第6話

 散布された薬品はクモノイトを無効化したけれど、同時にモドリビトにも作用してしまった。

 モドリビトにも様々な人がいたけれど、そのほとんどは優秀な労働力として活躍していた。休憩なしで飲まず食わず眠らず効率や正確性を落とすことなく働き続けることのできるモドリビトが、普通の人の何倍もの仕事量をこなすにも関わらず、一人また一人と消えていく。

 家に引きこもりきりの私には実感がなかったけれど、ネットを通して、徐々に世の中が混乱していく様を見るのは少しおもしろかった。

 人を連れ去るクモノイトよりも、クモノイトを無効化する薬品で社会がダメージを受けているのだから。

 私はこの決して広くない賃貸部屋の、窓からもドアからも一番遠い部屋に向かって声をかける。

 あなたたちは、消えないでいてくれるよね?

 もちろん、そうしたいとは思っているよ。

 娘が歯切れ悪く言う。

 でも、このままじゃ君の方が先に消えてしまいそうじゃないか。

 夫の珍しく困ったような言葉。

 もう何日、何か月、こんな風に暮らしているのかわからない。夫には仕事を辞めてもらった。外に出られては、消えられてしまっては困るから。私も外へは出ない。うっかり散布された薬品を体にまとって部屋に入ったりしたら目も当てられないし、少しでも外に繋がる箇所を開いてしまえば、そこから薬品が侵入してしまうかもしれない。

 固形の食料はとっくに尽きていた。今はかろうじて残っている砂糖や塩などの調味料でなんとかしのいでいる。

 この先のことなんて知らない。

 私は、娘と夫と共にいられれば、それでいい。


 それじゃあダメだよ。しっかりしないと。

 娘が言った。

 ほら、しゃんとして。部屋をきれいにして、ご飯もちゃんと食べて。

 できない。

 私は泣いていた。

 それはもう、できないの。

 そうなの?

 そうなの。

 じゃあもう、こっちにおいでよ。

 え?

 外から一番遠い部屋の中から、娘が誘ってくる。その部屋はかつて短期間ではあるものの子ども部屋として機能していた。娘の私物や娘の真新しいベビーベッドが置かれ、ちょうどベビーベットに寝かされた赤ん坊の視線の先に当たる場所に、クモノイトがキラキラと垂れ下がっている。

 娘も夫も笑っている。

 私たち、幸せいっぱいの家族だよね?

 娘の天使のような笑顔。

 これからもずっと、一緒に暮らそう。

 夫の優しさと頼もしさのある笑顔。

 ベビーベットに垂れ下がるクモノイトがキラキラと輝いている。

 私も笑っていた。

 夫は優しかったのだ。

 いつでも私の思考を先回りして、私にとって一番いいことをしてくれた。おかげで私は彼と出会ってから、結婚し子どもが生まれるまでの間、とても心地よくいられた。

 隣で笑っていてくれれば、それでいい。夫はよくそう言っていた。

 私は何の疑いもなくそんな状況を受け入れていた。何を疑えというのだろう。こんなに愛されているというのに。

 娘は生命力にあふれていた。

 娘は、娘の持てる全てを駆使して自らの存在を私に示してくれた。おかげで私は、ただひたすら娘に注目してさえいればよかった。娘の望むことを、望むままに与えていればよかった。食事か、排泄か、眠気か、好奇心か、もしくはただたんに不機嫌なだけなのか、それだけに注意を払ってさえいれば、ただそれだけで。

 疲れや不満も、もちろんあったけれど、とにかく娘が愛おしかった。


 だから、わからなかった。

 二人が私を待っている。

 なのに、私の足は動かない。

 お腹が空き過ぎているせいかもしれない。そういえば、最後にまともな食事をしたのはいつだっただろう。

 クモノイトがギラギラと光っている。

 かつて娘だったものと夫だったものがギラギラと笑っている。

 まずはなにかお腹に入れよう。でないと、こんな状態で二人の元に行っても、仕方がない。

 何か言っている二人に背を向け、玄関に向かう。何を言っているのかはわからない。頭がぼんやりとしているせいだ。はやくなにか買ってきて食べなくては。

 外に出るのは何日……いや、何か月ぶりだろうか。ふらふらと安定しない足取りで玄関まで来ると、ドアを開けた。

 久方ぶりの直接浴びる日光はまぶしく、外の空気は新鮮で、しばらくそのままの状態で呆然としてしまう。部屋の中から、声はまだ聞こえるのだろうか。頭がぼんやりし過ぎて、声が聞こえるのか聞こえないのか、それすらもわからない。

