ヤクモトイトコ

mi-ka

前編

 花が、散り始めた。


 外灯に浮かび上がる淡い桃色の塊がゆさぁ、ゆさぁ、と左右にゆれる。風は、手にした花を引きちぎり、あっという間に遠ざかっていった。

 ぺたり、と窓ガラスに薄桃の花びらが一枚張り付いた。ちょうど、人差し指の腹に見える。こちらも人差し指を出し、重ね合わせてみる。冷たいはずのガラスが、かすかにぬくみを帯びたように感じた。

 ゆれる桜の木をながめていると、チンと電子レンジが音を立てる。少し開いたカーテンはそのままに、窓から離れ、キッチンに向かった。取り出したカップ一杯分の湯に、ティーバッグを放り込む。じわりとにじむはくの波紋をしばらくながめ、一振りゆらしてカップから取り出した。

 柔らかい湯気が立ち上るカップを手にふりかえると、ゆれ続ける大きな木は窓いっぱいに広がり、部屋を覆いつくしているように見える。こんな風の強い夜は、どうにも不気味にしか見えない。ちょっぴりの怖さを温もりでこらえようと、両手で手でカップを包み、イトコは、その手前にある低いテーブルとベッドの隙間にぺたりと座り込んだ。カップを置くと、背後のベッドに手を伸ばす。指先がかちりとタブレットに当たった。

 タブレットは、イトコの胸元より上をすっぽり覆うほどの大きさがあり、いつも同じところに触れるせいか、端だけがつやつやと黒光りしている。縦長のそれを膝の上に乗せ、イトコは柔らかい布で丹念に磨き始めた。蛍光灯に照らされた自分の影が映るほどになると、テーブルに置いたスタンドにすえる。脇にあるボタンを押そうとしたが、イトコはもう一度布を握り、一番上につけられている小さなレンズを拭った。


 ぼんやりと自分の影を眺める。


 指を伸ばし、タブレットのスイッチに触れた。

 色とりどりの星がせんを描く。しばらくすると、白い壁以外何もない殺風景な部屋を背後に、ニヤリと笑った男が映し出される。

「――よぉ」

 また、目の下にクマを作っていた。

「今度は何日寝てへんの?」

「今回は二日くらいや。大したことないやろ?」

「ヤクモにしてはね」

 桃色で鼻を描かれたブタのマグカップを手にすると、イトコは一口紅茶をすすった。

「今日は?」

「いつもと一緒や。ダージリン。そっちは?」

「私もいつもと一緒。アールグレイ」

 同じように、ヤクモがカップを口にする。向こうのブタは水色で鼻が描かれていた。

「お前、髪ちゃんとふけ。落ちてるぞ」

 カップを片手に、眉根を寄せたヤクモがこちらを指す。しっとり濡れた黒髪が額に張り付き、わずかにしずくを垂らしている。肩にかけていたタオルでしずくを拭いながら、今度はイトコが指した。

「それ、いつ洗うたん?」

 う、とヤクモが視線をそらす。薄い栗色をした髪の根元に、ふわりと白いものが浮いている。着ているTシャツの色が濃いものだから、肩にも落ちているのが丸わかりだ。

「ホンマに……。放っといたら、なんぼでも仕事をするんやから。アホちゃう? ほぼ気絶に近い状態で、研究室で発見されたん、何回あると思うてんねん?」

 つつーっ、と白い塊を引き抜き、ふっと息で吹き飛ばした。

「ふん。今から入ろうと思うてたんや」

「その言い訳、何べんも聞きました」

「スマンなぁ」

 そらしている目をわずかにこちらに向ける。上目遣いのそれは、しかられた犬そのままだ。あきれ、ため息を吐くと、一口含む。ほのかな花の香りが喉を通っていった。

「そっちは今、どんな感じや?」

 目を合わせるとすぐそらす。口先だけがモソモソと動く。機嫌を取りたいときの癖だ。

「季節?」

 ぶっきらぼうに答えると、ヤクモがこくっとうなずいた。しばらく黙っていても、目はちらりちらりとこちらをうかがう。

 許してやってよ、と風がぐ。

 しかたなくイトコは口を開いた。

「桜がな、散り始めてるワ」

「そうか。お前の部屋からやったら、公園のあのでっかい木が、きれいに見えるんやろうなぁ」

「まぁ、今年はボチボチかな。今日は風が強ぅて、木がゆれてるワ」

「あれがゆれるんか。かなり強いな」

「ゆっさゆさやで」

「ゆっさゆさか」

 許されたと思ったのか、ヤクモがしっかりこちらを向き、朗らかに笑いかけてくる。本当に口を大きく開けて笑うものだから、しわも目も一緒くたになった。笑うと少し高くなる声が、こわばった心を何度もそっとなでてくる。

