと血が上った。

「なんで! なんで私がアンタにそこまで言われなあかんの! 本人ならともかく、AIやんか!」

 ヤクモは目を合わせない。焦りがさらに声を荒げてしまった。

「ヤクモかて、とっかえひっかえしてたやん! それやったらついていったのに……! 呼ばへんヤクモが悪いんや!」

 ひりっと喉が焼き付く。すると、カップのゆれが止まった。

「言いたいことは、それだけか?」

 残りの一口をあおると、険しくしていた表情をほどく。

 ――視線が、包むように柔らかさを帯びた。

「まぁ……。お前がそれにコロッと転がってしまうくらい、アイツはお前の事、面倒見ててくれたからなぁ」

 全てを、包むような目。――いけない目。

「オレは、アイツがいいなら、それでもエエと思ってる」

「何やの……、自分だけ全て悟ったような顔して」

「……スマンなぁ」

 なんだかこちらが落ちこんでいる時、動揺している時、いつもこの目をしてくる。だだをこねても、悪態をついても。――それが、腹立たしかった。

「怒ってよ」

「は?」

「なんで、いつも怒ってくれへんの? 知ってたんやろ? 裏切ってるねんで、ヤクモのこと。なんで?」

「お前、なんでそんなに怒られたいねん?」

「なんでもや!」

 声が裏返った。

 体中を逆流する血が肩で息をさせる。ヤクモはやはり、包むような目のままこちらを見ていた。ひとり気が立っているのがよけいにしゃくに障る。イトコは転がっている破片をつかむと、ヤクモめがけて投げつける。破片はヤクモのこめかみをかするようにすり抜け、クローゼットで跳ね返った。

 薄い唇を一度噛むようにすると、ヤクモはゆっくりと言った。

「確かに、いろいろと思うところはある。でもそれでも、待っててくれたしなぁ。お前。それに……」

「それに?」

「オレは、遺影や」

 びゅぅうっ、と風がひと唸りし、窓を叩く。葉擦れの音を大きく立て、桜の木は部屋にゆれる影を落とした。春の嵐は、ガラスをすり抜け、身の奥まで吹き込んでくる。

 黙って、包むように見つめてくる遺影から目をそらし、イトコは両腕を自分で抱きしめる。そのまま、前にのめるとテーブルで額を打つ。嗚咽が漏れた。

 涙が、鼻先をつたって垂れ、膝の上にしみをつくる。この膝に、薄い栗色の髪をした頭をのせてやったのは、数えるほどしかない。

 それなのに、残ったぬくみと重みは、日を追うごとに増していく。

 三ヶ月間、何度も口にした言葉が、今日もついに出てしまった。

「ヤクモ……、ゴメンなさい」

「スマンなぁ、イトコ」

 あの日も、酸素マスクを白く曇らせながら、ヤクモは同じ言葉を言った。


  スマンなぁ、ずっと放っておいて。

  あ? あれか。ほっとけ。手持ちぶさたになるから、つい、誰か引っ張ってきてしまうねん。

  呼ぶのが遅うなった理由? びっくりさせたかったんや。

  そうや、ファンクラブの年会費、振り込んどいてや。

  頼むワ。――スマンなぁ、お前しかおれへんねん、オレ。


 勝手な言いぐさに、勢いよく席を立った。花瓶を引っつかみ、水を替えてくると、後ろ手に扉を閉めるまで、スマンなぁとくり返している。それが、かえって疲労を重ねた。

 扉の向こうでは、ヤクモの後輩が心配して待ってくれていた。たまらなくて、思わず飛び込み、もつれあう。――昏睡に入ったのは、その直後だ。

 年明けに息を引き取ったヤクモを連れて戻ってくると、にわかに〝家族〟としての応対が始まった。早くに二親を亡くし、親戚づきあいもほぼ皆無だったため、婚約者ということで、一切を取り仕切った。