 何か間違っている。これは正しい状態じゃない。

 そう思うのに、何が間違っているのか、どんなものが正しい状態なのか、私にはわからない。


 それはそうと、コンビニに行こうと思った。

 玄関から外へ出るとあちこちから聞こえてくる意味をなさない音の塊に圧倒される。

 すれちがう人の立てる足音。

 車のエンジン音。

 どこかの家から漏れ出る会話……。

 徒歩数分で私は疲弊していた。

 コンビニの前まできて、ホッとしたのもつかの間、財布を忘れたことに気が付く。というか、私は気づけば寝間着姿のままで、靴すらはかない素足のままだった。家に戻らなければ。でも、まだあの家には帰りたくない。

 コンビニは諦め、私は公園を目指すことにした。最初にクモノイトが出現し、幼い息子の目の前で母親が連れ去られた、あの公園だ。

 引きこもり生活が長く、しばらくまともに歩いていなかったせいか足取りは重く、ふらつく。ぐらりとバランスを崩してしまい、たまたま隣を歩いていた人にぶつかりそうになった。というか、ぶつかった、はずだ。

 隣を歩いていた人は私の身体をすり抜け、すたすたと行ってしまう。

 違う、そうじゃない。

 意味もなく口をついて出てきた言葉が、頭の中をくるくると回り出し、それ以外のことを考えるのも億劫で、私は延々とちがうちがうと思考する。

 すれちがう人々は誰も私のことなど見向きもしないし、ぶつかってもすり抜けていく。そのたび、私の口からちがうちがうと言葉が漏れる。

 気が付けば、意味をなさない言葉があちらこちらから聞こえていた。でも、どこに目を向けても声の主が見つからない。

 違う。ちがうちがう、ここじゃない、それじゃない、それは私の欲しかったものじゃない、違う違うわからない助けてちがうちがうちがう……。

 どこをどう、どれくらい歩いたのかわからない。目指す公園は確か私の住む土地ではなく他県のものだったはずだし、ニュースでチラリと見かけたその公園はどこにでもある、ありきたりなものだったように記憶している。スマホの地図アプリを使ったわけでもないのに、私は一体なにを目印に歩き続けたのか。それでも、目的地が近づくと、もうすぐ近くだと感じたし、見た瞬間にそれが目的地なんだとわかった。

 私はその公園にたどり着くなり、すぐにあのクモノイトを見つける。

 日の光を受けてギラギラと光るイト目がけ、私はあやうい足取りで迷わず近づき、取りすがる。

 伸ばした手は、しかしクモノイトを掴むことができなかった。どんなに宙を掻いても、クモノイトは消えないし質量も持たない。

 ちがうちがうこうじゃないこんなことになるはずじゃなかったのにちがう。

 私ではない声が私と同じような言葉を漏らしている。でも、声の主は見つからない。公園には私以外の人間は見当たらない。

 ちがう。

 たすけて。

 ここじゃないどこかへ。

 たすけて。

 すくいあげて。

 わるいことなんかしていない。

 わたしはまだなにもしていない。

 ちがう。

 こうじゃない、こんなはずじゃなかった。

 ちがうちがうちがうの。

 懇願するような親の声がしたような気がする。

 必死な義母の声も。

 いつぞやの男の子の悲痛な声も聞こえるような気がする。

 わからない。とにかくたくさんの声、声、声。

 姿のないたくさんの誰かの声と私の声は一体となり、一筋の光に取りすがる。


 私は自覚していた。

 胸の内から湧き出る、どうしようもなく恍惚としたもの。ずっと、無自覚に私が求め続けていたもの。

 私は今、幸福を感じていた。

 目の前に垂れ下がる希望に、自らの意思で、自分自身のために、手を伸ばしている。それも、一人じゃない。みんなで一丸となっているのだ。

 なんて幸せなことだろう。


 私は手を伸ばし続ける。

 姿は見えないがたくさんの人々も同じようにしている。

 私には仲間がいる。

 私には希望がある。

 ただただそれを信じ続けていればいい。

 なんて幸せなことだろう。


 私は娘でも妻でも母でも女でも人でもなんでもない。

 私は、たった今、何者でもない、私ですらない。ただひたすらに信じている。

 希望を信じ、仲間を信じ、この胸の内から湧き出る幸福を信じている。

 なんて幸せなことだろう。


 クモノイトはギラギラと輝きを放っている。

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蜘蛛の糸 洞貝 渉 @horagai

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