 カップを置いた手のひらをテーブルの上に広げる。白い板の上を伸びをするようにはわせると、たどり着いたタブレットのふちを指先でそっとなでた。

「あ~! せや。あれ」

 立ち上がると、イトコはベッドの向かいにあるクローゼットの扉を開けた。白い包みを手にタブレットの前に戻ると、袋をバリバリと破る。中身を取り出すと、ヤクモに見えるように広げてやった。黄色い、野球のユニフォームである。

 とたん、ヤクモの表情がぱあぁぁっと華やいだ。

「おお! 来たか! 会員特典! 今年は遅かったなぁ」

「ヤクモが住所をちゃんとしとかへんさかい、何べんも突っ返されたって、ごっつう怒ってはったで」

「おお。悪い悪い」

 口では言ってるが、全く気にしていないのだろう。ただただ、ユニフォームを見てニンマリしている。

「試合見に行けへんのに、いつまでファンクラブに入るん?」

「試合はケーブルテレビでもネットでも見られる。まぁ、がんばってくれっていう、応援のための寄付みたいなもんや」

 年会費は高いものではない、が、その振込手続きはいつもイトコがさせられている。全く興味のないものからすれば、いい迷惑である。

 ヤクモは全くかまわず、自分の一番好きな試合の話をし始めた。

「やっぱり、アレやで。この前優勝したときのホームインやな」

 同点、満塁で迎えた九回裏。打ち上げた、ファウルともヒットともつかないボールの隙を突き、三塁にいた選手がホームインしたときの話である。

「アイツ、三塁に滑り込んだとき、足首痛めとったんや。せやのにホームに全力で行きよったからなぁ」

 結果、その選手はこのときのケガが元で引退し、現在は打撃コーチを務めている。

「ルーキーのときはよう問題起こしとったけど、最後で記憶に残る選手になりよったなぁ」

 うんうん、と独りうなずいている。

「で、そのときの優勝って、いつやった?」

「ざっと十年前か」

 カラカラと笑う。ヤクモと同じチームのファンは、この話題で十年、酒盛りをしているらしい。

 ヤクモが余韻に浸っているのを尻目に、こちらは花の香りで時間をつぶす。紅茶が喉を通ったとき、たたく音が体をビクッと震わせた。

 少しあけていたカーテンの隙間から、おそるおそる外をのぞき込んでみる。張り付いている花びらの脇に、小さく当たった跡がついている。足元に視線を落とすと、ベランダに細い枝が一本落ちていた。

「イトコ、どうした?」

「びっくりした。何の音か思うたら、小枝が飛んできて、窓に当たってたみたいや」

「えらいのが来たなぁ。今日は窓のそばで寝たらアカンで。割れてケガでもしたら困る」

「何それ? お父さんみたいやな」

「なんで? 当たり前のこと言うただけやんけ」

「言い方が、年食ってるねん」

「成熟してるって言うてくれ」

「老成の間違いちゃうか」

 自分で言って吹き出す。少々ムッとしているヤクモの表情がまた、たまらない。ケタケタと笑い転げていると、また、コンと枝が窓を打ちつけベランダに落ちる。

 ふと、イトコは思い出した。

「そういえば、先輩、店閉めはるで」

 えっ? とヤクモが目を開いた。

「めちゃめちゃ儲かってたやん。まさか、大学辞めてパン屋やると思うてなかったけど」

「あれは驚いたなぁ」

 二人で懐かしく笑った後、イトコは口を湿らせた。

「今朝な、メールが来てん。もう無理や、って」

「無理って、何があったんや?」

 イトコは姿勢を直すと、両手を膝の上に置いた。

「お客が、えらい怒らはってんて」

「え!? あの人が? 怒らせるようなことするか?」

「バイトの子が間違うて、予定個数以上の整理券を配ってしもうたんやて」

 店の看板商品はバターロールだった。作ってはすぐになくなる状態が続き、申し訳なく思った先輩は、整理券を配るようになった。焼き上がり時間が書かれており、その時間に取りに来てもらうようにするためだ。