 それからはずっと、夜は遺影と過ごしてきた。


 遺影は、葬儀の後、ヤクモの研究仲間が持ってきてくれた。必ず、イトコに渡してくれと言われたらしい。そういえば、誰かが私の事を「ワイフ」って言うてたっけ。

 ククッと、かすかに笑みが込み上げた。

 伏せた顔を少し上げる、包み込むような目をしたヤクモが、少々困った表情を浮かべていた。本当のヤクモなら、もう、勝手に話し始めている。沈黙が嫌いなのだ。――やっぱり、ヤクモじゃない。


「アカンわ」

 膝のしみが、じわりと冷たさを伝えてくる。

「こんなに、寒いもん」

 何度聞いても、言われても、ぽっかり空いた穴を埋めることはできず、風はさらに冷たく吹き込んでくる。

「何百回も、何千回も、『スマンなぁ』なんて、いらん」

 イトコは潤み、ゆがむタブレットにゆっくり手を伸ばす。黒光りするスイッチ辺りを通り過ぎ、指先はヤクモの痩せたあごを縁取っていく。そのまま、薄い唇にはわせた。

「固い……。これ、固すぎるねん」

 出したことのない声が喉の奥からせり上がる。何度、なぞっても、つるりとした感触が人差し指に残る。透明な板を通した唇が、スマンなぁとかたどる。全てが歪んだ。

「怒って。怒って。お願いやから、怒って」

 触れる固い唇が、また、同じ言葉をかたどる。

「怒って。そしたら、心が痛くなるから」

 固く、薄い唇が、かすかに開いたままとなった。

「痛かったら、ココからヤクモが消えへんねん。消したく、ないねん」

 着ているパジャマの胸元を、イトコはこれでもかとわしづかみにした。

 ごおっと大きく木はゆれ、しなった枝がゆっくりと元に戻っていく。枝先の震えが止まり、ぴんと天を指すと、あんなにうるさかった外が、しんと静まりかえった。

「――来るか?」

 ふいに声をかけられ、歪んだ景色が消えた。

 さっきの包み込むような目ではなく、まっすぐこちらを射貫くように見ている。

「どこに?」

「来るか?」

「せやから、どこにって」

「来るか?」

「どういう意味なん」

「……来るか?」

 イトコはこの目をたった一度だけ見たことがある。共に生きようと、言われたときの目だ。イトコは軽く息を吸い込んだ。

「――行く」

 すると、遺影から軽やかな電子音が鳴り響き始めた。

「え? 何?」

「イトコ、オレの手にお前の手を合わせろ」

 ヤクモは画面目一杯に自分の左手を広げ、押しつけてきた。

「こ……これに重ねろってこと?」

「早うせぇ! 勘づかれる!」

 怒鳴りつけるヤクモの言う通り、イトコは画面に広がる手に自分の右手を広げて重ねた。

「よし!」

 すると、ヤクモは手のひらを少しずらす。イトコはあっと息をのんだ。

 手のひらから、懐かしい温もりが伝わってくる。ヤクモが指をゆっくり動かすと、指の股に節の感触が伝わってきた。イトコも、ゆっくりと指を動かしていく。すると、指先は画面の奥に入り込み、ヤクモの手の甲に触れた。

 温かい。熱い。

 チリチリッと指先で何かがはじける。久しぶりに絡めた手から、一気に熱が伝わってきた。画面が光を放ち、まぶしさに目を閉じる。伝わった熱が沈めていた心を高ぶらせ、吐息と共に、全身を駆け巡った。熱がいくどか伝わり、吐息がこぼれる。そのたびに体が何か、チリチリとはじける。体のすみずみが組み変わっていくような感触に身を委ねるしかなかった。

 握られた手がぐいと引かれる。

 ふわりと浮き上がった体は、真っ白な光の海を通って行った。



 バランスを崩したタブレットは、スタンドから倒れ、影を落とした白いテーブルに横たわった。


 ――被験者 カミノイトコ 収容完了


 張り付いていた花びらは、端から風にあおられる。ごおっと渦を巻いた春の嵐は、薄桃色の欠片を巻き取り、窓辺を通り過ぎていった。

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ヤクモトイトコ mi-ka @mi_ka

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