 当然、その客が来てもパンは用意されていない。客は店でわめき散らしたという。

「後で焼きたてのパンと、他のものも持っておわびにいったらしいんやけど、全く取り付くしまがなかったらしいワ」

「せやけど、それだけでなんで、店閉めなアカンねん?」

 ヤクモの疑問に、イトコは大きなため息で返す。テーブルに肘をつき、声をひそめるように前のめりになった。

「そのお客が、店の近所一帯にあることないことベラベラ言いふらしよってん。そしたら、訳わからん抗議の電話とか、イタズラとかをいっぱいされてしもうて……」

「なんやねん、そいつ」

「この前店に行ったときも、石投げ込まれたあとで、店の中がぐっちゃぐちゃ」

「まいってしもうたんやな、先輩」

 ヤクモが目を伏せた。

 ベッドに背を預けると、吐いたため息がやるせなく渦を巻く。重い空気を払うため、ブタのマグカップに手を伸ばした。

 看板のバターロールのように、ふんわりと朗らかだった先輩が、今はげっそりとやつれていることを、イトコは知っている。だが、それは口にはせず、両手で包んだ琥珀の波に目を落とした。

「たった一回の、それも命に関わらへん失敗やのにね」

「人間ちゅーのは、いつから許すことを忘れたんやろうなぁ」

 一口含む。湯気がゆっくりと天井に上っていった。

 風が、木をゆらす。

 葉さえも巻き取って横を通り過ぎていく風に、張り付いた花びらの端がゆらゆらとはためいている。

 コツコツと刻む時の音。

 ぬるくなり始めた紅茶。

 おぼろげになった湯気が部屋を満たすと、イトコはたまらず口を開いた。

「なぁ、何かしゃべってぇな」

「ん? ……スマンなぁ」

 ヤクモはカップを口にする。合わせてこない目がもどかしい。両手で温めていたカップをあおり、最後の一口を飲み込む。ゴクリと音を立てて紅茶が喉を通っていくと、やっと話題を一つ、思いついた。

「いつも思うんやけど、変な名前やね、『ヤクモ』って」

「お前、失礼な。出所は立派な文学者やぞ」

「いっそ、『ラフカディオ』か『ハーン』にしておけばよかってん」

「どんな漢字書くねん」

 ムッと口をへの字に曲げた姿に笑いが込み上げてくる。すると、身を乗り出してヤクモが反撃に出た。

「お前の名前かて変やんけ。『イトコ』って。紹介したら、従姉妹ですか、ってよー聞かれたワ」

 勝ち誇ったように目が笑う。

「ほな、その人には、何て言うて私、紹介したん?」

 一瞬目を見ひらくと、ゆっくりと笑みは消えていく。伏し目がちになると、ヤクモはカップを手にした。

「……スマンなぁ」

 カップを手放した指がコツッ、と机をはじいた。

 ヤクモは目をそらすようにうつむいて、紅茶をすすっていた。秒針だけが時を動かし、少しずつ空気がよどんでいく。よどみをかき消そうと、指先で机を叩き続ける。

 秒針とイトコの指先が合わさった時だった。

「逃げんといてや」

 ヤクモの視線がぴくっと動いた。

「他の子達と別れた?」

「どいつもこいつも、しょせんひと月も持たへん。一緒のことや」

「もうそれならいい、って何べんも言うたやん」

「アカン」

「私、今年三十やで」

「オレもや」

「はぐらかさんといて」

「ホンマの話や」

「ほな、そっち行く」

「アカン」

「帰ってきて」

「……アカン」

「戻ってきて」

「スマンなぁ」

「戻って、きてよ」

「……スマンなぁ」

 体を、何かが逆流した。

 耳のそばで風が起こったかと思うと、指が何かをわしづかみ、勢いよく投げつけた。壁で砕け散る音がする。イトコは大きく肩で息をした。

「あーあ。せっかく買うてやったのに……」

「アンタちゃう!」

 声が喉を裂くように出た。

「何やの! スマンなぁ、スマンなぁって! 最後もそれやったやん!」

「しゃあないやんけ。返答に困ったときの口癖は『スマンなぁ』なんやから」

 ヤクモが真顔になり、そう答えてくる。

「なんなんよ! デジタル遺影って! 何がAI搭載や! ぜんぜん役、立たへんやん」

「お前はオレの演算を超えてくる。正直、こっちも信じられん」

 イトコは背後のベッドにもたれ、欠片となって転がる桃色のブタの鼻と、ヤクモをにらみつける。とたん、こらえきれなくなって、イトコはひきつった高い声を上げた。

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